第10話 森では素直になれると思ったのに
結局、ミレナは来た。
それも、ものすごく堂々と来た。
翌朝、北門へ向かった俺とエルセの前に、青と白の見習い魔術師は大荷物を背負って立っていた。背中には杖、腰には護符の束、胸元には魔術院の臨時許可証まで下げている。
「おはようございます! 準備万端です!」
「何でいる」
「来るなって言ったわよね」
俺とエルセの言葉が、これ以上ないくらい綺麗に重なった。
だがミレナは一歩も引かない。
「外縁までです! 森の中までは入りません!」
胸を張って言い切る。
「オーウェン先生にも許可もらってますし、迷い防止の簡易護符も持ってきました! それに、荷物持ちが多い方が便利ですよね!」
「最後の理屈だけ妙に現実的だな」
俺は額を押さえた。
「先生、何考えてるんだ……」
北門の脇、簡易の見張り台の影から、当の本人がひょいと顔を出した。
「一人増えた程度で死ぬなら、最初から森へ入るな」
「聞こえてましたよ」
「聞こえるように言った」
オーウェンは平然としている。
「魔女の森の外縁までは古い道が残っている。ミレナにはそこで待機させろ。外から術式の状態を読む役ぐらいには立つ」
「わたし、役に立ちます!」
「本人が言うと安っぽくなるな」
エルセが明らかに不満そうに帽子のつばを押し下げた。
「私は反対よ」
「知ってる」
俺は短く返した。
「でもここで揉めてる時間はない」
「そういうところが嫌いなのよ」
たぶん本心はそこじゃない。
それはもうわかっている。
わかっているが、今はそこへ踏み込む気になれなかった。
北門の外には、森手前までの道案内として雇った猟師が一人待っていた。名をガルムという、無口で背の高い男だった。弓と鉈を腰に提げ、背負い籠の横で荷用の小柄なロバを押さえている。
「森の手前の石碑までだ」
男はぶっきらぼうに言った。
「それ以上は行かん」
「十分だ」
俺は頷いた。
魔女の森までは、王都から北西へ三日。
だが旧街道を使えば、二日目の昼には外縁へ届く。今日は朝から空が薄く曇っていて、旅をするには悪くない。祭り明けのだるい空気を引きずった王都を背に、俺たちは北門を出た。
石畳が土へ変わり、家並みが畑に変わる。
王都の外へ出るたび、少しだけ胸が軽くなる。街は便利だが、人の視線も、人の事情も多すぎる。森や遺跡の方がずっと単純だ。危険はあるが、少なくとも言葉に裏はない。
……そう思っていた。
魔女の森を目にするまでは。
◇
二日目の昼、森は見えた。
北西の丘を越えた先。遠くの地平を埋めるように、黒緑の樹海が広がっている。普通の森なら、風に合わせて葉の色が揺れたり、鳥が抜けたり、どこか生活の気配がある。
だが魔女の森は違った。
遠目にもわかるほど、空気が沈んでいる。
木々は高く、幹は捻れ、枝はまるで互いを締め上げる指みたいに絡んでいた。森の上だけ薄く霧がたなびき、陽の光を飲み込んでいる。昼だというのに、あの一帯だけ夕方の手前みたいに暗い。
ミレナが、ごくりと喉を鳴らした。
「……うわ、ほんとにやばそうです」
「今さらかよ」
「見てわかるやばさと、遠くから感じるやばさって別なんですよ!」
ミレナは真顔で言う。
「この森、魔力の流れが変です。表面だけじゃなくて、下でぐるぐる渦巻いてる」
エルセは黙ったまま森を見ていた。
帽子のつばの下で、灰青の目がいつになく冷えている。ここへ近づいてから、彼女はほとんど余計なことを言わなくなった。代わりに、ひどく細かい指示を出すようになった。
水袋は二重に縛れ。
布切れを目印に使うな、森が似せる。
匂いに引かれる魔獣がいるから食事は中で開くな。
霧が濃くなったら絶対に走るな。
エルセの言うことはどれも具体的で、経験に裏打ちされていた。
そういうのを見れば見るほど、ここが彼女にとってただの“危険な森”ではないことがわかる。
俺たちは外縁の古い石碑の前で立ち止まった。石碑には擦り切れた古文字が刻まれていたが、半分以上は苔に埋もれていて読めない。
ガルムがロバの手綱を引き、そこから先へ進む気がないことを全身で示す。
「ここからは行かん」
「約束通りでいい」
俺は背負い袋を調整した。
「夜までに戻らなかったら?」
「待たん」
猟師は即答する。
「一晩ならともかく、森の前で二日も待つ馬鹿はいない」
潔い。
ミレナが慌てて口を挟む。
「で、でもわたしは待ちます! 外縁で術式の流れ見てますから! 何かあったら発光信号を三連で上げてください!」
「お前、まだ帰る気ないのか」
「外から援護ならできますし!」
ミレナはエルセをちらりと見て、それから俺に向き直る。
「でも、森の中で一番頼りになるのは絶対お姉さんです。そこはちゃんと聞いてくださいね」
それは、俺も否定しない。
だからこそ、こうしてエルセに同行を半ば前提で頼っているわけで。
だがその本人は、俺の顔を見ることもなく言った。
「……はぐれたら、無理に探さないで外へ戻る」
「戻れればな」
「戻るの」
エルセの声が鋭くなる。
「森の中で意地を張ると死ぬわよ」
「わかった」
俺は短く返す。
「お前の指示には従う」
その一言に、エルセが少しだけ目を見開いた。
「……今、何て?」
「森の中じゃお前の方が詳しいんだろ。だったら従う」
「……」
帽子の影で、彼女の耳がわずかに赤くなった気がした。
「最初からそう言いなさいよ」
「言っただろ今」
「遅いのよ」
ミレナが、すごくいいものを見た顔をしていた。
「今の、めちゃくちゃ信頼してる発言じゃないですか」
「余計な翻訳するな」
「違うわけじゃないけど」
その返しに、今度は俺が少しだけ黙る。
まあ、違わない。
討伐の旅の頃から、こいつの魔力感知と森の読みは本物だった。俺が前へ出て斬るなら、後ろはこいつが一番安定する。敵だった頃でさえそう思っていたくらいだ。
それを今さら否定する気はない。
荷を整え、森へ入る。
最初の一歩で、空気が変わった。
気温が下がるわけじゃない。むしろ少し湿っている。だが肌に触れる感覚が違う。王都の外の森とは別物だ。音が吸われる。靴が土を踏む気配も、枝が揺れる音も、どこか遠い。
木々の根元には白い苔がびっしりと生え、霧が地面すれすれを漂っている。陽は頭上にあるはずなのに、森の中は早くも夕方みたいに暗かった。
「ここから先、絶対に私より前へ出ないで」
エルセが小声で言う。
「道が見えても、見えないものと思いなさい」
「了解」
「返事だけはいいんだから」
「信頼してるってさっき言っただろ」
「……」
エルセは何か言い返しかけて、結局やめた。
森へ入って最初の一刻は、比較的順調だった。
旧街道の痕跡は薄いが残っている。崩れた石畳の列、苔に埋まった境界石、道の両脇だけ少しだけ木の根が浅い。エルセはそれを見抜き、迷いなく進む。
ミレナは外縁の石碑から少しだけ中までついてきたが、途中で霧の濃さに顔色を変えた。
「やっぱり……ここ、普通じゃないです」
「だから外縁で待てって言ったの」
エルセは振り返りもせずに言う。
「ここから先は、あなたが来ても足手まといよ」
「うっ」
強い。
だが正論だ。
「ミレナ、石碑まで戻れ」
俺も言う。
「発光信号を見たらオーウェンか兵士に知らせろ。俺たちが夜まで戻らなければ、それも」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ!」
ミレナは涙目になりかけ、それでもぐっとこらえた。
「……わかりました。でも絶対、戻ってきてください」
「そのつもりだ」
見習い魔術師は、名残惜しそうに俺たちを見たあと、石碑の方へ引き返した。
その背が霧に飲まれきる前に、エルセが足を止めた。
「……変」
「何が」
「霧の流れ」
彼女は眉を寄せる。
「さっきから内へ押してる。普通はもっと横に流れるのに」
言い終わるより先に、森が鳴った。
低い、耳鳴りみたいな音。
次の瞬間、白い霧が一斉に立ち上がった。地面を這っていたはずのそれが、壁みたいにせり上がり、前も後ろも左右もまとめて塗り潰す。
「くそっ――!」
俺は咄嗟にエルセの腕を掴んだ。
「離すな!」
エルセが叫ぶ。
「目を閉じるな、下を見るな!」
視界は白い。
前方から、木の軋むような音がする。いや、違う。何かが走ってくる足音だ。
「左!」
エルセの声に従い、俺は反射で右足を踏み込んだ。直後、白い霧の中から灰色の影が飛び出してくる。狼型。だが普通の狼より脚が長く、頭部の輪郭がぼやけている。
霧喰いだ。
森の魔獣としては軽い部類だが、数がいると面倒なやつ。
「離れて!」
エルセが俺の手を振りほどく。いや、振りほどかれたんじゃない。戦うために抜けたのだ。
「背中!」
「わかってる!」
飛びかかった一体の首を短剣で受け、体勢を崩したところへ膝を叩き込む。横からもう一体。だがその直前に黒い魔力の糸が霧を裂いて走り、獣の脚に絡みついて引き倒した。
自然だった。
どこから何が来るか考える前に、体が勝手に動く。
後ろにはエルセがいる。
だったら俺は前だけ見ればいい。
そういう戦い方を、俺たちはもう何度もやってきた。
「三体目、上!」
言われる前に気配が来る。俺は身を捻りながら短剣を投げ、樹上から落ちてきた影の喉へ突き刺した。落ちたところへエルセの魔力刃が走る。
数呼吸。
それで片がついた。
白い霧の中に灰色の影が沈み、耳鳴りみたいな森の音も少しだけ遠ざかる。
だが、問題は別だった。
「……ミレナ!」
叫んでも返事はない。
霧はまだ濃く、数歩先すら見えない。
エルセは舌打ちし、足元へ指先を滑らせた。黒い光が土を走り、輪のような結界を二人の周囲へ薄く張る。
「無駄に叫ばないで。今の霧は声を食う」
「はぐれたか」
「ええ」
彼女の顔は険しい。
「でも、あの子は石碑の方角を知ってる。ガルムもいる。追うより先に、霧が薄い地点まで抜けた方が早い」
「戻るんじゃなくて?」
「今の霧で来た方向に戻る方が危ない」
エルセは即答した。
「この森は、退こうとする足を一番狂わせる」
正直、気に入らない話だ。
だが森の読みは彼女の領分だ。
「……任せる」
「最初からそうして」
言いながらも、エルセは明らかに緊張していた。霧のせいだけじゃない。森そのものに触れるたび、こいつの肩には少しずつ力が入る。
「行くわよ」
「前はお前か」
「当然」
「了解」
霧の中を進む。
道らしい道はもう見えない。木の根、倒木、白い苔、霧。全部似たような色に見えるのに、エルセは迷いなく進む。時々立ち止まり、木肌に触れ、風の向きを測るみたいに指を動かし、それからまた歩く。
「森の癖、変わってない……」
彼女が小さく呟いた。
「何か言ったか」
「何でもない」
本当は何でもなくない声だったが、追及はしない。
その代わり、前方の霧へ目を凝らし続ける。
何度か魔獣が出た。霧喰い、枝猿、白い羽毛のついた小型の幻鳥。どれも強くはない。だが足を止めさせるには十分な数だった。
そのたびに、俺とエルセはほとんど言葉を交わさずに片づけた。
「右」
「見えてる」
「足元」
「下がれ」
短い言葉だけで通じる。
戦いながら、不意に思う。
討伐の旅の頃は、こんなふうに息が合うたびに腹が立った。敵側にいるくせに、どうしてこいつの魔力はこんなに読みやすいんだ、と。どうして背中にいても違和感がないんだ、と。
今はもう、その違和感はない。
代わりにあるのは、妙な安心感だった。
それが少しだけ、まずい気もした。
やがて霧が少しだけ薄くなる。
狭い谷みたいな窪地へ出た。左右を捻れた木々に囲まれ、頭上だけわずかに空が見える。休むなら今しかない。
「ここで一旦止まる」
エルセが言った。
「霧はこの地形だと流れが遅い」
俺は頷き、背負い袋を下ろした。水を一口飲み、布で額の汗を拭う。湿った冷気のせいで汗の感覚は薄いが、体は思っていたより疲れていた。
エルセは少し離れた木にもたれ、呼吸を整えている。
帽子のつばがずれて、銀髪が頬にかかっていた。森へ入ってからずっと張り詰めていた顔が、ここへ来て少しだけ緩んでいる。
「……お前」
俺は水袋を差し出した。
「飲め」
「あるわよ、自分の」
「そうじゃない。さっきからほとんど飲んでないだろ」
エルセが少しだけ目を見開いた。
「見てたの」
「見えてた」
「……最悪」
そう言いながらも、水袋は受け取る。
その口調はいつも通りなのに、今は不思議と刺々しく聞こえなかった。
ひと口飲んで、彼女は小さく息をつく。
「ありがとう」
と、言いかけて――
「……う」
喉の手前で止めた。
わかる。
こいつの呪いだ。
言おうとして、飲み込んだのだ。
「別に」
結局出てきたのは、そんな曖昧な言葉だった。
俺は少しだけ目を細める。
「最近、お前の“別に”って便利だな」
「うるさい」
「“最低”よりましだけど」
「……今は、そっちの方が危ないのよ」
「何が」
「何でもない」
またそれだ。
だが、今のは少しだけ核心に近い匂いがした。
危ない。
たぶん、俺に礼を言うのが。
あるいは、それに近い何かを口にするのが。
その考えが浮かんだ瞬間、俺は意識的にそこで止めた。
深掘りするな。
そこへ意味を与えるな。
自分で、自分にそう言い聞かせる。
「……森を抜けた先に、本当にあると思う?」
エルセがぽつりと言った。
「何が」
「帰還の鍵」
彼女は水袋を見つめたまま続ける。
「写し一枚で、そこまで決めるの」
「決めてるわけじゃない」
俺は短く答える。
「でも今までで一番近い。場所があって、痕跡がある。それだけで行く価値は十分だ」
「そう」
「それに」
自分でも少し言いすぎかと思ったが、口は止まらなかった。
「ここで引いたら、たぶん次はもっと遠くなる。帰るための手がかりなんて、待ってても降ってこない」
エルセは黙る。
霧の薄い窪地に、風の音だけが落ちる。
「……そんなに帰りたいのね」
やがて彼女が言った。
「何を置いても?」
「何を置いても、だな」
答えた瞬間、彼女の指がわずかに強ばったのが見えた。
しまった、と思う。
だが訂正はしない。
できない。
「向こうに家族がいる」
俺は前を向いたまま言う。
「約束も、途中で終わったままのこともある。この世界でどれだけ時間が経っても、俺にとっては終わってない」
エルセは何も言わない。
「ここで何か始める気もない」
そこまで言って、自分でも少しだけ声が固くなったのがわかった。
「どうせ帰るからな」
それは、自分に言い聞かせるための言葉でもあった。
どうせ帰る。
だから深く関わるな。
だから居場所だなんて思うな。
だから誰かの好意を受け取るな。
だがその“誰か”を、頭の中から完全に追い出すことができない。
隣で、エルセがゆっくりと立ち上がった。
「……休憩、終わり」
声は平坦だった。
「暗くなる前に、もう少し奥まで進む」
「おい」
思わず呼び止める。
だがエルセは振り向かない。
「今の話、怒ったか?」
「怒ってない」
「じゃあ何だよ」
「何でもないって言ってるでしょ」
その返しだけは、少しだけ強かった。
「ほら、行くわよ。ここで立ち止まっても森は優しくならない」
それはそうだ。
結局、俺たちはまた進み始めた。
だが、空気はさっきまでと少し違っていた。
戦う時の連携は変わらない。前に出る俺、後ろから支えるエルセ。その信頼だけは、むしろ森の中ほど強くなる。
なのに、それ以外の会話になると、彼女は妙に静かになった。
霧は再び濃くなったり薄くなったりを繰り返し、木々の間を抜けるたびに景色が似た顔をする。夕方近く、ようやく森の奥の空気が変わった。
「……ここ」
エルセが立ち止まる。
前方に、苔むした石柱が半ば倒れていた。周囲には朽ちた壁の基礎のようなものがいくつも埋まっている。
「遺構か」
「たぶん、森に飲まれた外郭」
エルセは警戒を崩さない。
「本体はもっと奥」
空が薄暗くなっていた。
これ以上進むと危ない。そう判断する前に、エルセが先に言う。
「今日はここで止まる」
「異論はない」
倒れた石柱の影と樹の根の間に、何とか夜営できる空間を見つけた。火は小さくしか焚けない。森の中では匂いも光も招きになる。乾燥肉と固いパン、水だけの簡素な食事だ。
ミレナやガルムとは結局合流できなかったが、発光信号も霧壁の向こうには通りにくいだろう。明日、遺構の中心部を見てから外へ抜ける。その方が合理的だと、エルセは静かに言った。
合理的。
その言葉が、なぜか少しだけ苦かった。
焚き火の向こうで、エルセが膝を抱えて座っている。
火の明かりが銀髪に映り、いつもの黒い服の輪郭だけを柔らかく浮かび上がらせていた。森へ入ってから、彼女の顔はずっと少し強張っている。ここが故郷に近いだけじゃない、もっと深い何かを抱えた場所なのだと、見ていればわかる。
「……明日、中心部に何かあればいいわね」
エルセがぽつりと言った。
「ある」
俺は即答した。
「じゃないと困る」
「そういうところ」
「何だよ」
「……何でもない」
今日はそればかりだ。
言い返す気も起きず、俺は乾燥肉を齧る。硬い。王都で食うよりまずいのは、森の湿気のせいか、空気のせいか。
「お前は」
少しして聞く。
「森の中だと、普段より落ち着いてるな」
「逆よ」
エルセは火を見つめたまま答える。
「普段よりずっと落ち着かない」
「そう見えないけど」
「見せてないだけ」
そこで少しだけ間が空く。
「……昔、この辺りで色々あったの」
やはり、そうか。
それ以上聞こうとして、やめた。
今聞けば、たぶん話してくれるかもしれない。
いや、くれないかもしれない。
でもどちらにせよ、聞いてしまったら、その分だけ深く関わることになる。
俺は、そこへ踏み込む資格があるのか、まだ決められなかった。
「寝るか」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
エルセが一瞬だけ目を伏せる。
「……そうね」
夜番は交代で取るつもりだったが、森の霧は夜になると逆に薄くなった。代わりに音が遠くなる。何かが来る時は、気配より先に空気が変わるだろう。俺は短剣を手元へ置き、背負い袋を枕代わりに横になる。
火は小さい。
頭上の枝の隙間から、わずかな星が見えた。
「遼真」
ふいに、エルセが名を呼んだ。
珍しい。
いつもなら「あんた」だ。
「何だ」
「……もし」
そこで彼女は少しだけ詰まり、火を見つめたまま言い直した。
「もし、明日……」
だが、その先が出てこない。
代わりに俺は、自分の方から口を開いてしまった。
「明日、何かわかれば、少しは帰還に近づくかもしれない」
暗い天井を見上げたまま言う。
「ここまで来て空振りでも、無駄じゃない。場所が絞れただけでも前進だ」
火が、ぱち、と鳴る。
エルセの気配が、少しだけ遠のいた気がした。
「……そう」
「だから」
言いながら、自分でも少しだけ固くなっているのがわかった。
「もう少しだと思う」
もう少しで帰れる。
そう言いたいのに、実際には根拠なんてまだ薄い。
それでも、そう信じていないと三年も保てなかった。
「……うん」
エルセの返事は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
それきり、会話は途切れた。
どれくらい経ったのかはわからない。
疲れのせいで、俺は意外と早く眠りに落ちたらしい。森の中だというのに、自分でも驚くほど深く眠っていた。
その途中。
遠くで、誰かが何かを言った気がした。
「……かえ……」
ひどく小さい声だった。
「……ら、ないで……」
夢か、風か、寝言か。
意識の底でそれを拾い上げかけて、俺は結局掴みきれなかった。
翌朝には、ただ森の湿った冷気だけが残っていた。




