第21話 地下祭殿、ふたりの距離はごまかせない
石段の下から吹き上がってくる空気は、森の湿り気とは少し違っていた。
冷たい。
だが、ただの地下の冷気じゃない。
長いあいだ閉ざされていた場所が、久しぶりに外へ呼吸を漏らしたような、そんな薄い圧がある。
エルセが先に一段下りる。
俺はその半歩後ろについた。
石段は狭かった。二人並ぶには足りない。だから自然と前後に重なる形になる。上から落ちる霧の白さはすぐに薄れて、かわりに壁に刻まれた細い補助印が、かすかな青白い光を灯し始めた。
「……これ、自動で?」
俺が小声で聞くと、エルセは振り向かないまま答えた。
「起動じゃないわ」
「じゃあ何だ」
「認識よ」
彼女は手すり代わりに壁へ軽く指を這わせる。
「外から来たものが、正規の流れを踏んで入ってきたってだけ。たぶん、あんたの魔力の残り香に反応してる」
その説明はわかるようで、わかりたくない。
俺はまた、自分が“ここへ呼ばれた側”であることを思い出す。
それは帰還の糸口でもあるが、同時に、ここが俺を閉じ込めていた世界の残骸でもあるのだ。
「遼真」
前からエルセの声がする。
「止まって」
反射で足を止める。
数歩先で、石段が踊り場みたいに広がっていた。正面には崩れた壁。だがよく見ると、壁に見えていたものの半分は影だ。そこへ無造作に踏み込めば、たぶん落ちる。
「……穴か」
「ええ」
エルセが少しだけ肩越しに振り返る。
「前なら、そのまま行ってたでしょ」
「否定しづらいな」
「しないで」
エルセは小さく息を吐いた。
「今それやられると、本当に困るから」
その“困る”が、前よりずっと軽く聞き流せない。
俺は石段の壁に手をつき、穴の縁を避けるように回り込んだ。エルセが足元を見ながら進むたび、帽子のつばの下で銀髪が少し揺れる。下へ降りるほど、空気は静かになっていった。
不意に、エルセが低く言う。
「……変ね」
「何が」
「もっときついと思ってた」
彼女は足を止めない。
「主陣の前室に近いなら、外から入るだけで拒絶が強く出るはずだったのに」
「歓迎されてる?」
「それはない」
即答だった。
「でも、拒絶が弱すぎるのも変」
少しだけ間が空く。
「たぶん誰かが一度、ここを起こしかけてる」
その一言で、喉の奥がわずかに乾く。
「最近か?」
「そこまではまだわからない」
エルセは壁の刻印を目で追う。
「ただ、完全に死んだ陣じゃない。眠ってるだけでもない。途中まで呼吸が戻ってる」
つまり、俺たちの前に誰かがここへ触れた可能性がある。
それはあまり嬉しくない情報だった。
「先生に話してた“触れられて困る誰か”か」
俺が言うと、エルセは小さく頷く。
「その可能性は高い」
「だとしたら急いだ方がいいんじゃないか」
言い終える前に、自分で少しだけしまったと思う。
急ぐ。
前の俺なら、その一言で全部を押し切っていた。
エルセは立ち止まり、ゆっくり振り返った。
「急ぐのと、雑に進むのは違う」
声は強くない。
でも、はっきりしていた。
「今のは、どっちのつもり?」
問いかけ方が、前と違う。
怒って止めるんじゃない。
ちゃんと、俺に選ばせるように聞いてくる。
俺も、その違いにすぐ気づいた。
「……急ぐ方」
正直に言う。
「雑に進むつもりはない」
エルセは数秒こちらを見て、それから小さく息を吐いた。
「ならいい」
ほんの少しだけ、口元がやわらぐ。
「今の、ちゃんと答えたから」
そう言われると、妙に胸の奥が静かになる。
たぶん、これがミレナの言っていた“ちゃんと喋れ”の意味なのだろう。
以前なら俺は、急ぎたい理由だけを抱えて黙って前へ出た。
エルセはそれを止めようとして、きつい言葉になるしかなかった。
今は少しだけ違う。
それだけのことなのに、森の中よりよほど息がしやすかった。
◇
石段を下り切ると、そこは細長い回廊になっていた。
左右の壁には古い浮き彫りが並んでいる。半分以上は削れていたが、残っている部分だけでも十分異様だった。円環の中へ立つ人影。手を差し伸べる複数の影。光の向こう側へ消える輪郭。
召喚。
定着。
送還。
そのどれもが、宗教画に似た誇張を帯びている。
「……趣味悪いな」
思わず言うと、エルセが小さく頷く。
「同感」
彼女は壁画を見上げたまま続ける。
「古い術って、成功例だけを神秘みたいに飾るのよ。途中で壊れたものとか、帰れなかったものとか、そういうのは絵にならないから」
「都合の悪いところだけ削るのは、人間らしいな」
「ええ」
そこで少しだけ声が低くなる。
「人を扱う術のくせに、人の痛みは記録しないの」
その一言に、俺は何も返せなかった。
ここがエルセにとって、ただの遺跡じゃないことを思い出す。
彼女自身が、そういう術の痛みを抱えている。
歩きながら、ふと聞いた。
「お前、最初に呪いを受けた時」
「……何」
「今みたいに、全部わかってたわけじゃないんだろ」
エルセの足が少しだけ緩む。
「そうね」
短い返事。
「最初は、もっと単純だと思ってた」
「単純?」
「緊張して言い間違えるとか、その程度」
彼女は少しだけ苦い笑いを混ぜる。
「だから何度も失敗したわ。ありがとうって言うつもりで傷つけて、心配してるつもりで突き放して」
そして、小さく続ける。
「大事な相手ほど、ひどくなるなんて、その時はまだわからなかった」
“大事な相手”。
その言葉は回廊の冷たい空気の中で、妙にまっすぐだった。
俺は少しだけ息を止め、それからできるだけ自然に聞く。
「……じゃあ、今は」
エルセがこちらを見た。
「今は何」
「わかってるんだろ。大事な相手ほど、って」
喉が少しだけ渇く。
「だったら、逆に言えば、誰にどう出るかもわかるのか」
数歩ぶん、沈黙が続いた。
エルセは前を向き直る。
帽子のつばを少しだけ下げる。
「……全部はわからない」
やがて、そう答えた。
「呪いは機械みたいに綺麗じゃないから。その時の感情とか、言おうとした言葉とかで揺れる」
「でも、だいたいは?」
「だいたいは」
そこまで言って、彼女は少しだけ呼吸を整える。
「……わかる時もある」
つまり、俺に向けた言葉がどう反転するか、本人はある程度わかっているのだ。
だから止める。
だから“別に”や“知らない”へ逃がす。
そう思うと、今までの全部が少し違って見える。
「……大変だな」
また同じ言葉が出た。
エルセは前を向いたまま、少しだけ肩を揺らした。
「前にも言った」
「だって、本当にそう思うから」
「そうやって、変にまっすぐ返すのも困るって言ったわよね」
「覚えてる」
「じゃあ少しは気をつけて」
でも、その声には前ほどの困り方は混ざっていなかった。
困る。
でも、嫌ではない。
今の俺には、その違いが少しずつ見える。
◇
回廊の先で、広間に出た。
円形に近い空間だった。天井は高く、半ば崩れているのに、中心部だけは奇妙に保たれている。床には巨大な紋が刻まれ、その上にさらに細かい補助線が幾重にも重なっていた。
主陣だ。
見た瞬間、それがわかった。
「……これか」
息が勝手に浅くなる。
祭壇でも中継核でもない。
こっちはもっと完成されている。
召喚のための大枠。
定着のための固定点。
そして、中心部に向かって収束していく戻りの線。
俺は一歩、前へ出かけた。
「遼真」
エルセの声がした。
止まる。
それだけで、前回までと何かが違うと自分でもわかった。
「……何が見える」
彼女が静かに聞いてくる。
「帰還の核に近い」
俺は主陣を見たまま答える。
「少なくとも、今まで見たどの断片より核心に近い」
「うん」
「中央に戻りの線がある」
「うん」
「でも、閉じてる」
そう言い切ると、エルセが少しだけ息を吐いた。
「よかった」
「何が」
「すぐ起動できる状態じゃないって、あんた自身が見えてるなら」
彼女はゆっくり近づいてくる。
「それなら、いきなり飛びつかないで済む」
そう言われて、少しだけ苦笑が漏れる。
「信用ないな」
「あるわよ」
エルセは俺の少し横に立った。
「あるけど、勢いで全部押し切れる人に対する信用って、少し形が違うの」
その言い回しは妙に納得できた。
俺たちは並んで主陣を見る。
中心部には、前室の門と同じく楕円形の受け皿がある。だがこちらは空ではない。薄い結晶片みたいなものが埋まっていた。砕けていて、完全ではないが、媒体の残骸だろう。
「これ、何だと思う」
俺が聞くと、エルセは慎重に目を細める。
「……境界石の一種」
「石?」
「石、という呼び方でいいのか微妙だけど」
エルセはしゃがみ込み、中心部の外側から読む。
「異界間の“位相差”を固定するための媒介。ここの主陣は、たぶん呼ぶだけじゃなく、送る側にも対応してた」
「じゃあ、帰還陣として本当に使える?」
問いが少し前のめりになる。
エルセはすぐに答えなかった。
その沈黙が怖い。
「可能性は高い」
やがて彼女は言った。
「でも、“使える”と“安全に使える”は別」
「代償か」
「ええ」
その一言が、広間の空気を少しだけ重くする。
「何を代償に求める?」
俺が低く聞く。
エルセは主陣の中心部と、その周囲の戻り線を何度も見比べた。
「まだ断定できない」
「推測は」
「……」
彼女は少しだけためらう。
「たぶん、この陣は単純な魔力や物質じゃ足りない」
「じゃあ」
「“繋がり”を削るタイプ」
エルセは、はっきり言った。
「呼ばれた者と世界を結ぶ線を使って、帰還の座標を押し開く。たぶん、一番強い縁から順に」
胸の奥が、静かに重くなる。
一番強い縁。
向こうに残した家族。
途中で切れた約束。
あるいは、今ここにある何か。
「削る、ってのは」
俺は喉を鳴らす。
「記憶か?」
「それもありえる」
「感情?」
「それも」
エルセは前を向いたまま言う。
「最悪の場合、つながりそのもの」
「つまり」
言葉が少しだけ苦くなる。
「帰る代わりに、誰かとの縁を失うかもしれないってことか」
エルセは、ゆっくり頷いた。
「……そう」
長い沈黙が落ちる。
ここへ来るまでは、帰還陣が見つかるかどうかばかりを考えていた。
あれば進める。
なければ探す。
それだけの話だと思っていた。
でも現実は違う。
あった。
しかも、かなり明確な形で。
そのうえで、“何を差し出すのか”が目の前に置かれた。
「遼真」
エルセの声が、少しだけやわらかい。
「今、何考えてる」
俺はすぐには答えなかった。
何を考えている。
正直に言えば、全部だ。
向こうのこと。
帰りたい気持ち。
ここで失うかもしれないもの。
そして、その“失うかもしれないもの”の中に、もうエルセが含まれてしまっているのではないかという予感。
それを、どう言えばいい。
「……前なら」
やっと口を開く。
「代償が何であっても、帰る方を選ぶって即答してたと思う」
エルセが黙って聞いている。
「でも今は、その“何を失うか”を見ないまま決めるのは、たぶん違うって思ってる」
そこで、俺は少しだけ彼女を見た。
「お前の言う通りだ」
「……」
「見つけた瞬間に決めるのは、違う」
エルセはすぐには何も言わなかった。
でも、灰青の瞳が少しだけ揺れる。
「そう」
やがて、小さく言う。
「なら、今日はそこまで」
「ここで終わるのか」
「終わる」
エルセはきっぱりと言い切った。
「主陣は見つけた。帰還陣として機能する可能性も高い。代償の方向性も見えた」
それから少しだけ声を落とす。
「十分よ。これ以上は、今のあんたじゃ近づきすぎる」
前なら、その言い方に反発していたかもしれない。
でも今は、反発より先に、ちゃんと自分の中の熱が少し危うくなっているのがわかっていた。
帰還の鍵がある。
でも回すには代償がいる。
それが“縁”だとしたら、俺は本当に何を選ぶのか。
ここで勢いだけで答えを出すのは、たしかに危ない。
「……わかった」
俺は頷く。
エルセが、ほんの少しだけ安堵したように息を吐く。
「えらい」
「その褒め方、まだ雑だな」
「仕方ないでしょ。今の私、かなり頑張ってるんだから」
その返しに、少しだけ笑ってしまう。
するとエルセが、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「何」
「いや」
笑いを消しきれずに言う。
「そういうの、ちゃんと言うようになったなと思って」
エルセは少しだけ黙った。
それから、火照りを隠すみたいに視線を外す。
「……言わないと、たぶんわからないから」
「俺が?」
「そう」
少しだけ強めに言われる。
「今までずっと、わからないまま平気そうな顔してたんだから」
「悪かったよ」
「それも前より素直」
エルセは小さく息を吐く。
「ほんと、調子狂う」
その“調子狂う”が、前よりやさしく聞こえる。
広間の空気は冷たいのに、不思議と息苦しくはなかった。
俺たちは主陣を最後にもう一度だけ見た。
帰還の本体に最も近い場所。
それは、希望そのものであり、同時に問いでもある。
帰還陣は、何を代償に求めるのか。
その答えを、今すぐ出すことはできない。
でも、ここまで来た以上、もう知らないふりもできない。
「戻るか」
俺が言う。
「うん」
今度のエルセの返事は、短くて、やわらかかった。
そして俺たちは、主陣に背を向けた。
たぶん、ここからが本当に難しい。




