第17話 言わない約束、隠せない距離
王都を出る朝の空気は、まだ少しだけ冷たかった。
春とも夏ともつかない中途半端な季節の風が、北門の石壁に沿って流れていく。夜明けの光はもう十分に差しているのに、街の外へ出る道はどこか白っぽく霞んで見えた。
荷を積んだロバが鼻を鳴らす。
無口な猟師ガルムは、今日もこちらに余計な言葉をかけない。ただ手綱を直し、道の先を見ている。ミレナは門の脇でぶんぶんと手を振りながら、見送りにしては元気がありすぎる声を張っていた。
「いいですか、お二人とも! 外縁での合流までは最短優先です! 森に入ってからは絶対に発光信号忘れないでくださいね! あと、お姉さん無理しない! 師匠は勝手に無理するから自覚持つ!」
「何で俺だけ自覚前提なんだ」
「前科がありすぎるからです!」
ミレナは真顔で断言した。
その横で、エルセが小さく息を吐く。
「……言い返せないの、ちょっと情けないわね」
「お前も同意するのかよ」
「するわよ。森で祭壇に突っ込んでいった男が何言ってるの」
「突っ込んだのはお前を引っ張り出すためだろ」
「だからそこを胸張って言わないでって言ってるの」
「何でだよ」
「何ででもよ」
そう言ってエルセは、帽子のつばを少しだけ下げた。
朝の光のせいだけじゃない。
耳が少し赤い。
その変化に気づいてしまって、俺はすぐに視線を外した。
前なら、ここで何も考えないふりをしていただろう。けれど今は、一つひとつの反応に意味があるとわかってしまったぶん、逆に扱いが難しい。
言わない約束をしたわけじゃない。
それでも昨夜のあとでは、何を言っても少しだけ響きすぎる気がした。
ミレナが、そんな俺たちをじっと見比べてから、やたら満足そうに頷く。
「はい。昨日よりだいぶ進展してます」
「何が」
「空気です」
彼女は胸を張る。
「前はお二人とも“相手の言葉を受け流して終わり”だったのに、今日はちゃんと引っかかってる」
「朝から分析やめろ」
「でも本当ですよ?」
ミレナは、まるで研究発表でもするみたいに指を折る。
「お姉さんは師匠の言い方にいちいち反応するし、師匠はお姉さんの顔色を見てるし」
「見てない」
「見てるわよ」
エルセが即答した。
俺は思わずそちらを向く。
エルセは、しまった、という顔をした。
でももう遅い。
ミレナの目がきらりと光る。
「今のです、今の」
「何が」
「お姉さん、“見てるわよ”って、断定しましたよね?」
「したけど」
「つまり、見られてるの気づいてるんですよね?」
「……」
「しかも気づいてるのに、嫌じゃないんですよね?」
「飛躍しすぎよ!」
反射的に言い返したエルセの声は強かったが、そこに昨日までみたいな単純な棘はなかった。焦りが先に立っている。
ミレナはにこにこしている。
「嫌なら“気持ち悪いからやめて”ってもっと早く言ってます」
「言ってる時もあったでしょ」
「それ、たぶん本気じゃなかったやつですよね」
ミレナにそこまで見抜かれているのかと思うと、こっちまで少し落ち着かなくなる。
エルセは言い返そうとして、けれどすぐには言葉が出なかった。
代わりに、少しだけ目を細めて、ミレナへ向かってゆっくり言う。
「……あなた、本当に朝から疲れるわね」
「元気だとよく言われます!」
「そこ褒めてない」
「でも今日のお姉さん、いつもより元気ありますよ」
ミレナはあっさり返した。
「昨日の夕方より顔色いいですし、怒る元気も戻ってます」
「それは……」
エルセが少しだけ言葉に詰まる。
「怒ってるわけじゃなくて」
「焦ってるんですよね?」
「何でそこまでわかるのよ……」
ぼそりと漏れたその一言が、たぶん今日一番素直だった。
ミレナは少しだけ笑い、それから急に真面目な顔になった。
「でも、本当に無理はしないでくださいね」
声の調子が変わる。
「師匠もです。前回みたいに、二人とも“あとで考えればいい”で押し切らないでください」
「お前、たまに本当に真面目になるな」
「たまにじゃないです。要所要所です」
ミレナは杖を持ち直した。
「森って、感情が乱れてる方を先に喰う場所ですから。お姉さんは森との相性が近すぎるし、師匠は帰還のことで一直線になりやすいし」
そして、少しだけ息を吸う。
「だから、ちゃんと喋ってください。喧嘩でもいいから、黙って勝手に決めるのだけはやめて」
俺とエルセは、同時に少しだけ黙った。
黙ったあとで、先に口を開いたのはエルセだった。
「……努力はするわ」
小さいけれど、ちゃんとした声だった。
「前よりは、たぶん」
ミレナはその答えに嬉しそうに笑う。
「はい、それで十分です」
「お前、時々年上みたいなこと言うな」
「恋愛方面だけです」
胸を張ることじゃない。
それでも、少しだけ空気が軽くなった。
「じゃ、行くぞ」
俺が言うと、ミレナは大きく頷いた。
「はい! 外縁で待ってます!」
エルセが、最後に小さく釘を刺す。
「待つのはいいけど、森に勝手に入らないで」
「わかってますって」
「本当に?」
「本当にです」
「少しでも危ないと思ったら?」
「戻ります」
「見えなくても?」
「戻ります」
「呼ばれても?」
「……それは、内容によります」
「戻りなさい」
「はい」
この短いやり取りに、エルセなりの心配が滲んでいた。
ミレナもそこはちゃんとわかっているらしい。ふざけずに真面目な顔で頷いた。
「お姉さんも」
今度はミレナが言う。
「師匠のこと、強がらせすぎないでくださいね」
エルセが少しだけ目を細める。
「……それ、私に言うの?」
「はい」
ミレナはきっぱり言った。
「お姉さん、師匠に甘いところありますから」
「ないわよ」
「あります」
「ない」
「あります」
「……」
「あります」
言い切られて、エルセは何とも言えない顔になった。
その沈黙を、ミレナは肯定と取ったらしい。満足そうに頷いてから、今度は俺を見る。
「師匠もです」
「何だ」
「お姉さんに優しくするなら、最後まで優しくしてください」
その言い方は軽いようでいて、ちゃんと刺さった。
「途中で“でも俺は帰るから”って顔に戻るの、たぶん一番きついです」
胸の奥で、何かが小さく鳴る。
図星だった。
俺は少しだけ視線を逸らしてから、短く返した。
「……覚えとく」
「ぜひ」
ミレナは最後に一歩下がり、笑って手を振った。
「では、お二人とも、いってらっしゃいです」
王都の北門を抜ける。
石畳が土へ変わり、街のざわめきが少しずつ背中へ遠ざかっていく。
前回と同じ道。
同じ猟師。
同じロバ。
でも、並んで歩く空気は前と少し違っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
言葉にしようと思えば、いくらでも話題はある。主陣のこと、森の構造、地脈の流れ、必要な手順。けれど、そのどれを切り出しても、結局その下にある別のことへ触れそうな気がした。
だから、最初の数刻は、ただ歩いた。
風が草を揺らす音。
ロバの足音。
ガルムの背負い籠が擦れる音。
それだけが続く。
やがて、王都の城壁がだいぶ遠くなったところで、エルセがぽつりと言った。
「……さっきの、気にしなくていいから」
「どれだよ」
「ミレナの言ったこと」
前を向いたままの声。
「最後まで優しくしろとか、ああいうの」
その話か。
俺は少し考えてから返す。
「気にしてないわけじゃない」
「え?」
エルセがわずかにこちらを向く。
「前にも言っただろ」
俺は歩幅を変えずに続ける。
「どうすればいいか、まだちゃんとわかってない。でも、前よりは考えてる」
少しだけ間を置いてから、正直に言う。
「だから、言われると刺さる」
エルセは、しばらく何も言わなかった。
それから小さく、呆れたみたいに言う。
「そういうの、普通もっと隠すものじゃないの」
「隠した方がいいのか?」
「……今のは、たぶん隠さない方がまし」
彼女は目を伏せる。
「中途半端に平気なふりされるよりは」
それは、たぶん本音だった。
俺は頷く。
「じゃあそうする」
「簡単に言うのね」
「簡単じゃないけどな」
その返事に、エルセは少しだけ笑った。
本当に少しだけだ。口元が動いたと言わなければ見逃すくらいの変化。でも、今の俺にはそれで十分見える。
「……遼真」
「何だ」
「ひとつだけ、約束して」
声が少しだけ真面目になる。
俺も歩きながら意識をそちらへ向ける。
「何を」
「森に入ってから」
エルセはゆっくり言葉を選んでいた。
「私が止まれって言ったら、今回は本当に止まって。前みたいに“でもお前が危ないから”で踏み込まないで」
「それは」
反射で言い返しかけて、やめる。
言葉の意味がわかったからだ。
「……お前が無茶してもか」
「そう」
「置いてけって言われても?」
「それは、できれば嫌」
少しだけ目を逸らす。
「でも、前みたいに祭壇の中まで一緒に壊れに来られる方が、もっと嫌」
そこまで言われると、否定のしようがない。
俺は小さく息を吐く。
「わかった」
「本当に?」
「本当に」
「今の、流れで答えただけじゃない?」
「そこまで信用ないか」
「あるけど、そういう時のあんた、信用と無茶が両立してるから厄介なのよ」
それは否定しづらい。
俺は頭をかきながら、改めて言った。
「じゃあ言い直す。お前が危ないって言ったら、まず止まる。勝手には突っ込まない」
「……まず?」
「完全に思考停止するのは無理だろ」
「そこを素直に認めるのもどうなの」
エルセは困ったみたいに眉を寄せた。
でも、その顔には前みたいな刺はない。
「でも」
彼女は少しだけためらってから続ける。
「今の方がいい」
「何が」
「ちゃんと無理って言う方」
ほんの少しだけ声がやわらぐ。
「完璧みたいな顔されるより、たぶん安心する」
その言い方に、胸が少しだけ軽くなる。
俺は頷いた。
「じゃあ、お互いそうしよう」
「お互い?」
「お前もだよ」
前を見たまま言う。
「大丈夫じゃない時に、大丈夫って言うな」
エルセがぴたりと黙った。
そして数歩ぶんの沈黙のあと、小さく言う。
「……それ、だいぶ難しい」
「俺の方も同じだ」
「一緒にしないで」
「一緒だろ」
「違うわよ」
少しだけムキになる。
「私は……そういうの、昔からうまくできないの」
「知ってる」
「知らないでしょ」
「知ってるよ」
そこで俺は少しだけ振り返る。
「少なくとも、うまくないことは知ってる」
視線が合った。
灰青の瞳が、一瞬だけ丸くなる。
何か言い返そうとしたらしい。
でも、その前に言葉が見つからなかったのか、エルセは唇を結んで、それから小さく吐き捨てる。
「……ほんと、嫌」
「そうか」
「そうよ」
「でも、前ほど本気じゃなさそうだな」
言った瞬間、エルセは立ち止まりかけた。
「何それ」
「いや、そのままだ」
「そういうの、いちいち言わなくていいって言ってるでしょ」
「でも事実だろ」
「事実でも困るの!」
少しだけ声が大きくなる。
「私だって、毎回同じ意味で言ってるわけじゃないって、もう……」
そこまで言って、エルセはぴたりと口をつぐんだ。
ガルムが前方で何事もなかったように歩いている。
ロバも気にしていない。
風だけが草を揺らして通り過ぎる。
俺はそこで、少しだけゆっくり言った。
「……わかってる」
それだけだった。
でも、そのたった一言で、エルセの肩が小さく震える。
「わかってるなら」
彼女は前を向き直りながら言う。
「それ以上、いちいち言葉にしないで」
「何で」
「顔に出るから」
「お前が?」
「私も、あんたも」
そう言われると、妙に納得した。
俺たちは言葉を避けようとして、かえって表情や間で全部ばれているタイプなのかもしれない。
少なくとも、ミレナにはそう見抜かれている。
「……ひとつだけ」
今度は俺が言う。
「お前、昨夜言っただろ。ついて行くって」
「言ったわね」
「仕方なく、だったか」
「そうよ」
「今も?」
その質問は、自分でも少し意地悪だと思った。
エルセはすぐには答えない。
歩きながら、帽子のつばを少しだけ下げる。
その仕草は、考えている時というより、顔を見られたくない時のものだ。
「……今も」
小さく言う。
「仕方なく」
「そうか」
「何よ、その返し」
「いや」
俺は少しだけ口元を緩める。
「仕方なくでも、来てくれるなら十分だと思って」
エルセの歩幅が、わずかに乱れる。
「……そういうの」
彼女はぼそりと言う。
「本当に、前よりずっと悪い」
「何がだ」
「優しさの使い方」
「褒めてないよな、それ」
「全然褒めてない」
でも、声は少しだけ笑っていた。
その笑いを聞いて、俺も少しだけ肩の力が抜ける。
王都を出たばかりの頃より、二人の距離は自然に詰まっていた。
腕が触れるほどではない。
でも、以前みたいに意識して離れる感じでもない。
そのことに気づいても、どちらも何も言わなかった。
言わない方がうまくいくことも、たぶんある。
◇
昼前、小川のそばで短い休憩を取った。
ロバに水を飲ませ、俺たちも干し肉と硬いパンを齧る。簡素な旅の食事だが、前回の森帰りより空気はましだった。
ガルムは相変わらず必要最低限しか喋らない。
だから休憩中の空気は、ほとんど俺とエルセのものになる。
「……ねえ」
小川の水を見ながら、エルセが不意に言った。
「何だ」
「一つ、聞いていい?」
「今日それ多いな」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない」
そう返すと、エルセは少しだけ息を整える。
「もし」
彼女は慎重に言葉を選んでいた。
「本当に主陣が見つかって、帰還陣の再起動条件も見えて、それで……全部がうまくいったとして」
そこで少しだけ間が空く。
「その時、あんた、私に何か言うつもりある?」
ずいぶん遠回しな問いだった。
でも、何を聞いているのかはわかる。
今のまま、全部が進んだ先に、俺は何を返すつもりなのか。
何も言わずに帰るつもりなのか。
それとも、少なくとも何かを残すつもりはあるのか。
俺は少しだけ考えた。
逃げるような答えは、たぶんもうだめだ。
けれど、はっきりした約束も今はできない。
「……わからない」
正直に言う。
エルセの睫毛が、わずかに揺れる。
「でも」
続ける。
「何も言わずに終わらせるのは、たぶん違うと思ってる」
エルセは黙って聞いていた。
「前なら、そこまで考えなかった」
俺は干し肉の袋を閉じる。
「でも今は、たぶんそれじゃだめなんだろうなって思う」
「……そう」
エルセの声は静かだった。
「じゃあ、それでいい」
「いいのか」
「いいわよ」
小さく肩をすくめる。
「今のあんたに、それ以上の答えを求めても、どうせろくなことにならないし」
そこまで見透かされていると、反論しにくい。
「なんかお前、前より容赦なくなってないか」
「前より正直なだけ」
エルセは淡々と返す。
「少なくとも、前みたいに全部“別に”で逃げるのはやめようと思ってるから」
それは、少し意外だった。
「できるのか」
「……努力はする」
エルセは顔をしかめる。
「呪いがある以上、全部は無理。でも、言い方とか、黙るタイミングとか、そういうので少しは」
その言葉を聞いて、俺は本当に少しだけ驚いた。
昨日まで、エルセは“言えないものは言えない”のまま戦っていた。
いや、今も根本は変わらないのだろう。
でも、そのうえで何とかしようとしている。
そこまでして、一緒にいようとしている。
そう思うと、胸の奥に重さとは別のものが落ちた。
「……ありがとう」
気づけば、そう言っていた。
エルセが、ものすごい勢いで顔を上げる。
「何で今そこでそれ言うのよ!」
「いや、普通に」
「普通じゃない!」
彼女は完全に真っ赤になった。
「そういうの、こっちが頑張って平静保ってる時に急に投げるの、本当にやめて!」
「悪い」
「今のは全然軽くない謝り方して」
「そうしろってさっきお前が」
「そうだけど!」
声が少しだけ弾む。
それが、たぶん今の俺たちにはちょうどよかった。
張り詰めすぎると壊れる。
でも軽く流しすぎても意味がない。
その中間を、少しずつ探っている。
たぶん、そういう感じだった。
ガルムが立ち上がる。
「行くぞ。日が傾く前に石碑だ」
俺たちも腰を上げる。
再び北西へ向かって歩き出す。
森はまだ先だ。
主陣も、帰還陣も、その向こうにある。
でも今は、少なくとも一つだけはっきりしていることがあった。
俺たちはまだ何も言い切れていない。
それでも、もう前みたいに“ただの同行”ではいられないところまで来ている。
言わない約束なんてしていないのに。
隠しているつもりも、それほどもう通用しないのに。
それでも隣にいる理由を、まだちゃんと言葉にできないまま、俺たちは同じ方角へ歩いていた。




