表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/38

第12話 一番大事なのに、言えない

白い守り狼が、霧の切れ間から次々に飛び出してくる。


 昨夜の霧喰いより一回り大きい。骨が浮いたような痩せた体なのに、跳躍だけは異様に軽い。淡く光る目がこちらを捉えた瞬間、ぞわりと背筋に嫌なものが走った。


「右、来る!」


 言いながら踏み込む。最初の一体の前脚を斬り払うと、横から二体目。そっちはエルセの黒い魔力刃が脇腹を裂いた。血は出ない。代わりに白い霧みたいなものが、斬られた傷口からふっと散る。


「……気持ち悪いな、これ」


「見た目通り、まともな生き物じゃないのよ」

 エルセの声は鋭いが、呼吸は乱れていない。

「核を潰さないと立ち上がる!」


「核ってどこだ!」


「喉の下! 光ってるところ!」


 言われて見れば、白い胸元の奥に小さく青白い点がある。


 そこを狙って踏み込んだ瞬間、左から飛びかかってきた一体が肩をかすめた。布が裂ける。浅いが、嫌な感触だ。


「遼真!」


「大丈夫だ!」


 嘘ではない。浅い。だが、その一瞬の隙で三体目がエルセに迫る。


 俺は考えるより先にそっちへ体を向けていた。


 短剣を逆手に持ち直し、横から割って入る。牙が腕を掠めるより先に、喉元の核へ刃をねじ込んだ。青白い光が弾け、守り狼の体が崩れる。


「……っ」


 その時だ。


 足元の石盤が、ぱあっと淡く光った。


「下がって!」


 エルセの声は聞こえた。


 だが一瞬遅かった。


 広場の中心、砕けた祭壇の下から黒い紋が浮かび上がる。円。補助線。いくつも折り重なった古い術式の残骸が、まるで今まで息を潜めていたのが嘘みたいに、一斉に起き上がった。


「っ、まず――」


 言い終わる前に、エルセが俺を突き飛ばした。


 視界が傾く。


 石畳を転がり、背中を打つ。肺から空気が抜けた。


「エルセ!」


 起き上がる。


 だが、間に合わない。


 祭壇の中心から伸びた黒い光が、エルセの足元に絡みついていた。まるで生きた蔓みたいに、黒い紋様が彼女の足首から膝、腰、腕へと這い上がっていく。


「……っ、やだ……!」


 初めて聞く種類の声だった。


 怒鳴り声じゃない。

 悪態でもない。

 痛みに耐える時とも違う。


 怖がっている声だ。


 それだけで、頭の中が真っ白になった。


「何だこれ!」


 祭壇へ駆け寄る。だが足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。霧が濃くなる。いや、霧じゃない。視界の端で、ありもしない景色がちらつく。


 王都の石壁。

 図書院の白い廊下。

 日本の駅のホーム。


 全部が一瞬ずつ混ざって、すぐ消える。


「来ないで!」

 エルセが叫んだ。

「そこ、陣が生きてる! 下手に入ったら、あんたまで――」


「黙ってろ!」


 自分でも驚くくらい強い声が出た。


 エルセが、びく、と肩を震わせる。


 黒い紋様はもう彼女の首筋近くまで這い上がっていた。灰青の瞳が焦点を結びきらずに揺れている。こいつはこういう時でも取り乱さないと思っていた。少なくとも、俺の前では。


 なのに、今は違う。


 完全に余裕を失っていた。


「何の術だ!」

 俺は祭壇の縁に膝をつき、石盤を睨む。

「封印か、拘束か、それとも呪詛か!」


「……記憶系、混成……たぶん、侵入者の“強い執着”を逆流させる」

 エルセの声が途切れ途切れになる。

「この森、そういう古い術……多いの。外から来たものに、戻りたい場所とか、失いたくないものとか……そういうの見せて、動きを止める」


「だったら何でお前が巻き込まれてる!」


「私、ここに縁があるから……」

 エルセは苦しそうに息を吸う。

「弾かれないかわりに、深く刺さるのよ……」


 意味がわからない。でも考えている暇はない。


 黒い紋はさらに広がる。


 俺が手を伸ばすと、エルセが息を呑んだ。


「触らないで!」


「触る!」


「だめ!」

 彼女は必死で首を振る。

「今の私に触れたら、あんたまで引っ張られる。遼真、お願い、ここは一回引いて。外でミレナ呼んで、先生のところ戻って、それから――」


「間に合う顔してねえだろ」


 思ったままを言った。


 エルセが黙る。


 その沈黙が答えだった。


「遼真」

 今度の声は、少しだけ違った。

 弱くて、掠れていて、それでも何とか理性を繋ごうとしている声。

「聞いて。ちゃんと聞いて。……ここで無茶したら、あんたが帰るための手がかりまで潰れるかもしれない」


 その一言で、ようやく俺は祭壇の構造を見た。


 確かにそうだ。


 今、エルセを拘束している黒い紋は、周囲の補助盤と繋がっている。力任せに壊せば、祭壇中心部そのものが崩れる。そうなれば、残っている召喚系統の痕跡も消える可能性が高い。


 ここまで来て掴んだ手がかりだ。

 帰還の鍵に近い場所だ。

 たぶん、この森を逃したら次はもっと遠い。


 それでも。


「……だから何だ」


 気づけば、口に出していた。


 エルセが目を見開く。


「だから何だって……」


「お前がその中で潰れるのを見てろって話なら、聞く気ない」

 俺は祭壇の縁へ手をついた。

「手がかりなんてまた探せばいい」


「よくない!」

 エルセが、ひどく苦しそうな顔のまま叫ぶ。

「そういう問題じゃないの! あんた、どれだけこれ追ってきたと思ってるのよ! 三年よ!? ここで壊したら、また振り出しに戻るかもしれないのよ!?」


「戻ればいい」


「よくないって言ってるでしょ!」


「じゃあお前を置いていくのはいいのか!」


 その言葉で、エルセがぴたりと黙った。


 霧が、彼女の肩口で濃く揺れる。


 唇が震えていた。


「……置いていくなんて、言ってない」


「同じだろ」

 俺は低く返す。

「先生呼んで、外へ戻って、準備して、また来る。その間にお前がどうなるかもわからないのに、それを“置いていく”って言わないなら何て言うんだ」


「それは……」

 エルセが言葉に詰まる。

「それは、でも、あんたがここで……」


「聞けよ」

 自分でも驚くくらい静かな声だった。

「俺は帰りたい。そこは本当だ。今も変わってない。変わってないけど、だからって今お前よりそっちを取る気はない」


 言い切った瞬間、空気が止まった気がした。


 エルセが、息を忘れたみたいな顔をする。


「……何、それ」

 声がかすれていた。

「そんなの、ずるい」


「何が」


「今それ言うの……」

 彼女は笑うみたいに唇を歪めた。

「そんなの、余計だめになるじゃない」


 黒い紋様が、彼女の頬の近くまで伸びる。


 やばい。


 これ以上、喋らせるのも危ない。


「封印式、あるんだろ」

 俺は祭壇の刻印を睨んだまま聞く。

「一時的に切るやつ」


「……ある」

 エルセは小さく答える。

「でも危ない。あんたの魔力じゃ、この森の式と噛み合わない。逆流したら、記憶を持っていかれる」


「どのくらい」


「わからない」

 彼女ははっきり言った。

「数時間かもしれないし、もっと大事なものかもしれない。向こうの記憶に刺されば、帰還の座標そのものがぼやける可能性もある」


 つまり、俺が最も失いたくないものに触れる危険がある。


 それでも、もう迷っていなかった。


「やり方を言え」


「遼真」


「言え」


 少しだけ間があって、エルセは諦めたみたいに目を閉じた。


「……祭壇の外周、三つ目の補助盤に逆位相を入れる。私の足元の紋と繋がってる線が、一瞬だけ緩む」

 彼女は途切れ途切れに説明する。

「その時に中心核へ、あんたの血を混ぜた魔力を叩き込むの。外から来たものの“帰還衝動”を、式の方へ逆流させて壊す」


「血が要るのか」


「帰還術は、由来の強いものに引かれるから……」

 エルセは苦しそうに眉を寄せた。

「でも、本当に危ないのよ。あんた、自分の帰りたい場所を強く思い浮かべないで。飲まれるから」


 無茶を言う。


 帰還衝動を使う術で、帰ることを思うななんて。


「わかった」

「絶対、わかってない」


「わかってる」

 短剣を引き抜く。

「だから黙って待ってろ」


「待てるわけないでしょ……」


 それでも、エルセはもう止めなかった。


 止められないとわかったのかもしれない。


 俺は祭壇の外周へ回り込む。石盤に刻まれた補助印は半ば砕け、苔に埋もれているが、流れは読めた。三つ目の補助盤。そこへ短剣で掌を切り、血を落とす。


 熱い。


 血が触れた瞬間、石盤が赤黒く光った。


「今!」

 エルセが叫ぶ。


 魔力を叩き込む。


 ぐしゃり、と頭の中で何かが潰れる音がした。


 視界が歪む。


 森が消える。

 王都が消える。

 代わりに、見たことのあるはずの風景が、濁った水の底から浮かび上がる。


 踏切。

 雨の匂い。

 家の玄関。

 妹の声。

 父さんが新聞を畳む音。

 母さんの「いってらっしゃい」。


 やめろ。


 今はそれを見るな。


 だが術式は、そこへ食らいついてくる。帰りたい場所。失いたくないもの。途中で止まった日常。全部を引っ張り上げ、逆さにして、俺の中から持っていこうとする。


「っ、ぁ……!」


 膝が折れそうになる。


 だめだ。

 ここで手を離したら、たぶんエルセが終わる。


 頭の中の風景がさらに増える。


 学校の廊下。

 夏の電車。

 コンビニのレジ。

 どうでもいいはずの日常が、どうしてこんなに鮮明なんだ。


 やめろ。


 持っていくな。


「遼真!!」


 その声だけが、はっきり聞こえた。


 日本の景色よりも、森の霧よりも、何より強く。


 銀髪の魔女の声だ。


 その瞬間、頭の中の濁流がわずかに切れる。


 俺は歯を食いしばり、中心核へ短剣を突き立てた。


「――切れろ!」


 赤黒い光が弾けた。


 祭壇全体が大きく震える。補助盤を走っていた黒い紋様が、逆流するみたいに中心へ吸い込まれ、石盤の割れ目から光が噴き出す。


 次の瞬間、全部が止んだ。


 耳鳴りも。

 霧の圧迫感も。

 頭の中の日本の景色も。


 俺はその場に片膝をつく。


 吐き気がした。

 掌の傷より、頭の奥が痛い。


「……っ、は……」


 視界が戻る。


 森だ。


 霧の遺構。砕けた祭壇。倒れた柱。


 そして、崩れ落ちたエルセ。


「エルセ!」


 反射で駆け寄る。


 彼女は石畳の上に座り込んでいた。黒い紋様は消えている。だが顔色が悪い。呼吸も乱れている。


 俺は膝をつき、その肩に手を伸ばした。


 今度は拒まれなかった。


「……おい、大丈夫か」


「……っ、」

 エルセは何か言おうとして、うまく声にならないらしい。

 数度呼吸を繰り返して、やっと言葉を絞り出す。

「……何で」


「何が」


「何で、壊したのよ……」

 灰青の瞳が、涙で滲んでいた。

「帰る手がかりだったのに……」


 俺は祭壇を振り返る。


 中心核は砕け、補助盤の一部も焼けていた。確かに、痕跡のいくつかは消えたかもしれない。だが全部じゃない。周囲の刻印はまだ残っている。写しも取れる。何より――。


「お前の方が先だった」


 そう答えると、エルセの目が揺れた。


「そんなの……」

 彼女の唇が震える。

「そんなの、あんた……帰りたいんじゃなかったの」


「帰りたいよ」

 正直に言う。

「今も、たぶんこれからも。でも、だからって今ここでお前を見捨てる理由にはならない」


「理由になるでしょ……!」

 エルセは泣きそうな顔で言い返す。

「だって、私はあんたにとって……」


 そこで言葉が止まる。


 “私はあんたにとって何なの”。

 たぶん、そう続くはずだった。


 でも彼女の呪いも、意地も、弱さも、それをまっすぐには言わせない。


「私は……」

 彼女は唇を噛んで、結局別の言葉をひねり出す。

「……私は、森に詳しいだけで、別に、代わりなんて」


「いないだろ」


 言ってしまってから、自分でも少し息が止まる。


 だがもう遅い。


「代わりなんていない」

 俺は、今度はちゃんと彼女を見て言った。

「森の中でも、王都でも、どっちでも」

 少しだけ言葉を探して、それから続ける。

「お前を放って帰るつもりはなかった。それだけだ」


 エルセは、完全に泣きそうな顔になった。


 いや、もう泣いていた。


 静かに涙が落ちる。

 怒っているわけじゃない。

 でも笑ってもいない。


 どうしていいかわからなくて、俺はそのまま肩へ触れていた手を引けなかった。


「……ばか」

 エルセが、かすれた声で言う。

「ほんとに、ばか」


「それはよく言われる」


「違う……」

 彼女は首を振る。

「そういう、いつものやつじゃなくて……本当に、ばか」


 泣きながら言うには、だいぶ優しい声だった。


 いや、優しいというより、もう刺す力がないのかもしれない。


「立てるか」

 俺は聞く。


 エルセはすぐには頷かなかった。少しだけ呼吸を整えてから、やっと小さく頷く。


 その時、俺はやっと掌の傷から血がまだ落ちていることに気づいた。


「お前こそ」

 エルセが視線をそこへ落とす。

「手……」


「浅い」


「浅くないでしょ」

 彼女は目を細めた。

「ふざけないで。そんな切り方して」


「封印式に必要だったんだろ」


「必要でも、もう少しやりようがあったわよ」

 言いながら、彼女は震える手で自分の腰の小袋から布を取り出した。

「……貸して」


「何を」


「手」

 少しだけ睨まれる。

「縛るから」


 言われるまま差し出すと、エルセは慣れた手つきで傷の周囲を拭き、布を巻く。手つきはまだ少し不安定だが、丁寧だった。


 痛みより、距離の近さの方が妙に意識に残る。


 彼女もそうらしい。途中で一度だけ、指先がわずかに震えた。


「……何で」

 エルセが、布を結びながらぽつりと聞く。

「そんなに迷わなかったの」


「何が」


「私を助ける方」

 彼女は視線を上げない。

「帰還の手がかり、消えるかもしれなかったのに」


「迷ったら間に合わなかった」

 それが一番近い答えだった。

「それに、あの時はもう決まってた」


「何が」


「お前を先に引っ張り出すってこと」


 結び目が、きゅ、と強くなる。


「痛い」


「……知らない」


 知ってるくせに。


 でも、その返事さえ今は少しだけ弱い。


 布を巻き終えると、エルセはやっと顔を上げた。


 泣いた目のまま、それでもいつものように何か刺さる言葉を探している顔。


 けれど、結局出てきたのは、たぶん彼女の中で一番強くて、一番不器用な言葉だった。


「……大嫌い」


 俺は、ほんの一瞬だけ黙った。


 前なら、すぐに「そうかよ」と返したかもしれない。

 あるいは「またそれか」と笑えたかもしれない。


 でも今は、たぶんそれが違う。


 この“大嫌い”は、前と同じ形をしていない。


 少なくとも、表情と行動と涙の全部が、それを否定していた。


「……そうか」


 結局、そう返すしかできなかった。


 エルセは泣き笑いみたいに顔を歪める。


「そうよ」

 声はまだ震えている。

「本当に、嫌い。そういうところ。帰る帰るって言うくせに、こういう時だけ……」


「こういう時だけ?」


「……わかってるでしょ」

 彼女は小さく言って、視線を逸らした。

「これ以上は、今は無理」


 それで十分だった。


 少なくとも、今は。


 俺は立ち上がり、彼女へ手を差し出す。


「帰るぞ」

「外までよ」

「わかってる」


 エルセは数秒その手を見て、それから、少しだけ躊躇って、でもちゃんと掴んだ。


 祭壇の残骸の向こうで、霧がまたゆっくりと流れ始めていた。

 帰還の鍵は、まだこの森の奥にある。

 そして今、俺たちはその手前で、たぶんもう後戻りしにくい場所まで来てしまったのだと、はっきりわかっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ