第19話 朝霧の道で、ちゃんと話せ
夜明け前の森は、音が少ない。
いや、正確には音そのものが消えるわけじゃない。遠くで枝が鳴る。湿った土を風が撫でる。名も知らない小さな虫が、草の根元でかすかに羽音を立てる。そういう細かな音は確かにある。
でも、それら全部が妙に遠い。
まるで魔女の森の外縁だけ、世界から薄い布一枚ぶん隔てられているみたいだった。
火はもう落とした。
空はまだ濃い藍色で、東の端だけが少しずつ白み始めている。ロバは静かに鼻を鳴らし、ガルムは無駄のない動きで荷を締め直していた。ミレナは寝起きで髪が少し跳ねたまま、それでも観測盤だけは真剣な顔で覗き込んでいる。
「……やっぱり、今が一番流れ薄いです」
ミレナが小さく言った。
「完全に穏やかってほどじゃないですけど、夜のうちに重なってた位相のズレが、今だけちょっとほどけてる」
「つまり?」
俺が聞くと、ミレナは顔を上げた。
「入るなら今です」
きっぱりした声だった。
「たぶん、日が上がってからだとまたごちゃつきます。森の中にある“見せかけの道”も増えるはずですし」
エルセはすでに森の方を見ていた。黒い帽子のつばの下、灰青の瞳が薄明かりの中で静かに細められている。
「私もそう思う」
彼女は短く言う。
「今なら外縁の誤導が薄い。主陣が地脈のくびれにあるなら、夜明けの切り替わりで輪郭が見えるかもしれない」
ガルムが無造作に頷いた。
「なら、お前らは行け。俺と嬢ちゃんはここで待つ」
「え、わたしもですか?」
ミレナが少し不満そうに言う。
「前からそう言ってるだろ」
俺が言うと、ミレナは唇を尖らせた。
「わかってますけど、ここまで来ると気になるじゃないですか」
「気になるだけで死地に入るな」
エルセが淡々と釘を刺す。
「今回は前回よりもっと深い。森の中で主陣に触れる段階に入るなら、外から術式の変化を見られる人間も必要よ」
「それは、そうですけど……」
ミレナは杖を抱え直し、少しだけ息を吐いた。
「わかりました。じゃあ、わたしは外縁の観測に集中します。でも、そのかわり――」
そこで、彼女は俺たち二人を順番に見た。
「今回は、ちゃんと喋ってくださいね」
またその話か、と思ったのに、誰もすぐには言い返せなかった。
ミレナは、たぶんそれが図星だとわかっているから言うのだろう。こういう時だけ妙にまっすぐで、しかも外さない。
「師匠」
ミレナは真面目な声で続ける。
「昨日言いましたよね。主陣を見つけた瞬間に全部決めないって」
「ああ」
「お姉さんも、止めたい時は止めるって言ってました」
そして少しだけ息を吸う。
「じゃあ、言ってください。ちゃんと。気を遣うとかじゃなくて、必要だから言う。そういうの、大事です」
エルセがわずかに目を伏せる。
俺は数秒黙ってから、短く答えた。
「わかった」
「お姉さんは?」
ミレナが問う。
エルセはすぐには返事をしなかった。帽子のつばに触れる指先が、ほんの少しだけ動く。
「……努力する」
やがて出てきた声は小さい。
「ちゃんと、言うべき時は」
ミレナが、今度は本当に安心したように笑った。
「はい。それでいいです」
それから少しだけ、いつもの調子に戻る。
「じゃあ、いってらっしゃいです。主陣見つけたら、まず戻って報告ですよ。いきなり起動実験とかはなしですからね」
「お前まで先生みたいなこと言うようになったな」
「弟子候補として成長してます」
「候補から先に進んだ覚えはない」
「そこは今度正式に面談を――」
「してる暇ないわよ」
エルセが呆れたように言う。
でも、その声には昨夜より少しだけ軽さがあった。
それで十分だった。
◇
森へ入ると、空気が変わる。
前回と同じだ。境目を踏み越えた瞬間、世界が一段奥へ沈む。朝の冷たさとは別の湿り気。霧の薄い膜が足元を滑り、木々の間から差し込む光も、どこかくすんで見えた。
今回はミレナもガルムもいない。
俺とエルセだけだ。
そのことを強く意識したのは、森の中へ十数歩入ったあたりだった。
前回より静かだ。
前回より、会話の一つひとつが近い。
「……右」
エルセが小さく言う。
俺は足を止める。
「道か?」
「違う。見せかけ」
エルセは顎で示した。
「少し歩けばわかるけど、あっちに入るとたぶん同じ場所へ戻される」
言われた方向を見る。
たしかに、右手へ伸びる細い獣道みたいなものが見えた。普通なら迷わずそっちを選びそうだ。木々の間も少し明るく見える。
「……ほんとにわかるんだな、こういうの」
「長く見てれば、嫌でも」
エルセは前を向いたまま答える。
「森は親切じゃないけど、嘘のつき方に癖があるの」
「嫌な言い回しだな」
「事実よ」
それから少しだけ間を置いて、彼女は続けた。
「人間と同じで、いつも同じ場所でごまかすの」
その言い方が、どこか自分のことも含んでいるように聞こえて、俺は少しだけ眉を動かした。
「……何」
すぐに気づかれる。
「いや」
「今、何か言いたそうな顔した」
「そうか?」
「したわよ」
エルセは振り向かない。
「最近ほんとに隠す気なくなったわね」
「前よりはな」
正直に言う。
「お前がそういうの、見逃さなくなったからかもしれない」
その返しに、エルセは少しだけ黙った。
霧の向こうで、小さく葉が揺れる音がする。
「……それ」
やがて彼女が言う。
「ちょっとずるい」
「またか」
「またよ」
少しだけ呆れたような声になる。
「だって、そういうふうに言われると、こっちだけ妙に意識してたみたいじゃない」
「違うのか?」
思わず聞くと、エルセが立ち止まりかけた。
「……そういうの、本当に何なの」
「何が」
「今の、絶対わざとじゃないでしょ」
「わざとじゃないけど」
「それが一番困るのよ!」
森の中なのに、少しだけ声が弾んだ。
前より長く言い合えるようになったせいで、感情の置き場が増えた。前なら“最低”の一言で終わっていたところを、今はその前後にちゃんと揺れがある。
それは進歩なんだろうか。
たぶん、そうなんだろう。
「……遼真」
少し歩いてから、エルセがまた名前を呼んだ。
「何だ」
「ひとつ確認したいんだけど」
「確認?」
「ええ」
彼女は視線を森の奥へ向けたまま言う。
「もし、主陣を見つけて、そこが本当に帰還陣の本体に近いってなった時」
「うん」
「私が“今は触るな”って言ったら、ちゃんと止まる?」
昨夜も似たような約束はした。
でも、今の問いはもう少し切実だった。たぶん森の中という場所のせいだけじゃない。二人きりで、逃げ道が少ないからだ。
俺はすぐには答えず、少しだけ考えた。
適当に“止まる”と返すのは簡単だ。でも、簡単に返していい約束じゃないこともわかっている。
「……止まる」
俺はゆっくり言った。
「少なくとも、昨日の俺よりはちゃんと止まる」
「昨日の俺よりは、って何」
「全部が完璧にはできないってことだ」
森の土を見ながら答える。
「でも、お前が止める理由をちゃんと聞く。そこから先を、勝手には決めない」
エルセは数秒、何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「……うん」
それだけだった。
でも、その一音に少しだけ力が抜ける感じがあった。
「お前は」
今度は俺が聞く。
「逆に、俺が“下がれ”って言ったら下がるか?」
エルセが少しだけ眉を上げる。
「質問返し?」
「確認だよ」
「……状況による」
「ほら」
「でも」
エルセは少しだけ考えて、それから続ける。
「前よりは、聞くつもり」
「前よりは?」
「だって、前までのあんた、私を止める時ってだいたい“自分が全部どうにかする気”だったもの」
そこで、わずかに苦い笑いが混ざる。
「そういうの、信用と紙一重で厄介なのよ」
その言い方に、俺は返す言葉を少し失った。
「……悪かった」
「それ、最近ほんとよく言うわね」
「悪いことした自覚が増えたんだろ」
「成長なのかしら、それ」
「たぶん」
「微妙」
でも、その“微妙”には嫌な響きはなかった。
◇
森の中ほどへ入ると、道らしいものは完全に消えた。
前回見つけた中継核の遺構とは別方向へ、エルセは迷いなく進む。木の根の張り方、地面の湿り方、霧の抜ける角度――そういう細かい違いだけを頼りにしているらしい。俺にはまだその全部はわからない。
「ここから先、少し変わる」
エルセが小さく言った。
「変わる?」
「森の嘘が、道じゃなくて音になる」
彼女は足を止めずに続ける。
「呼ばれても返事しないで。私の声でも、少し待ってから確認して」
「お前の声でも?」
「そう」
エルセは少しだけ声を落とした。
「森は、あんたが反応しやすいものを真似するから」
その一言で、前回祭壇の中で見た景色が一瞬よみがえる。
駅のホーム。
家の玄関。
どうでもいいはずの日常。
俺は短く息を吐いた。
「……わかった」
「遼真」
「ん?」
「今、顔変わった」
エルセの声が少しだけ柔らかくなる。
「無理に平気なふりしなくていい」
そう言われて、少しだけ苦笑した。
「お互い様だろ」
「そうね」
今度の返事は、すぐだった。
そこへ、左手の霧の奥でがさりと音がした。
同時に、細い女の声がする。
『りょうま』
全身が一瞬だけ強張った。
母親の声に、少しだけ似ていた。
でも、似ているだけだ。
少し高い。
息の混ざり方が違う。
「止まって」
エルセの声が、今度は本物だとはっきりわかる距離で聞こえる。
俺はその場で踏みとどまった。
『りょうま、こっち』
また呼ぶ声。
今度は妹に近い。
けれど微妙に違う。
俺は奥歯を噛み、呼吸を整える。
反射で返事しそうになる体を抑え込むのに、思っていたより力が要った。
「偉い」
すぐ横で、エルセが小さく言った。
「今のは返しやすいやつだった」
「褒め方が雑だな」
「でも、本当に危なかったのよ」
エルセは霧の奥を睨みながら、少しだけ早口になる。
「森は、一回返事を取ると、その声の主を“通路”に使うの。あとは引っ張るだけでいいから」
「……嫌な仕組みだな」
「嫌な場所だもの」
その言葉のあと、少しだけ間が空く。
やがてエルセが、ためらうみたいに続けた。
「でも」
「でも?」
「今の、ちゃんと止まったでしょ」
彼女は前を向いたまま言う。
「だから……少しだけ、安心した」
それは、たぶん今の彼女に言えるかなり本音に近い言葉だった。
俺はすぐには返さない。
返さない代わりに、一歩だけエルセの歩幅に近づけた。
彼女はそれに気づいたらしい。けれど何も言わない。
その沈黙は、前よりずっと居心地が悪くなかった。
◇
昼過ぎ、地形が変わった。
木々の根が浅くなり、代わりに土の下から古い石組みが覗き始める。崩れた壁、折れた柱、地面に沈んだ階段の端。森に呑まれた遺跡群の気配だ。
「近い」
エルセが言う。
その一言で、胸の奥が強く鳴る。
「主陣か」
「まだわからない」
エルセはすぐに釘を刺す。
「でも、中継核より深い層に近づいてるのは確か」
俺は思わず足を速めかけた。
その瞬間、エルセが手首を掴む。
「遼真」
強くはない。
でも止まるには十分な力だった。
俺はそこで、はっと息をつく。
「……悪い」
「うん」
エルセは短く頷いた。
「今のは、ちゃんと止まれた」
前なら、この一拍で押し切っていたかもしれない。
でも今は違う。
違うと、ちゃんとわかる。
「この先、私が先に見る」
エルセが言う。
「見えてるものが本物かどうか、まだ判断できないから」
「一人で行くのか?」
「数歩だけ」
それから、俺を見上げる。
「心配なら、そこで見てて」
その“心配なら”に、少しだけ引っかかった。
「心配してるって思ってるのか」
「してるでしょ」
エルセは不思議そうに言う。
「顔に出てるわよ」
そこまで言われると、否定しづらい。
俺は少しだけ視線を逸らし、それから短く頷いた。
「……見てる」
「うん」
エルセはそれで十分だと言うみたいに、小さく答えた。
彼女が数歩前へ出る。
霧の薄い空間を切るように進み、地面から半ば露出した石段の先へしゃがみ込んだ。黒い魔力が指先に滲み、土に埋もれた紋をなぞる。
しばらくして、振り返らないまま言った。
「来て」
「本物か」
「ええ」
エルセの声は静かだった。
「たぶん、入口よ」
近づく。
そこにあったのは、地面に沈み込んだ半円形の石門だった。門といっても、今見えているのは上部だけだ。残りは土と根に埋まっている。古い刻印がびっしり走り、中心には見覚えのある補助印が重なっていた。
中継核よりもっと濃い。
いや、比べものにならない。
空気そのものがここだけ少し違う。
「地下か」
俺が低く言う。
「たぶんね」
エルセが立ち上がる。
「主陣そのものか、そこへ降りるための前室」
そして少しだけ息を吐いた。
「……見つけたわね」
その声に混ざる感情は、簡単には読めなかった。
安堵。
緊張。
そして、たぶん少しの痛み。
俺は石門を見つめたまま、すぐには手を伸ばさなかった。
昨夜の約束があったからだ。
見つけた瞬間に決めない。
ちゃんと見て、読んで、考える。
だから、まず言う。
「どう見る」
エルセが少しだけ目を見開く。
すぐには答えない。
その代わり、俺の顔を見て、それからほんの少しだけ口元を緩めた。
「……いい傾向」
「上から目線だな」
「だって、前のあんならもう触ってたもの」
「それは否定しない」
するとエルセは、少し笑ってから石門へ向き直った。
「じゃあ、まず外周を見る」
彼女はしゃがみ込む。
「主陣に見せかけた封印入口って可能性もある。これだけで決めたらだめ」
「わかった」
「それと」
エルセが少しだけ声を落とす。
「もしここが本当に主陣なら、たぶん帰還の手がかりはかなり核心に近い」
「……ああ」
「だから」
そこで彼女は言葉を切り、少しだけためらってから続けた。
「ちゃんと、一緒に見て」
その一言は、昨日までのエルセなら、たぶんまっすぐには出なかった。
俺は少しだけ息を飲み、それから頷く。
「一緒に見る」
それだけ答えると、エルセはもう一度だけ、ほんの少し笑った。
森の奥、土に埋もれた石門の前で。
俺たちはようやく、同じものを同じ距離で見始めようとしていた。




