第20話 王の憂慮
そこは、謁見の間ではなかった。
アウグスト皇帝が二人を呼んだのは、皇宮の奥にある小さな私室だった。燭台の光が弱く、天井の高い部屋に影が濃い。
エドモンド・ウォレス宰相とマクシミリアン・シュトルム将軍が、向かい合って椅子に座った皇帝を前に立っている。
謁見の形ではない。報告の形でもない。ただの、老人と二人の臣下が、夜の部屋で話しているだけのような光景だった。
「ルーカスが動くか」
皇帝は低い声で言った。老いた目が、燭台の炎を見ていた。
「はい、陛下」
シュトルム将軍が答えた。
「ハートフィールド侯爵からの要請を受け、自分が決断いたしました。ご報告が遅れ、申し訳ありません」
「遅れたことを咎めているのではない」
皇帝は短く言った。
「ハートフィールドが頭を下げた。それが意外でな」
ウォレス宰相が静かに口を開いた。
「侯爵は追い詰められているかと存じます。これまでの状況、それに現在のアイギス要塞での戦況は、芳しくない」
「わかっている」
皇帝は息をついた。
「だが、あの男が素直にルーカスを必要とするたまではない。何かを考えている」
二人は黙った。
皇帝は燭台の炎から目を離し、二人を見た。
「シュトルム、ウォレス。二人だけだから言う」
「はい」
「ハートフィールドはルーカスを使って手柄を横取りしようとしているのだろう。それくらいは朕にもわかる」
シュトルム将軍が僅かに目を細めた。
「陛下は、侯爵は――」
「取り繕わなくてもよい。あれは股肱の臣ではない。帝国の為ではなく、己のために動く臣。しかし、それでも朕の臣であることにはかわりないが……」
皇帝は静かに言った。
「あの侯爵が軍を動かすたびに、何かがおかしくなる。今回も同じだろう」
沈黙が落ちた。
「ただ」
皇帝は続けた。
「それよりも気になることがある。此度の増援だ」
「ルーカス・グレイのことですか」
ウォレスが静かに言った。
「そうだ」
皇帝は椅子の背もたれに身を預けた。老いた体が、重さに負けているように見えた。
「あの男には実力がある。ギフトを持ち、戦場での実績を積み上げ、民からの評判も高い。下級貴族の出身でありながら、ここまで上がってきた。それ自体は認める」
「しかし」
「しかし、あの目だ」
皇帝は低く言った。
「謁見の場でも、軍の会議でも、あの男はどこか遠くを見ている。目の前のものではなく、その先を見ている目だ。そこには野心がにじみ出ておる。かつて弑逆を企んだ者たちのような、な」
シュトルム将軍は黙っていた。
「朕は有能な皇帝ではなかった」
皇帝は静かに言った。二人が口を開こうとするのを、手で制した。
「否定しなくていい。わかっている。判断が遅く、派閥の調整に時間をかけすぎ、気づけば帝国の内部が腐り始めていた。それは朕の責任だ」
燭台の炎が揺れた。
「だが、朕の代で国を終わらせるわけにはいかない」
その言葉が、部屋に沈んだ。
「ルーカスが何を望んでいるのか、朕には全てはわからない。だが、帝国の秩序を壊すほどの野心があるとすれば……それは困る」
「監視を強化しますか」
シュトルムが言った。
「それをすれば、あの男は動かなくなる」
皇帝は首を振った。
「今は使わなければならない。ハイドロジェンとの戦況は、ルーカスなしでは動かせない。それもわかっている」
ウォレスが静かに言った。
「陛下、矛盾した状況です」
「そうだ」
皇帝は頷いた。
「使わなければ国が傾く。使えば、いつか別の火種になる。どちらを選んでも、不安が残る」
部屋に静寂が落ちた。燭台の炎だけが、ゆらゆらと揺れていた。
「二人に言っておく」
皇帝は二人を見た。
「朕が逝った後のことを、考えておいてくれ。セシリアとアントワネットの争い、他の子らも帝位を狙って激しい争いをすることになるだろう。今までの歴史を振り返れば、そこには高い蓋然性がある。そこにルーカスがどう動くか。それだけが、朕の心残りだ。子らは誰であっても朕の血を引いておるが、あ奴は違う」
シュトルム将軍とウォレス宰相は、互いに目を合わせた。
「……承知いたしました」
二人が一礼した。
皇帝は再び燭台の炎を見た。
老いた目に、炎が揺れて映っていた。
―――
その夜、帝都郊外の演習場に隣接した兵舎に、松明の光が揺れていた。
ルーカスの軍団が集まっていた。
正規の帝国軍とは別の、ルーカスが自ら集めた部隊だ。総勢二百ほど。だが、その中身は帝国軍の中でも際立って優秀な顔ぶれが揃っていた。
共通点がある。みな、身分が低い。
平民の出、職人の息子、下級貴族の三男四男。正規の出世ルートからはじき出された者たちだ。実力があっても、家柄がなければ上には行けない。そういう男たちが、ルーカスの周りに自然と集まってきた。
兵舎の中心では、三人の幹部が地図を囲んでいた。
セス・バーン。二十代前半、ルーカス軍団の最年少幹部だ。細身だが動きが速く、剣の腕は軍団一と言われる。褐色の肌に短い黒髪。口より手が先に出るタイプで、今もじっとしていられないのか、地図の端を指でトントンと叩いている。
「大佐、いつ出ますか」
ルーカスが地図を見ながら答えた。
「明後日の朝だ」
「遅い」
「セス」
隣から静かな声が飛んだ。
オーガスト・クロウ。三十手前の男で、元平民の出身だ。読み書きを独学で覚え、軍学校の入試を突破してきた。細面で眼鏡をかけており、常に何かを計算しているような目をしている。
「補給の確認が終わっていない。明後日で正しい」
「わかってるよ」
セスは肩をすくめた。
「ただ、早く動きたいってことだ」
「気持ちはわかるが、焦りは判断を狂わせる」
「クロウは慎重すぎる」
「お前が無謀すぎる」
二人のやり取りに、もう一人が低く笑った。
マーカス・ドレイク。三十代前半の大柄な男だ。鍛冶職人の息子で、幼い頃から鉄を扱ってきた腕は、剣より鈍器の方が向いている。日焼けした顔に無精ひげ、豪快な笑い声が特徴だ。
「まあまあ。俺から見れば二人とも同じだ。どうせ戦場に出れば、セスもクロウも同じ顔になる」
「どんな顔だ」
セスが聞いた。
「血に飢えた顔だ」
マーカスは豪快に笑った。
「俺もそうなるし、お前らもそうなる。出撃前に喧嘩するより、今のうちに飯でも食っとけ」
セスが不満そうにしながらも、マーカスの言葉に従って地図から離れた。
ルーカスはその様子を黙って見ていた。
三人とも、正規の帝国軍では正当な評価を受けていなかった。セスは身分がないという理由で昇進を止められ、クロウは平民出身というだけで上官に冷遇され、マーカスは職人の息子という出自を馬鹿にされ続けた。
それがルーカスのところに来た理由だ。
ルーカスは彼らの実力を見た。身分ではなく、力で評価した。それだけだった。
エリックが近づいてきた。
「みんな、血気盛んですね」
「当然だ」
ルーカスは静かに言った。
「ずっと抑えられてきた。その分が、今噴き出している」
「うまく御せますか」
「あいつらを御せなくて、どうして帝国を統治できようか」
ルーカスは兵舎を見渡した。松明の光の中で、兵士たちが思い思いに出撃前の夜を過ごしている。笑い声が上がり、酒を飲む者もいる。
「軍ごときで手間取っているようでは先はない」
エリックは黙った。
「しかし、まずはこの戦いで結果を出す」
ルーカスは続けた。
「そうすれば、彼らの評価も変わる。それがまず、俺にできることだ」
セスが遠くから声を上げた。
「大佐! 飯ができましたよ!」
「行こう」
ルーカスは歩き出した。その横顔は、いつもの爽やかな表情だった。
ただ、夜の松明の光の中では、その目の奥にあるものまでは見えなかった。




