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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第18話 石碑の夜、止まれと言うために

 夕方の光が薄くなり始めた頃、ようやく見覚えのある石碑が見えた。


 魔女の森の外縁。

 前回、ミレナと別れたあの場所だ。


 黒ずんだ石に、擦り切れた古文字。

 周囲には白い苔と、森から滲み出るみたいな薄い霧。

 前に見た時と何も変わらないはずなのに、今回はやけに近く感じる。


「着いたか」

 俺が小さく言うと、前を歩いていたガルムが頷いた。


「今日はここまでだ」

 猟師はいつも通りぶっきらぼうだった。

「日が落ちる前に中へ入るのはやめろ。森の外縁は夜から朝方にかけて、流れが変わる」


 エルセがすぐに反応する。


「変わるのは外縁だけじゃないわ」

 帽子のつばを少し押さえながら、森を見たまま言う。

「夜は境目が曖昧になる。昨日より深く入るなら、なおさら朝を待った方がいい」


「同感だ」

 俺も頷く。

「今日はここで一泊して、夜明けに入る」


「珍しいですね」

 後ろからミレナの声がした。

「師匠がちゃんと慎重なこと言ってる」


「俺を何だと思ってる」

「基本的に“手がかり見つけたら前のめりになる人”です」

 ミレナはきっぱり言った。

「でも今の判断は正しいです。外縁で夜の魔力流れを見た方が、主陣の位置も絞りやすいと思います」


 そう言いながら、見習い魔術師は石碑の根元へしゃがみ込み、小さな測定盤を並べ始める。金属と魔石を組み合わせた簡易の観測器具らしい。見た目は頼りないが、ミレナのこういう準備だけは妙に抜かりがない。


「それ、魔術院から持ち出して大丈夫なのか」

 俺が聞くと、ミレナは手を止めずに答えた。


「貸与品です」

「言い換えただけじゃないのか、それ」

「正式な手続きを踏んだ一時借用です」

 それから少しだけ声を落として付け足す。

「先生が」


 オーウェンが裏で通してるなら、たぶん本当に大丈夫なんだろう。


 ガルムはロバの荷を下ろしながら、俺たちへ淡々と言った。


「俺は少し離れた開けた場所で火を焚く。森の真正面で寝ると気配が近い」

 それから、エルセへ視線を向ける。

「お前さんはこの森を知ってる顔だな」


 エルセの肩が、ほんのわずかに強張った。


「……少しはね」

「だったら場所は任せる」

 ガルムはそれ以上踏み込まない。

「俺は獣と人間の気配なら読める。呪いだの地脈だのは知らん」


 その割り切り方は嫌いじゃなかった。


 結局、石碑から少し南へ下がった小さな窪地に野営地を作ることになった。森と正対しすぎず、水場まで歩いて行ける距離で、なおかつ魔力の流れが“止まりすぎない”場所――エルセがそう言って選んだ場所だ。


 ロバから荷を下ろし、簡易の布幕を張り、ガルムが火を起こす。ミレナは観測盤を石碑近くへ置いて戻ってくる途中で、何度も足を止めては空気を読んでいた。


「やっぱりここ、昼と夜でだいぶ違います」

 戻ってくるなり、彼女は真剣な顔で言った。

「森の中へ向かう流れが強くなってる。しかも一つじゃない。層が重なってる感じです」

「主陣が複数の位相で隠れてる可能性は?」

 俺が聞く。


 ミレナは少し目を丸くした。


「……師匠、今の質問ちょっと研究者っぽいですね」

「質問に答えろ」

「あります」

 彼女はすぐに頷く。

「一つの場所にあるんじゃなくて、同じ地点を別の位相で包んでるかも。そうなると物理的に近づくだけじゃ見えません」

「面倒ね」

 エルセが低く言う。

「魔女系の隠し方だわ」


 火が小さくぱち、と鳴った。


 ガルムが鍋を火にかけながら、こちらを見もせずに言う。


「なら今日は余計に中へ入らなくて正解だな」

「ですね」

 ミレナが真面目に頷く。

「夜に無理して迷ったら、たぶん森の方が勝ちます」


 その表現は変だが、たぶん正しい。


 森の前で飯を食うのは妙な感じだった。硬いパンを湯で少し柔らかくし、乾燥肉を煮込んだだけの簡素な食事。けれど火があるだけで、外縁の薄気味悪さは少し和らぐ。


 少しだけ。


 空が完全に暗くなる頃には、霧がまた地面すれすれに這い始めた。風は弱い。森の方だけが、自分で呼吸しているみたいに白さを増していく。


 ガルムは早めに横になり、ミレナも観測盤の数値を書き写してから、寝袋へ潜り込んだ。外縁で夜の流れを見ると言い張っていたくせに、見習い魔術師は疲れに勝てなかったらしい。


「一番気を張ってそうだったのに」

 俺が小さく言うと、エルセが火を見たまま答える。


「気を張ってるから先に落ちるのよ」

「お前は?」

「まだ寝ない」


 その言い方が、少し前の森の夜と似ていて、俺は何となく苦笑した。


「また一人で見張る気か」

「別に、一人でって決めてない」

「じゃあ俺も起きてる」

「寝た方がいいわよ」

 エルセは淡々と言う。

「明日、深く入るなら体力残しておかないと」

「お前も同じだろ」

「私は……」

 少し言葉が止まる。

「こういう場所の夜は、もともと浅くしか眠れないから」


 言い方は軽いが、意味は軽くない。


 ここは彼女にとって、ただの危険地帯じゃない。

 過去が絡んだ場所だ。

 起点。

 呪い。

 帰還の鍵。


 いろいろ重なりすぎている。


「じゃあ、俺も浅く付き合う」

 そう言って、火の向こう側へ座り直すと、エルセが少しだけ眉を寄せた。


「何、その言い方」

「何だよ」

「……変に優しい」

「前も言われたな」

「前よりずっと言ってる気がする」


 それは、たぶんそうだ。


 今の俺は以前より、エルセに対して一歩引いた無関心を装えなくなっている。かといって、じゃあ何だと問われると、まだ言葉にできない。


「嫌か」

 俺が聞くと、エルセはすぐには答えなかった。


 火の向こう、彼女の横顔が少しだけ揺れる。焚き火の光が銀髪に映って、黒い服の輪郭だけをやわらかく浮かび上がらせる。


「……嫌じゃない」

 やがて彼女は言った。

「嫌じゃないけど、困る」


「何で」

「何ででも」

 少しだけ視線を逸らす。

「だって、あんたが急にそういうふうになると、こっちの準備が間に合わない」


 その言い方に、思わず少し笑いそうになる。


「準備って何だよ」

「心の」

 エルセは即答したあと、自分で言ってしまったことに気づいたらしい。

「……違う」

「違わないだろ今の」

「今のはなし」

「なしになってない」

「なってるの!」


 少し声が大きくなったせいで、ミレナが寝袋の中で小さく寝返りを打った。


 俺たちは同時にそっちを見て、少しだけ声を落とす。


「……起こすなよ」

「起こしかけたの、あんたでしょ」

「最初に大きくなったのお前だろ」

「元はと言えば、あんたが」

「はいはい」


 そこまで言って、ふたりで少しだけ黙る。


 なんというか、こういう言い合いが前より長くなった。

 途中で誰かが意地を張って切るんじゃなくて、その場の空気ごと会話が続くようになった。


 それがいいことなのか、悪いことなのか、まだよくわからない。


「……ねえ」

 またエルセが言った。

「さっき、ミレナに言われたこと」

「どれだ」

「“ちゃんと喋れ”ってやつ」

「ああ」

 火を見ながら頷く。

「それがどうした」


「私、あれ、正しいと思ってる」

 エルセはいつになくゆっくり話していた。

「正しいと思ってるんだけど、正しいからって簡単にできるなら苦労しないのよ」


 それは、たしかにそうだ。


 俺はすぐには返さず、火の先の薪が崩れる音を少し聞いてから言う。


「お前さ」

「何」

「俺に何か言う時、いつもどこで止めるか考えてるだろ」


 エルセの肩がぴくりと動く。


「……何それ」

「いや、最近わかるようになった」

 正確には、前から少しはわかっていたのかもしれない。ただ見ないふりをしていただけで。

「言いかけてやめる時と、別の言葉に変える時がある」

「……」

「さっきの“心の準備”だって、たぶんそのまま出たから慌てたんだろ」


 エルセはしばらく何も言わなかった。


 それから、やっと小さく息を吐く。


「そうよ」

 観念したみたいな声だった。

「考えてる。毎回」

「疲れるだろ」

「疲れるわよ」

 少しだけ笑うような気配が混ざる。

「でも、考えないともっとひどいことになるから」

「たとえば?」

「たとえば……」

 エルセは視線を落とした。

「今ここで、あんたに“いてくれて助かる”って言おうとすると、たぶん別の言葉になる」


 その言葉は、静かに刺さった。


 いてくれて助かる。


 そんなふうに、思っていたのか。


 いや、前から何となくはわかっていた。でも、こうして本人の口から“言おうとしている内容”として聞くと、重さが違う。


「……そうか」

 それしか返せなかった。


「だから、最近は途中で止める方を選んでるの」

 エルセは続ける。

「全部反転して飛び出すより、その方がましだから」

「それで“別に”が増えたのか」

「そう」

 少しだけ不服そうな声になる。

「便利便利って言うけど、便利だから使ってるのよ。黙りきれない時の逃げ道なんだから」


 妙に納得した。


 “別に”も、“知らない”も、“うるさい”も、こいつにとっては逃げ道なんだ。ひどい言葉に完全にひっくり返る前に、本心を曖昧にして隠すための。


「……大変だな」

 思わずそう言うと、エルセは少しだけ驚いた顔をした。


「今の、同情?」

「いや」

 俺は首を振る。

「そうじゃなくて、単純に」

 言葉を探す。

「毎回そこまで考えてるなら、そりゃ疲れるだろうなって」


 エルセはじっと俺を見ていた。

 何か測るみたいに。

 たぶん、今の言葉をどう受け取るか考えているのだろう。


「……そういうの」

 やがて彼女は、小さく言った。

「すぐ言うようになったわよね」

「何が」

「ちゃんと相手の方を見る言葉」

 火を見つめながら続ける。

「前はもっと、自分の中だけで整理して終わってた」


 それも、たぶん本当だ。


 以前の俺なら、今みたいな話はそもそも聞かなかったかもしれない。聞いても、そんなものかで流した。向こうが困っているなら、深入りしない方が正しいと思っていたから。


 でも今は、その“正しい”が少し揺らいでいる。


「お前が喋るようになったからだろ」

 俺が言うと、エルセは少しだけ眉を上げた。

「何それ」

「そのままだよ」

「私が喋るようになった?」

「ああ」

 頷く。

「前より、ちゃんと引かないで言う時が増えた」

 少しだけ笑ってしまう。

「まあ、半分くらいはミレナのせいかもしれないけど」


 それを聞いて、エルセが肩をすくめた。


「……あの子、本当に余計なことしかしない」

「でも助かってる時もあるだろ」

「あるのが腹立つのよ」


 その返しが、少しだけいつものエルセっぽくて、妙に安心する。


 火が少し弱くなってきた。


 俺が薪を足すと、ぱち、と赤い火の粉が上がる。


 しばらくして、エルセがまた低い声で言った。


「遼真」

「何だ」

「明日、主陣が見つかったら」

 そこで少しだけ言いよどむ。

「……もし、本当にそこが帰還陣の本体だったとしても」


 続きは、わかる気がした。


 今ここで“どうする”を決めてくれと言っているわけじゃない。

 でも、何か一つだけでも、確かめておきたいのだろう。


「すぐに飛びつくな、って言いたいのか」

 俺が聞くと、エルセは少し目を見開いた。


「……そう」

 やがて頷く。

「見つけた瞬間に全部決めるみたいな顔、しないで」

「それは難しいな」

「そこを何とかするの」

 エルセの声は、弱いけれど真剣だった。

「ちゃんと見て、ちゃんと読んで、ちゃんと考えて。それからにして」

「お前は」

 俺もゆっくり返す。

「その時、俺の横にいるのか」


 エルセは、一瞬だけ本当に驚いた顔をした。


「……何、その聞き方」

「大事だろ」

「そうだけど」

「聞いてる」


 火の向こうで、エルセが小さく息を吸う。


「いるわよ」

 その返事は、思っていたよりずっと早かった。

「そこまで来て、今さらいなくなるわけないでしょ」

 それから少しだけ声が小さくなる。

「……それに、最後を見ないで離れる方が、たぶんもっと嫌」


 最後。


 その言葉の重さに、俺は少しだけ黙る。


 最後が、何の最後なのか。

 主陣探索のことだけじゃないのは、たぶんお互いわかっている。


「じゃあ」

 俺は静かに言う。

「その時は、お前の言う通り一回止まる」

 エルセが顔を上げる。

「見つけた瞬間に決めたりはしない。ちゃんと見て、読んで、考える」

 それから少しだけ正直に付け足す。

「……できる限り」


 完璧な約束じゃない。

 でも、今の俺にできる一番まっすぐな答えだった。


 エルセはそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。

 やがて、ほんの少しだけ口元を和らげる。


「それでいい」

「いいのか」

「今は」

 強調するように言う。

「今は、それでいい」


 その“今は”が、前より少しやさしく聞こえた。


 俺も少しだけ肩の力を抜く。


 結局、今夜はそれ以上のことは言わなかった。


 言えなかった、という方が近いかもしれない。

 けれど、不足ばかりでもなかった。


 火が少しずつ小さくなり、森の霧がまた這うように近づいてくる。

 ガルムの寝息は変わらず静かで、ミレナは一度だけ寝言で「そこは恋愛的に強い……」と訳のわからないことを呟いた。


 それを聞いて、エルセが本当に小さく笑った。


「何だよ」

 俺が小声で聞くと、彼女は首を振る。


「別に」

 それから少しだけ間を置いて、言い直した。

「……ちょっとだけ、変なタイミングで助けられたなって思っただけ」


 その“助けられた”が、誰に向いた言葉なのかは、もう聞かない。


 聞かなくても、少しずつわかるようになってきているからだ。


 夜が深くなる。


 俺は火の番を引き継ぎ、エルセは毛布へ潜った。

 でもすぐには眠らなかったらしい。少ししてから、小さな声が聞こえた。


「……遼真」

「何だ」

「いる?」

「いるよ」


 それだけで、しばらく静かになった。


 やがて、規則的な呼吸が聞こえ始める。


 俺は火の向こうのその気配を感じながら、森の暗さを見た。


 言わない約束なんてない。

 でも、全部を言わないまま、それでも確かに縮まっている距離がある。


 それを、今はまだ壊したくなかった。

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