第12話 暇な午後
セシリアに呼ばれたのは、演習部隊が出発して三日後のことだった。
談話室に通されると、セシリアはすでに椅子に座っていた。卓の上には茶器が二つ。侍女の姿はない。
「座れ」
「はい」
ジョセフは向かいに腰を下ろした。セシリアはしばらく茶器を見ていた。
「ギフトについて聞きたい」
「はい」
「砦の夜、あれだけの爆発を起こした。浴場では一人の男を気絶させた。同じギフトとは思えない」
「使い方が違います」
ジョセフは答えた。
「燃える気体を大量に生成して火に触れさせれば爆発する。それを顔に集めれば、息ができなくなる。普段吸っている空気とは違う、いわば水に溺れたようなものですね」
人は酸素を吸うことで生命を維持している。
それがまだ解明されていない世界で、伝わるように言葉を選ぶ。
セシリアは静かに聞いていた。
「制約は」
「火がなければ使えません。気体を生成するだけで、自分では着火できない」
「使用後の代償は」
「頭痛と吐き気です。あと、しばらく感覚がおかしくなる」
「発煙筒はどうだ」
セシリアは茶を一口飲んだ。
「あれもギフトと関係があるのか」
「フロギストンのギフトを持っていると、燃えるものの性質が本能的にわかるんです」
ジョセフは少し間を置いた。
前世の知識とは言えないため、答え方を頭の中で推敲してから口にする。
「どういう材料を組み合わせれば煙が出るか、どうすれば炎を出さずに煙だけを作れるか。そういうことが、なんとなくわかる」
セシリアはジョセフを見た。
「なんとなく、か」
「はい」
「燃焼の仕組みを説明できるか」
ジョセフは少し考えた。
「ものが燃えるには、燃える素材と、燃えるための空気の成分が必要です。フロギストンはその空気の成分に似たものを生成できる。だから燃えるものの仕組みが、なんとなく――」
「なんとなく、を二度言った」
セシリアが静かに遮った。
ジョセフは黙った。
「お前の知識は、ギフトで説明できる範囲を超えている気がする」
セシリアは卓に肘をついた。
「発煙筒の材料の組み合わせ、燃焼の仕組みの説明、戦術の発想――どれもギフトがあれば説明できるが、それだけではない何かがある」
「殿下はそう思われますか」
「誤魔化すな。私は氷のギフトを使うが、氷の仕組みがわかるわけではない。ならば、貴様だけそれがわかるというのはおかしいではないか」
「誤魔化してはいません」
ジョセフは穏やかに答えた。
「ただ、うまく説明できないことがある、ということです。まるで、神が私の頭に知識を注ぎ込んだような感覚何です」
セシリアはしばらくジョセフを見ていた。追及するか、引くか。その目が揺れた。
やがて、小さく息をついた。
「……今は、それ以上は聞かない」
「ありがとうございます」
「ただ」
セシリアは窓の外を見た。
「いつかは話してもらう」
「その時が来たら」
ジョセフはそれだけ答えた。
沈黙が落ちた。今度は少し柔らかい沈黙だった。
セシリアはしばらく茶器を見ていた。それから、ふと口を開いた。
「好きな食べ物は」
ジョセフは少し間を置いた。
「急に変わりましたね」
「聞いてはいけないか」
「いえ」
ジョセフは苦笑した。
「パンですね。輸送中に食べる、硬いパンではない、柔らかいやつが」
「ワインは」
「飲めますけど、あまり得意ではないです。どちらかといえば食事に集中したい」
「そうか」
セシリアは窓の外を見た。
「私はワインが好きだ。ただ、皇女が飲みすぎるわけにはいかないから、いつも少しだけしか飲めない」
「それは辛いですね」
「辛い」
セシリアはあっさりと同意した。
「お前は家族と仲がいいのか」
「あまり」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。聞かなくてもわかる、という顔だった。
「お前の話は面白い」
セシリアが静かに言った。
「面白いですか」
「普通の人間は、皇女の前でこんなに率直には話さない」
「失礼でしたか」
「いや」
セシリアは口の端を動かした。
「むしろ、いい」
その表情を、ジョセフは見逃した。茶を飲んでいたからだ。
セシリアは視線を窓の外に戻した。
まだ何かを隠している。それは確かだ。しかし、それを今無理に引き出す必要もない。
時間はある、とセシリアは思った。
―――
同じころ、宿の中庭では、ダオ、タン、ノイ、ビンが思い思いに時間を潰していた。
ダオは壁に背をもたれて目を閉じている。タンは石を積み上げて崩す遊びをしている。ノイは跳躍の練習中だ。
マルチだけが、宿の入口の方向をときどき見ていた。
「マルチ副官」
ビンが声をかけた。
「なんですか」
「隊長、また殿下に呼ばれたんですよね」
「そうですよ」
「なんで隊長ばっかり呼ばれるんですかね」
マルチは答えなかった。
「なあ、マルチ副官」
タンが石を積みながら言った。
「副官は隊長のことが好きなんですか」
中庭が静まり返った。
マルチの耳が、ぴたりと伏せられた。
「……何を言っているんですか」
「いや、なんとなく。いつも気にかけてるなと思って」
「副官ですから。当然です」
「そうですかね」
ノイが着地しながら言った。
「俺たちへの気の遣い方と、隊長への気の遣い方、なんか違う気がしますよ」
マルチはしばらく黙っていた。
ダオが目を閉じたまま、低い声で言った。
「マルチ副官。隊長はいい人だ。俺たち亜人にも分け隔てなく接してくれる。それは本物だと思う」
「……ええ」
「だが」
ダオは目を開けた。
「亜人と人間が一緒になるのは、この帝国では難しい。貴族の血を引く隊長ならなおさらだ」
中庭が静かになった。
「あまり期待するな、とは言わない」
ダオは続けた。
「ただ、俺たちは副官のことも心配している。それだけだ」
マルチはしばらく下を向いていた。
やがて、顔を上げた。いつものきびきびした表情に戻っていた。
「心配してくれてありがとうございます」
それだけ言った。
ビンが耳を倒した。
「副官、俺たちにはいつも正直に話してくれていいですよ。隊長みたいに、抱え込まなくていいですから」
マルチは少しだけ笑った。
「わかってます」
宿の入口の方向を、もう一度だけ見た。
陽光が、中庭の石畳に落ちていた。
―――
演習部隊が出発した翌朝、宿営地の食堂はがらんとしていた。
本来であれば兵士たちの喧騒で満たされるはずの広い部屋に、今は二人だけが残っている。
ダオもタンもノイもビンも、さっさと食べて自室に引き揚げてしまった。輸送部隊は演習に加わらない。今日も明日も、特にすることがない。兵士にとって暇は眠るに限る、という判断だろう。
ジョセフとマルチは向かい合って座っていた。テーブルの上には、宿の厨房が用意した質素な朝食。パンと干し肉とスープだ。
マルチはスープを一口飲んでから、ジョセフを見た。
「隊長」
「うん」
「浴場の件なんですが」
ジョセフはパンをちぎりながら答えた。
「うん」
「セシリア殿下に、ギフトがばれましたよね」
「ばれたね」
あっさりとした返答だった。マルチは眉を寄せた。
「それで済む話じゃないと思うんですが」
「どうして」
「どうしてって……」
マルチはスープの椀を置いた。
「ギフト持ちが軍に発覚したら、処遇が変わります。輸送部隊じゃなくなる可能性もある。最悪、公爵家に報告されて、後継者争いに巻き込まれる」
「そうだね」
「なのに、なぜそんなに落ち着いているんですか」
以前、ジョセフはマルチに言った。
『僕がギフトを持っていることがわかったら、後継者争いが起こってややこしいことになるから』
それを思い出して、どうしてこんなに落ち着いていられるのかと不思議であった。
ジョセフはスープを飲んだ。少し冷めていた。
「皇女殿下が秘密にしてくれるって言ったから」
マルチがぴたりと止まった。
「……どういうことですか」
「あの夜、浴場を出る前に言われたんだよ。この件は殿下が処理する、自分は何もしていない、って」
ジョセフはパンをもう一口かじった。
「つまり、僕が暗殺を防いだことはなかったことになる。僕がギフトを使ったこともなかったことになる」
マルチはしばらくジョセフを見ていた。
「なぜ殿下がそんなことを」
「さあ」
「さあ、じゃないですよ」
「理由はわからないけど、そう言ってくれたんだから、信じるしかないよ」
ジョセフは肩をすくめた。
「それに、殿下がわざわざ嘘をつく理由もない」
マルチは視線を落とした。椀の中のスープが、静かに揺れている。
「……隊長」
「うん」
「殿下は、なぜだと思いますか」
「さっきも言ったけど、わからないよ」
「でも、何か感じませんでしたか」
ジョセフはしばらく考えた。食堂の窓から、朝の光が差し込んでいる。遠くで演習部隊の馬蹄の音がした。
「強いて言うなら」
「はい」
「面倒なことが増えた、という感じかな」
マルチは力が抜けたように、ため息をついた。
「それだけですか」
「それだけだよ」
「……隊長は本当に」
マルチは小さく首を振った。
「もう少し、いろいろ考えてください」
「何をかい?」
「いろいろです」
それ以上は言わなかった。
マルチは再びスープに視線を落とした。その耳が、ほんのわずかに赤くなっていたが、ジョセフは気づかなかった。
食堂に静寂が戻った。パンをちぎる音と、スープをすする音だけが響いた。
―――
宿の一室に、ダオ、タン、ノイ、ビンの四人を集めていた。テーブルの上には紙と羽ペン。マルチが黒板代わりの板を持ってきて壁に立てかけている。
「では始めよう。足し算の続きから」
ジョセフが板に数字を書いた。
ダオは神妙な顔で紙を見つめている。タンは腕を組んで唸っている。ノイはなぜか正座だ。
ビンだけが、困ったように頭を掻いた。
「隊長、俺、やっぱり数字が苦手で」
「どのあたりが」
「全部です」
マルチが呆れたように息をついた。
「ビン、昨日やったでしょう。三足す四は」
「……七、ですか?」
「正解です」
「あ、できた」
ビンが嬉しそうな顔をした。犬人らしく、耳がぴんと立った。
「でも隊長、俺たちが計算できるようになって、何かいいことあるんですか」
「いいことだらけだよ」
ジョセフは羽ペンを置いた。
「例えば市場で買い物をするとき、騙されない。仕事の給料が正しく払われているか確認できる。商売もできる」
「商売、ですか」
「軍を辞めた後でも食っていける。マルチみたいに読み書き計算ができれば、帳簿をつける仕事だってある」
マルチが少し照れたように視線を逸らした。
「そういえば」
ビンが首を傾けた。
「隊長はなんで俺たちに教えようと思ったんですか」
「必要だと思ったから」
「人間の人たちは、亜人に教えたりしませんよ」
「そうだね」
ジョセフはあっさりと頷いた。
「でも、僕は輸送部隊の隊長だから。部下が使えるようになるのは隊長の得だよ」
ダオが低い声で笑った。珍しいことだった。
「隊長は正直だな」
「愛情だけじゃ飯は食えないからね」
その言葉に、また笑いが起きた。
ノイが手を挙げた。
「隊長、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「数字って、難しいじゃないですか。亜人は数字の神様に嫌われているって、うちのばあちゃんが言ってたんですけど」
ジョセフはペンを止めた。
「数字の神様?」
「はい。数字を司る神様がいて、亜人はその神様に嫌われているから、計算が苦手なんだって」
マルチが小さく苦笑した。
「リシア教の話ですね。うちの村でも同じことを言ってました」
「リシア教では、そういう神様がいるのか」
ジョセフは興味深そうに頷いた。
「でも、マルチは計算できるよね」
「嫌われ方が足りなかったんじゃないですかね」
また笑いが起きた。今度はビンまで笑った。
「神様に嫌われているかどうかは知らないけど」
ジョセフは続けた。
「練習すれば誰でもできるようになる。それは確かだよ」
「隊長はどうしてそんなに確信があるんですか」
「経験上、そうだから」
前世での話だ、とは言わなかった。
しばらく授業が続いた。タンが足し算で初めて満点を取り、ダオが掛け算に挑戦し始め、ノイが割り算で頭を抱えた。
一段落したところで、ビンがふと言った。
「隊長」
「うん」
「俺たち、いつまでここにいるんですか」
「殿下が帰っていいと言うまで」
「殿下って、なんで隊長の部隊を指名したんですかね」
「さあ」
「さあって」
ビンが耳を倒した。
「隊長、もしかして殿下に気に入られてるんですか」
マルチの手がぴたりと止まった。
「どうだろうね」
ジョセフはあっさりと答えた。
「よくわからない」
「隊長がよくわからないなら、俺たちにはもっとわかりませんよ」
その言葉に全員が笑った。マルチだけが、少しだけ遅れて笑った。
ノイが真剣な顔で言った。
「隊長、一つお願いがあるんですが」
「なに」
「俺、除隊してもどこにも行くとこないんで、死ぬまで隊長についてきていいですか」
一瞬の沈黙の後、ダオが低く笑い、タンが肩を揺らし、ビンが吹き出した。
「死ぬまでって、重いな」
ジョセフが苦笑した。
「僕が先に死んだらどうするの」
「その時はマルチ副官についていきます」
「私に振らないでください」
マルチが即座に返した。また笑いが起きた。
窓の外では、ヴェルタの石畳に午後の陽光が降り注いでいた。演習部隊の喧騒が遠くに聞こえる。
輸送部隊の暇な午後は、まだしばらく続きそうだった。




