第14話 優しくされると困る魔女
目が覚めた時、最初に見えたのは、薄い朝の光だった。
《木靴亭》二階の奥の小部屋。昨夜、エルセを休ませるために借りた部屋だ。俺は壁際の椅子にもたれたまま寝落ちしていたらしい。首が痛い。背中も痛い。掌の傷もまだ少し疼く。
だが、そういう細かい痛みより先に、視界の端で銀色が揺れた。
「……起きた」
ベッド代わりに積んだ毛布の上で、エルセがこちらを見ていた。
顔色は昨日よりましだ。ましだが、完全に元通りというわけじゃない。肌はまだ少し白く、目の下にも薄く影が落ちている。それでも、目つきだけはいつものエルセにだいぶ戻っていた。
「そっちこそ」
俺はゆっくり身を起こした。
「気分は」
エルセは一瞬だけ黙って、それからいつもの調子で言った。
「最悪」
少しだけ、間が空いた。
前なら、ここで「そうかよ」とか「朝からそれか」と返していただろう。けれど今は、そういう気分にならない。
「なら、昨日より少しましだな」
口にすると、エルセがぴたりと固まった。
「……は?」
「昨日は“最悪”どころじゃなかっただろ」
椅子から立ち上がり、窓の外を見てみる。朝の王都はまだ静かだ。
「喋れるならだいぶ戻ってる」
振り返ると、エルセはまるで変な魔物でも見たみたいな顔をしていた。
「何よ、その返し」
「何が」
「何が、じゃないでしょ」
彼女は眉を寄せる。
「普通そこ、嫌味の一つくらい返すところじゃないの?」
「そうか?」
「そうよ」
「じゃあ今日は普通じゃないんだろ」
「……」
言葉に詰まったらしい。
その沈黙が妙に可笑しくて、少しだけ口元が緩む。
するとエルセはすぐに気づいた。
「何、今の」
「いや」
「笑ったわね」
「少し」
「最低」
「そうか」
「……」
エルセはまた固まる。
「何でそこで普通に流すのよ」
そこまで言われて、ようやく自分でも少し変わったのだとわかった。
昨日までなら、たぶん流せていなかった。
でも今は、エルセの口から出るその単語を、前みたいにそのまま受け取る気になれない。
そのかわり、俺は部屋の隅の水差しを取って、コップに注いだ。
「飲めるか」
「いらない」
「嘘つけ」
コップを差し出す。
「唇乾いてる」
「見なくていい」
「見えるから仕方ないだろ」
「そういうの、いちいち言わないで」
「何で」
「困るから!」
言い切った瞬間、エルセは「あ」とでも言いたげな顔になった。
俺は少しだけ首を傾げる。
「困るのか」
「……困らない」
間を置いて、彼女はそっぽを向く。
「でも、嫌」
「それも困るって意味じゃないのか」
「うるさい」
結局コップは受け取った。しかも小さく二口飲んでから、ようやく落ち着いたみたいに息を吐く。
その様子を見て、俺は扉の方へ向かった。
「どこ行くの」
「朝飯もらってくる」
「いらない」
「お前の“いらない”は信用できない」
「何よそれ」
「そのままだよ」
扉を開けながら振り返る。
「粥くらいなら食えるだろ」
「だから、いらないって言ってるでしょ」
「食えそうなら持ってくる。食えなきゃ俺が食う」
「……それ、最初から私に食べさせるつもりじゃない」
「当たり前だろ」
そう返して部屋を出ると、背中で小さく「ほんとにもう……」と呟く声がした。
その声に、前ほど棘はなかった。
◇
階下では女将がすでに大鍋をかき回していた。
俺を見るなり、あからさまに面白そうな顔をする。
「おや。徹夜の看病人が起きたかい」
「徹夜まではしてないです」
「似たようなもんだろ」
女将は鍋の蓋を少し持ち上げた。
「お嬢さんは?」
「起きてます」
「顔色は」
「昨日よりはましです」
「そうかい」
女将は頷いて、それからにやりと笑った。
「で、朝からやけに機嫌がいいのは何でだい」
「よくないですよ」
「そうかい?」
女将は手を止めずに続ける。
「前より肩の力が抜けてる顔してるよ。……まあ、あんたにしては、だけど」
何とも言い返しづらい。
「粥、もらえますか」
「もちろん」
女将は小鍋に粥をよそいながら、わざとらしく声を落とした。
「塩は控えめ、香草は少し、卵は最後に落として柔らかめ。これでいいかい?」
俺は思わず手を止めた。
「……何でそこまで」
「昨夜、あんたが三回も聞いたからだよ」
女将は呆れた顔をする。
「“弱ってる時はどれが食べやすいですか”“熱すぎるのはだめですか”“香草は胃に重いですか”ってね」
「そんなに聞いてましたか」
「聞いてたよ」
女将は粥を盆に載せる。
「しかもその顔で真面目に聞くから、こっちが笑う隙もなかった」
少しだけ耳が熱くなる。
別に、そういうつもりじゃない。ただ昨日のエルセの様子を見ると、食えるものが限られそうだっただけで。
……その“だけ”がだいぶ怪しくなっているのは自覚していた。
そこへ、寝癖のついた金髪が食堂へ飛び込んできた。
「おはようございます!」
朝から元気すぎる。ミレナである。
「わたし、夜明け前に一回様子見に来たんですけど、女将さんに追い返されました!」
「追い返して正解だろ」
俺が言うと、ミレナは胸を張った。
「でも、気になったので再出勤です!」
「職場じゃないのよ」
女将が呆れたように言う。
「ほら、邪魔ならないうちに二階へ行っといで」
ミレナはそこで俺の持っている盆に目を止めた。
「……あれ」
にやり、と顔が変わる。
「師匠、それ、お姉さんのですよね?」
「そうだが」
「うわ、すごい」
ミレナは感心したみたいに目を丸くした。
「前だったら絶対、“自分で食堂まで来い”とか言ってませんでした?」
「言ってないと思うぞ」
「言いそう、の話です」
ミレナは俺の顔を覗き込む。
「何ですか。森で何があったんですか。帰ってきてから師匠、ちょっと変ですよ」
「お前にだけは言われたくない」
「いやでもほんとに」
ミレナは声を潜める。
「顔つき変わってます。前は“考えないようにしてる人”って感じだったのに、今は“考えちゃって困ってる人”の顔です」
言い方が妙に的確で腹が立つ。
「……暇なら術式でも勉強してろ」
「図星の時の返しですね、それ」
「うるさい」
女将がくすくす笑いながら手を振った。
「ほらほら、粥が冷めるよ。からかうのはあとにしな」
その通りだった。
俺は盆を持って二階へ戻る。背中の方で、ミレナが「あとでわたしも行きますからね!」と叫んでいたが、無視した。
◇
扉を開けると、エルセはまだ同じ場所にいた。
ただし、さっきより幾分かしゃんとしている。寝起きのぼんやりした空気が消え、代わりにいつもの“簡単には弱みを見せない”顔が戻りつつあった。
「……本当に持ってきたの」
「持ってくるって言っただろ」
「別に、あんたが持ってこなくても」
「そうだな。女将さんが持ってきてもよかった」
盆を机に置く。
「でも今は俺の方が都合がいい」
「何で」
「お前が素直に食わなくても、横で見張れるから」
言うと、エルセは露骨に嫌そうな顔をした。
「見張るって何」
「ちゃんと食うかどうか」
「食べないわよ」
「そうか」
俺は椅子を引いて座る。
「じゃあ冷めるまで待つ」
「……何でそこまで」
「何でって」
少しだけ言葉に詰まる。
「弱ってるやつが目の前にいたら、普通そうするだろ」
「普通、ねえ……」
エルセはじっと俺を見る。
「昨日までのあんたの“普通”には、そんな項目なかったけど」
そこを突かれると痛い。
俺は小さく息を吐いた。
「そうかもしれない」
「かもしれない、じゃなくてそうなの」
エルセは視線を逸らさずに続ける。
「何なの、本当に。朝からずっと、気持ち悪いくらい優しい」
「気持ち悪いはひどくないか」
「ひどいわよ。だって本当にそうなんだから」
そこで彼女は少しためらってから、少しだけ声を落とす。
「……そんなふうにされると、調子狂うの」
その言い方は、以前ならただの文句に聞こえたかもしれない。
でも今は違う。
調子が狂う。
困る。
見なくていい。
そういう言葉の裏に、同じ方向の意味が透けて見える。
「じゃあ慣れろ」
何となくそう返したら、エルセが心底信じられないものを見るみたいな顔をした。
「は?」
「今さら俺も全部元に戻せない」
正直に言う。
「……たぶん、前みたいにはできない」
エルセが息を止める。
「何、それ」
「言葉通りだけど」
「意味、わかって言ってる?」
「半分くらい」
俺は自分の掌の傷へ視線を落とす。
「たぶん前よりは、いろいろ」
そこまで言うと、エルセはもう何も言えなくなったらしい。しばらく黙ってから、諦めたように盆へ手を伸ばした。
「……食べる」
「そうしろ」
「でも、あんた見てると食べにくい」
「それは知らん」
「知らないじゃないでしょ」
エルセは粥の湯気を見つめながらぼそぼそ言う。
「こういうの、普通は少し席外したりするものよ」
「お前、外したらそのまま放置して冷めきるまで食わないだろ」
「……」
「ほら見ろ」
「今の沈黙だけで勝った顔しないで」
結局、エルセは小さく匙を取った。
ひと口。
ふた口。
三口。
「どうだ」
「普通」
「普通なら食えるな」
「……そういう確認、いちいち取らないで」
「心配だから」
言ってから、少しだけまずい気がした。
だがもう遅い。
エルセは匙を持ったまま固まっていた。耳まで赤い。
「何よ、その言い方……」
「いや、別に変な意味は」
「そういうとこ!」
彼女は半ば怒鳴るように言う。
「すぐ“変な意味じゃない”とか言うのも、余計に変になるの!」
「じゃあどう言えばいいんだ」
「知らない!」
それから少しだけ小声になる。
「……少なくとも、今の私に向かって平気で言うことじゃない」
困った。
本当に困った。
何が正解なのかよくわからないまま話しているせいで、たまにこうして変なところへ踏み込む。
でも、前みたいに全部聞かなかったことにして笑い飛ばすよりは、たぶんましなんだろう。
「悪い」
俺は率直に言う。
「今のは少し不用意だった」
エルセは、またその言葉に反応した。
「……ほんとに何なの」
「だから何が」
「前よりちゃんと謝るし、前よりちゃんと礼言うし、前よりちゃんと見てくるし」
エルセは匙を置き、少しだけうつむく。
「そんなの、こっちばっかり振り回されるじゃない」
それはたぶん、本当にそうだ。
しかもその“こっちばっかり”には、きっと今まで俺が一方的に見ないふりをしていた分も含まれている。
何か返そうとした、その時。
扉が勢いよく開いた。
「失礼しまーす!」
ミレナだった。
ノックくらいしろ。
「あっ」
部屋の空気に気づいたらしい。ミレナは一瞬だけ目をぱちぱちさせ、それから口元を押さえた。
「……何か今、入っちゃいけないタイミングでした?」
「かなりな」
「なら出ます!」
「いや待て」
俺が思わず止めると、ミレナはくるりと振り返ってにやっと笑う。
「呼び止めますねえ、今日は」
「お前な……」
だがミレナはすぐに真面目な顔へ戻り、エルセの方へ近づいた。
「お姉さん、顔色は昨日よりいいです。よかった」
それから机の上の空になりかけた器を見て、ぱあっと顔を輝かせる。
「わあ、ちゃんと食べてる!」
「ミレナ、声が大きい」
「だって嬉しくて!」
ミレナはそのままベッド脇にしゃがみこみ、エルセを下から覗き込む。
「でも、何かありました?」
「何が」
「空気です」
ミレナはきっぱり言う。
「昨日までと違います。師匠の顔も、お姉さんの反応も」
エルセが露骨に目を逸らした。
「……別に」
「あっ、その“別に”はだいぶ怪しいやつです」
「うるさいわね」
「それに師匠」
ミレナは今度は俺を見る。
「さっき廊下ですれ違った時から思ってたんですけど、今日はお姉さんが何言っても全然引っかからないですよね」
「そうか?」
「そうですよ!」
ミレナは指を折る。
「前なら“最低”って言われたら一回は言い返してました。“嫌い”って言われたら二回くらい言い返してました。でも今日は流してるし、そのうえお粥まで運んでるし」
そして、やたらと楽しそうに続ける。
「もしかして師匠、ようやく理解したんですか?」
どきりとした。
「何を」
「お姉さんの言葉、そのままの意味じゃないことです!」
部屋の空気が、一瞬で凍る。
エルセが勢いよく立ち上がりかけて、ぐらっとよろめいた。
俺が反射で手を伸ばし、肩を支える。
「危ない」
「っ、触らないで!」
と言いながら、エルセはそのまま俺の腕にしがみついている。言葉と行動がまるで噛み合っていない。
ミレナが「あっ」と口を押さえた。
「え、待って、もしかしてこれ、わたし言っちゃいけないやつでした?」
「かなりな」
俺が低く言うと、ミレナは肩をすくめた。
「でももう今さらでは……」
「ミレナ」
エルセの声は震えていた。
「それ以上、言ったら」
「ご、ごめんなさい!」
ミレナは慌てて両手を上げる。
「でも、もうほぼ答え出てません?」
「出てない!」
そこでエルセは顔を真っ赤にしたまま、俺の腕から離れようとして、また少しよろめいた。
結局また支えることになる。
「だから無理するなって」
「無理してない!」
「今の動きは十分無理してた」
「うるさい!」
ミレナはそれを見て、何とも言えない顔になった。
「……あのですね」
彼女は少しだけ声を落とす。
「遠回りしすぎでは?」
「何が」
「お二人ともです」
ミレナは真顔だった。
「もう、ここまで来たら普通に言えばよくないですか?」
エルセが息を呑む。
俺も黙る。
ミレナは、空気を読まない時と読む時の差が激しいくせに、こういう時だけ妙にまっすぐだ。
「お姉さん、たぶんもう隠しきれてないですし」
ミレナは指折り数えるみたいに言う。
「師匠も、たぶん気づいてるんですよね。でも、気づいてるくせに“今はまだ”とか“ちゃんと考える”とか、そういう回りくどいことばっかり言ってる」
そして、にこっと笑った。
「だったら、もう告白したらどうですか?」
しん、と部屋が静まった。
エルセの呼吸が止まる。
灰青の瞳が揺れて、俺を見て、それからミレナを見て、また宙をさまよう。
「な、何を」
やっと絞り出した声は、ほとんど裏返っていた。
「何を言ってるの、あなた」
「だから、告白です」
ミレナはあまりにもまっすぐ言う。
「好きなら好きって、ちゃんと言えばいいじゃないですか」
その一言が、たぶん決定打だった。
エルセの顔が一気に熱を持つ。
たぶん耳まで真っ赤だ。
喉が震える。
唇が開く。
何かを言おうとしているのはわかる。
たぶん本当は、別の言葉だ。
でも、出てきたのは――。
「……こ、こんな男」
エルセは、半分泣きそうな顔のまま言った。
「こんな男、世界で一番どうでもいいわよ!」
言い切った瞬間、部屋の空気が止まる。
ミレナが目を丸くした。
俺は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
やっぱり、そうなるのか。
世界で一番どうでもいい。
その言葉だけ聞けば、かなりひどい。
でも、言った本人の顔が、もう全部を裏切っていた。
頬は真っ赤で、目は潤んでいて、声は震えていて、肩まで少し揺れている。とても“どうでもいい”相手に向ける顔じゃない。
ミレナがゆっくりと、何かを悟った顔になった。
「……ああ」
ぽつりと呟く。
「これは本当に、そういう呪いなんですね」
エルセは、その言葉にさらに顔を伏せた。
たぶんもう、どこにも逃げ道がなかった。




