第22話 代償の名前を、まだ呼べない
主陣の広間を出て、回廊へ戻ったあともしばらく、俺たちはほとんど喋らなかった。
石の壁に刻まれた古い浮き彫り。
足元を這う薄い霧。
俺たちの靴音だけを、低い天井が乾いた響きで返してくる。
来る時より慎重なのは、罠のせいだけじゃない。
さっき見たものが、まだ頭の中で整理しきれていなかった。
帰還陣はあった。
しかも、はっきりと。
ここまで追ってきたものが、ようやく形になって目の前へ現れた。
でも同時に、それは問いでもあった。
何を代償に求めるのか。
一番強い縁とは何なのか。
それを削ってまで帰るのか。
考えないわけにはいかない。
なのに、今ここで答えが出る気もしなかった。
「……遼真」
前を歩いていたエルセが、少しだけ振り返らずに言った。
「何だ」
「ちゃんと、見えてる?」
妙な聞き方だった。
「何が」
「足元じゃなくて」
エルセは少しだけ間を置く。
「今、自分がどんな顔してるか」
俺は思わず苦笑した。
「見えてないな」
「そう」
エルセの返事は短かった。
「やっぱり」
それで終わると思ったのに、彼女は少し歩幅を緩めた。俺が隣まで追いつける程度に。
「さっきの広間で」
エルセは前を向いたまま続ける。
「主陣を見た時のあんた、最初はすごく、いつもの顔だった」
「いつもの顔?」
「帰れるかもしれないって時の顔」
声は静かだ。
「それ自体は、別に驚かない。だって、それを見つけるためにここまで来たんだから」
そこまでは、俺もわかる。
「でも、そのあと違った」
エルセはほんの少しだけ言い淀んだ。
「代償の話をした時、あんた、一回ちゃんと止まったでしょ」
「……そうだな」
「だから、余計に怖いの」
彼女は低く言った。
「止まれるようになったあんたが、最終的に何を選ぶのか、前よりわからなくなったから」
回廊の空気は冷たいのに、その言葉は妙に熱を持っていた。
俺はすぐには返事ができなかった。
エルセは、前の俺ならわかりやすかったと言いたいのだろう。
帰還を最優先にして、他のものは見ない。
そういう一直線さは、残酷でもあるが、少なくとも理解はしやすい。
でも今の俺は、そのままではいられなくなっている。
「……前の方がよかったか」
気づけば、そう聞いていた。
エルセの肩が小さく動く。
「よくない」
返事はすぐだった。
「全然よくない」
それから少しだけ、困ったみたいに続ける。
「でも、今の方が難しい」
「難しい、か」
「だってそうでしょ」
エルセは足を止めないまま言う。
「前のあんたは“帰るためなら全部後回しにする人”だった。だから、私はそれを前提に、どう止めるかだけ考えればよかった」
「今は違う?」
「違う」
きっぱりしていた。
「今は、あんた自身が止まる時がある。迷う時もある。ちゃんと見る時もある」
少しだけ、声がやわらぐ。
「だから、嬉しいのに……そのぶん期待もしてしまう」
期待。
その言葉を、エルセはかなり慎重に選んだのだと思う。
もっと強い言葉だって、本当はあったかもしれない。
でも今は、そこへは行かない。
行けない、のかもしれない。
「……それで」
俺は少しだけ呼吸を整える。
「期待した結果、もし俺が帰る方を選んだら」
エルセはしばらく黙った。
そして、ほんの少しだけ目を伏せる。
「傷つく」
短い声だった。
「たぶん、すごく」
そのあと、小さく付け足す。
「でも、傷つくからって、最初から何も思わないようにはできない」
それは、あまりにもまっすぐで。
たぶん今の彼女にとって、精一杯の本音に近かった。
俺は返事を探した。
でも、うまく出てこない。
慰めみたいなことは言いたくない。
簡単な約束も、たぶん違う。
かといって黙っているのも、卑怯な気がする。
「……エルセ」
名前だけ呼ぶ。
「何」
「今、適当なこと言いたくない」
俺は正直に言う。
「安心させるためだけのこととか、その場しのぎのこととか」
少しだけ喉が乾く。
「でも、傷つくって言われて、何も思わないわけじゃない」
エルセは視線だけでこちらを見た。
灰青の瞳が、ほんの少し揺れている。
「そういうの」
彼女は苦く笑うみたいに言った。
「一番困る返しなのよ」
「そうか」
「そうよ」
少しだけ息を吐く。
「だって、それで十分うれしいのに、それだけじゃ足りないって思ってしまうから」
俺は足を止めそうになった。
だが、回廊はまだ終わっていない。
ここで立ち尽くせば、前へも後ろへも行けなくなる気がした。
だから歩く。
歩きながら、少しだけ言う。
「足りないのは、たぶん俺も同じだ」
エルセが一瞬だけ息を呑む。
「でも、じゃあ何が足りないのかって聞かれると、まだうまく言えない」
それは、今の俺の本音だった。
足りない。
でも、何をどう埋めればいいのか、まだわからない。
帰還か、残留か、そんな大きい話の手前にある何かが、まだ輪郭を持ちきっていない。
エルセはしばらく黙っていたが、やがて本当に小さく笑った。
「……やっぱり、ずるい」
「便利だな、その単語」
「便利なの」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「でも今のは、ちゃんとそういう意味」
「どういう意味だよ」
「説明しない」
「何で」
「説明したら、たぶんまた一個進むから」
そこでエルセは、少しだけ照れたみたいに視線を逸らす。
「今はまだ、ここでいい」
その“ここでいい”に、俺は少しだけ救われる。
無理に答えを出さなくていい。
でも、何もなかったことにもならない。
その中間を、今は歩いている。
◇
回廊を抜け、石段を上がり、地上の石門まで戻った頃には、外の光が少し傾き始めていた。
森の霧は、昼間よりわずかに濃い。
それでも前回みたいな圧迫感はない。主陣を見つけて戻る道は、不思議と来る時より平坦に感じられた。
もちろん、森そのものが優しくなったわけじゃない。
途中で二度ほど、見せかけの道が現れた。
遠くから声もした。
一度は、王都の女将の声にそっくりだった。
『帰ったら話があるよ』
ぎくりとするような声音だった。
でも今度は、俺は返事をしなかった。
代わりに、すぐ横でエルセが言う。
「今の、だいぶ似てたわね」
「ああ」
「でも止まった」
「まあな」
「……えらい」
「またその雑な褒め方か」
「本当に褒めてる時ほど雑なのよ」
「不便だな、お前」
「そうね」
エルセは少しだけ笑う。
「私もそう思う」
そのやり取りがあまりにも自然で、少しだけ変な気分になる。
前なら、こういう時の会話はもっと短かった。
あるいはもっと尖っていた。
今は違う。
ミレナの言った通り、喧嘩でもいいから、黙って勝手に決めない。
たぶん、その効果なのだろう。
「遼真」
「ん?」
「さっきの話の続き」
エルセが少しだけ真面目な声に戻る。
「代償が“強い縁”だったとして、それが何を削るのかはまだわからない」
「ああ」
「でも、もし本当に“誰かとのつながり”を削るなら」
そこで、エルセは一瞬だけ言葉を止める。
「……私は、たぶん、その場で起動してほしくない」
はっきりした意思表示だった。
俺はすぐに頷いた。
「しない」
「即答?」
「そこはできる」
少しだけ考えてから、続ける。
「帰るかどうかより先に、何を失うのかを確認しないまま動かすのは、さすがに違う」
そして、正直に付け足す。
「前なら、たぶんやってたかもしれないけど」
エルセはその最後の一言に反応した。
「それ、ちゃんと自覚してるのね」
「してるよ」
「……そう」
少しだけ息が抜ける音がする。
「それなら、少しだけ安心する」
少しだけ、というところがエルセらしかった。
全部じゃない。
でもゼロでもない。
その程度の塩梅を、たぶん俺たちはまだ練習している。
◇
外縁の石碑まで戻ると、ミレナがほとんど飛びつく勢いで駆け寄ってきた。
「おかえりなさい! 遅いです! でも無事でよかったです! で、どうでした!?」
「一息で全部聞くな」
俺が言うと、ミレナは杖を抱えたまま身を乗り出した。
「でも気になるじゃないですか!」
ガルムは火のそばで腕を組んだまま、ひとことだけ言う。
「顔見りゃわかる。見つけたんだろ」
さすがだな、この猟師。
エルセが先に答えた。
「ええ。主陣そのものか、それに直結する前室まで」
「本当に!?」
ミレナの目が一気に輝く。
「じゃあ帰還陣の本体――」
「落ち着け」
俺が制する。
「見つけたのは確かだ。でも、そこから先が問題だ」
「……代償ですか」
ミレナの表情が少しだけ真剣になる。
俺とエルセは顔を見合わせた。
こういう時、どこまで言うべきかを前よりちゃんと考えるようになったと思う。
俺が先に口を開いた。
「まだ断定じゃない。でも、魔力や物じゃ足りない可能性が高い」
「強い縁、ですね」
ミレナは小さく言った。
そこまで読めるか。
「先生に聞いたのか」
俺が問うと、ミレナは少しだけ気まずそうに笑う。
「直接じゃないです」
「でも知ってた?」
「文献で少し」
ミレナは視線を落とす。
「第二紀後期の帰還術って、“何かを差し出して道を開く”系統が多いんです。特に呼ばれた側の由来が強い場合、それを固定した線から順に削るって書いてありました」
やはり、そうか。
言われれば言われるほど、重くなる。
「じゃあ、なおさら先生と詰める必要があるな」
俺は言う。
「今日のうちに戻る」
「ですね」
ミレナは頷く。
「でも、夜の森を無理して抜けるより、外縁で一泊して朝一で王都へ戻った方が安全です」
「そうね」
エルセも同意する。
「主陣の位置は逃げないし、今は整理の方が先」
ガルムはそれを聞いて、ようやく火へ薪を足した。
「なら話は早い。今日はここで寝ろ。明日の朝、俺が王都まで戻す」
異論はなかった。
◇
夕飯のあと、火の周りの空気は前回よりましだった。
重いことに変わりはない。
でも、重いまま黙り込むだけじゃなくなっている。
ミレナが主陣の外周印について矢継ぎ早に聞き、エルセがそれに答え、俺が補足する。ガルムは半分も理解していない顔で聞き流しつつ、肝心なところだけはちゃんと拾っていた。
「つまり」
猟師が言う。
「帰れる道は見つかったかもしれんが、その道を通ると何かを落とすかもしれん、ってことか」
「だいたいそうです」
ミレナが頷く。
「しかも、その“何か”がたぶん師匠にとってかなり大きい」
火が、ぱち、と鳴る。
ガルムは俺をちらりと見て、それから肩をすくめた。
「なら、すぐ歩かんで正解だな」
「意外ですね」
ミレナが目を丸くする。
「もっと“見つけたならさっさと行け”って言うかと」
「獲物でも道でも同じだ」
ガルムは淡々としている。
「見つけた瞬間に飛びつくやつは、だいたいその先の穴を見る前に落ちる」
それは、思っていたより刺さる言葉だった。
俺が何も返せずにいると、エルセがぼそりと言う。
「……周りがみんな同じこと言うあたり、よっぽどなのよ」
「言うなよ」
「事実でしょ」
エルセは火を見たまま続ける。
「前のあんたなら、今日あの場で絶対に一回は“起動できるか試す”って言ってた」
「……まあ」
「でしょ」
少しだけ溜息が混ざる。
「だから、今日はちゃんと止まった方だと思う」
ミレナがすかさず頷く。
「すごく進歩です」
「そこまで言われると嬉しくないな」
「でも本当です」
ミレナはきっぱり言った。
「お姉さんもそう思いますよね?」
急に振るな。
だがエルセは、少しだけ考えてから答えた。
「……そうね」
火の向こうで、彼女の横顔がやわらぐ。
「前より、だいぶ」
その“前よりだいぶ”が、妙に胸の奥に残った。
前より。
つまり、まだ途中だ。
でも、途中まで来ているとも言える。
ミレナはそれに満足したらしく、寝袋へ潜り込みながら小さく笑った。
「じゃあ、次は“代償をちゃんと調べる”ですね」
「軽く言うなあ」
俺が言うと、ミレナは毛布の中から顔だけ出す。
「軽く言ってませんよ。でも、見つかっただけで終わりじゃないって、今はちゃんと全員わかってるじゃないですか」
そこで、少しだけ目を細める。
「それって、前よりずっと強いです」
寝る直前なのに、こいつは時々ほんとにいいことを言う。
ガルムは先に目を閉じた。
ミレナもすぐに静かになる。
残ったのは、俺とエルセ、それから火の音だけだ。
しばらくして、エルセが小さく言った。
「……ねえ」
「何だ」
「今日の主陣、見つけた時」
エルセは火の向こうを見たまま続ける。
「嬉しかったでしょ」
答えに迷う問いではなかった。
「嬉しかった」
俺は正直に言う。
エルセは頷く。
「うん」
それから、少しだけ間を置いて続ける。
「でも、前みたいに“それだけ”じゃなかった」
俺は黙って聞く。
「そこが、たぶん……今日、一番よかった」
その言葉を聞いて、胸の奥に静かに落ちるものがあった。
帰還の鍵を見つけた。
それは今も嬉しい。
でも、それだけじゃなかった。
代償のこと。
失うかもしれないもの。
エルセの顔。
全部がちゃんと同じ場所に並んでいた。
それは、迷いなのかもしれない。
でも、たぶん前よりは、ちゃんと人間らしい迷いだ。
「……そうか」
俺が言うと、エルセは小さく頷いた。
「そうよ」
そのあとは、もう何も言わなかった。
火が小さく揺れる。
森の霧が、遠巻きに夜を包む。
帰還陣は見つかった。
でも、その鍵はまだ回らない。
いや、回してはいけないのかもしれない。
それを確かめるために、俺たちは明日、また王都へ戻る。
そしてその先で、何を失うのか、何を失わないのか――たぶん本当に問われるのは、そこからだった。




