第13話 たぶんこいつ、言葉と本心が逆だ
魔女の森を抜ける帰り道は、行きよりずっと長く感じた。
来た時にはただ不気味だった霧が、今は妙に静かだった。祭壇を壊したせいなのか、それともエルセを縛っていた術が解けたせいなのか、森そのものの圧が少しだけ弱まっている気がする。
それでも油断はできない。
俺は前を歩き、半歩後ろをエルセがついてくる。行きと逆だ。本来なら森を読むこいつを前に立たせるべきなのかもしれない。だが今のエルセに、先導しながら周囲まで見る余裕はないと、さすがの俺でもわかった。
「足元、大丈夫か」
振り向かずに聞くと、少し間があってから返事が来た。
「……大丈夫」
「今の間が全然大丈夫じゃない」
「うるさいわね」
エルセの声は掠れていた。
「少し疲れてるだけよ」
「少し、ねえ」
「本当に少し。だからいちいち振り返らないで歩きなさい。こっちの方が気を遣うの」
「気を遣わせてるのはお前だろ」
「それは……」
そこで言葉が止まる。
「……そうかもしれないけど」
珍しい返しだった。
思わず足を止めそうになる。
だが今は森の中だ。立ち話をする場所じゃない。俺は気配だけで後ろの様子を探りながら、速度を少し落とした。
「遅い」
エルセがすぐに言う。
「そんなにゆっくり歩いたら、日が暮れる」
「お前の歩幅に合わせてるだけだ」
「合わせなくていいわよ」
「そうすると置いていくことになるだろ」
「……別に、置いていっても」
そこまで言って、エルセは小さく息を呑んだ。
自分で何を言ったかわかったらしい。
俺は肩越しにちらりと振り返った。
銀髪の魔女は、帽子のつばを深く押さえ、ひどく気まずそうな顔をしている。
「置いていく気、ないだろ」
俺が言うと、エルセはむっとしたように唇を尖らせた。
「……ないわよ」
小さい声だった。
「ないけど、そういうこと平然と言わないで」
「俺は言ってない。お前が勝手に読んだんだろ」
「読めるものは読むの」
エルセは不機嫌そうに言い返す。
「だいたいあんた、自分が思ってるよりずっとわかりやすい時あるのよ」
「そうか?」
「そうよ」
少しだけ間が空く。
「特に、どうでもよくない相手に対しては」
そこで今度は俺が黙った。
霧の薄い道を、湿った風が抜ける。
どうでもよくない相手。
その言葉を、そのまま受け取るのは危険だと思った。危険、というのも変な話だが、今はそうとしか言えない。
だから俺は、いつものように少しずれたところへ逃げる。
「お前、さっきよりだいぶ喋れるようになったな」
「……そういう話に変えるの?」
「変えたい」
正直に言う。
エルセは少しだけ目を丸くして、それから困ったように笑った。笑った、と言っても口元がほんの少し緩んだだけだが、今の俺にはそれで十分わかった。
「卑怯」
「そうかもな」
「そういうところ、大嫌い」
「はいはい」
その“大嫌い”が、今はもう前と同じ音には聞こえない。
そこを意識すると歩きにくくなるから、俺は前だけを見ることにした。
◇
石碑のある外縁まで戻った時、ミレナは本当に待っていた。
しかも、泣きそうな顔で。
「師匠ー!!」
俺たちの姿を見つけた瞬間、金髪の見習い魔術師は杖を放り出しかねない勢いで駆け寄ってきた。
「遅いです! 遅いし信号も上がらないし、でも森に入る勇気はないし、でも何かあったらどうしようって、わたし本気で――」
「落ち着け」
「落ち着けるわけないじゃないですか!」
ほとんど泣いている。
隣でガルムが肩をすくめた。
「だから言ったんだ。森に入る連中を待つのは気が長くないと無理だとな」
「この人、ずっと平然としてるんですよ!?」
ミレナは半泣きのまま猟師を振り返る。
「普通もっと心配しません!?」
「森の前で騒いでも戻るもんは戻らん」
もっともな話ではある。
ミレナはまだ何か言いたげだったが、そこでようやくエルセの様子に気づいたらしい。
「……お姉さん?」
勢いが一気に弱まる。
「顔、すごく悪くないですか」
「平気」
エルセは短く返した。
「少し魔力を持っていかれただけ」
「少しって顔じゃないです」
ミレナは眉を寄せて俺を見る。
「何があったんですか」
「色々だ」
それしか言えない。
祭壇のことも、術式のことも、エルセの呪いに触れかけたことも、ここで簡単に口にできる話じゃなかった。
だがミレナは空気を読まないようで、こういう時だけ少しだけ読む。
「……とりあえず、王都に戻りましょう」
彼女は真面目な声で言った。
「話はそれからです。お姉さん、歩けますか? 無理なら杖で簡易の浮遊補助かけます」
「そんな大げさなのいらないわよ」
「強がりにしか聞こえません」
ミレナはぴしゃりと言った。
「今日のわたし、ちょっと怒ってますからね」
「何であなたが怒るのよ……」
「怒りますよ! だって、戻ってきた顔が二人とも“何かありました”って顔なんですから!」
そこまで言われると、確かに否定しづらい。
俺はロバの背に荷を積み直しながら、エルセへ視線を向けた。
「乗るか」
「乗らない」
「即答するな」
「歩けるもの」
「歩けるのと、歩かせていいのは別だろ」
言った瞬間、エルセがわずかに固まった。
「……何その言い方」
「そのままだよ」
「そういうふうに、何でもないみたいに言うのやめて」
「何がだ」
「だから……」
エルセは少しだけ言葉を探し、結局うまくまとまらなかったらしい。
「……わからないなら、いい」
よくないだろ、とは思ったが、さすがに今そこを掘る気にはなれない。
結局、エルセは最後までロバに乗るのを拒否し、王都への帰路も自分の足で歩いた。ただしその代わり、俺が少しでも歩幅を速めるとすぐにミレナが口を挟んでくる。
「師匠、早いです」
「いや、普通だろ」
「今日は普通じゃないです。お姉さんの歩幅に合わせてください」
「お前さっきからやたら仕切るな」
「当然です。今のパーティで一番まともなの、たぶんわたしですから」
それはさすがにどうだろう。
だが、エルセが少しだけ救われたような顔をしていたので、訂正はしないでおいた。
◇
王都へ戻った頃には、空はすっかり夕方の色になっていた。
《木靴亭》の裏口から入ると、女将が一目で事情を察した顔になった。
「……あんたら、派手にやってきたねえ」
「そんな顔してますか」
俺が聞くと、女将は呆れたように言う。
「してるよ。特にお嬢さん」
その視線がエルセに向く。
「二階の奥、空けといた。騒がしい食堂よりそっちの方がましだろ」
「助かります」
俺が答える前に、ミレナが頭を下げた。
「お湯と、できれば塩と布もください!」
「はいはい、わかったよ」
こういう時の女将は本当に頼りになる。
二階の奥の小部屋へ運び込まれ、エルセは椅子に腰を下ろした。いつもなら「大丈夫」「平気」「うるさい」の三連打で人を近づけさせないのに、今はそれを言う気力も薄いらしい。
ミレナが手際よく布を浸しながら、ちらちらとこちらを見てくる。
「師匠」
「何だ」
「ちょっと外、お願いします」
「は?」
「いいから」
珍しく、かなり強い口調だった。
「お姉さんの状態見るので」
追い出された。
部屋の外、狭い廊下に立ちながら、俺は壁にもたれた。
さすがに疲れていたらしい。膝が少しだけ重い。掌の傷も鈍く疼く。だが一番落ち着かないのは、そういう肉体の疲れじゃなかった。
頭の中に、祭壇の前のやり取りが何度も蘇る。
ここに残る理由はない。
変えられないんじゃない。変えたくないんでしょ。
今お前よりそっちを取る気はない。
「……何言ってんだ、俺」
誰もいない廊下で、思わず呟く。
あの場でエルセを優先したことに後悔はない。
ないどころか、たぶん同じ状況でも同じことをする。
それなのに、そこに意味をつけ始めると、急に足場が怪しくなる。
俺は帰るつもりだ。
帰ると決めている。
それは本当だ。
なら、どうして“今はお前を取る”なんて言葉が、あんなに自然に出たんだ。
「……師匠」
扉が開いて、ミレナが顔を出した。
「どうだ」
「命に別状はないです。魔力酔いと、術式の逆流でちょっと神経やられてる感じですね」
ミレナは声を潜める。
「あと、かなり無理してたみたいです。森に入る前からずっと張ってたんじゃないですか、たぶん」
「そうか」
「それで」
ミレナが少しためらう。
「たぶん、今なら先生のところ行った方がいいです」
「オーウェン先生?」
「はい。お姉さんのこと」
ミレナは真顔だった。
「わたし、完全には知らないんです。でも、たぶん師匠、ちゃんと知った方がいい」
その言い方に、胸の奥が少しだけ重くなる。
「……何を」
「そこは先生から聞いてください」
ミレナはきっぱりと言った。
「わたしが軽く言っていい話じゃないです」
いつもの勢いはどこへ行ったのかと思うくらい、真面目な顔だった。
俺は扉の向こうを一瞬だけ見る。
エルセはベッド代わりに積んだ毛布にもたれ、目を閉じている。眠っているのか、起きているのかはわからない。だが少なくとも、今ここで言葉を交わせる状態じゃないことだけはわかった。
「……頼む」
俺はミレナに言う。
「少し見ててくれ」
「はい」
彼女は頷いたあと、少しだけ目を細めた。
「師匠」
「何だ」
「ちゃんと聞いてきてください」
それから、小さく続ける。
「聞いたうえで、逃げるか逃げないかは師匠が決めればいいです。でも、知らないふりは、たぶんもう無理です」
やけに真っ直ぐな言い方だった。
俺は返事をせずに階段を下りた。
◇
図書院までの道を、夜風が抜けていく。
祭りの名残はほとんど消えていて、王都はもう普段通りの顔に戻りつつあった。昼間なら雑多な声で埋まる通りも、この時間になると靴音がよく響く。
オーウェンは、まだ残っていた。
図書院の小さな研究室で、ろくに灯りも点けず、紙束に埋もれている。俺が入ると、顔も上げずに言った。
「来ると思っていた」
「……先生には、何でもお見通しなんですか」
「お見通しなら、もっと楽に生きている」
老人はやっと顔を上げた。
「それで? 森で何を見た」
俺は椅子にも座らず、短く答える。
「中心部の祭壇。召喚系統の中継核。補助盤の一部。あと、封印式の暴走」
「暴走?」
「エルセが巻き込まれた」
「……なるほど」
オーウェンの目が細くなる。
「先生」
俺は息を一つ吐いた。
「聞きたいことがあります」
「珍しいな。お前から“聞きたい”と言うのは」
「茶化さないでください」
少しだけきつくなった自覚がある。
「エルセのことです」
老人は、今度はちゃんと俺を見た。
「どこまで気づいた」
「……言葉です」
喉が少し乾く。
「子どもや店主には普通の反応ができる時がある。ミレナに向ける言葉も、棘はあるけど意味は通る。でも俺にだけ、妙に噛み合わない」
そこで一度言葉を切る。
「たぶん、あいつは何か言霊系の呪いを持ってる。そうでしょう」
オーウェンはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「そこまで行ったか」
「やっぱり」
「可能性としては高い」
老人は慎重な言い方を選んだ。
「私が断定していい話ではない。ただ、古い記録の中に“反言の呪”と総称される系統がある。強い好意や親愛、庇護の感情を言葉に乗せた時だけ、意味が反転する呪詛だ」
心臓が、どくりと鳴る。
「……好意だけ?」
「憎しみや怒りはそのまま出る。だから余計に厄介だ」
オーウェンは机の上の資料を整えた。
「外から見れば、ひどく気まぐれに見える。ある相手には優しくでき、ある相手には言葉がひっくり返る。感情が強いほど、反転も強い」
「その相手ってのは」
聞きながら、答えが怖いと思った。
だが老人は、あえて曖昧さを残すように言った。
「呪いの核に触れている相手だろう」
「核?」
「術を受けた時に最も強く意識していたもの。あるいは、今最も感情を向けている相手。記録によって違う」
今最も感情を向けている相手。
言葉を頭の中で繰り返すだけで、妙な熱が胸に残る。
「先生は知ってたんですか」
俺は低く聞いた。
「その可能性を」
「推測はしていた」
オーウェンはあっさり答えた。
「だが本人が言わぬことを、私が先に口にするわけにもいかん」
「本人は、言えないんじゃないですか」
そう返してから、自分の声が少しだけ苦くなっているのに気づく。
オーウェンは眼鏡の奥から俺をじっと見た。
「……相馬」
「何です」
「ではお前は、それをどう解釈する」
答えに詰まった。
どう解釈する。
簡単なようで、ひどく答えにくい問いだ。
辻褄は合う。
あまりにも合いすぎる。
朝食。
祭りの日の“最悪”。
何度も繰り返される“嫌い”“最低”“近寄らないで”。
そして、祭壇で泣きながら言った“大嫌い”。
もし本当にそれが反転しているなら。
それはつまり――。
「……わかりません」
絞り出すように言う。
「いや、たぶん、わかるんです。でも」
自分でも言葉を選びきれない。
「それをそうだと認めたら、俺はたぶん、あいつに向き合わなきゃいけない」
「そうだろうな」
「でも、俺は帰るつもりで」
「知っている」
オーウェンは遮った。
「お前は何度も言っている」
「じゃあ――」
「だが」
老人は低く続ける。
「帰るつもりでいることと、目の前の感情を見ないふりをすることは、同じではない」
鋭い言い方だった。
思わず顔をしかめる。
「先生は簡単に言いますね」
「簡単ではない」
オーウェンは首を振る。
「ただ、お前は今“帰るか残るか”の話に全部をまとめすぎている。本来はもっと手前にある問題だ」
老人は指を一本立てる。
「一つ、あの娘が何を抱えているか知るかどうか」
もう一本立てる。
「二つ、それを知ったうえで、お前がどの程度応えるつもりか」
そして三本目。
「最後に、帰るか残るかだ。お前は二つ目も一つ目も飛ばして、いきなり三つ目だけ怖がっている」
何も言えなくなる。
図星だった。
俺は最初から、そこへ行き着くのが怖かったのだ。
こいつは俺をどう思っているのか。
俺はそれにどう答えるのか。
その先に、帰るか残るかの話がある。
なのに一番最後の問題だけを大きく見せて、“だから考えなくていい”ことにしていた。
「……面倒ですね」
思わず本音が漏れる。
オーウェンが少しだけ笑った。
「恋だの好意だのは、たいてい面倒なものだ」
「そういう言い方やめてください」
「まだ恋と決まったわけではない、と?」
老人は肩をすくめる。
「それでもいい。だが、お前に向けられている感情が軽いものではない、という可能性ぐらいは認めてやれ」
俺は机の木目を見つめた。
認めたらどうなる。
たぶん何かが変わる。
今までみたいに、エルセの言葉を全部“面倒な悪態”として処理できなくなる。
橋の上の顔も。
森での涙も。
全部、別の意味を持ち始める。
それは危ない。
危ないが――。
「……たぶん」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「たぶん、こいつ、言葉と本心が逆なんだろうな、とは思います」
口に出すと、妙に現実味があった。
オーウェンはそれ以上何も言わなかった。
ただ、ようやく一歩進んだ子どもを見るみたいな、少しだけ年寄りくさい目をした。
「それで十分だ」
「十分?」
「今夜はな」
老人は椅子にもたれた。
「全部を今日決める必要はない。だが、知った以上は、これまで通り聞き流すことはできんだろう」
それも、その通りだった。
◇
宿へ戻る頃には、夜もだいぶ更けていた。
二階の奥の小部屋は静かだった。廊下の灯りは落とされ、扉の隙間からだけ、細く明かりが漏れている。
ノックをすると、中からミレナが顔を出した。
「師匠」
彼女は小声で言う。
「起きてます。でも、たぶんまだ少ししんどそうです」
「お前は?」
「わたしはもう帰ります」
ミレナは少しだけ疲れた顔で笑った。
「空気、読んでるので」
「読めるなら最初からもっと穏やかに来いよ」
「今日はかなり読めた方です」
そう言ってから、彼女は少しだけ真面目な顔になった。
「聞けました?」
「……少しは」
「そうですか」
ミレナは安堵したように息をつく。
「じゃあ、あとは師匠次第です」
そして、いたずらっぽく少し笑う。
「でも、今日は変な言い逃げしない方がいいと思いますよ」
俺が何か返す前に、彼女は軽く手を振って階段を下りていった。
扉を開ける。
部屋の中は小さな灯りだけがついていた。エルセは椅子にもたれていたが、目は開いている。眠っていないことはすぐにわかった。
「……遅い」
開口一番、それだった。
だが声は弱い。
いつもの棘の半分もない。
「先生のところに行ってた」
「ふうん」
エルセは視線を逸らす。
「勝手にすれば」
「勝手にした」
「そう」
そこで会話が切れる。
前の俺なら、ここで「じゃあ寝ろ」とか「無理するな」くらいで引いたかもしれない。
でも今日は、それじゃ駄目だとわかっていた。
俺は部屋の中へ入って扉を閉めると、少し離れた椅子を引いて腰を下ろした。
「……エルセ」
「何」
「聞いた」
それだけで、彼女の肩がわずかに強ばる。
「何を」
「全部じゃない」
正直に言う。
「でも、だいたいは」
エルセはしばらく黙っていた。
怒るかと思った。
だが、怒りより先に疲れが来たらしい。小さく息を吐いて、帽子を外し、膝の上へ置く。
銀髪が肩に落ちる。
「……最低」
ぽつりと呟く。
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ痛くなった。
前なら流せた。
でも今は、流しきれない。
「それ」
俺は少し迷ってから言った。
「今は、どういう意味だ」
エルセが顔を上げる。
灰青の瞳が、まっすぐこちらを見た。
「……何それ」
「いや」
俺は言葉を選ぶ。
「前なら、そのまま受け取ってた。でも今は、どこまで本当にそうなのか、わからない」
エルセは、泣きそうなのを必死で堪える時みたいな顔をした。
怒ることも、笑うこともできない顔だ。
「そんなの、聞かないでよ」
かすれた声で言う。
「今さらそんなの、聞かないで」
「でも」
「でもじゃない」
彼女は首を振る。
「わかったなら、それで十分でしょ。わざわざ言葉にしなくていい」
そこで少しだけ間が空く。
「……あんたは帰るんだから」
その言い方に、また胸の奥がざらつく。
俺は少しだけ視線を落とした。
「帰るつもりなのは、本当だ」
「知ってる」
「でも」
ここで言葉に詰まる。
言いたいことはあるのに、うまくまとまらない。
「だからって、お前の言葉を何も聞かないふりしていいとも思ってない」
エルセは驚いたように目を見開いた。
「……何それ」
「俺にもよくわからん」
正直に言う。
「ただ、たぶん今までよりは、もう少しちゃんと考える」
それは、俺に言えるぎりぎりだった。
今ここで何かを約束するのは違う。
でも、これまでみたいに全部を見ないふりするのも、もう違う。
その中途半端さが、ひどく俺らしいと思った。
エルセはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
笑った、と言っても、ほとんど吐息に近い。
「……ほんと、ずるい」
「またそれか」
「だってそうでしょ」
彼女は膝の上の帽子を見つめたまま続ける。
「ちゃんと向き合うとは言わないくせに、見ないふりもしないって……そんなの、期待する方がばかみたいじゃない」
その言葉が、思ったよりまっすぐ刺さる。
だが、嘘はつきたくなかった。
「嘘つくよりはましだろ」
俺が言うと、エルセはゆっくり顔を上げた。
「少なくとも、今の俺にはそれしか言えない」
部屋の中に静けさが落ちる。
外では、宿のどこかで食器の触れ合う音がした。女将が片づけでもしているのだろう。
やがてエルセは、小さく息を吐く。
「……ばか」
「知ってる」
「そっちじゃなくて」
彼女は少しだけ困ったように言う。
「そうやって、わかったような顔しないで。まだ全然わかってないんだから」
「それも知ってる」
そう返すと、彼女は今度こそほんの少しだけ笑った。
その笑みは弱くて、疲れていて、それでもたぶん本物だった。
「もういい」
エルセは目を伏せる。
「今日はそれでいい。私、もう疲れた」
「休め」
「そうする」
そこで彼女は少しだけためらい、でも言った。
「……いて」
「は?」
「勘違いしないで」
すぐにいつもの癖みたいに付け足す。
「一人だと寝つき悪いだけ。あんたにいてほしいとか、そういうんじゃなくて」
その言い方に、俺は少しだけ息を吐いた。
「わかった」
「何でそこで普通に頷くのよ」
「帰るなって言われたわけじゃないからな」
「……もう」
エルセは呆れたように目を閉じた。
「本当に、たぶんあんたが一番面倒」
「それはお互い様だろ」
返事はなかった。
代わりに、少しだけ規則的な呼吸が聞こえ始める。
眠ったのだろう。
俺は椅子にもたれたまま、薄い灯りの中で、銀髪が揺れずに落ちているのを見ていた。
たぶんこいつ、言葉と本心が逆だ。
そこまではわかった。
でも、その“本心”をどう受け取るかは、まだ何一つ決められていない。
それでも今は、少しだけ前よりましだと思えた。
少なくとも、もう知らないふりだけはできないのだから。




