第22話 瞬光の大佐
街道に人が集まっていた。
朝の市が立つような広場ではない。ただの街道の脇に、人々が自然と集まってきていた。
噂が広まるのは早かった。ルーカス・グレイ大佐が出陣する。帝国の双璧の片割れが、ついに動く。
ルーカスが馬上から手を振ると、歓声が上がった。
「グレイ大佐!」
「帝国を救ってください!」
「息子が前線にいます。どうか――」
声は途切れることなく続いた。老人、子供、女たち。みな、縋るような目をしていた。
ルーカスは一人一人に目を向け、頷き、微笑んだ。その爽やかな笑顔が、人々の表情を和らげた。
後ろでエリックが小声で言った。
「村を三つ通るたびに、人が増えていますね」
「そうだな」
ルーカスは前を向いたまま答えた。
「この人たちが何を求めているか、わかるか」
「英雄、ですか」
「そうだ。無能なハートフィールド侯爵によって疲弊した国を救う英雄。いや、国が疲弊したのは侯爵だけの原因ではないがな」
ルーカスは静かに言った。
エリックは黙った。
また歓声が上がった。子供が道端から駆け寄って花を渡してきた。ルーカスはそれを受け取り、笑顔で掲げた。
歓声がさらに大きくなった。
(英雄の姿を見せよう)
ルーカスは内心でそう思った。
ただし、その姿が誰のためのものかは、まだ誰も知らない。
―――
前線に近づくにつれ、空気が変わった。
炊煙が少ない。人の姿が消えていく。街道の石畳に、馬蹄と車輪の跡だけが残っている。
天幕を張った野営地で、ルーカスはセス、オーガスト、マーカスの三人を呼んだ。
地図を広げる。エリオット将軍の軍の展開。補給線の位置。アイギス要塞への道。
「聞け」
三人が地図に目を落とした。
「セス、お前はここの補給基地を叩け」
ルーカスは地図の一点を指した。
「エリオット将軍の軍がアクアリスから物資を受け取る中継地点だ。ここを押さえれば、前線への補給が止まる」
「わかりました」
セスは地図を見ながら言った。
「兵力は」
「五十だ」
「少ない」
「充分だ。お前の速さがあれば、守備の兵など問題ない。叩いたらすぐ退け。長居はするな。こちらは敵の物資を鹵獲する必要はない。攻撃と同時に火を放て。燃やしてしまえ」
セスは頷いた。
「オーガスト、お前はここだ」
ルーカスは別の地点を指した。
「補給線の北側の分岐点。ここを封鎖すれば、迂回路も使えなくなる。守りを固めて、敵が動けない状況を作れ」
「兵力は」
「七十だ。防衛なら充分だろう」
「長く防衛となると少なすぎますが……」
オーガストは眼鏡を押し上げた。
「その時はすでに俺が動いている。そこまで長く防衛することになるなら、それは俺たちが負けるということだ」
オーガストはルーカスを見た。
「マーカス、お前は残った兵をまとめて後方の支援だ。セスとオーガストのどちらかが危うくなれば、すぐ動け」
「了解だ」
マーカスは豪快に頷いた。
「で、大佐は」
「僕は真っ直ぐ行く」
三人が黙った。
「エリオット将軍を目指す」
ルーカスは地図から顔を上げた。
「ギフト持ち同士の戦いに、多くの兵は要らない。むしろ邪魔になる」
「一人でですか」
エリックが言った。
「お前と、ついてこれる騎兵だけだ。それで充分だ」
セスが口を開いた。
「無茶です」
「そうか?」
ルーカスは静かに答えた。
「だが、補給線を叩いてエリオット将軍を孤立させたとしても、あの将軍はそう簡単には動じない。最終的には、誰かが向かわなければならない」
「それが大佐である必要は。相手を締め上げるための、補給線への攻撃でしょう」
「いいや、これはギフト持ち同士の戦いだ。これに勝利する姿を見せなければならない。しかし、エリオット将軍を倒したところで、敵がまだその勢力を維持しているなら、それはそれで脅威。俺一人で全ての戦場を渡り歩くのは無理だからな」
ルーカスは静かに言った。
「それに、犠牲は少なくしたい」
沈黙が落ちた。
否定できなかった。
「大佐」
マーカスが低く言った。
「死ぬなよ」
「死なない」
ルーカスはあっさりと答えた。
「まだやることがある」
エリックが小さく息をついた。
ルーカスは地図を巻いた。
「出発は夜明けだ。各自、準備しろ」
三人が天幕を出ていった。
エリックだけが残った。
「ルーカス」
「なんだ」
「エリオット将軍は、今のこの周辺地域で一番強いギフト持ちです」
「知っている」
「勝てますか」
ルーカスはしばらく黙った。
「さあ」
それだけ言って、地図を卓に置いた。
「やってみなければわからない。それだけだ」
エリックは何も言わなかった。
天幕の外で、夜風が揺れていた。
―――
アクアリスから離れた前線の天幕に、ハイドロジェン王国軍の幕僚たちが集まっていた。
伝令が息を切らして飛び込んできたのは、夕刻のことだった。
「報告します! 帝国軍のルーカス・グレイ大佐が出陣。現在、帝国領内を北西方面へ進軍中とのことです!」
天幕の空気が変わった。
エリオット将軍は黙って地図を見た。バルトロ中将が眉をひそめた。
そして、ジャック・ラッシュ少将が立ち上がった。
「ルーカス・グレイだと!」
声が裏返った。
「なぜ今さら出てくる! 今まで何をしていた!」
誰も答えなかった。
「これは問題だ。大問題だ。あの男のギフトは厄介だぞ。対策を立てなければ――」
「少将」
バルトロ中将が静かに遮った。
「まず状況を整理しましょう。ルーカス・グレイが動いた以上、我々の補給線が狙われる可能性があります。現在の補給線は――」
「補給線が問題なのか!」
ラッシュが地図を指で叩いた。
「そもそも、なぜこれほど補給線が伸びているのだ! 進軍しすぎだろう! 誰がこんな判断をした!」
天幕が静まり返った。
進軍を主導したのは、他でもないラッシュ自身だった。順調だ、好機だ、押せと言い続けたのは誰だったか。その場にいた全員が知っていた。
「少将」
バルトロ中将の声が、わずかに低くなった。
「進軍の判断の責任については、後で検討しましょう。今は対策を――」
「後でとは何だ! 責任の所在を明確にしなければ、組織として機能しない!」
「少将!」
バルトロ中将が声を上げた。珍しいことだった。この冷静な参謀長が、声を荒らげた。
「今この瞬間も、ルーカス・グレイは進軍しています。感情的な議論をしている時間はない」
ラッシュは一瞬だけ黙った。だがすぐに顔を赤くした。
「バルトロ中将、貴様は私に命令するつもりか! 私の父は――」
「父君のお名前を出されても、戦況は変わりません」
バルトロ中将は静かに、しかしはっきりと言った。
ラッシュは口を開いたまま固まった。それからまた怒鳴り始めた。父の地位、家柄、軍における影響力。言葉が矢継ぎ早に飛び出す。
エリオット将軍は黙って聞いていた。腕を組み、地図を見たまま動かない。
天幕の隅で、古参の幕僚の一人がさりげなく兵士に目配せをした。
兵士は静かに頷いた。
しばらくして、兵士が盆を持って天幕に入ってきた。湯気の立つ茶器が並んでいる。
「お疲れのことと思いまして。茶をご用意しました」
幕僚たちが受け取った。エリオット将軍も一口飲んだ。バルトロ中将も。
ラッシュはまだ何かを言いながら、差し出された茶器を受け取り、一口飲んだ。
それから二口。三口。
しばらくして、ラッシュの声が少しずつ細くなっていった。
「……だから、その……私は……」
瞼が重くなっていく。ラッシュは自分でもおかしいと思ったのか、首を振った。だが、それも途中で止まった。
どさり、と椅子に深く沈み込んだ。
「少将が……お疲れのようです」
古参の幕僚が言った。
「長旅でお疲れでしょう。休んでいただきましょう」
兵士二人がラッシュを支えて、天幕の外へと連れ出した。
天幕に沈黙が落ちた。
それからエリオット将軍が口を開いた。
「……では、改めて対策を話し合おう」
誰も何も言わなかった。全員が、先ほどの光景を見ていなかったかのように、地図に目を向けた。
バルトロ中将だけが、一瞬だけ古参の幕僚を見た。幕僚は静かに頷いた。
「補給線の防衛ですが」
バルトロ中将は地図を指でなぞった。
「正直なところ、全線を守るのは難しい。ルーカス・グレイが速さのギフトを持つ以上、どこから来るかわからない」
「では」
「一旦引いて、補給線を半分にしましょう。元々の目的は帝国軍が我が国へ侵攻するのを防ぐための逆侵攻。であれば、このままアイギス要塞を攻略するという必要もない」
エリオット将軍は頷いた。
「それでいい」
天幕の外では、夜が深まっていた。




