第23話 代償を減らす方法は、まだあるか
朝の森は、昨夜より少しだけましな顔をしていた。
霧は薄く、白さも柔らかい。けれど、だからといって気を抜ける場所じゃないことは、もう全員が知っている。ガルムは無駄口を叩かず荷をまとめ、ミレナは観測盤を回収しながら何度も数値を確かめていた。
俺は出発の支度をしながら、どうしても一度、石碑の向こうの森へ目がいく。
あの奥に主陣がある。
帰還の本体に最も近い場所。
でも同時に、何かを求める場所でもある。
エルセが、その視線に気づいたらしい。
「……戻るわよ」
帽子のつばを押さえながら、低く言う。
「今は、行かないって決めたでしょ」
「決めた」
俺は短く答える。
「なら、そういう顔しないで」
「どんな顔だよ」
エルセは少しだけ考えてから言った。
「今にも森へ引っ張られそうな顔」
言われてみれば、そうかもしれない。
主陣の位置がわかった以上、頭のどこかはずっとあそこに引かれている。だが昨日、広間で自分でも認めたはずだ。見つけた瞬間に全部を決めるのは違う。何を代償にするのか、その正体を詰めないまま動かすのは、さすがに危うい。
「……ちゃんと戻るよ」
俺が言うと、エルセは小さく頷いた。
「うん。今のは、ちゃんと聞こえた」
その言い方が、少しだけ胸に残る。
“ちゃんと聞こえた”。
前なら、こんな一言にも意味を探るのはよくないと思っていた。でも今は、意味を探る以前に、意味があることをもう知ってしまっている。
ミレナが観測盤を袋へしまいながら、元気よく割り込んできた。
「では、王都に戻りましょう! 今日は先生のところで徹底的に資料を洗います!」
「徹底的にはいいけど、お前、寝不足だろ」
俺が言うと、ミレナは胸を張る。
「こういう時のための気合いです!」
「便利な言葉だな、それ」
「師匠の“何とかなる”よりは信頼できます」
「ひどいな」
エルセがその横で、小さく息を吐いた。
「それは私も少し同意」
「お前までか」
朝の空気が少しだけ軽くなる。
たぶん、昨日までならこうはならなかった。主陣を見つけたあとで、こんなふうに普通の会話を挟める余地はなかっただろう。今はまだ重さはある。でも、その重さだけで全部が詰まってしまうわけではない。
それが進歩なのか、単に慣れたのかはわからない。
ただ、少なくとも前より“会話の途中で終わらない”感じはあった。
◇
王都までの帰り道、ガルムは先導、ミレナは半分居眠りしながらも観測結果をぶつぶつ整理していた。
だから、自然と俺とエルセのあいだに少し長い空白ができる。
その空白を、今は前ほど苦痛に感じなかった。
俺たちは並んで歩いている。
たまに袖が触れそうなくらいの距離で。
でも、どちらも無理に離れない。
それだけのことが、以前よりずっと大きい。
「……ねえ」
しばらくして、エルセが小さく言った。
「何だ」
「ひとつ、先に言っておくけど」
彼女は前を向いたまま続ける。
「先生のところで、代償の話がもっと具体的になっても、今すぐ結論出そうとしないで」
「昨日も似たようなこと言ってたな」
「似てるけど、少し違う」
エルセはゆっくり言葉を選ぶ。
「昨日は、主陣を見つけた勢いで決めそうだったから止めた。今日は……」
そこで少しだけ詰まる。
「今日は、逆に、怖くなって全部保留にしそうだから」
図星だった。
主陣の代償が“強い縁”だと見えた時から、頭の中に霧がかかったみたいになっている。
向こうへ帰るために何かを差し出す。
その“何か”が曖昧なうちは進めた。
でも“縁”という言葉が出た途端、それは急に現実味を帯びた。
「……そんな顔してたか」
俺が聞くと、エルセは少しだけ肩をすくめる。
「してる」
「自分じゃわからん」
「だから言ってるの」
彼女は小さく息を吐く。
「遼真って、前は“帰るためなら全部見ない”って顔してたけど、今は逆。見えてしまったから、今度は全部一回止めようとしてる」
少しだけ間が空く。
「どっちも極端」
言われてみれば、その通りかもしれない。
エルセは続ける。
「ちゃんと考えるのはいいことよ。でも、考えるって、止まることとは違うでしょ」
「……難しいな」
「難しいわよ」
エルセはあっさり認めた。
「私だって、もっと簡単なら苦労しない」
そこでふと、俺は横を見た。
エルセも前を向いたままだが、ほんの少しだけ表情が緩んでいる。きついことを言っているわりに、言葉そのものはだいぶ柔らかい。
「お前、前よりだいぶ喋るようになったな」
思わず口にすると、エルセがすぐにむっとした。
「誰のせいだと思ってるの」
「俺か?」
「半分はそう」
即答だった。
「残り半分は、たぶんミレナ」
「なるほど」
「納得しないで」
「いや、妙に腑に落ちたから」
少し笑うと、エルセは眉を寄せる。
「そうやってすぐ笑うの、まだ慣れない」
「笑うなって?」
「そういう話じゃないの」
彼女は少しだけ視線を下げる。
「前より近くなった感じがして、調子が狂うって言ってるの」
その言葉は、思っていたよりまっすぐだった。
俺は返事を探す。
だが、適当に誤魔化すのも違う気がした。
「……俺も少しは狂ってる」
結局そう言うと、エルセがぴたりと黙る。
「何それ」
「そのままだ」
俺は肩をすくめた。
「前みたいに考えないふりができなくなったから」
「……」
「お前の言葉も、顔も、前よりちゃんと見える」
少しだけ言葉を選ぶ。
「それで困ってるなら、俺も同じくらいは困ってる」
エルセはそれを聞いて、すぐには返さなかった。
風が草を揺らす。
前を歩くガルムの背中は変わらず無口だ。
やがて、エルセが本当に小さく言った。
「……今の、たぶん結構ずるい」
「またか」
「またよ」
けれど声は少しだけ笑っていた。
「そういうふうに言われると、こっちだけじゃないって思えて、安心するから」
少しだけ間が空く。
「安心すると、その分また欲が出るのに」
そこまで言って、エルセは自分で止めた。
それ以上は言わない。
でも、たぶんそこに続く言葉の気配だけは残る。
俺はそれを追わず、ただ一つだけ返した。
「……今日は、ちゃんと話してるな」
エルセが少しだけ目を丸くして、それから困ったように笑う。
「そうね」
「ミレナの言う通りか」
「たまにだけど、あの子は本当に正しいこと言うわ」
「たまに、か」
「たまによ」
そう言い切ってから、小さく付け足す。
「……でも、それだけじゃないと思う」
そこは、たぶん聞いてほしいところだった。
「何が?」
俺が問うと、エルセは前を向いたまま答える。
「遼真が、前より逃げなくなったから」
短いけれど、はっきりした声だった。
「私の言葉からも、自分の答えからも」
俺は少しだけ息を止める。
たしかに、そうかもしれない。
帰るか残るか、という一番大きな問いの前で、俺はずっとそこへ至るまでのものを見ないようにしていた。でも今は違う。違うのだと、こうして言われるとようやく実感する。
「……全部はまだ逃げたいけどな」
正直に言うと、エルセは少しだけ呆れたように息を吐いた。
「そこを正直に言うのも、前よりよほど悪いわね」
「褒めてないな、それ」
「全然」
それでも、前よりずっとやわらかい声だった。
◇
王都へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
図書院へ直行すると、オーウェンは珍しく俺たちを待っていた。机の上には、すでに大量の写本と地図、それから古い術式図が広げられている。
「遅い」
開口一番、それだった。
「早く戻った方だと思いますけど」
俺が言うと、老人は鼻を鳴らす。
「主陣まで行って、その日のうちに戻ってきた連中に対して“遅い”以外の言葉をかける趣味はない」
「それ、褒めてるんですか?」
ミレナが聞く。
「褒めてはおらん」
だが口調には、ほんの少しだけ安堵が混ざっていた。
俺たちはそのまま研究室へ入り、主陣の構造について話した。中継核との繋がり。前室の門。地下へ降りる石段。主陣中心部の受け皿。残骸として残っていた境界石。
エルセが補助し、ミレナが記録する。
オーウェンは途中で何度か眉を寄せたが、最後まで口を挟まず聞いた。
「……なるほど」
老人は長く息を吐いた。
「やはり、そこまで残っていたか」
「先生、代償の件です」
俺は机へ身を乗り出した。
「“強い縁”を削るっていう推測、どの程度まで確度があります」
オーウェンは眼鏡の位置を直した。
「高い」
短い返答。
「少なくとも、第二紀後期の異界帰還式は、多くがそういう構造だ。呼ばれた者を元の座標へ押し返すには、世界間の“繋がり”を梃子にする必要がある」
「梃子」
「魔力そのものでは足りん」
老人は指先で術式図の中央を示す。
「異界帰還は、単なる転移ではない。世界そのものの位相差を越える。だから“どちらへ帰すのか”を決める線が必要になる」
「それが強い縁」
「そうだ」
オーウェンは頷く。
「そして、その線を一度燃やすように使う」
燃やす、という言い方が嫌に具体的だった。
「燃やしたらどうなるんですか」
ミレナが静かに聞く。
「軽いものであれば、記憶の輪郭が薄れる程度で済むこともある」
オーウェンの声は淡々としている。
「だが、最も強い縁を芯に使った場合、その縁そのものが失われる可能性がある。記憶が残っても感情が切れる。あるいは感情は残っても、対象を“世界の向こう側にあるもの”として認識できなくなる」
そして、少しだけ声を落とした。
「要するに、二度と同じ重さでは繋がれなくなる」
部屋が静かになる。
言葉の意味はわかる。
わかるからこそ、誰もすぐには口を開かなかった。
「……質問」
ミレナが恐る恐る手を上げる。
「“最も強い縁”って、向こうの世界のものが優先されるんですか? それとも、今この世界にあるものでもありえるんですか?」
オーウェンは少しだけ目を細めた。
「理論上は、後者もありえる」
その答えに、俺は反射で視線を落とした。
「ただし、どちらが選ばれるかは術者本人の状態次第だ。帰還の瞬間に何を最も強く結んでいるか。それによって変わる」
術者本人の状態。
つまり、決まってはいない。
最初から“向こうの家族”だとも限らない。
逆に、“今ここにある誰か”が芯になる可能性もある。
そこまで考えて、息が浅くなるのを感じた。
エルセは、そんな俺を一度だけ見た。
でも何も言わなかった。
その沈黙が、逆に助かった。
「軽減策は?」
俺はできるだけ平坦な声で聞く。
「代償を減らす方法はありますか」
オーウェンは、そこで初めて少しだけ考えるように目を閉じた。
「ゼロにはできんだろう」
やがて言う。
「だが、分散ならありえる」
「分散?」
今度はエルセが聞く。
「強い縁一本を燃やすのではなく、複数の中程度の媒介へ負荷を分ける」
オーウェンは術式図の周囲を指で叩く。
「本来一つの芯で押し返すところを、複数の補助媒介で支える形だ」
「そんなこと、できますか」
俺が問う。
「理論上は」
老人は何とも言えない顔で言う。
「だが、主陣そのものの改変が必要になる。しかも帰還式を起動する直前に、媒介を正確に配置しなければならん。失敗すれば座標がずれるか、途中で陣が裂ける」
簡単ではない。
だが、不可能とも言っていない。
その一点で、部屋の空気が少し変わる。
「じゃあやるしかないじゃないですか」
ミレナが言う。
「その分散配置、組めるだけ組んでみましょうよ」
「簡単に言うな」
俺が言うと、ミレナはむっとした。
「でも他にあるんですか。最も強い縁一本勝負なんて、絶対だめですよ」
「だめって」
「だめです!」
ミレナは机に手をつく。
「そんなの、誰の何を使うかなんて考えた時点で、ろくなことになりません!」
言い切ってから、はっとしたように口をつぐむ。
視線が、少しだけエルセに向いた。
エルセは、何も言わない。
ただ、ゆっくり呼吸していた。
俺はその沈黙を見て、ようやく自分でもはっきりわかった。
俺が怖いのは、単に“何かを失う”ことじゃない。
その候補の中に、もう具体的な名前が入ってしまっていることだ。
でも、その名前を、今ここで呼ぶことはできない。
「……先生」
俺は低く言う。
「その分散配置、どこまで現実的か、詰められますか」
オーウェンはすぐには答えなかった。
研究者としての顔で、机の上の図と写本を見比べている。
「夜まで時間をくれ」
やがて彼は言った。
「第二紀の近似例と、送還補助媒介の記録を洗い直す。完全な答えは無理でも、方向性ぐらいは出せるはずだ」
「わかりました」
俺が頷くと、老人は少しだけ目を細めた。
「相馬」
「何です」
「焦るな」
たった三文字なのに、妙に重かった。
「今ここで勢いだけで決めると、たぶん一番まずい」
俺はその言葉を、前より素直に聞けた。
「……ああ」
◇
図書院を出る頃には、空が夕方の色へ傾き始めていた。
ミレナは先生の手伝いをすると言って残った。
だから宿へ戻る道は、俺とエルセの二人だけになる。
しばらく、言葉はなかった。
言葉がないのに、気まずさだけでもない。
前より、ずっと不思議な沈黙だ。
やがて、エルセがぽつりと言った。
「分散配置」
「ああ」
「うまくいくといいわね」
その声には、単純な期待だけじゃないものが混ざっていた。
願い。
不安。
たぶん、その両方。
「うまくいかせたい」
俺は正直に言う。
「少なくとも、最初から何か一つを差し出す前提では考えたくない」
「……そう」
エルセはそれだけ言って、少し歩いてから続けた。
「じゃあ、もう少し一緒に考えられるわね」
その一言は、たぶん何気ないふりをした本音だった。
俺は返事を探した。
でも、ここで変にまっすぐなことを言うと、たぶんまたエルセを困らせる気がした。
だから少しだけ回り道して言う。
「お前がいないと、森の主陣なんて読み切れないだろ」
「そういう言い方も、だいぶずるい」
エルセは小さく笑った。
「でも、前より嫌いじゃない」
「その“嫌いじゃない”は、かなり進歩じゃないか?」
「どうかしら」
帽子のつばを少し下げる。
「まだ油断すると、もっとひどいこと言いそうだし」
その言葉に、俺も少しだけ笑ってしまう。
代償の名前を、まだ呼べない。
でも少なくとも今、俺たちはその名前を曖昧なまま消さずに、ちゃんと脇へ置いたまま歩いている。
それだけでも、たぶん前よりずっと先へ進んでいた。




