第14話 アイギスの盾
ハイドロジェン王国の快進撃が続いていた。
前線から届く報告を眺めながら、ジャック・ラッシュ少将は上機嫌だった。アクアリスの参謀本部ではなく、今回は従軍している。エリオット将軍がいれば安心だという判断からだ。少なくとも、本人はそう思っていた。
「順調ですな、将軍」
ラッシュは天幕の中でエリオット将軍に話しかけた。地図の上で赤い線が、前回の撤退ラインより明らかに深く帝国領へと伸びている。
「帝国はルーカス・グレイを出してこない。出てくる部隊は突撃一辺倒で、将軍が全て返り討ちにしている。このまま押し込めれば――」
エリオット将軍は地図を見たまま答えなかった。
帝国軍の指揮はひどいものだった。突撃して返り討ちに遭い、また突撃する。オーウェン・ハートフィールド侯爵が前線指揮を担っているというが、家柄だけで地位を得た男の指揮などこんなものだろう。おかげで快進撃が続いている。
だが、それが逆に引っかかった。
「将軍、兵站が伸びすぎています」
バルトロ中将が地図を指でなぞった。
「補給線がこれだけ長くなると、ここを断ち切られた場合――」
「断ち切れる余力が帝国にあればの話ですよ」
ラッシュが割り込んだ。
「現状、帝国軍は我が軍の攻勢に対応するだけで精一杯です。兵站を狙う余裕などない。それより、この好機を逃す方が損失では」
バルトロ中将は黙った。実際、帝国軍の動きを見る限り、そこまでの余裕があるとは思えない。だが――
「おかしい」
エリオット将軍が低く言った。
「将軍?」
「帝国軍が弱すぎる。ルーカスが出ないのはわかる。だが、それにしてもお粗末すぎる。まるでこちらを引き込もうとしているように見える」
ラッシュが苦笑した。
「将軍、考えすぎでは。帝国軍の指揮官があのハートフィールド侯爵では、こんなものでしょう。家柄だけで前線に立つ男の指揮など」
エリオット将軍はラッシュを一瞥した。
皮肉なことに、ラッシュの言葉は正しい可能性が高かった。実際、罠という証拠もない。ただの直感だ。
「敵の後退する進路をみるに、アイギス要塞に入るようだな」
エリオット将軍は決断した。
「前進はいったん止める。堅牢な要塞に立て籠り、補給を待ちながら防衛に徹した相手を攻撃するのは、こちらの被害も大きくなる」
「将軍!」
ラッシュが声を上げた。
「せっかくの好機を――」
「少将」
エリオット将軍の声が低くなった。
「戦場では慎重さが命を救う。それはシミュレーションでは学べない」
ラッシュは口を閉じた。
一方、帝国側では――オーウェン・ハートフィールド侯爵がアイギス要塞に退却していた。分厚い石壁と深い堀に守られた難攻不落の要塞だ。神話の盾に由来するその名の通り、あらゆる攻撃を跳ね返すと言われている。
侯爵は要塞の壁に守られながら、外の様子を眺めていた。
「グレアム、援軍はいつ来る」
「調整中です」
グレアムは神経質そうに眼鏡を押し上げた。
「ただ閣下、このような状況になったのは、突撃を繰り返したせいでもあります。もう少し慎重な――」
「うるさい。守りに入るのが最善だったのだ」
グレアムは黙った。言っても無駄だとわかっていた。
家柄のみでこの地位にいる凡下めと心の中で罵倒するも、顔には一切出さない。
―――
帝都ザウアーシュトフから少し離れた、目立たない宿の一室。
アッテンボローは安酒を傾けながら、向かいの男を見た。
ハイドロジェン王国の工作員だ。名前は知らない。
「情報は確かか」
工作員が問うた。
「確かだ」
アッテンボローは杯を置いた。
「第77輸送部隊の移動ルートだ。国境方面への補給任務、日程も含めて。この部隊はアルゴン連邦に出向いている殿下の密書を運んでいる」
「なぜそんな情報を持っている」
「かつての大佐としての伝手があるからな」
アッテンボローは自虐めいた笑いを浮かべる。
「動機は」
「見ての通りだ」
アッテンボローは自嘲するように笑った。
「左遷されて、金がない。情報を売る以外に稼ぎようがない」
工作員はしばらくアッテンボローを見ていた。それから懐から金貨を取り出し、卓に置いた。
アッテンボローはそれを見た。手を伸ばしかけて、少し間を置いた。
(金のためではない)
本音はそうだった。ジョセフが死ねばいい。それだけだ。自分を左遷に追いやった連鎖の、一番最初にあの庶子がいる。あの男さえいなければ、すべては違っていた。
だが、そんなことを工作員に言う必要はない。
アッテンボローは金貨を手に取った。
「ありがとうございます」
にこやかに笑った。その笑顔の裏で、じくじくとした憎悪が静かに燃えていた。




