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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第24話 失いたくないものが増えたから

その夜、《木靴亭》の食堂はいつもより静かだった。


 祭りの時みたいに騒がしいわけでもなく、森から戻った夜みたいに重苦しすぎるわけでもない。ただ、妙にみんなが一歩引いているような空気がある。女将はいつも通り鍋を見ているし、旅人たちは酒を飲んでいる。なのに、こちらの卓だけが薄い膜で別の場所に切り分けられているみたいだった。


 俺とエルセは向かい合って座っていた。


 会話は少ない。


 少ないが、完全に途切れているわけでもない。


「……それ、冷めるわよ」


 エルセが小さく言う。


 俺は手元のスープを見下ろした。確かに、湯気はもうだいぶ弱くなっている。さっき女将が運んできた時にはかなり熱かったはずだ。


「ああ」

 匙を持ち上げる。

「考え事してた」


「見ればわかる」

 エルセはパンをちぎりながら言う。

「さっきから三回、同じところ見てる」


「そんなにか」


「そんなに」

 そこで少しだけ間が空く。

「……先生のこと?」


 俺は頷く。


 オーウェンは、日が落ちる前に一度だけ宿へ使いを寄越した。


 “夜半までに追加の文献を洗い終える。明朝、研究室へ来い”


 短い伝言だった。


 つまり、分散配置について、何かしらの答えに近いものが出るらしい。


 それは希望でもあり、同時に、また別の問いの始まりでもある。


「お前は考えないのか」

 俺が聞くと、エルセは少しだけ肩をすくめた。


「考えてるわよ」

 灰青の瞳はスープではなく、机の木目を見ていた。

「でも、あんたみたいに顔へ全部出してないだけ」


「出てるか?」


「出てる」

 即答だった。

「前よりずっと」

 それから、ほんの少しだけやわらかく続ける。

「……まあ、前よりわかりやすいのは、悪いことばかりじゃないけど」


 その言い方が気になって、思わず顔を上げる。


「どういう意味だ」

「どういう意味でも」

 エルセはすぐに視線を逸らした。

「今のは、あんたがいちいち拾わなくていいやつ」


 そう言われると余計に気になるが、ここで追えばまた妙な空気になる気もする。


 だから俺は一度だけ息を吐き、スープを飲んだ。


 少しぬるい。

 だが、飲めないほどじゃない。


「……ねえ」

 しばらくして、エルセがまた言った。

「もし、先生の答えが“分散配置は無理”だったら」

「……」

「どうするの?」


 真正面から来た。


 前より、ずっと。


 俺は匙を置き、少しだけ考える。


 前なら、考えずに答えていたかもしれない。

 帰る方法が一つなら、それを選ぶしかない、と。


 でも今は、そういう言い切り方ができない。


「わからない」

 結局、正直にそう言った。

「でも、今は少なくとも、“じゃあ一本の縁を使います”ってすぐに決める気はない」

「……そう」

 エルセは頷く。

「そこまでは、もう戻らないのね」

「戻れない、の方が近いかもな」


 その言葉に、エルセの指先が少しだけ止まった。


「戻れない、か」

「主陣を見たからだろうな」

 俺は自分の言葉をゆっくり確かめながら続ける。

「本当に帰還陣があるって実感したのに、同時に“何を削るのか”まで見えた」

 喉の奥が少しだけ重い。

「見えた以上、前みたいにはいられない」


 エルセは黙って聞いていた。


 その沈黙の中に、責める感じはない。

 ただ、言葉の形を確かめているような静けさだけがある。


「……ありがとう」

 不意に、彼女が小さく言った。


 俺は少しだけ目を見開く。


「何でだ」

「何ででも」

 エルセはいつもの逃げ道へ入ろうとして、それから少しだけ首を振る。

「……違う」

 小さく息を吸う。

「ちゃんと答える」

 そこで、ほんの少しだけ目を上げる。

「私、たぶんずっと怖かったの。主陣を見つけた瞬間に、あんたが前の顔に戻るんじゃないかって」

「前の顔」

「帰ることしか見てない顔」

 エルセの声は静かだった。

「それが悪いって言ってるわけじゃない。最初から知ってたし、そういう人だってわかってたから。でも……」

 そこで言葉が止まる。

 たぶん、続きがある。

 けれどその先は、うまくまとまらないらしい。


「でも?」

 俺が促すと、エルセは少しだけ困ったみたいに笑った。


「……でも、今の方がずっと厄介」

「ひどいな」

「ひどいわよ」

 エルセは少しだけ肩をすくめる。

「ちゃんと迷うし、ちゃんと見るし、前より優しいし。そうなると、こっちは希望を持つでしょ」

 そこで少しだけ視線を落とす。

「希望を持ったあとで、やっぱりだめでしたってなるの、たぶん前より痛いの」


 その一言に、俺はすぐに返事をできなかった。


 それは、たぶん本当にそうなのだろう。


 前の俺なら、最初から諦めやすかった。

 でも今の俺は、希望を持たせる。

 しかも無自覚なまま。


「……悪い」

 小さく言うと、エルセはすぐに首を振った。


「だから、謝ってほしいわけじゃないって」

「でも」

「でもじゃないの」

 彼女は少しだけ眉を寄せる。

「謝ると、またそこで終わる感じがする」

 そして、たぶんかなり意識して言い直す。

「今ほしいのは、“悪かった”じゃなくて、“どうしたいか考えてる”って方」


 その指摘は、驚くほど正確だった。


 俺は今まで、行き場のない時ほど謝ることで区切りをつけていたのかもしれない。

 でも今、エルセがほしいのは区切りじゃない。


 途中でもいいから、思考の途中を見せることだ。


「……考えてる」

 俺はゆっくり言う。

「昨日も今日も、ずっと」

「うん」

「お前のことも含めて」

 言ってから、自分でも少しだけ息が止まる。

 でも、エルセは逃げなかった。

 ほんの少しだけ肩が強張っただけだ。


「……そう」

 それだけ言う。

 でも、耳は少し赤い。


「だから、明日先生が何を出してきても、すぐには決めない」

 俺は続ける。

「分散配置が無理でも、その場で一本の縁に飛びつく気はない」

 少しだけ間を置く。

「少なくとも、今はそう思ってる」


 エルセは長く黙っていた。


 食堂の端で、旅人が小さく笑う声がする。

 女将が皿を重ねる音も聞こえる。

 なのに、こっちの卓の周りだけ、やっぱりどこか静かだった。


「……それで十分」

 やがてエルセが言う。

「今は、それで十分よ」


 その“今は”は、もう前みたいに突き放す響きじゃない。

 “今”をちゃんと一緒に見ている声音だった。


    ◇


 夜が更けて、食堂の客が減っていく。


 女将は早々にこちらの卓へ寄ってきて、空いた皿を片づけながら言った。


「今日は早く寝な」

「そうします」

 俺が答えると、女将はちらっとエルセを見る。

「お嬢さんもだよ」

「わかってる」

「本当に?」

「本当に」

 エルセは少しだけ面倒そうに返した。

「子どもじゃないんだから」

「その割には昨日、夜中に窓辺でうずくまってたねえ」

 女将があっさり暴露する。


 俺は思わずエルセを見る。


 エルセは完全に固まった。


「……何で言うのよ」

「言うだろ」

 女将は平然としている。

「部屋戻って寝なって言ったのに、“少しだけ風に当たる”とか何とか言ってさ。全然少しじゃなかったよ」


「お前、昨日寝られてなかったのか」

 俺が聞くと、エルセは視線をそらした。


「……寝たわよ」

「女将さんの話と違うな」

「少しは寝たの!」

 それから、小さく付け足す。

「頭がうるさかっただけ」


 たぶん、主陣のことだ。

 代償のことだ。

 あるいは、俺との会話も含めて。


「今夜は寝ろ」

 俺が言うと、エルセはまた少しだけ顔をしかめる。


「命令しないで」

「命令じゃない」

「じゃあ何」

「……お願い、か」

 自分でも少しだけぎこちないと思いながら言う。

「今日はちゃんと休め。明日、また先生の話聞くんだろ」


 エルセは、それを聞いて、少しだけ黙った。


 そして、小さく息を吐く。


「そういうふうに言われると」

「何だ」

「断りづらいのよ」


 女将がそのやり取りを見て、何とも言えない顔で笑った。


「はいはい。若いねえ」

「今ののどこがですか」

 俺が言うと、女将は皿を抱え直しながら答える。

「自覚ないところが特にね」


 そう言い残して、台所へ引っ込んでいった。


 エルセはその背中を見送りながら、ぽつりと呟く。


「……この宿の人たち、ほんと余計なことしか言わない」

「でも助かってる時もあるだろ」

「それが腹立つの」

 そこまで言ってから、少しだけ口元が緩む。

「ミレナと一緒」


 その笑いが見られただけで、食堂の空気が少しだけ楽になった気がした。


    ◇


 翌朝、図書院の研究室は紙の海になっていた。


 オーウェンは目の下に影を作ったまま、それでもいつも以上に目だけが冴えている。ミレナはその隣で、もう何杯目かわからない茶を飲んでいた。


「来たか」

 老人が言う。

「座れ。答えは半分出た」


 半分、という言い方がいかにも先生らしい。


 俺とエルセは机の前へ座る。

 ミレナは、なぜか今日は茶化す気配がなかった。


 オーウェンは古い術式図を一枚、俺たちの前へ滑らせた。


「分散配置は可能だ」

 最初の一言が、それだった。


 胸の奥が、ひとつ強く鳴る。


「ただし、条件がある」


「何です」

 俺が聞くと、老人は三本指を立てた。


「一つ。主陣の中心核を一度停止させる必要がある」

「停止?」

「今の主陣は、半ば自律的に“最も強い縁”を優先選定する状態にある。そこへ複数媒介を差し込むには、一度核を眠らせて選定機構を鈍らせなければならん」

 指が一本折れる。

「二つ。媒介は最低三つ」

 もう一本折れる。

「それぞれ性質の異なる縁を担わせる。元の世界への由来、現在の世界での結び、そして術者本人の意思」

 最後の一本が残る。

「三つ。これが一番面倒だが――媒介は、本人が自分で選ばねばならん」


 部屋が静かになる。


「自分で選ぶ?」

 エルセが低く聞いた。


「そうだ」

 オーウェンは頷く。

「術式側に勝手に選ばせると、結局最も強い一本へ収束する。分散させるなら、術者が意識して“この三つで押し返す”と定める必要がある」

 老人は俺を見る。

「要するに、お前自身が何を支点に帰るのか、決める必要がある」


 その言葉は、昨日までよりずっと具体的で、容赦がなかった。


 元の世界への由来。

 現在の世界での結び。

 術者本人の意思。


 つまり、逃げられない。


 向こうのことだけを見て帰ることも。

 今のことだけに縋ることも。

 どちらもできない。


 俺が自分で選ばなければならない。


「それなら」

 ミレナが慎重に口を開く。

「一本全部を燃やすよりは、かなり安全なんですよね?」


「安全、という言い方は好かん」

 オーウェンは鼻を鳴らす。

「だが、“最も強い縁一つを失う”よりはましな可能性が高い。負荷は分散されるし、術後に残るものも多いだろう」


 それを聞いて、部屋の空気が少しだけ変わる。


 絶望ではない。

 でも、安心とも違う。


 選択肢が見えたぶん、逆に問われるものが増えたのだ。


「師匠」

 ミレナが小さく言う。

「これ……たぶん、方法としてはかなりいい方ですよ」


 そうだろう。


 一本を燃やすのではなく、三つに分ける。

 なら、全部が全部、消えはしないかもしれない。


 でも、その三つを自分で選ぶということは――。


「……代償が減るんじゃなくて」

 気づけば、口に出していた。

「自分で配分を決めろってことか」


 オーウェンが静かに頷く。


「そうとも言う」


 それは、ひどく俺らしいやり方にも思えた。


 誰かに選ばされるんじゃなく、自分で決める。

 そして、その決定の重さからは逃げられない。


 エルセが、そこでようやく息を吐いた。


「少なくとも」

 彼女は言う。

「“何か一つを失って終わり”じゃない可能性は見えた」

 それから少しだけ視線を落とす。

「……それなら、考える意味はある」


 その声が、少しだけ救いだった。


 俺はまだ、何を三つにするのか決められない。

 でも、決める余地があるなら、それはまだ前に進めるということだ。


 オーウェンが最後に言った。


「時間はあるようで、ない」

 老人の声は低い。

「主陣が半ば起きている以上、他にも狙っている者がいる可能性を忘れるな。次に入る時は、準備を整えて一度で決めるつもりで行け」


 その通りだ。


 もう猶予ばかりを当てにする段階ではない。


 けれど同時に、あわてて全部を壊す段階でもない。


「……わかりました」

 俺は言った。


 答えながら、自分の声が少しだけ前より落ち着いていることに気づいた。


 代償を減らす方法は、まだある。


 それはつまり、失いたくないものを、まだ失わずに済むかもしれないということだ。


 そして、その“失いたくないもの”の輪郭は、もうずいぶんはっきりしてきてしまっていた。

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