第12話 一番大事なのに、言えない
白い守り狼が、霧の切れ間から次々に飛び出してくる。
昨夜の霧喰いより一回り大きい。骨が浮いたような痩せた体なのに、跳躍だけは異様に軽い。淡く光る目がこちらを捉えた瞬間、ぞわりと背筋に嫌なものが走った。
「右、来る!」
言いながら踏み込む。最初の一体の前脚を斬り払うと、横から二体目。そっちはエルセの黒い魔力刃が脇腹を裂いた。血は出ない。代わりに白い霧みたいなものが、斬られた傷口からふっと散る。
「……気持ち悪いな、これ」
「見た目通り、まともな生き物じゃないのよ」
エルセの声は鋭いが、呼吸は乱れていない。
「核を潰さないと立ち上がる!」
「核ってどこだ!」
「喉の下! 光ってるところ!」
言われて見れば、白い胸元の奥に小さく青白い点がある。
そこを狙って踏み込んだ瞬間、左から飛びかかってきた一体が肩をかすめた。布が裂ける。浅いが、嫌な感触だ。
「遼真!」
「大丈夫だ!」
嘘ではない。浅い。だが、その一瞬の隙で三体目がエルセに迫る。
俺は考えるより先にそっちへ体を向けていた。
短剣を逆手に持ち直し、横から割って入る。牙が腕を掠めるより先に、喉元の核へ刃をねじ込んだ。青白い光が弾け、守り狼の体が崩れる。
「……っ」
その時だ。
足元の石盤が、ぱあっと淡く光った。
「下がって!」
エルセの声は聞こえた。
だが一瞬遅かった。
広場の中心、砕けた祭壇の下から黒い紋が浮かび上がる。円。補助線。いくつも折り重なった古い術式の残骸が、まるで今まで息を潜めていたのが嘘みたいに、一斉に起き上がった。
「っ、まず――」
言い終わる前に、エルセが俺を突き飛ばした。
視界が傾く。
石畳を転がり、背中を打つ。肺から空気が抜けた。
「エルセ!」
起き上がる。
だが、間に合わない。
祭壇の中心から伸びた黒い光が、エルセの足元に絡みついていた。まるで生きた蔓みたいに、黒い紋様が彼女の足首から膝、腰、腕へと這い上がっていく。
「……っ、やだ……!」
初めて聞く種類の声だった。
怒鳴り声じゃない。
悪態でもない。
痛みに耐える時とも違う。
怖がっている声だ。
それだけで、頭の中が真っ白になった。
「何だこれ!」
祭壇へ駆け寄る。だが足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。霧が濃くなる。いや、霧じゃない。視界の端で、ありもしない景色がちらつく。
王都の石壁。
図書院の白い廊下。
日本の駅のホーム。
全部が一瞬ずつ混ざって、すぐ消える。
「来ないで!」
エルセが叫んだ。
「そこ、陣が生きてる! 下手に入ったら、あんたまで――」
「黙ってろ!」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
エルセが、びく、と肩を震わせる。
黒い紋様はもう彼女の首筋近くまで這い上がっていた。灰青の瞳が焦点を結びきらずに揺れている。こいつはこういう時でも取り乱さないと思っていた。少なくとも、俺の前では。
なのに、今は違う。
完全に余裕を失っていた。
「何の術だ!」
俺は祭壇の縁に膝をつき、石盤を睨む。
「封印か、拘束か、それとも呪詛か!」
「……記憶系、混成……たぶん、侵入者の“強い執着”を逆流させる」
エルセの声が途切れ途切れになる。
「この森、そういう古い術……多いの。外から来たものに、戻りたい場所とか、失いたくないものとか……そういうの見せて、動きを止める」
「だったら何でお前が巻き込まれてる!」
「私、ここに縁があるから……」
エルセは苦しそうに息を吸う。
「弾かれないかわりに、深く刺さるのよ……」
意味がわからない。でも考えている暇はない。
黒い紋はさらに広がる。
俺が手を伸ばすと、エルセが息を呑んだ。
「触らないで!」
「触る!」
「だめ!」
彼女は必死で首を振る。
「今の私に触れたら、あんたまで引っ張られる。遼真、お願い、ここは一回引いて。外でミレナ呼んで、先生のところ戻って、それから――」
「間に合う顔してねえだろ」
思ったままを言った。
エルセが黙る。
その沈黙が答えだった。
「遼真」
今度の声は、少しだけ違った。
弱くて、掠れていて、それでも何とか理性を繋ごうとしている声。
「聞いて。ちゃんと聞いて。……ここで無茶したら、あんたが帰るための手がかりまで潰れるかもしれない」
その一言で、ようやく俺は祭壇の構造を見た。
確かにそうだ。
今、エルセを拘束している黒い紋は、周囲の補助盤と繋がっている。力任せに壊せば、祭壇中心部そのものが崩れる。そうなれば、残っている召喚系統の痕跡も消える可能性が高い。
ここまで来て掴んだ手がかりだ。
帰還の鍵に近い場所だ。
たぶん、この森を逃したら次はもっと遠い。
それでも。
「……だから何だ」
気づけば、口に出していた。
エルセが目を見開く。
「だから何だって……」
「お前がその中で潰れるのを見てろって話なら、聞く気ない」
俺は祭壇の縁へ手をついた。
「手がかりなんてまた探せばいい」
「よくない!」
エルセが、ひどく苦しそうな顔のまま叫ぶ。
「そういう問題じゃないの! あんた、どれだけこれ追ってきたと思ってるのよ! 三年よ!? ここで壊したら、また振り出しに戻るかもしれないのよ!?」
「戻ればいい」
「よくないって言ってるでしょ!」
「じゃあお前を置いていくのはいいのか!」
その言葉で、エルセがぴたりと黙った。
霧が、彼女の肩口で濃く揺れる。
唇が震えていた。
「……置いていくなんて、言ってない」
「同じだろ」
俺は低く返す。
「先生呼んで、外へ戻って、準備して、また来る。その間にお前がどうなるかもわからないのに、それを“置いていく”って言わないなら何て言うんだ」
「それは……」
エルセが言葉に詰まる。
「それは、でも、あんたがここで……」
「聞けよ」
自分でも驚くくらい静かな声だった。
「俺は帰りたい。そこは本当だ。今も変わってない。変わってないけど、だからって今お前よりそっちを取る気はない」
言い切った瞬間、空気が止まった気がした。
エルセが、息を忘れたみたいな顔をする。
「……何、それ」
声がかすれていた。
「そんなの、ずるい」
「何が」
「今それ言うの……」
彼女は笑うみたいに唇を歪めた。
「そんなの、余計だめになるじゃない」
黒い紋様が、彼女の頬の近くまで伸びる。
やばい。
これ以上、喋らせるのも危ない。
「封印式、あるんだろ」
俺は祭壇の刻印を睨んだまま聞く。
「一時的に切るやつ」
「……ある」
エルセは小さく答える。
「でも危ない。あんたの魔力じゃ、この森の式と噛み合わない。逆流したら、記憶を持っていかれる」
「どのくらい」
「わからない」
彼女ははっきり言った。
「数時間かもしれないし、もっと大事なものかもしれない。向こうの記憶に刺されば、帰還の座標そのものがぼやける可能性もある」
つまり、俺が最も失いたくないものに触れる危険がある。
それでも、もう迷っていなかった。
「やり方を言え」
「遼真」
「言え」
少しだけ間があって、エルセは諦めたみたいに目を閉じた。
「……祭壇の外周、三つ目の補助盤に逆位相を入れる。私の足元の紋と繋がってる線が、一瞬だけ緩む」
彼女は途切れ途切れに説明する。
「その時に中心核へ、あんたの血を混ぜた魔力を叩き込むの。外から来たものの“帰還衝動”を、式の方へ逆流させて壊す」
「血が要るのか」
「帰還術は、由来の強いものに引かれるから……」
エルセは苦しそうに眉を寄せた。
「でも、本当に危ないのよ。あんた、自分の帰りたい場所を強く思い浮かべないで。飲まれるから」
無茶を言う。
帰還衝動を使う術で、帰ることを思うななんて。
「わかった」
「絶対、わかってない」
「わかってる」
短剣を引き抜く。
「だから黙って待ってろ」
「待てるわけないでしょ……」
それでも、エルセはもう止めなかった。
止められないとわかったのかもしれない。
俺は祭壇の外周へ回り込む。石盤に刻まれた補助印は半ば砕け、苔に埋もれているが、流れは読めた。三つ目の補助盤。そこへ短剣で掌を切り、血を落とす。
熱い。
血が触れた瞬間、石盤が赤黒く光った。
「今!」
エルセが叫ぶ。
魔力を叩き込む。
ぐしゃり、と頭の中で何かが潰れる音がした。
視界が歪む。
森が消える。
王都が消える。
代わりに、見たことのあるはずの風景が、濁った水の底から浮かび上がる。
踏切。
雨の匂い。
家の玄関。
妹の声。
父さんが新聞を畳む音。
母さんの「いってらっしゃい」。
やめろ。
今はそれを見るな。
だが術式は、そこへ食らいついてくる。帰りたい場所。失いたくないもの。途中で止まった日常。全部を引っ張り上げ、逆さにして、俺の中から持っていこうとする。
「っ、ぁ……!」
膝が折れそうになる。
だめだ。
ここで手を離したら、たぶんエルセが終わる。
頭の中の風景がさらに増える。
学校の廊下。
夏の電車。
コンビニのレジ。
どうでもいいはずの日常が、どうしてこんなに鮮明なんだ。
やめろ。
持っていくな。
「遼真!!」
その声だけが、はっきり聞こえた。
日本の景色よりも、森の霧よりも、何より強く。
銀髪の魔女の声だ。
その瞬間、頭の中の濁流がわずかに切れる。
俺は歯を食いしばり、中心核へ短剣を突き立てた。
「――切れろ!」
赤黒い光が弾けた。
祭壇全体が大きく震える。補助盤を走っていた黒い紋様が、逆流するみたいに中心へ吸い込まれ、石盤の割れ目から光が噴き出す。
次の瞬間、全部が止んだ。
耳鳴りも。
霧の圧迫感も。
頭の中の日本の景色も。
俺はその場に片膝をつく。
吐き気がした。
掌の傷より、頭の奥が痛い。
「……っ、は……」
視界が戻る。
森だ。
霧の遺構。砕けた祭壇。倒れた柱。
そして、崩れ落ちたエルセ。
「エルセ!」
反射で駆け寄る。
彼女は石畳の上に座り込んでいた。黒い紋様は消えている。だが顔色が悪い。呼吸も乱れている。
俺は膝をつき、その肩に手を伸ばした。
今度は拒まれなかった。
「……おい、大丈夫か」
「……っ、」
エルセは何か言おうとして、うまく声にならないらしい。
数度呼吸を繰り返して、やっと言葉を絞り出す。
「……何で」
「何が」
「何で、壊したのよ……」
灰青の瞳が、涙で滲んでいた。
「帰る手がかりだったのに……」
俺は祭壇を振り返る。
中心核は砕け、補助盤の一部も焼けていた。確かに、痕跡のいくつかは消えたかもしれない。だが全部じゃない。周囲の刻印はまだ残っている。写しも取れる。何より――。
「お前の方が先だった」
そう答えると、エルセの目が揺れた。
「そんなの……」
彼女の唇が震える。
「そんなの、あんた……帰りたいんじゃなかったの」
「帰りたいよ」
正直に言う。
「今も、たぶんこれからも。でも、だからって今ここでお前を見捨てる理由にはならない」
「理由になるでしょ……!」
エルセは泣きそうな顔で言い返す。
「だって、私はあんたにとって……」
そこで言葉が止まる。
“私はあんたにとって何なの”。
たぶん、そう続くはずだった。
でも彼女の呪いも、意地も、弱さも、それをまっすぐには言わせない。
「私は……」
彼女は唇を噛んで、結局別の言葉をひねり出す。
「……私は、森に詳しいだけで、別に、代わりなんて」
「いないだろ」
言ってしまってから、自分でも少し息が止まる。
だがもう遅い。
「代わりなんていない」
俺は、今度はちゃんと彼女を見て言った。
「森の中でも、王都でも、どっちでも」
少しだけ言葉を探して、それから続ける。
「お前を放って帰るつもりはなかった。それだけだ」
エルセは、完全に泣きそうな顔になった。
いや、もう泣いていた。
静かに涙が落ちる。
怒っているわけじゃない。
でも笑ってもいない。
どうしていいかわからなくて、俺はそのまま肩へ触れていた手を引けなかった。
「……ばか」
エルセが、かすれた声で言う。
「ほんとに、ばか」
「それはよく言われる」
「違う……」
彼女は首を振る。
「そういう、いつものやつじゃなくて……本当に、ばか」
泣きながら言うには、だいぶ優しい声だった。
いや、優しいというより、もう刺す力がないのかもしれない。
「立てるか」
俺は聞く。
エルセはすぐには頷かなかった。少しだけ呼吸を整えてから、やっと小さく頷く。
その時、俺はやっと掌の傷から血がまだ落ちていることに気づいた。
「お前こそ」
エルセが視線をそこへ落とす。
「手……」
「浅い」
「浅くないでしょ」
彼女は目を細めた。
「ふざけないで。そんな切り方して」
「封印式に必要だったんだろ」
「必要でも、もう少しやりようがあったわよ」
言いながら、彼女は震える手で自分の腰の小袋から布を取り出した。
「……貸して」
「何を」
「手」
少しだけ睨まれる。
「縛るから」
言われるまま差し出すと、エルセは慣れた手つきで傷の周囲を拭き、布を巻く。手つきはまだ少し不安定だが、丁寧だった。
痛みより、距離の近さの方が妙に意識に残る。
彼女もそうらしい。途中で一度だけ、指先がわずかに震えた。
「……何で」
エルセが、布を結びながらぽつりと聞く。
「そんなに迷わなかったの」
「何が」
「私を助ける方」
彼女は視線を上げない。
「帰還の手がかり、消えるかもしれなかったのに」
「迷ったら間に合わなかった」
それが一番近い答えだった。
「それに、あの時はもう決まってた」
「何が」
「お前を先に引っ張り出すってこと」
結び目が、きゅ、と強くなる。
「痛い」
「……知らない」
知ってるくせに。
でも、その返事さえ今は少しだけ弱い。
布を巻き終えると、エルセはやっと顔を上げた。
泣いた目のまま、それでもいつものように何か刺さる言葉を探している顔。
けれど、結局出てきたのは、たぶん彼女の中で一番強くて、一番不器用な言葉だった。
「……大嫌い」
俺は、ほんの一瞬だけ黙った。
前なら、すぐに「そうかよ」と返したかもしれない。
あるいは「またそれか」と笑えたかもしれない。
でも今は、たぶんそれが違う。
この“大嫌い”は、前と同じ形をしていない。
少なくとも、表情と行動と涙の全部が、それを否定していた。
「……そうか」
結局、そう返すしかできなかった。
エルセは泣き笑いみたいに顔を歪める。
「そうよ」
声はまだ震えている。
「本当に、嫌い。そういうところ。帰る帰るって言うくせに、こういう時だけ……」
「こういう時だけ?」
「……わかってるでしょ」
彼女は小さく言って、視線を逸らした。
「これ以上は、今は無理」
それで十分だった。
少なくとも、今は。
俺は立ち上がり、彼女へ手を差し出す。
「帰るぞ」
「外までよ」
「わかってる」
エルセは数秒その手を見て、それから、少しだけ躊躇って、でもちゃんと掴んだ。
祭壇の残骸の向こうで、霧がまたゆっくりと流れ始めていた。
帰還の鍵は、まだこの森の奥にある。
そして今、俺たちはその手前で、たぶんもう後戻りしにくい場所まで来てしまったのだと、はっきりわかっていた。




