第16話 それでも隣にいる理由
その日の《木靴亭》は、妙に静かだった。
いつもなら女将の怒鳴り声がどこかでして、旅人の笑い声や食器の触れ合う音が続いている。けれど今夜に限っては、そういう日常の音まで、どこか遠慮がちだった。
たぶん、俺のせいだ。
いや、正確には、俺とエルセの間に落ちた空気のせいだろう。
図書院から戻ってきてから、俺はずっと荷造りをしていた。森へ再び入る準備。前回より深く潜るための食料、紐、灯り、保存薬、簡易の魔除け。机の上へ道具を並べ、足りないものを確かめ、必要な順に袋へ詰めていく。
手は動く。
でも、頭の中はひどく散らかっていた。
主陣がある。
帰還陣の再起動条件が見えるかもしれない。
ここまで来れば、あとは進むだけだ。
そう思う自分がいる。
その一方で、図書院の部屋で帽子のつばを押さえたエルセの横顔が、何度も頭に浮かぶ。
そんなに、嬉しいのね。
あの声は、まだ耳に残っている。
「……うまくいかないな」
荷紐を引きながら、小さく呟く。
何が、とは言わない。
言わなくても、自分ではわかっていた。
扉の向こうで、こつ、と小さな足音がした。
反射的に顔を上げる。
でもノックは来ない。
しばらくして、足音はまた遠ざかっていった。
たぶん、エルセだ。
わざわざ来て、結局入らなかったのか。
それとも、俺がいるかどうか確かめただけなのか。
どっちにしろ、らしいなと思う。
俺は荷造りの手を止め、しばらく扉を見つめていた。
◇
夕食の時間になっても、エルセは食堂へ下りてこなかった。
ミレナは珍しく空気を読んだのか、今日は図書院の整理を手伝うとか言って戻っていない。女将だけが、鍋をかき回しながら、何度かこっちをちらちら見てきた。
「……何ですか」
たまりかねて聞くと、女将はふん、と鼻を鳴らした。
「自分で行かないのかい」
「どこへです」
「あの子のところへだよ」
女将は当然みたいに言う。
「夕方から水しか飲んでないよ」
思わず眉が寄る。
「食ってないんですか」
「食べる気分じゃないってさ」
女将は鍋の火を弱めた。
「まあ、あんたがあんな顔して帰ってきたんだ。食べにくくもなるだろうね」
「あんな顔って」
「若いのは、自分の顔を見ないから困る」
女将は肩をすくめる。
「嬉しいのと困ってるのと、両方を中途半端にぶら下げた顔さ。隣にいる子が一番つらいやつだよ」
言い返せなかった。
女将は小さな盆にスープとパンを載せ、それから少し考えて、林檎を半分に切って添えた。
「持ってきな」
「……食べないかもしれませんよ」
「食べないなら下げてくりゃいい」
女将は俺へ盆を押し出す。
「でも、自分で行って、自分で顔見て、何か言ってこい。それくらいはしな」
俺はしばらく盆を見た。
それから諦めたように息を吐いて、それを受け取った。
◇
エルセは、二階の一番奥の窓辺にいた。
部屋じゃない。廊下の突き当たり。小さな腰掛けと、外が見える古い窓があるだけの、ほとんど物置みたいな場所だ。
銀髪の魔女は、そこへ背中を預けるように座っていた。
帽子は膝の上。
黒い髪留めだけでまとめた銀髪が、窓から入る夜風に少し揺れている。
「……いたのね」
足音で気づいていたらしい。
こっちを見もしないで、エルセはそう言った。
「いたら悪いのか」
「別に」
短い返事。
「そういう返し、今日はやめた方がいいわよ。私、あんまり余裕ないから」
言い方はきついのに、声には力がなかった。
俺は少し離れた位置へ盆を置く。
「女将さんが持っていけって」
「頼んでない」
「知ってる」
「じゃあ持って帰ればいいでしょ」
「食わないならそうする」
そこでようやく、エルセがこちらを見た。
灰青の瞳はいつもより静かだった。
静かで、そのぶん疲れて見えた。
「……あんた、そういうところ本当にずるい」
「さっきも言われたな」
「何回でも言うわよ」
エルセは視線を落とす。
「優しいなら優しいで、最後まで優しくすればいいのに。中途半端だから困るの」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
俺は窓辺の反対側の壁へもたれた。
「中途半端なのは認める」
「認めるんだ」
「そこ否定しても意味ないだろ」
少し間を置いてから続ける。
「……どう話せばいいのか、まだよくわかってない」
「何を?」
「お前と」
夜風が、少し強く吹いた。
エルセは何も言わない。
言わないまま、膝の上の帽子のつばを撫でている。
「図書院で」
俺は言葉を探しながら話し始めた。
「お前がああいう顔をしたの、ちゃんと見てた」
「……見なくていいって言ったでしょ」
「言われたな」
「だったら」
「でも、見えた」
エルセが、わずかに顔をしかめる。
「それで?」
「それで、だ」
喉が少し乾く。
「主陣が見つかるかもしれないって聞いて、俺はたぶん、かなりわかりやすく喜んだ」
「そうね」
エルセの返事は、驚くほど穏やかだった。
「嬉しそうだった」
「……ああ」
「すごく」
そこまで言われると、逆に逃げ道がなくなる。
「悪かった」
小さく言うと、エルセは少しだけ首を振った。
「謝ってほしいわけじゃないの」
彼女はゆっくり言う。
「だって、あんたが帰りたいのは最初から知ってる。知ってて一緒にいたのは私なんだから」
そこで、少しだけ言葉が途切れる。
「……でも、実際にそういう顔を見せられると、思ってたよりきつかっただけ」
その“きつかった”が、妙に生々しかった。
俺は何か返そうとして、やめる。
軽い慰めみたいなことを言ったら、たぶんそれが一番駄目だとわかったからだ。
しばらく沈黙が落ちる。
階下で女将が何かを片づける音がした。
宿の外からは、遅い時間の馬車が一台、石畳を通り過ぎる音が聞こえる。
「……ねえ」
エルセが先に口を開いた。
「変なこと聞いていい?」
「変じゃない質問の方が少ないだろ、お前」
そう返したら、ほんの少しだけ唇の端が動いた。
笑うほどではない。
でも少しだけ、空気が和らぐ。
「じゃあ聞く」
エルセは帽子を握りしめる。
「もし、主陣が見つかって、帰還陣が本当に再起動できるってわかったら……あんた、すぐ帰るの?」
真正面から来た。
予想していたのに、思っていたよりずっと答えに詰まる。
「それは……」
口を開いてから、続きが出ない。
自分でも驚いた。
“当然だ、帰る”と即答するつもりだった。
それが、できなかった。
エルセがゆっくり目を細める。
「ほら」
彼女の声は小さい。
「そうやって、少し黙るじゃない」
「……前なら、たぶん即答してた」
「前なら、でしょうね」
「でも今は」
そこから先が、なかなか出ない。
「今は、条件が見えないのに答えだけ決めるのも、何か違う気がする」
エルセは静かに聞いている。
責めるでもなく、助けるでもなく、ただ待っている。
「帰りたいのは本当だ」
俺はゆっくり言葉を置いた。
「そこは変わってない。向こうに戻りたいし、戻らなきゃいけないと思ってる」
「うん」
「でも、帰還陣が本当に動くとして、それがどういう形なのかはまだわからない。何を代償にするのか、何を残していくのか、何を切るのかも」
少しだけ息を吸う。
「だから、今ここで“すぐ帰る”って言い切るのは……前より少し、違う気がする」
言い終わると、自分でも変な感覚があった。
これは決意の後退なのか。
それとも、ようやく現実に近づいたからこその慎重さなのか。
まだ判別がつかない。
エルセは、それを聞いてすぐには何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「……そう」
それだけだった。
でも、その一言に、さっきまでより少しだけ柔らかいものが混ざっていた。
「お前は」
今度は俺が聞く。
「本当は、どうしてほしいんだ」
言った瞬間、エルセの指先がぴくりと動いた。
「何、その聞き方」
「そのままだよ」
「……ずるい」
「またそれか」
エルセは困ったみたいに笑って、それから視線を窓の外へ逃がした。
「本当のこと言ったら、たぶんだめになるから」
「今さらか?」
「今さらよ」
小さく息を吐く。
「だって、あんた、ようやく少しだけ見ようとしてるところでしょう。そこで私が全部、ちゃんとした言葉にしたら……たぶん、あんたはまた逃げる」
否定できなかった。
図星だったからだ。
「だから、今は言わない」
エルセはそう言ったあと、少しだけ口元を歪める。
「というか、言えないし」
呪いのことだ。
俺は壁から体を離し、少しだけ彼女の近くへ寄った。
「じゃあ、言える範囲でいい」
「何それ」
「全部じゃなくていいってことだ」
自分でも不器用な言い方だと思う。
「お前が今、何を望んでるのか。その全部が無理なら、せめて今夜の分だけでも」
エルセは長く黙っていた。
その沈黙の長さが、どれだけ言葉を選んでいるのかをそのまま表していた。
やがて、彼女は帽子を膝の脇へ置いて、両手を軽く握る。
「……今夜の分だけなら」
「うん」
「今夜の分だけなら」
もう一度同じ言葉を繰り返してから、ようやく顔を上げる。
「明日、あんたが本当に主陣を探しに行くとして……」
「行く」
「そうでしょうね」
そこで少しだけ目が細くなる。
でも止めない。
「……そんなに嫌なら、って、あんた昨日聞いたじゃない」
昨日の話だ。
図書院のあと、たぶん一番痛いところで終わった会話。
「ああ」
「じゃあ答える」
エルセは小さく息を吸う。
「嫌じゃない」
そこまで言って、ほんの少しだけ喉が震えた。
俺は言葉を挟まない。
邪魔をしたら、たぶん二度と続きが出ない気がした。
「嫌じゃないし」
エルセは続ける。
「一人で行かれる方が、たぶん、もっと嫌」
声は小さい。
でも、ちゃんと届く。
「だから……ついて行く」
そこで言葉が止まる。
たぶん、本当はその先がある。
“ずっと一緒にいたい”とか、“離れたくない”とか、そういうのだ。
でも呪いも、意地も、今の彼女にはその先をまっすぐ言わせない。
代わりに出てきたのは、少しだけ拗ねたような、不器用すぎる言葉だった。
「一人じゃ心配だから仕方なくよ」
エルセは目を逸らしたまま言う。
「勘違いしないで。別に、離れたくないわけじゃないし」
その最後の一言が、ほとんど自爆に近いことを、たぶん本人も気づいている。
耳まで赤くなっていた。
俺はしばらく何も言えなかった。
言葉と本心が逆だって、もうわかっている。
だから、今の言葉をそのまま受け取る必要はない。
でも、それとは別に、ここで俺が何と返すかはたぶん大事だった。
「……そうか」
短くそう言ってから、少しだけ考える。
そして、たぶん今の俺にできる一番まっすぐな返事を選ぶ。
「じゃあ、仕方なく頼む」
その瞬間。
エルセの顔が、信じられないくらい赤くなった。
「っ……!」
言葉にならない声が漏れる。
「な、何その返し!」
「お前がそう言ったんだろ」
「そうだけど! そうじゃなくて!」
エルセは両手で顔を覆いかけて、でも覆いきれず、結局俺を睨もうとして失敗したみたいな表情になる。
「もっと、何かあるでしょ! 普通!」
「普通って何だよ」
「知らない! でも、もっと……!」
そこで完全に言葉に詰まる。
「……もう、本当に嫌」
「嫌なんだよな?」
少しだけ意地悪く聞くと、エルセがぎっと睨んだ。
「そうよ。嫌。最低。大嫌い」
そう言いながら、声の調子はもうぐちゃぐちゃだ。
「……なのに、何でそんなふうに笑うのよ」
言われて初めて、自分が少し笑っていたことに気づいた。
「笑ってたか」
「笑ってた」
エルセは頬を赤くしたまま続ける。
「そういうの、ほんと反則」
「お前だってさっき少し笑っただろ」
「笑ってない」
「いや、笑ってた」
「……あれは」
エルセは少し黙ってから、観念したみたいに小さく言う。
「……ちょっとだけ、安心しただけ」
その一言は、たぶん今夜一番素直だった。
俺は何かを返しかけて、やめる。
今そこへ余計な言葉を重ねるのは、たぶん違う。
だから代わりに、机の上の盆を彼女の方へ少し押した。
「冷める前に食え」
「今それ?」
「今それだ」
「……ほんとにもう」
呆れた顔をしながらも、エルセはようやくパンへ手を伸ばした。
◇
翌朝、王都はまだ薄い霧の中にあった。
主陣へ向かう再出発の日だ。
北門前には、前回と同じく荷をまとめたロバと、無口な猟師ガルム。そこへ、ミレナが大きく手を振りながら駆け寄ってくる。
「おはようございます! 準備万端です!」
「お前は外縁待機だ」
「わかってます! でも見送りくらいします!」
エルセは俺の少し横に立っていた。
昨夜よりはだいぶ落ち着いている。帽子も、服も、いつもの通り。だが、完全にいつものエルセというわけではない。
時々、こっちを見ようとしてやめる。
たぶん俺も似たような顔をしている。
「じゃあ行くか」
俺が言うと、エルセは小さく頷いた。
「ええ」
それだけのやり取り。
でも前より少しだけ、言葉の間に迷いが少ない。
ロバへ荷を積み、門番へ通行札を見せる。北門の朝はまだ人が少なく、見送りの声もまばらだ。
その静かな空気の中で、ミレナがぽつりと呟いた。
「これ、あと何年かかるんだろ……」
「何が」
俺が聞くと、ミレナは真顔で答えた。
「お二人がちゃんとくっつくまでです」
エルセが一瞬で真っ赤になる。
「な、何言ってるのよ朝から!」
「朝だからですよ!」
ミレナは胸を張る。
「旅立ちの朝って、そういうこと言うタイミングです!」
「どこの風習よそれ!」
「わたしの中の風習です!」
俺は思わず息を吐いた。
「お前、本当にぶれないな」
「必要な人材ですから」
ミレナはにやりと笑う。
「だってどう見ても、まだ始まったばかりですし」
その言葉に、俺とエルセは一瞬だけ顔を見合わせた。
始まったばかり。
たぶん、そうなのだろう。
帰還の鍵を求める旅も。
言葉と本心がずれたままの、このどうしようもなく面倒な関係も。
まだ何も終わっていない。
むしろ、ここからなのかもしれない。
「……行くぞ」
俺は言った。
「ええ」
エルセが答える。
王都の門をくぐり、朝の道へ出る。
どう見ても両想いなのに、告白は一歩も成功していないまま。
それでも、隣にはちゃんと銀髪の魔女がいた。




