第20話 帰還陣は、何を代償に求めるのか
土に半ば埋もれた石門の前で、俺とエルセはしばらく黙っていた。
霧はここまで来ると薄い。完全に晴れているわけではないが、外縁のように視界を奪うほどでもない。木々の隙間から落ちる昼前の光が、埋もれた門の上半分だけを鈍く照らしている。
近くで見ると、その石門は思っていた以上に大きかった。
半円形の枠に、幾重もの刻印。
中央に走る補助印は、中継核で見たものよりずっと密で、外縁の細い線まで崩れず残っている。蔦と土と根に飲まれているのに、それでもなお、ここだけは形を保っていた。
「……主陣かもしれない、って言ったけど」
エルセがしゃがみ込んだまま言う。
「正確には“主陣へ続く喉元”かもしれない」
「喉元?」
「中継核と本体のあいだにある、制御の絞り」
彼女は指先で刻印の外周をなぞる。まだ触れてはいない。読むだけだ。
「大きい術式って、いきなり核心を晒さないの。特に魔女系はね。外から来た人間に、全部を一度に触らせないように、入口で何段階かふるいにかける」
言いながら、彼女は俺を見上げた。
「だから、ここを見つけたからって、喜ぶのはまだ早い」
「わかってる」
「本当に?」
「たぶん前よりは」
俺がそう返すと、エルセは少しだけ目を細める。
「……たぶん、ね」
「完璧って言うと、お前あとで怒るだろ」
「怒るわよ。だって、あんたの“完璧”ってだいたい無茶の前振りだもの」
その言い方が、妙に自然だった。
前ならここで「そんなことない」とか何とか返していたかもしれない。けれど今は、そういう不毛な否定をする気になれない。
「じゃあ確認しながら行こう」
俺は石門の前に片膝をつく。
「お前が読む。俺はそれに従う」
「……従う、ねえ」
エルセは少しだけ苦笑した。
「その言葉、森の前で聞いてたら少しは楽だったかも」
「今は聞いてるだろ」
「そうね」
彼女は短く頷いた。
「今は、ちゃんと聞いてる」
それから、少しだけ間が空いた。
風が、木々の高いところを揺らす。
葉の擦れる音が、遺跡の石と石の隙間を抜けていく。
「……ありがとう」
エルセが本当に小さな声で言った。
今のは、たぶん反転していない。
俺は一瞬だけ驚いて、でもそこを大げさに拾わないようにして答える。
「どういたしまして」
そう返しただけで、エルセの耳がほんのり赤くなった。
「そういう普通の返し、今ちょっと反則」
「何でだよ」
「何ででも」
エルセは咳払いみたいに小さく息を吐く。
「……ほら、作業するわよ」
俺たちは土を払い、門の下部を少しずつ露出させた。
ガルムなら鍬の一つでも使って大ざっぱに掘るのだろうが、ここでそれをやる気にはなれない。刻印の一本を欠かせば、読めるものも読めなくなる。だから根を切る位置も、土を崩す場所も、全部エルセが指示した。
「そこ、刃を入れないで。根の下に補助線がある」
「見えてないぞ」
「あるの。右へ半指ぶんずらして」
「細かいな」
「細かくないと死ぬ場所なのよ、ここは」
少し言葉が強くなったあとで、エルセは自分でも気づいたらしい。
声の棘を、少しだけ引っ込める。
「……ごめん」
「気にするな」
「気にするわよ」
彼女は土を払う手を止めずに続けた。
「こういう場所に来ると、前より言い方がきつくなるの。自覚ある」
「自覚あるならまだましだろ」
「それ、慰めになってる?」
「半分くらいは」
「半分かあ……」
その“半分かあ”に、少しだけ笑いが混ざった。
やがて、石門の下部が見えた。
門そのものに扉はない。
代わりに、中央に楕円形のくぼみがある。鍵穴というより、媒介物を納めるための受け皿みたいな形だった。
「……空だな」
俺が言うと、エルセは頷く。
「ええ。何かを嵌めて起動するタイプ」
「鍵石か?」
「石とは限らない」
エルセはくぼみの縁を読んでいく。
「材質じゃなく、性質の方を問う刻みになってる」
「性質?」
「“由来が強いもの”“境界をまたいだもの”“帰還を望むものと共鳴するもの”……」
そこで彼女は少し言葉を切った。
「たぶん、媒介を入れる場所」
その単語が落ちた途端、俺の頭の中に図書院の写しがよみがえる。
由来。
固定座標。
最も強き縁。
俺は石門を見たまま、静かに問うた。
「……人、って可能性もあるのか」
エルセの手が止まる。
すぐには答えなかった。
「可能性としてはある」
しばらくしてから、彼女は言った。
「でも、ここで言う“人”は、生け贄みたいな意味じゃない。たぶん」
「たぶん?」
「古い帰還術は、命そのものを喰うより、“つながり”を使う方が多い」
エルセは慎重に言葉を選んでいた。
「人が必要なんじゃなくて、その人との縁が鍵になる。そういう形」
その説明は、わかるようで、わかりたくない。
「縁ってのは、具体的に何だ」
「記憶かもしれないし、契約かもしれないし、約束かもしれない」
エルセは目を伏せる。
「あるいは……帰る側が、一番強く手放せないと思ってるもの」
胸の奥が、ひどく静かに重くなる。
手放せないもの。
向こうの家族。
止まったままの約束。
元の世界。
そこまではいい。
でも、もしそれが“今ここにある誰かとの縁”も含むのだとしたら――。
考えかけて、止める。
ここで勝手に先へ飛ぶな。
昨夜、自分でそう言ったばかりだ。
「……続きを読むぞ」
俺が低く言うと、エルセは少しだけ安堵したみたいに頷いた。
「そうね」
そして、今度は俺の方を見る。
「今の、ちゃんと止まれたじゃない」
「何が」
「考えすぎるの」
エルセは小さく言った。
「顔に出てた」
そこまで見られていると、もう苦笑するしかない。
「お互い様だろ」
「そうかも」
それから二人で、門の外周を一周した。
裏側に回ると、石門は地面へ深く食い込んでいるように見えた。根の間をかき分けると、薄い石段の端が見つかる。下へ続いている。土に埋もれてはいるが、完全には塞がっていない。
「入口、別にある」
俺が言う。
「ええ」
エルセはその石段を見ていた。
「門そのものは起動用。人が出入りするなら、こっちね」
「なら、先に中を確認するか」
「待って」
エルセがすぐに止めた。
「罠の層を読む」
彼女は石段の縁へしゃがみ込み、黒い魔力を糸みたいに細く伸ばす。糸は土の下へ潜り、何かに触れて、少しだけ震えた。
「……やっぱり」
エルセが低く言う。
「封印と警報が二重。片方だけ切ると、もう片方が主陣へ知らせる」
「つまり?」
「雑に開けたら、向こうが起きる」
エルセは俺を見上げる。
「だから、あんたの出番」
「俺?」
「ええ」
少しだけ躊躇ったあと、続ける。
「外から来た“召喚の残滓”を持ってるのは、あんたの方だから。ここの式は、たぶんその残り香に一度だけ誤認する」
つまり、俺を“正規の鍵”と勘違いさせる、ということか。
「そんな都合よくいくか?」
「都合よくじゃない」
エルセは静かに言う。
「本来は、そうやって使われるはずだった場所なのよ。呼ばれた者を通し、繋ぎ、帰す」
そこで、少しだけ声が揺れた。
「……少なくとも、そういう理屈の上では」
俺は石段の前に膝をついた。
やることは単純だ。
掌の傷はすでに塞がりかけている。だから今度は血を使う必要はない。必要なのは、召喚された俺自身の魔力の癖、その痕跡だ。
「どう流す」
「この線をなぞるように、少しだけ」
エルセが石の縁を指す。
「強く入れすぎると主陣まで響く。弱すぎると開かない」
「難しいな」
「だから私が見る」
エルセは、今度は少し強めに言った。
「遼真」
「ん?」
「無理だと思ったら止める」
その声は静かだが、はっきりしていた。
「今回は、ちゃんと止まるために言うの。だから、ちゃんと聞いて」
その言い方に、俺は少しだけ息を止める。
“止まれと言うために言う”。
前なら、こいつはたぶんそこまで言葉を整えなかった。いや、整えられなかったのかもしれない。
「わかった」
俺はちゃんと頷く。
「聞く」
右手を石段の縁へ置く。
冷たい。
湿っている。
でも、その奥に確かに術式の流れがあった。
俺は目を閉じず、呼吸だけ整える。あの祭壇の時みたいに、自分の中の“帰りたい”に呑まれすぎるのは危ない。今必要なのは、俺がここへ呼ばれた痕跡だけを浅くなぞることだ。
少しだけ。
本当に少しだけ。
魔力を流す。
石が、低く鳴った。
ごく小さい振動。次いで、足元の土の下で何かが噛み合うような音がする。石段の脇に埋もれていた補助線が、青白く薄く点った。
「……そのまま」
エルセの声がすぐ横で響く。
「強くしないで。もっと、そう……扉に“思い出させる”くらいで」
妙な言い方だ。
でも、その方がわかりやすい。
俺は魔力を押し込むんじゃなく、触れたまま少しずつ馴染ませる。すると青白い線が一本、二本と奥へ走っていく。
石段の奥から、低い風が吹いた。
「開く」
エルセが言う。
「今、止めると逆に閉じる」
「止めない」
「よろしい」
その瞬間、石段の前を塞いでいた土と根が、左右へ押し広げられるようにずれた。
完全に消えたわけじゃない。
でも、人ひとりが斜めに通れる程度の隙間はできた。下へ続く石段の輪郭が、はっきり現れる。
冷たい空気が下から吹き上がる。
古い石の匂い。
湿気。
わずかに残る、焦げたような魔力の匂い。
「……ほんとに開いたな」
思わずそう呟くと、エルセが小さく頷いた。
「ええ」
その横顔は、緊張しているのに、どこか静かだった。
「ここから先が、本当に本番」
俺たちはしばらく、その暗い階段を見つめていた。
石門の向こう。
主陣へ続く入口かもしれない場所。
帰還陣の核心に近づく道。
足を踏み入れれば、たぶんまた何かが変わる。
だから、今ここで一度だけ確認する。
「行けるか」
俺が聞く。
エルセは少しだけ俺を見て、それから答えた。
「行く」
短くて、迷いのない声だった。
「でも、一つだけ」
「何だ」
「中で何を見ても、まず私に言って」
エルセは静かに続ける。
「黙って一人で決めないで」
俺はそれを、ちゃんと聞いた。
「わかった」
「本当に?」
「本当に」
少しだけ間が空く。
それからエルセが、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「……じゃあ行きましょう」
帽子を押さえ、銀髪の魔女は先に一歩、石段へ足をかける。
「今度こそ、ちゃんと話しながらね」
俺もその後に続く。
朝霧の道の先で。
俺たちはようやく、止まれと言うための言葉を、少しずつ覚え始めていた。




