第15話 帰還陣、再起動
部屋の空気が、妙に静かだった。
《木靴亭》二階の奥の小部屋。昼の光はもう少し傾きかけていて、窓から入る明るさもやわらかい。なのに、そのやわらかさと裏腹に、今ここにある沈黙は、うっかり触れたら指を切りそうなくらいぴんと張っていた。
世界で一番どうでもいい。
そう言った本人――エルセは、顔を伏せたまま固まっている。
言葉だけ拾えば、ひどい。
でも、さっきまでの流れを見ていれば、ひどいのは言葉の方であって、本心の方じゃないことくらい、ミレナにも、たぶん俺にも、もうわかっていた。
ミレナが、気まずそうに口を開く。
「ええと……その……」
それから、めちゃくちゃ慎重な顔で続けた。
「今のは、あれですよね。たぶん、本当は逆で……」
「言わないで!!」
エルセが顔を上げた。
真っ赤だった。
耳まで、首筋まで、全部まとめて熱を持っていて、灰青の瞳にはもう怒りなのか恥ずかしさなのか悲しさなのか、判別のつきにくいものがごちゃまぜになって揺れている。
「お願いだから、もう言わないで……!」
声は強いのに、最後が少しだけ掠れる。
「わかってるなら、それでいいでしょ……! それ以上、口にしなくていいから……!」
ミレナは、さすがにそれ以上は茶化さなかった。
「……ごめんなさい」
いつもより小さな声で謝る。
「その、わたし、変に背中押した方がいいかなって思って……」
「押しすぎよ……」
エルセはそう言って、また少し俯いた。
「崖から落とす勢いだったわよ……」
それはその通りだった。
ミレナは肩をすくめるように苦笑して、それから俺の方を見た。助け船を出せ、と目で言っている。
だが、こっちだって何を言えば正解なのか、まだまるでわからない。
わからないまま、それでも黙っているのも違う気がして、俺はとりあえず一番無難そうな言葉を探した。
「……その」
自分でも少し情けないくらい歯切れの悪い声が出る。
「今のは、その、別に無理に続けなくていい」
言った瞬間、ミレナが「それ今じゃないですよね」という顔をした。
エルセは、ゆっくりこちらを見た。
「……何それ」
「いや」
俺は視線を逸らしかけて、踏みとどまる。
「お前が嫌なら、無理に今ここで全部はっきりさせる必要はないってことだ」
「……」
エルセはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「それ、たぶん優しさのつもりなんでしょうけど、今はちょっと腹立つ」
「そうか」
「そうよ」
少しだけ口調が戻る。
「何でも“今は無理しなくていい”で済ませられると思わないで。こっちはこっちで、だいぶ限界なんだから」
その言い方には、泣き言と怒りが半分ずつ混ざっていた。
俺は少しだけ眉を寄せる。
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「それを私に聞かないで」
エルセは帽子を握る手に力を込める。
「そういうの、自分で考えてよ……」
言われてみれば、その通りだった。
ミレナが、おそるおそる口を挟む。
「あの……」
ちらっとエルセを見て、それから俺を見る。
「お姉さん、今日あんまり魔力残ってないですし、今ここで結論とか方向性とか全部出そうとするの、たぶんよくないと思います」
「お前が言うと急にまともだな」
「今日はかなりまともです」
ミレナは真顔で頷く。
「わたし、恋愛の空気読むのは得意ですけど、体調悪い人に追撃かけるのはよくないって知ってるので」
「さっきまで十分追撃してたと思うけど」
「それは……反省してます」
ミレナはしゅんとし、それからエルセに向かってぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、お姉さん」
エルセは、しばらく返事をしなかった。
やがて、目を伏せたまま、ほんの少しだけ頷く。
「……もういい」
それから小さく付け足した。
「たぶん、あなたが悪いだけでもないし」
それは、たぶん半分くらい俺にも向いている言葉だった。
ミレナはほっとしたように胸を撫で下ろし、それから空気を変えようとしたのか、少しだけ声色を明るくした。
「じゃあ、話変えます!」
「急だな」
「急に変えないと沈みますから、この部屋」
ミレナはきっぱり言った。
「それで、森の祭壇の件なんですけど、師匠、持ち帰った写しとか印の記録ありますよね?」
助かった、と思った。
今ここで感情の話を続けるより、目の前の問題を扱う方がたぶん全員にとってましだ。
「ああ、一応ある」
俺は荷袋の方を見た。
「完全じゃないけど、崩れる前に見た流れと、外郭の補助盤なら頭に入ってる」
「先生のところ行きましょう」
ミレナが言う。
「今日のうちに照合した方がいいです。森の術式って、時間おくと記憶の輪郭から先に曖昧になりますし」
「わたしもそう思う」
エルセが、ようやくいつもの少し低い落ち着いた声で言った。
「祭壇の壊れ方、あれは単純な自壊じゃない。中継核と、もっと大きい主陣が別にある」
そこまで言って、彼女は少しだけ躊躇った。
「……たぶん、森のさらに奥か、別の地点に本体がある」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。
感情のもつれとは別の、物語が動く気配だ。
俺は思わず問い返す。
「本体?」
「ええ」
エルセはゆっくり頷く。
「昨日見たのは、中継核。門を開くための前段階を安定させる装置に近い。あれだけじゃ異界へは飛べないし、もちろん帰還陣にもならない」
「じゃあ」
俺は前のめりになる。
「主陣があるなら、そこに帰還術式の核心が――」
「ある可能性は高い」
エルセは言葉を選ぶように続ける。
「少なくとも、あの森にあったものは“人を呼ぶ”“縛る”“定着させる”側の術よ。帰す術があるとしたら、それを制御する別の層が必要になる」
ミレナが両手をぱんと打った。
「はい、やっぱり先生案件です!」
「案件って言うな」
「でもこれ、かなり大きい情報ですよ」
ミレナは興奮気味だ。
「中継核が実在して、しかも森の主陣がまだ別にあるなら、帰還術の再起動条件が見えてくるかもしれません」
再起動。
その単語に、胸の奥がひどく強く鳴った。
帰還陣が、ただの痕跡ではなく、もう一度動かせる形で残っているかもしれない。
それは俺にとって、この三年で一番強い“前進”の言葉だった。
たぶん、その感情が顔に出たのだろう。
エルセが、ほんのわずかに視線を揺らした。
ミレナは気づかなかったか、気づいてもあえて止まらなかったか、そのまま続ける。
「先生のところ行きましょう。今ならまだ図書院閉まってないですし、わたしも補助記録手伝います!」
それから、少しだけ空気を読んだ声音で付け加えた。
「お姉さんは……来られますか?」
エルセはしばらく黙っていた。
行く、とも、行かない、とも、すぐには言わない。
その沈黙の意味はわかる。
ここで先生のところへ行けば、帰還の話がさらに具体的になる。
具体的になるほど、俺の“帰る”は現実味を増す。
それはたぶん、今のエルセにとって一番きつい話題のはずだ。
だから俺は、先に言った。
「無理なら休んでろ」
するとエルセが、少しだけ眉を寄せる。
「……またそうやって」
「何が」
「すぐに私を外に置こうとする」
声は強くない。
でも静かに刺さる。
「そういうの、たぶんあんた、自分で思ってるより残酷よ」
その言い方に、俺は言葉を失った。
残酷。
たぶん、そうなのだろう。
無理しなくていい。
休んでいろ。
置いていくつもりはない。
そういう言葉は優しさのつもりでも、当人にとっては“重要なところから外される”ことでもある。
「……悪い」
小さく言うと、エルセは少しだけ目を細めた。
「謝ってほしいわけじゃない」
彼女は息を吐く。
「ただ、勝手に決めないで」
そこまで言われれば、もう選択肢はなかった。
「じゃあ、お前はどうしたい」
俺はちゃんと聞く。
エルセは、今度は逃げなかった。
「行く」
きっぱりと言う。
「私も先生のところへ行く。森の術式のことは、たぶん私が一番細かく話せる」
そしてほんの少しだけ視線を落とす。
「……その先で何が見えてくるかは、知っておきたいし」
その“知っておきたい”に、どれだけの痛みが混ざっているか、今の俺には前より少しだけわかる。
「わかった」
俺は頷く。
「一緒に行こう」
エルセは、その返事にほんの少しだけ肩の力を抜いた。
ミレナが、場を壊さない程度に小さく笑う。
「はい。そういうの大事です」
「お前は何でいちいち総括するんだ」
「第三者だからです」
第三者にしては食い込みが深すぎるんだよな。
◇
図書院へ向かう道すがら、王都はいつも通りの夕方の顔に戻りつつあった。
祭りの飾りはかなり片づいていて、通りの喧騒も落ち着いている。なのに俺の頭の中だけが、妙に騒がしかった。
帰還陣、再起動。
その可能性が、現実味をもって目の前にぶら下がったからだ。
森の中継核。
別に存在する主陣。
固定座標と帰還制御の層。
断片が、ようやく繋がりかけている。
「師匠、歩くの速いです」
ミレナが横から言った。
「さっきから半歩分、前のめりです」
「そうか?」
「そうです」
ミレナは頷く。
「顔も違います。今、“やっとここまで来た”って顔してます」
図星だった。
その言葉に、俺は少しだけ息を吐く。
「……まあ、そうかもな」
「やっぱり」
ミレナは嬉しそうだ。
「そんなに手応えあるんですね」
「ある」
俺は隠さなかった。
「中継核があった。それだけでも大きい。もし主陣まで辿れたら、帰還術式の全体構造が見えるかもしれない」
言葉にするほど、熱が増していく。
これまでの三年間、手がかりはいつも断片だった。古い写本、欠けた石板、伝承の残り、曖昧な証言。どれも間違ってはいなかったが、決定打には遠いものばかりだった。
でも今は違う。
初めて“行けばそこにあるかもしれない場所”が見えている。
だから、口調も自然と強くなる。
「もし主陣が残ってるなら、座標固定の再構築も現実的だ。今まで机上でしか組めなかった部分が、現物で読める。帰還に必要な媒介も、森の術式群から逆算できるかもしれない」
気づけば俺は、自分でも止まらないくらい喋っていた。
「中継核があの規模なら、主陣はかなり大きい。たぶん森のもっと深部か、あるいは森に繋がった別区画――」
「遼真」
隣から、エルセの声がした。
静かな声だった。
俺はそこでようやく我に返る。
「……ああ、悪い」
「別に謝らなくていい」
エルセは前を向いたままだった。
「……そんな顔、初めて見たから」
「どんな顔だよ」
「嬉しそうな顔」
胸の奥が、少しだけちくりとした。
嬉しい。
たしかに、そうだ。
帰還に近づいている感覚は、素直に嬉しい。
それなのに、その言葉をエルセの口から聞くと、何か少しだけ違う色が混ざる。
ミレナが空気を読んでか読まずか、小さな声で言った。
「そりゃ嬉しいですよね。師匠、ずっと追ってたんですし」
「そうだな」
俺は短く答える。
エルセは何も言わなかった。
でも、その沈黙はずっと横にあった。
◇
図書院の研究室で、オーウェンは俺たちの話を最後まで遮らなかった。
祭壇の構造。
補助盤の流れ。
中継核の壊れ方。
エルセが知っていた森の術式の特性。
俺が見た固定印の位置関係。
俺が話し、エルセが補い、ミレナが横で書き留める。
その三人がかりの報告を、老人は何度も目を閉じながら聞いていた。
やがて全部を聞き終えると、机の上へ大きな紙を広げる。
「……なるほど」
オーウェンは低く言った。
「やはり主陣は別にあるな」
「やっぱり」
俺は身を乗り出す。
老人は指先で図をなぞった。
「第二紀の異界門術は、単独の陣では動かん。呼ぶための陣、固定する陣、帰すための制御陣。その三つが、場所を分けて噛み合うことが多い」
そして、森の外縁を示すように円を描いた。
「今回見つかったのは中継核。ここで座標の仮固定と侵入者の認識攪乱を兼ねている。なら、主陣はもっと安定した地脈の上にあるはずだ」
「森のもっと奥ですか」
ミレナが聞く。
「あるいは森の下だな」
オーウェンは平然と言った。
「昔の魔女連中は、地上に見せるものと本体を分けるのが好きだった」
森の下。
地下祭壇、あるいは封印区画。
頭の中で可能性が一気に広がる。
「行き先の絞り込みはできますか」
俺が問うと、老人は頷いた。
「中継核の流れと残った補助盤の向きから、主陣の方向ぐらいは読める」
それから別の紙束を引き寄せる。
「さらに、祭り前に出てきた写本の注釈を合わせると――」
老人の指先が、地図上の一点を叩く。
「ここだ。森の西寄り、地脈のくびれ。おそらく旧祭殿跡の地下」
その一点を見た瞬間、全身に熱が走った。
具体的だ。
あまりにも具体的だ。
「そこに行けば――」
「帰還制御陣の本体に触れられる可能性は高い」
オーウェンが言い切る。
「そして、そこまで辿り着ければ、陣の再起動条件も見えてくるだろう」
再起動条件。
その言葉が、決定的だった。
帰還陣は、ただの過去の遺物じゃない。
条件さえ揃えば、もう一度動くかもしれない。
俺は思わず机に手をついた。
「……やっとだ」
声が、自分でも少し震えているのがわかった。
やっとここまで来た。
三年かかった。
遠回りもした。
何度も外した。
でも、ようやく“行けば届くかもしれない場所”が、手の届く距離に出てきた。
気づけば、口元が緩んでいた。
「行きます」
俺ははっきり言った。
「準備を整えて、今度は主陣まで行く。再起動条件があるなら、全部揃えてみせる」
オーウェンが静かに頷く。
ミレナは「うわあ」と小さく感嘆していた。
でも、エルセだけは違った。
さっきまで俺たちと同じ紙を見ていたはずなのに、今は少しだけ視線を落としている。顔色も、道中よりまた少し白い。
「エルセ?」
気づいて呼ぶ。
彼女はすぐには顔を上げなかった。
やがて、ほんの少しだけ遅れて、灰青の瞳がこちらを見る。
その目にあったのは、怒りじゃない。
諦めに近い、静かな痛みだった。
「……そんなに、嬉しいのね」
その言い方で、ようやくわかる。
俺が今浮かべている顔は、たぶんこいつにとって、一番見たくない種類の顔なのだ。
帰還に近づいたことを、隠しきれず喜んでいる顔。
俺は少しだけ息を止める。
「エルセ、俺は」
「いい」
彼女は小さく首を振った。
「言い訳とか、そういうの、今はいらない」
「言い訳じゃない」
「じゃあ何?」
静かな声だった。
「ここまで具体的になって、主陣の場所も見えて、再起動条件まで見えそうで……あんた、今、嬉しいんでしょ」
否定できない。
それが、さらに痛い。
「……そうだ」
正直に言うしかなかった。
エルセは、小さく頷いた。
「そう」
それから、ほんの少しだけ笑う。
でも全然嬉しそうじゃない笑みだった。
「なら、よかったじゃない」
よかった、という声に、よかったという気持ちは一欠片も入っていない。
ミレナが、居心地悪そうに視線をさまよわせる。
オーウェンは何も言わない。
部屋の中に落ちる沈黙が、やけに重い。
「エルセ」
俺は思わず名前を呼ぶ。
彼女は今度はちゃんと顔を上げた。
そして、俺の目を見たまま言う。
「行けばいい」
声は静かだった。
静かだったのに、最後の方だけ、わずかに震えていた。
「主陣があるんでしょ。帰還陣も、再起動条件も、そこにあるかもしれないんでしょ」
エルセは、まるで自分に言い聞かせるように続ける。
「だったら、行けばいいじゃない。あんたがずっと探してきたものなんだから」
「……」
「止めないわよ、もう」
その一言のあと、小さく息を吸う。
「止めたって、どうせ行くんだし」
何か言わないといけないと思った。
でも、何を言えばいいのかまるでわからなかった。
ここで下手な言葉を選んだら、たぶん全部壊れる気がした。
いや、もう壊れかけているのかもしれない。
俺が黙ったままでいると、エルセはそれ以上何も言わなかった。
ただ、机の上の地図から視線を外して、小さく帽子のつばを押さえた。
それは、たぶん泣き顔を隠す時の仕草だった。




