第13話 動く盤面
ハイドロジェン王国が東部防衛線の強化に動いているという情報は、帝国の軍上層部にも届いていた。
帝都ザウアーシュトフの軍議室。シュトルム総司令の主催する会議に、帝国軍の主要将校が集まっていた。
その一角に、ひときわ目立つ一団がいた。
オーウェン・ハートフィールド侯爵。五十がらみの中年男性で、軍服の上からでもわかる丸々とした体格をしている。軍人というより、裕福な商人か地方領主といった風貌だ。その周囲を、似たような体格の将校たちが取り囲んでいる。
一人だけ、毛色の違う男がいた。フィリップ・グレアム。三十代の細身の男で、常に何かを計算しているような目をしている。神経質そうに指先で卓を叩く癖があった。
長机の反対側には、ルーカス・グレイ大佐が座っていた。
爽やかな顔立ち。整った軍服。誰が見ても好印象を持つであろう男だ。しかしハートフィールド侯爵の視線は、ルーカスを一瞥するなり、品定めするような色に変わった。どこか見下した目だった。
ルーカスはそれに気づいていたが、表情ひとつ変えなかった。
「ハイドロジェンが東部に兵力を集中させるとなれば、我が国への圧力が増す可能性があります」
シュトルム総司令が状況を説明した。
「対応策として、ルーカス・グレイ大佐を北西部に展開させる案が上がっています」
その瞬間、ハートフィールド侯爵が口を開いた。
「総司令、少々よろしいでしょうか」
「発言を許可する」
「ルーカス・グレイを出す必要があるでしょうか」
侯爵はゆったりとした口調で言った。
「ギフト持ちとはいえ、一人の将校に過ぎません。帝国軍の力は、そのような個人に頼るものではないはずです」
取り巻きの将校たちが頷いた。
「ハイドロジェンのギフト持ちはギーレンが死に、エリオットが残るのみ。エリオット将軍は確かに脅威ですが、ギフト持ちとて無敵ではありません」
グレアムが静かに続けた。
「数で押せば、ギフト持ちであっても消耗させることはできる。それが戦争というものです」
室内に微妙な空気が流れた。
数で押せば勝てる。理屈としては間違っていない。ただし、その「数」とは兵士の命のことだ。
「グレアム殿」
別の将校が口を開いた。
「数で押すとなれば、相応の損耗が出ます。それでも」
「戦争に損耗はつきものです」
グレアムは眼鏡を押し上げた。
「重要なのは最終的な勝利です。一人の将校の武勲のために、帝国の戦略を歪める必要はない」
一人の将校の武勲。その言葉の意味を、室内の誰もが理解していた。
シュトルム総司令はルーカスに目を向けた。
「グレイ大佐、意見は」
ルーカスは立ち上がった。爽やかな笑顔を浮かべながら。
「ハートフィールド侯爵閣下のご意見、もっともかと存じます。帝国軍全体の戦略を優先すべきであり、私一個人の出陣にこだわる必要はないかと」
侯爵が満足そうに頷いた。
ルーカスは静かに着席した。その表情に、何も読み取れなかった。
シュトルム総司令はしばらく黙っていた。論理だけで言えば、グレアムの言葉には一理ある。だが、兵士の命を数として語るその口調に、総司令は内心で眉をひそめた。
「引き続き検討する」
総司令はそれだけ言った。結論は出なかった。しかし、その場の空気は決まっていた。ルーカスは出ない。
―――
会議が終わり、廊下に出たところで、エリック・レインがルーカスの隣に並んだ。
二十代後半の細身の男だ。表情は穏やかだが、目には鋭さがある。ルーカスとは子供の頃からの付き合いだ。同じ下級貴族の出身で、共に軍学校に入り、共にここまで上がってきた。
周囲に人がいないことを確認してから、エリックは口を開いた。
「……あれはないですよ」
声は静かだったが、抑えた怒りが滲んでいた。
「露骨すぎる。こちらに手柄を立てさせたくないのが丸見えです。あんな理屈で出陣を止めて、そのせいで死ぬ兵士がどれだけいることか」
「そうだな」
ルーカスは歩きながら答えた。表情はいつもの爽やかなままだ。
「あいつらにとって、兵士の命は駒の数と同じだ。消耗しても補充すればいい。そう思っている」
「よく黙っていられましたね」
「黙るのも仕事のうちだ。あそこで口を開けば、大局を見失う可能性もあった」
エリックは苦い顔をした。
「でも、このままでいいんですか。あの侯爵が幅を利かせている限り、俺たちがいくら結果を出しても――」
「いいわけがない」
ルーカスが静かに遮った。
エリックが横を見ると、ルーカスの横顔は変わらず穏やかだった。だが、その目だけが違った。
「ただ、今ではない」
「……いつですか」
「木を倒すには、根から腐らせるのが一番早い」
ルーカスは廊下の窓から帝都の空を見た。
「あの侯爵たちへの不満は、やがて積み重なる。兵が死ぬ。家族が泣く。それでも貴族だけが安全な場所にいる。無能な用兵で戦死させられた家族の恨みはどんどん積みあがっていく。その怒りが大きくなった時――」
ルーカスは言葉を切った。
「その時に動く」
エリックはしばらくルーカスを見ていた。それから、小さく頷いた。
「この腐った帝国は、変えなければなりませんね」
「ああ」
ルーカスは前を向いた。
「必ずな」
廊下の先に、帝都の陽光が差し込んでいた。
―――
一方、アルゴン連邦のヴェルタでは、奇妙な一致が生まれていた。
親帝国派の議員が集まる会合室と、反帝国派の有力者が集まる別の場所で、ほぼ同じ結論が出ていたのだ。
セシリア皇女をしばらく帰さない。
理由はまったく違った。
親帝国派にとっては、合同演習の継続が目的だ。帝国の皇女が連邦に滞在し続けることで、帝国との連携を内外に示せる。反帝国派への牽制にもなる。
反帝国派にとっては、別の計算があった。帝国の皇女が連邦に留まることで、帝国の主力兵力もここに縛られる。その間に軍備を整える時間が稼げる。さらに、帝国が動きにくい状況を作れることは確かだ。
二つの派閥の利害が、奇妙なところで交差した。
その結果として、セシリアへの帰還という話は出なかった。
―――
セシリアがジョセフを呼んだのは、夕刻のことだった。
今度は浴場ではない。ちゃんとした談話室だ。ジョセフは内心でそれを確認してから、部屋に入った。
セシリアは窓際に立っていた。夕陽が金髪を照らしている。
「ラザフォード少尉」
「はい」
「お前たちに輸送の仕事が入った」
ジョセフは少し意外に思った。てっきり、まだしばらく暇が続くと思っていた。
「ハイドロジェン王国との国境方面に向かう輸送部隊が増えて、こちらに輸送する人手が足りない。お前の部隊に加わってもらいたい」
「承知しました」
「危険な任務になる可能性がある。戦場付近だ」
「輸送部隊ですので、戦線には出ません」
「そうだな」
セシリアは窓の外を見た。
「ただ、道中の安全は保証できない」
「それはいつものことです。古来より、兵站を狙うのは戦の常ですから」
ジョセフが答えると、セシリアがわずかに表情を動かした。笑ったのか、呆れたのか、判断がつかなかった。
「出発は明後日だ。準備しておけ」
「はい」
ジョセフが一礼して退室しようとしたとき、セシリアが背を向けたまま言った。
「ラザフォード」
「はい」
「無事に戻れ」
短い言葉だった。命令のような口調だったが、その声には何かが混じっていた。
「努力します」
ジョセフは答えた。
廊下に出ると、マルチが待っていた。
「どうでしたか?」
「輸送の仕事が入った。明後日出発だ」
「やっと仕事ですね」
マルチは少し安堵した様子だった。
「ノイたちに伝えます」
「頼む」
二人が廊下を歩き始めた。
「隊長」
「うん」
「殿下は何か言っていましたか。その、他に――」
「無事に戻れ、と言われた」
マルチはしばらく黙った。
「……そうですか」
それだけ言って、また黙った。その耳が、ほんのわずかに伏せられていたが、ジョセフは気づかなかった。




