第15話 空荷の逃走
山間部の道は細かった。
両側に岩壁が迫り、足元には崖下を流れる川の音が響いている。迂回ルートを選んだのはハイドロジェン王国軍の進軍で街道が使えなくなったからだ。荷台は空だ。往路の補給物資はすでに届け終えており、今は帰路についているだけだった。
「それにしても」
荷台の横を歩きながら、ビンが耳を倒した。
「ルーカス大佐を出してくれれば、こんな迂回しなくて済むのに」
「ほんとですよ」
ノイが続けた。
「なんで出さないんですかね。ギフト持ちがいれば、あっという間に押し返せるのに」
「大人の事情があるんだろう」
ジョセフはあっさりと答えた。
「上の人間はいろいろと面倒だから。誰が手柄を立てたかが重要。国が勝てばいいって単純なはなしじゃない。ま、振り回される我々兵士はたまったもんじゃないがね」
「隊長は怒らないんですか」
「怒っても変わらないよ」
ジョセフは前を向いたまま言った。
(ルーカス・グレイ。あの男が出ない理由は、お世辞にも帝国のためとは言えないだろうな。下級貴族出身だが、ギフト持ち。追い落とされる可能性のある幹部たちは気が気じゃないってところか……)
内心でそう思ったが、口には出さなかった。
そのとき、マルチの耳がぴくりと動いた。
「隊長」
声が低かった。
「何人だ」
「五、六人。岩の陰、前方と後方に分かれています」
ジョセフは足を止めなかった。表情も変えなかった。ただ、静かに周囲を確認した。
前方に岩場。後方にも岩場。両側は切り立った崖壁。足元の崖の下には、川が流れている。
(挟まれる前に動くしかない)
「ダオ、タン」
ジョセフは小声で言った。
「気づかれないように聞いてくれ。相手は少数精鋭だ。戦えそうか」
ダオが低く答えた。
「やりますか」
タンも頷いた。
「やれますよ」
二人の目に、戦意が宿っていた。
ジョセフはしばらく崖下の川を見た。
「いや、やめておこう」
「え」
ノイが素っ頓狂な声を出しかけて、慌てて口を押さえた。
「な、なぜですか」
「どうせ空荷だ」
ジョセフは川を見ながら言った。
「荷台も置いていこう。荷台は囮だ。あちらが荷台を調べている間に、僕たちは川を下る」
「川、ですか」
ビンが崖下を覗き込んだ。
「飛び込むんですか」
「そうだよ。あの岩を避ければ、流れに乗って下流に出られる。そこまで行けば追ってこられない。高さだってそんなにないし、深さもあるから戦うよりはよっぽど怪我をする可能性は低い」
ダオが崖を見下ろした。
「……深さは、本当に?」
「マルチ、わかるか」
ジョセフはマルチに訊ねた。
「水量は多いです。深さも、おそらく」
「十分だね」
ジョセフは振り返った。
「全員、荷台を置いて崖際まで移動。合図したら飛び込む」
隊員たちが静かに動いた。荷台を道に残したまま、崖の縁へと進む。
ノイが真っ先に覗き込んで、耳をぴんと立てた。
「結構高いですね」
「兎人には余裕だろう」
「まあ、そうですけど」
ビンが恐る恐る下を見た。
「俺、泳げますよ。犬人だから」
「頼もしい」
タンとダオも静かに崖際に立った。この二人に迷いはない。
最後にマルチが崖の縁に立った。
そして、固まった。
白い垂れ耳が、ぺたりと伏せられた。
「……隊長」
「うん」
「私、水が」
「苦手か」
「…………はい」
小さな声だった。普段のきびきびした副官の声とは別人のようだった。
ジョセフは後方の岩場を確認した。気配が動いている。時間がない。
「マルチ」
「はい」
「目を閉じてくれ」
マルチが目を閉じた瞬間、ジョセフはマルチの体を横抱きにした。
「っ!!!」
「合図する前に言っておく」
ジョセフは崖際に立ちながら、落ち着いた声で言った。
「僕が離さないから、大丈夫だよ。水練の科目じゃあ、負傷した仲間を抱えて泳ぐ訓練もしたからね」
マルチは何も言えなかった。耳が赤くなっていたが、目は閉じたままだった。
「全員、飛べ!」
ノイが真っ先に跳んだ。続いてビン、タン、ダオ。
ジョセフはマルチを抱えたまま、崖から踏み切った。
風が耳を切る。川面が迫る。
水に叩きつけられる衝撃。冷たさが全身を包む。
ジョセフはマルチを抱えたまま水中で蹴り、水面へと浮き上がった。
「っ、はあ——!」
マルチが息を吸った。ジョセフの腕をぎゅっと掴んでいた。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫、です……」
全員が浮いているのを確認してから、ジョセフは流れに身を任せた。
水を含んだ服は重くなり、体を動かすと体力を奪われる。水に落ちた場合、正しい行動は服に空気を入れて、浮き輪のようにすることである。
訓練通りに動くうちに、飛び降りた場所がみるみる小さくなっていく。
崖の上では、特務小隊が荷台を取り囲んでいた。荷台を開け、中を漁る。
何もない。
密書も、重要な書類も、何もない。空の荷台だ。
特務小隊の隊長が舌打ちした。
―――
帝都ザウアーシュトフの路地裏。
アッテンボローは壁に背をつけて座っていた。口の中に血の味がする。目の周りが腫れている。
工作員が冷たい目で見下ろしていた。
「話が違う」
低い声だった。
「セシリア皇女の密書を運ぶ重要な輸送部隊だと言ったな。だから我々は動いた。危険を冒して帝国領内に入り、精鋭を送り込んだ」
「そ、それは――」
「空の荷台だ」
工作員の声が低くなった。
「ただの帰りの輸送部隊じゃないか。密書どころか、荷物すら積んでいない。お前は我々を騙したということになる」
「ち、違います! 自分は確かな情報を――」
「どこが確かだ!!」
工作員はアッテンボローの胸ぐらを掴んだ。
「我々の時間を無駄にし、危険にさらした。その落とし前はつけてもらう」
アッテンボローは言い訳を続けようとした。だが、工作員の目を見て黙った。
その後のことは、あまり思い出したくなかった。
路地裏に、アッテンボローだけが残された。
体のあちこちが痛い。金も取られた。何もかも、うまくいかない。
なぜこうなった。
アッテンボローは地面を見つめた。やがて、その目に暗い光が灯った。
(ラザフォード……!)
あの男が逃げたせいだ。あの男さえいなければ、荷台に何かがあったはずだ。密書がなくとも、あの男を始末できれば、それでよかった。それすらもできなかった。
すべてあの男のせいだ。
憎悪が、また一段と深くなった。




