第9話 帰還の鍵は魔女の森にある
祭りの翌日の王都は、いつもより少しだけだるそうだった。
昨夜あれだけ騒いでいれば当然かもしれない。朝の通りにはまだ片づけきれていない飾り布が揺れ、広場の端には屋台の残骸が積まれ、酔い潰れたまま道端で寝ていたらしい男が、兵士に首根っこを掴まれて運ばれていく。
《木靴亭》の食堂も例外ではなかった。
女将は朝から露骨に機嫌が悪い。祭り客の食べ残しだの、割れた皿だの、勝手に持ち帰られた椅子だのに文句を言いながら、鍋を乱暴にかき回している。
「祭りなんて嫌いだよ、あたしゃ」
女将は大きなため息をついた。
「終わった次の日が一番嫌いだ。浮かれた分だけ、街じゅうがだらしなくなる」
「昨日は楽しそうだったじゃないですか」
「客商売の顔ってもんがあるんだよ」
女将は睨んでくる。
「それよりあんたは、今日は図書院かい?」
「そのつもりです」
「そうかい。ならその前に、この山のような皿を洗っていきな」
「何でですか」
「朝飯食ったろ」
食ったが、宿代に皿洗いまで含まれていた覚えはない。
だが口に出す前に、食堂の扉が開いた。
銀色の髪が朝の光を跳ね返す。
黒い帽子。黒いドレス。黒いマント。いつも通り、祭りの翌日だろうと何一つぶれない格好のエルセが、何事もなかった顔で入ってきた。
そして当然のように、俺の向かいに座る。
「……何だよ」
「何が」
「いや、何でいる」
「いたら悪い?」
「悪いとは言ってない」
「じゃあいいでしょ」
よくない、と言い返すのも面倒で、俺は皿の上のパンに手を伸ばした。
祭りの翌日の宿は、妙に静かだった。
昨日まで騒いでいた旅人たちの大半は、もう出立したか、まだ寝ているのだろう。食堂にいるのは俺たちと女将、それから隅で黙々とスープをすすっている髭面の傭兵くらいだ。
「で?」
エルセが言う。
「今日は図書院?」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「昨日オーウェン先生が、追加であたる資料があるって言ってた」
パンをちぎりながら答える。
「祭り明けじゃないと封印庫の整理が終わらないとか何とか」
「ふうん」
興味があるのか、ないのか、微妙な声だった。
だが視線は明らかにこちらへ向いている。
俺はその視線を感じながら、少しだけ迷った。
昨日の橋の上からずっと、頭の片隅に残っていることがある。
エルセの言葉と、表情のずれ。
最悪だと言いながら、少しもそうは見えなかった顔。
“ありがとう”が普通に言えた相手と、そうでない相手。
こいつには何かある。
たぶん、かなり根深い何かが。
それを聞くべきかどうかを考えて、結局やめた。
今はまだ違う気がした。
だから俺は、いつものように別の話をする。
「お前は?」
「何が」
「今日はどうする」
「別に」
エルセはそっぽを向く。
「私は私で、やることあるし」
「じゃあついてこないのか」
「……必要なら行くけど」
「必要って?」
「知らない」
女将が鍋の向こうで鼻を鳴らした。
「おやおや」
「うるさいですよ」
「何も言ってないだろう」
言っている顔だった。
その時、宿の扉が勢いよく開いた。
「師匠ー!」
朝から元気すぎる声に、俺とエルセが同時に顔をしかめる。
案の定、ミレナだった。
金髪を高い位置で結び、青と白のローブを揺らしながら、今日もやたら晴れやかな顔で食堂へ突入してくる。
「師匠じゃない」
「朝からうるさい」
俺とエルセの反応に、ミレナはにっこり笑った。
「おはようございます! お姉さん、今日もいますね!」
「いたら悪い?」
「全然! むしろ安心です!」
「何がよ」
「師匠一人だと、危ない方へ一直線ですから!」
そこは否定しづらい。
ミレナは勝手に席を引いて座ると、机へ身を乗り出した。
「それで、今日はどこ行くんですか?」
「図書院だ」
「わー、地味!」
「うるさい」
「でも好きです、そういうの!」
ミレナは胸を張る。
「わたしもついていっていいですか?」
「だめだ」
「即答!」
「むしろ何で許可が出ると思った」
「勢いで!」
「勢いで世界はだいたい悪くなる」
エルセがぼそりと呟く。
「あなたを見てるとよくわかるわ」
「ひどい! でも否定しきれません!」
こいつは本当に図太い。
女将が水差しをどんと置きながら言った。
「ならちょうどいいじゃないか。三人まとめて図書院へ行っといで」
「何でですか」
「何か面白そうな顔してるからさ」
そんな理由で送り出すな。
だが結果として、昼前には俺とミレナ、それからなぜか当然のようについてくるエルセの三人で、王立図書院へ向かうことになった。
祭り明けの王都は昨日より静かだが、それでもどこか落ち着かない空気が残っている。通りには片づけの荷車が行き交い、店先では店主たちが昨夜の売上や騒ぎを話していた。
ミレナはその横で、相変わらず落ち着きがない。
「で、で、封印庫って本当に入れるんですか?」
「入れる時は入れる」
「古代召喚の記録、見せてもらえます?」
「見せない」
「そこを何とか!」
「何とかならない」
「お姉さんからも言ってください!」
急に振られたエルセは、露骨に嫌そうな顔になった。
「何で私が」
「だってお姉さんの方が師匠に強く言えそうですし!」
「強く言ってるつもりはないわよ」
「十分強いと思うけどな」
思わず俺が言うと、エルセが横目で睨んできた。
「何それ」
「事実だろ」
「ふうん。じゃあ今日はもっと強く言えばいい?」
「何でだよ」
「知らない」
そんなやり取りをしているうちに、図書院へ着いた。
白い石壁と青い尖塔は、祭り明けでも相変わらず仏頂面で、街の浮ついた空気を全部拒絶しているように見える。
俺たちが正門をくぐると、受付の係が俺を見てすぐに顔をしかめた。
また来たのか、という顔だ。
あいにく否定はできない。
「相馬遼真だ。オーウェン先生に呼ばれてる」
閲覧証を見せると、係はしぶしぶ奥へ引っ込んだ。
その間、ミレナはきょろきょろと辺りを見回し、エルセはいつもより少しだけ無口だった。
「お前」
小声で聞く。
「図書院、嫌いか?」
「嫌いじゃない」
エルセは前を向いたまま答える。
「ただ、好きでもないだけ」
「どっちだよ」
「嫌いじゃないって言ったでしょ」
言葉は平坦だったが、何となく機嫌がよくない。
そこへ、係が戻ってきた。
「ベルガード先生が、すぐ上へと」
案内された閲覧室には、すでにオーウェンがいた。
紙束の山に埋もれかけたまま、俺たちを見るなり眉を上げる。
「……増えたな」
「俺もそう思います」
俺は即答した。
「できれば一人減らしたい」
「失礼ですね!」
ミレナが抗議する。
「わたし、静かにします!」
「その宣言がすでに静かじゃない」
オーウェンは、次にエルセへ目を向けた。
老人の視線が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「そちらは……噂の銀髪の魔女殿か」
「噂にしないで」
エルセは不機嫌そうに言った。
「だいたい、私はただの付き添いよ」
「付き添い、ねえ」
老人は何やら面白そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
「まあいい。相馬、お前さんに見せたいものがある」
空気が少しだけ引き締まる。
俺は椅子を引き寄せ、机の前へ座った。ミレナも半歩前に出るが、俺が睨むと素直に後ろへ下がる。えらい。少しだけだが。
オーウェンは古びた封筒を開き、中から何枚かの写本を取り出した。
「第二紀末、異界門関連の断片だ。祭りの間に封印庫の整理が進んでな。埋もれていた追加の写しが出てきた」
「……それで?」
「帰還術式の核そのものではない」
老人は一本指を立てる。
「だが、お前が前に持ち込んだ欠片と、かなり近い印があった」
紙を机へ滑らせる。
古い図と文字。円環の外側に刻まれた補助印。俺は息を詰め、前のめりになる。
似ている。
いや、かなり近い。
昨日まで追っていた断片と、流れが一致していた。
「どこで見つかった」
「正確な原出土記録は消えている」
オーウェンは眼鏡を押し上げた。
「ただし後年の注釈があってな。写しの元になった石板は、“北方の魔女の森近辺”で回収された可能性が高いとある」
魔女の森。
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
隣で、紙の擦れる音が止まる。
エルセだ。
視線を向けると、彼女はわずかに顔色を失っていた。
「……魔女の森?」
俺が繰り返すと、オーウェンは頷く。
「ああ。王都から北西へ三日ほど。今は人が寄りつかん場所だ。古い魔力だまりと、魔女系統の禁呪痕が残っていると言われる」
老人は紙を指で叩く。
「そして、お前が探している帰還術式の断片が、そこにある可能性が高い」
胸の奥が、強く鳴った。
三年追い続けた中でも、かなり手応えのある情報だ。
王都の古書店や流れ品とは違う。場所が絞れている。痕跡がある。行く理由としては十分すぎる。
「行く」
気づけば、口に出していた。
だがその一言に、エルセが鋭く反応した。
「だめ」
即答だった。
それも、今までにないくらい強い声で。
俺もミレナも、オーウェンでさえ一瞬黙る。
「……何で」
「そこは、だめ」
エルセは机の端を掴んでいた。
「他を探せばいいでしょ。王都近郊にも遺跡はあるし、古代板もまだ流れる。わざわざあそこへ行く必要は――」
「ある」
俺は紙を見たまま答える。
「場所が絞れてるんだぞ。今までで一番はっきりした手がかりだ」
「だからって!」
珍しく、彼女は言葉を荒げた。
灰青の瞳が揺れている。怒っているというより、怯えているように見えた。
「魔女の森は危ないの。普通の遺跡とは違うわ」
「お前が知ってるならなおさら都合がいい」
「よくない!」
エルセは食い下がる。
「昔の呪いが残ってる。魔物だけじゃない。森そのものが外から来るものを拒むの。方向感覚も狂うし、魔力も乱れるし、下手をすれば記憶だって削られる」
そこまで言ってから、彼女ははっとしたように唇を噛んだ。
言い過ぎた、と思った顔だ。
「……詳しいな」
俺はゆっくり言った。
「何でそんなに知ってる」
エルセは黙る。
答えない。
答えられないというより、答えたくない沈黙だった。
ミレナが気まずそうに視線を泳がせる。オーウェンだけが、妙に落ち着いた顔でこちらを見ていた。
やがて、老人が低い声で口を開く。
「魔女の森は、古い系統の魔女たちが根を張っていた場所だ。今も痕跡は残る。縁のある者なら、多少の地理は知っていてもおかしくあるまい」
縁のある者。
その言い方で、だいたい察した。
エルセの故郷に近いのだ。
あるいは、それ以上に深い何かがある。
「……そういうことか」
俺が言うと、エルセはますます顔を硬くした。
「だからやめなさい」
彼女は低く言う。
「他の手がかりを探せばいい。王都でもまだ調べられるし、あそこは――」
「帰還の手がかりがあるなら行く」
俺はきっぱり言った。
「それだけだ」
沈黙。
エルセの目が、痛いほどまっすぐこちらを見る。
そこには怒りもあった。
苛立ちも。
でも、それ以上に強い何かがあった。
心配、という言葉が脳裏をよぎる。
だが、その意味づけをする前に、俺は自分で切り捨てた。
「……準備は?」
オーウェンが口を挟む。
空気を切り替えるような声だった。
「今日これから始める」
俺は答える。
「食料、地図、森避けの魔導具、必要なら護符も」
「護符はわたし用意できます!」
ミレナが即座に身を乗り出した。
「対迷彩系の簡易式なら、魔術院の演習で――」
「お前は来るな」
俺とエルセの声が、またぴたりと重なった。
ミレナはきょとんとする。
「え、何でですか」
「危ないから」
「危険だからよ」
「ちょっと嬉しいですけど納得いきません!」
「嬉しがるな」
だが、そこでミレナに構っている余裕はなかった。
俺は机の上の写しをもう一度見つめる。
魔女の森。
北西、三日。
帰還の鍵がそこにある。
三年追ってきたものが、ようやく形になって目の前へぶら下がったのだ。躊躇する理由はない。
ない、はずだった。
なのに、隣から伝わるエルセの気配が妙に重い。
「……行くのね」
彼女が、ほとんど確認するみたいに言った。
「行く」
「本当に?」
「本当に」
「私が止めても?」
「止まらない」
そこまで言うと、彼女は視線を落とした。
何か言うかと思ったが、すぐには言葉が出てこないらしい。帽子のつばを押さえる指に、少しだけ力が入っている。
オーウェンが、わざとらしく咳払いした。
「なら、相馬。必要な地図は貸す。森の外縁までは古い街道がある。問題はその先だ」
老人は別の紙を差し出す。
「森へ入るなら、案内役が要る」
「わかってる」
俺は横目でエルセを見る。
「たぶん、いるだろ」
彼女はゆっくり顔を上げた。
「……私が行くって決めつけないで」
「決めつけてはない」
正直に言う。
「でも、お前が一番詳しいんだろ」
「詳しいからって、行きたいわけじゃない」
「それでも来るんじゃないのか」
言ってから、少しだけ言い過ぎた気がした。
だがエルセは反論しなかった。
ただ、ものすごく複雑そうな顔をしている。
来たくない。
でも一人で行かせるのはもっと嫌だ。
そんなふうに見えた。
ミレナが、珍しく小声で呟く。
「……やっぱり、お姉さん心配してるんじゃ」
「ミレナ」
俺は視線だけで制した。
その一瞬の静寂が、逆に答えみたいになってしまう。
エルセはぐっと唇を噛んだあと、椅子を引いて立ち上がった。
「……勝手にすれば」
その声は低い。
だが怒鳴ってはいなかった。
怒鳴れないほど、色々飲み込んでいる声だった。
「エルセ」
呼ぶ。
彼女は振り向かない。
「私は知らない」
背中越しに言う。
「あんたがどこへ行こうが、帰れようが帰れまいが、どうでもいい」
嘘だ、とほとんど反射的に思った。
どう見てもどうでもよくない顔をしていた。
けれど次の瞬間、彼女は振り返って、いつもの棘だらけの声を無理やり引っ張り出した。
「……どうせ失敗すればいいのに」
それだけ言って、エルセは閲覧室を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
ミレナが目をぱちぱちさせた。
「今の、絶対“行かないで”のやつじゃ……」
「ミレナ」
今度はオーウェンが止めた。
「余計なことは言うな」
見習い魔術師は、珍しく素直に口を閉じた。
俺はしばらく扉を見つめ、それから机の上の写しへ視線を落とす。
胸の中に二つのものが並んでいた。
ひとつは、確かな高揚だ。
ようやく見つけた、大きな手がかり。
もうひとつは、妙なざらつき。
エルセの顔。
魔女の森、という言葉に変わった空気。
強く止める声。
そして最後の、あからさまに嘘くさい悪態。
「……行くしかない」
自分に言い聞かせるみたいに呟くと、オーウェンが静かに頷いた。
「そうだろうな」
「止めないんですね」
「止めて止まる顔じゃない」
老人はため息をついた。
「だがひとつだけ忠告しておく。魔女の森へ行くなら、お前一人で行くな」
「……」
「意地を張るな、相馬」
オーウェンは低く続ける。
「帰りたいのなら、なおさらだ。帰るための道を選ぶ時に、わざわざ死ぬ確率を上げる必要はない」
正論だった。
正論だが、素直に頷くのは少しだけ癪だった。
「準備して、夕方もう一度来い」
老人は写しをまとめる。
「必要な資料は写して渡す。森の古地図も出しておく」
「わかりました」
立ち上がる。
ミレナがそっと聞いてきた。
「……お姉さん、来ますかね」
「知らん」
「でも来てほしいですよね」
「何でお前が期待してるんだ」
「だって、絶対一番頼りになるじゃないですか」
ミレナは真面目な顔で言う。
「それに、たぶん師匠もそう思ってる」
返事に詰まった。
思っている。
それは事実だ。
魔女の森なんて場所へ行くなら、エルセの力は必要だろう。
必要、というだけじゃない。あいつがいれば、俺はたぶん余計なところで迷わない。
そこまで考えて、やめる。
必要だの頼りだの、そういう話ならいい。
でも、そこへ別の意味が乗る前に、切っておくべきだ。
俺は帰るために動く。
それだけでいい。
図書院を出る頃には、空が少しだけ曇っていた。
祭りの飾りがまだ残る王都の通りを歩きながら、俺は頭の中で旅の準備を組み立てる。
食料。
水。
野営具。
迷い防止の糸。
魔力酔い対策の薬。
やることは山ほどある。
そのはずなのに、思考の隙間へ何度も割り込んでくるのは、銀髪の魔女の後ろ姿だった。
どうせ失敗すればいいのに。
あれが本心じゃないことくらい、もうさすがにわかる。
わかるのに、その“本当”の方へ踏み込む勇気は、まだ俺の中になかった。




