第11話 帰りたい男と、帰してやりたくない女
朝の魔女の森は、夜より静かだった。
静か、というより、音が遠い。
夜のあいだは時折、どこかで枝が軋み、獣の気配が霧の向こうを横切っていた。だが夜明けを過ぎると、それらが全部いったん引いたように思える。霧は薄く、湿り気を帯びた白さだけを残して地面すれすれを漂い、焚き火の残り香さえ木々に吸われていった。
俺は浅い眠りから目を覚ますと、まず短剣の位置を確かめた。
次に、火の跡の向こうを見る。
エルセは起きていた。
倒れた石柱の根元に腰を下ろし、夜露で少し湿った黒い帽子のつばを指先で整えている。いつもの朝より、ずっと無口な顔だった。火の明かりがなくなったぶん、銀髪だけが薄い朝の光を拾っている。
「起きたの」
こっちに気づいて、彼女はそれだけ言った。
「ああ」
上体を起こしながら答える。
「交代、起こさなかったな」
「途中で霧が抜けたから」
エルセは短く言う。
「何か来ればわかる程度には静かだったし」
「お前は寝たのか」
「少しだけ」
嘘だな、と思った。
目の下がほんのわずかに暗い。たぶん夜のあいだも、浅くしか眠っていない。
だがそれを指摘するほど器用じゃないし、今はそんなことより先がある。
俺は干し肉を一切れ噛み、冷たい水を飲んだ。森の中の朝は、腹が減っていても食欲が湧きにくい。
「……行けそうか」
遺構の奥を見やりながら聞くと、エルセは少しだけ目を細めた。
「行ける」
答えは短い。
「でも今日の昼まで。霧が戻る前に抜ける」
「了解」
準備を整え、遺構の奥へ進む。
昨夜泊まった外縁部は、崩れた壁の基礎と倒れた柱が散らばるだけだった。だが朝の薄明かりの中でさらに先へ進むと、苔と蔦に呑まれた石の並びが少しずつ規則性を帯びてくる。
これはただの遺構じゃない。
何かの施設跡だ。
円形の外郭。
半ば埋まった石段。
砕けた床板の中央を通る溝。
そしてところどころ、樹の根に抱き込まれながらも残っている、古い刻印。
召喚陣に近い。
いや、もっと正確に言えば、召喚を補助するための祭壇か、制御台に近い構造だ。
「……あったな」
思わず声が漏れる。
胸の奥が強く鳴る。
三年追ってきたものの、はっきりした痕跡が目の前にある。古書でも写しでもなく、現物の残骸だ。
俺は崩れた石盤の一つへ膝をつき、苔を払う。円環の一部、補助線、魔力循環を促す外縁印。図書院で見た写しと酷似していた。
「触らないで」
すぐ背後からエルセの声が飛ぶ。
「……わかってる」
手を止めずに言うと、彼女は珍しく苛立ちを隠さなかった。
「わかってないから言ってるの。森の中の古い印は、触れた時点で起動するものもある」
「今のところ魔力の残滓は弱い」
「弱く見せてるだけかもしれないでしょ」
そこまで言われると、さすがに手を引く。
エルセはすぐ隣へ来て、俺が見ていた石盤に指先だけを近づけた。触れてはいない。だが彼女の黒い魔力が薄く滲み、石の上の刻印に沿って流れる。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「召喚系統じゃない。これは固定座標用の補助盤」
「ってことは」
「来たのは合ってる」
エルセは短く言う。
「でも、これだけじゃ帰れない」
わかっている。
わかっているが、歯噛みしたくなる。
ここまで来て“これだけじゃ足りない”は、何度も聞いてきた言葉だ。だが今度は違う。足りないにしても、確実に近づいている。
俺は周囲を見回した。
「本体はどこだ」
「たぶん中心部」
エルセは遺構の奥を見た。
「でも――」
「行く」
かぶせるように言うと、彼女の顔がわずかに曇る。
「まだ何も言ってない」
「言いたいことはだいたいわかる」
「わかってるなら、少しは聞きなさいよ」
エルセは低く言った。
「この先は、ただの遺跡じゃない。森そのものが深く絡んでる場所よ。昨日よりもっと、昔のものが濃い」
「だから?」
「だから危ないの!」
珍しく、声が強くなる。
「魔力が濃いとか、魔獣が出るとか、そういう話じゃない。ここは人を拒む場所なの。外から来たものを捻じ曲げて、帰ろうとするものから順に呑む」
帰ろうとするものから。
その言い方が妙に引っかかった。
「……そんなに俺を行かせたくないのか」
聞くつもりはなかった。だが口から出た。
エルセは息を止めたみたいに黙る。
「そうよ」
間を置いて、やっと出てきた声は低い。
「行かせたくない」
俺も少しだけ黙った。
ここまではっきり言われるのは、初めてかもしれない。
「何で」
問い返すと、エルセの視線が揺れた。
怒るか、そっぽを向くか、いつものように“別に”で逃げるかと思った。だが彼女は逃げきれなかったらしい。帽子のつばをぎゅっと握りしめ、前を向いたまま言った。
「そんなの……危ないからに決まってるでしょ」
「危ないのは知ってる」
「知ってて行くんでしょ、あんたは」
エルセの声は、少しずつ鋭くなる。
「そういうところが嫌いなのよ。帰りたい帰りたいって、そればっかりで、危ない場所でも平気で踏み込む。王都でもそうだった。遺跡でも、古道具市でも、森でも。何か見つかるかもしれないってだけで、自分の命を安く使う」
「安く使ってるつもりはない」
俺も少しだけ声が硬くなる。
「帰るために必要なことをやってるだけだ」
「その“だけ”が重いって言ってるの!」
エルセが振り向く。
灰青の瞳が、ひどくまっすぐこちらを見ていた。
「そんなにこの世界が嫌なの?」
その問いは、思っていたよりずっと重かった。
森の湿った空気が、一瞬だけ冷たくなる。
「嫌いじゃない」
俺は正直に答えた。
「でも、ここに残る理由はない」
言い終わった瞬間、エルセの目が揺れた。
傷ついた、という表現が近かった。
だが彼女はすぐに顔を歪め、いつもの刺を引き寄せる。
「理由ならいくらでも作れるでしょ」
「いらない」
「何で」
「どうせ帰るからだ」
自分でも思った以上に、はっきり言っていた。
「この世界で何かを始めても、ここに居場所を作っても、誰かと深く関わっても、最後に帰るなら全部中途半端になる。だったら最初から要らない」
それは、前から俺の中にあった理屈だ。
誰かに説明したことはあまりないが、嘘でもない。
向こうには家族がいる。
途中で止まった約束がある。
ここで何かを大事にし始めたら、帰る時に迷う。
俺は迷いたくない。
迷わないために、ここまでやってきた。
「……そう」
エルセの声が、妙に静かになった。
その静けさが、逆に嫌だった。
「何だよ」
「別に」
「別に、じゃないだろ」
「じゃあ何?」
彼女は笑っていなかった。
「ここに残る理由はないって、今あんたが言ったんじゃない。だったら私が何言っても同じでしょ」
その“私”に、喉が少しだけ詰まる。
そこが核心だとわかる。
わかるのに、俺はそこへ踏み込めない。
だって踏み込んだ瞬間、話は帰還の手がかりでも、森の危険でもなくなる。もっと別の、俺が今触れたくないものへ変わってしまう。
「……俺は」
結局、言葉を選んでしまう。
「帰るつもりでここまで来た。それは変わらない」
「そう」
エルセは小さく頷く。
「変わらないのね」
「変えられない」
「違う」
彼女はかすかに首を振った。
「変えたくない、でしょ」
図星だった。
俺は無意識に唇を引き結ぶ。
変えられないんじゃない。
変えたくない。
認めてしまえば、この世界に執着する余地が生まれるからだ。
その余地を怖がっているのは、自分でもわかっている。
だが、それをエルセに見抜かれるのは妙に腹が立った。
「……だったら何だ」
少しだけ強く返してしまう。
「お前はどうしたいんだよ」
その問いに、エルセは一瞬だけ完全に黙った。
唇が動く。
たぶん、言いたい言葉はある。
でも出てこない。
出せない。
呪いのせいなのか、それとも別の理由か、俺にはもう区別がつかなくなりつつあった。
「私は……」
エルセがやっと声を絞り出す。
「私は――」
だが次の瞬間、その顔がぐしゃりと歪んだ。
「……知らない!」
吐き捨てるようにそう言って、彼女は踵を返す。
「おい!」
「ついて来ないで!」
その声はほとんど悲鳴に近かった。
エルセは遺構の奥――崩れた壁と苔むした石柱の向こうへ、ほとんど駆けるみたいに進んでいく。
「待てって!」
追いかけようとした瞬間、足元の石盤が淡く光った。
まずい、と直感する。
俺は反射で跳んだ。直後、さっきまでいた場所の石畳を黒い蔓みたいな影が貫く。森の防衛機構か、それとも古い術の残滓か。どちらにせよ厄介だ。
「くそっ……!」
エルセの姿はもう少し先の霧に半分溶けかけている。
追うしかない。
だが走れば、今度は俺の方が森に呑まれる。
数秒の迷いが、ひどく長く感じた。
結局、俺は短剣を抜き、進路を塞ぐ蔦を切り払いながら奥へ進む。走らない。だが急ぐ。
霧の向こうで、何かが割れるような音がした。
「エルセ!」
返事はない。
代わりに、奥から黒い魔力が一閃した。彼女だ。
視界が開ける。
そこは遺構の中心部だった。
円形の広場。
崩れた柱。
半分以上土に埋まった祭壇。
その中央に、砕けた石盤がいくつも重なっている。
そして、その前にエルセが立っていた。
肩で息をしながら、黒い魔力を指先に滲ませている。さっきの音は、彼女が自分で封印の一部を砕いたものらしかった。
「何やってる」
俺は息を切らしながら近づく。
「……うるさい」
「一人で突っ込むなって、お前が言ったんだろ」
「そうよ」
エルセは振り向かない。
「だから、あんたは来なくてよかったの」
「意味わからないこと言うな」
「わかる必要ない」
言いながらも、彼女の肩はわずかに震えている。
怒りか、悲しさか、その両方か。
祭壇の前へ出ると、俺は息を呑んだ。
中心部の石盤には、はっきりと召喚系統の核が残っていた。壊れている。だが壊れ方が不自然だ。外から砕かれたというより、自壊に近い。術式の暴走か、意図的な破棄か。
「……これ」
俺が低く呟く。
「帰還陣の一部じゃない」
エルセが先に言った。
「もっと前段階。門を開くための中継核よ」
「でも繋がってる」
「ええ」
彼女はやっとこちらを見た。
「繋がってる。だからあんたの探し物は、たぶんまだこの森の奥にある」
それは、手がかりとしては大きい。
だが今は、それより気になることがあった。
「お前」
俺は少しだけ声を落とした。
「ここを知ってたのか」
エルセは目を逸らさなかった。
もうごまかせないと判断したのかもしれない。
「……昔、来たことがある」
「何しに」
「呪いを受けた時」
彼女の声は、もう静かだった。
「その起点の一つが、この森だった」
胸がざわつく。
やはり、そうか。
ここは彼女にとって、ただ危険なだけの場所じゃない。傷の中心に近い場所だ。
「だから止めたのか」
「そうよ」
エルセは淡々と言う。
「帰還の手がかりがあるのは本当。でも同時に、あんたが触れていい場所じゃない。……触れてほしくない場所でもある」
「何で」
「何ででも」
彼女は笑わなかった。
「さっき言ったでしょ。あんたは何を置いても帰りたいんでしょう。だったら、こんな場所で余計なもの背負わない方がいい」
余計なもの。
その言い方が、またひどく引っかかった。
「それに」
エルセは少しだけ視線を落とす。
「ここを知れば、あんたはもっと帰る方へ近づく。……そうなったら、たぶん本当に止まらない」
「最初から止まる気はない」
「知ってるわよ!」
今度は彼女が声を荒げた。
「知ってるから嫌なの!」
遺構の広場に、その声が反響した。
霧が薄く揺れる。
エルセは自分の言葉に自分で驚いたみたいに息を飲み、それから唇を噛んだ。
「……嫌なの」
今度は少し小さく、だがはっきりと繰り返した。
「帰ることしか見てないあんたが、ここへ来て、もっと遠くへ行くのが」
その“遠く”が、単なる距離の話じゃないことは、さすがにわかった。
俺は一歩だけ彼女に近づく。
「エルセ」
「来ないで」
またそれだ。
だが今度の“来ないで”は、突き放すためというより、これ以上近づかれたら自分が壊れる、という響きに近かった。
「……私、今、まともに話せない」
「話せてるだろ」
「話せてないわよ」
エルセはかすかに笑う。苦い笑いだ。
「まともに話せてたら、とっくに違うこと言ってる」
呪いだ。
それを指すような言い回し。
俺はそこで初めて、ほんの少しだけ踏み込んだ。
「お前の言葉って」
喉が乾く。
「……俺に向ける時だけ、変なのか?」
エルセの目が、限界まで見開かれた。
たぶん、聞かれると思っていなかったのだろう。
あるいは、俺がそこへ辿りつかないと高をくくっていたのかもしれない。
「……何それ」
声がかすれる。
「昨日、一昨日からずっと思ってた」
自分でも妙に冷静な声だった。
「子どもや店主には普通に礼を言う時がある。ミレナにだって、きついけど通じる。なのに俺にだけ、言葉が妙に噛み合わない」
言いながら、胸の中で何かが鳴る。
ここを越えると、たぶん後戻りしにくい。
それでも聞かずにはいられなかった。
「それって――」
「聞かないで!」
エルセがほとんど叫ぶように止めた。
黒い魔力が指先で弾ける。
「今そこで聞かれたら、たぶん全部駄目になる」
彼女は息を荒くしながら言った。
「森の中で、こんな場所で、そんなの……言えるわけないでしょ」
“言えるわけない”。
その言い方が、逆に答えみたいだった。
俺は何も言えなくなる。
そこへ霧の奥から、低い唸り声が響いた。
反射で振り向く。
広場の外縁、倒れた柱の陰から、白い影がいくつも這い出してきていた。昨夜の霧喰いより一回り大きい。毛並みのない、骨ばった狼型。目だけが淡く光っている。
「……守り狼」
エルセが低く言う。
「中心部の番」
「話はあとだ」
短剣を握る。
「そうね」
彼女も一歩前へ出る。
「死んでる場合じゃないもの」
それだけ言うと、さっきまでの揺らぎが嘘みたいに消えた。
俺とエルセの間にあるのは、ひどく面倒で、不器用で、言葉にしづらい何かだ。
でも、戦う時だけは違う。
そこに迷いはない。
「右二、左一」
俺が読む。
「中央は私」
エルセが答える。
白い影が一斉に飛びかかった。
次の瞬間には、もう考えていなかった。
前に出る。
斬る。
避ける。
背中に黒い魔力の気配。
左から来る気配を、エルセの声より半拍早く読む。
結局、俺たちはこういう時だけ、誰よりも噛み合ってしまう。
それが少しだけ、皮肉だった。




