表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/38

第25話 選べと言われても、選びたくない

研究室の空気は、紙とインクと古い木の匂いで満ちていた。


 いつもと同じはずなのに、今日だけはそこにもう一つ、目に見えない何かが混ざっている気がする。


 決断の匂いだ。


 机いっぱいに広げられた術式図。

 主陣の写し。

 第二紀後期の帰還式に関する断片。

 分散配置の近似例。

 オーウェンが一晩で掘り起こしたらしい注釈の束。


 その全部が、最終的に一つの問いへ集約していた。


 何を、三つの媒介にするのか。


 元の世界への由来。

 現在の世界での結び。

 術者本人の意思。


 言葉にすれば整理されている。

 けれど実際にそれを選べと言われると、途端に話は別だった。


「……先生」

 俺は机の上の術式図から目を離さずに言う。

「仮に、媒介を三つに分けたとして」

「うむ」

「その三つが、どれくらいずつ削られるかは読めるんですか」


 オーウェンは椅子に深く座り直し、眼鏡の位置を少しだけ押し上げた。


「正確には読めん」

 返答は容赦がなかった。

「分散配置は、あくまで“一つに集中する負荷を逃がす”手だ。きっちり三等分に割れるような都合のいいものじゃない」

「じゃあ、結局」

 ミレナが眉を寄せる。

「三つ全部、中途半端に失う可能性もあるってことですか」


「可能性としてはある」

 オーウェンは頷く。

「だが一本だけを丸ごと焼くよりはましだ」

 それから少しだけ声を落とす。

「少なくとも、“何を一番守りたいか”を術者自身が選べる余地がある」


 その言い方に、俺はわずかに息を止めた。


 守りたいもの。


 帰還陣の話をしているはずなのに、そこへ“守る”という言葉が入ると、急に話の輪郭が変わる。


 帰るための術ではなく、帰るために何を残すのかを考える術みたいだ。


「師匠」

 ミレナが少しだけ前のめりになる。

「逆に、三つのうち一つを意図的に弱くして、残り二つを守るとかはできますか?」


 オーウェンが彼女を見る。


「考え方としては可能だ」

 老人は言った。

「分散配置は、均等である必要はない。たとえば“元の世界への由来”を最も強く置き、“現在の世界での結び”を薄くすることも理屈の上ではできる」

「でも」

 エルセが静かに口を開く。

「そうすると結局、その薄くした方が削れやすくなる」


「その通りだ」

 オーウェンは頷く。

「配分をいじれるからこそ、何をどの程度まで差し出すかを自分で決める必要がある」


 自分で決める。


 その言葉ばかりが、妙に強く頭の中へ残った。


 選ばされるんじゃない。

 術式に勝手に持っていかれるんじゃない。

 俺自身が決める。


 それは救いでもある。

 そして同時に、逃げ場のなさでもあった。


「……確認です」

 エルセが言う。

 声は静かだが、かなり集中している時の響きだった。

「三つの媒介は、“物”でもいいの?」

「いい」

「でも、術者自身がそこへ明確な意味づけを持たせる必要がある」

「そうだ」

 オーウェンが応じる。

「たとえば元の世界の品を媒介にする場合、それがただの品では足りん。術者にとって“帰る側と確かに繋がっているもの”でなければならない」


 エルセは数秒黙り込んだ。


「……なら、厳しいわね」

「何がだ」

 俺が聞くと、エルセはゆっくりこちらを見た。

「召喚された時、あんたは手ぶらだったんでしょう」

「ああ」

「向こうの世界のものを、今のあんたは一つも持ってない」

「……」

「記憶か、約束か、そういう無形のものを媒介にするしかない」


 それは、たぶん最初から薄々わかっていたことだった。


 日本から何かを持ってきたわけじゃない。

 財布も、学生証も、スマホも、あの日の制服も。

 そういう“物”は何一つ残っていない。


 残っているのは、記憶だけだ。


 家族の顔。

 家の匂い。

 途中で終わった会話。

 玄関で聞いた「いってらっしゃい」。


 そういうものしかない。


 それを媒介にするということは、そのどれかに負荷を背負わせるということだ。


「……最悪ね」

 エルセがぽつりと呟いた。


 その“最悪”が、本当に最悪の意味で出ているのがわかった。


 ミレナが少しだけ唇を結ぶ。


「でも、今の世界の方は」

 彼女は言葉を選びながら続ける。

「物で代用できる可能性、まだありますよね? 王都で師匠が手に入れたものとか、ここで築いた関係を象徴するものとか」


 その言い方が、妙に慎重だった。


 “関係を象徴するもの”。


 そこまで言って、ミレナはそれ以上踏み込まない。


 研究室の空気が少しだけ重くなる。


 オーウェンが咳払いを一つした。


「可能性はある」

 老人は淡々と言う。

「だが、象徴物はあくまで象徴物だ。肝心なのは、その物に術者が何を見ているかだ」

 そして、少しだけ俺を見る。

「つまり、形だけ整えても意味はない。お前がそれを“今の世界と自分を繋ぐもの”として認めていなければ、媒介にはならん」


 そこまで明確に言われると、もう曖昧には逃げられなかった。


 今の世界との繋がり。


 王都。

 宿。

 図書院。

 ミレナ。

 女将。

 オーウェン。


 そして、エルセ。


 名前が心の中に浮かんだ瞬間、視線がほんのわずかに揺れたのを、自分でも自覚した。


 エルセはその揺れに気づいたのかどうか。

 少なくとも顔には出さなかった。


「あと一つ」

 オーウェンが言う。

「“術者本人の意思”に当たる媒介だが、これは物よりも誓約に近い」

「誓約?」

 俺が聞く。

「帰還したい理由を、自分の言葉で定義する必要がある」

 老人は机の端を指で叩く。

「なぜ帰るのか。帰って何を取り戻したいのか。あるいは何を終わらせたいのか」

 少しだけ間を置き、続ける。

「主陣に対して、それを虚飾なく提示しなければならん」


 それは、予想していたよりずっと厄介だった。


 術式の問題じゃない。

 心の問題だ。


 いや、最初からそうだったのかもしれない。


「……先生」

 ミレナが、おそるおそる口を開く。

「それってつまり、師匠が自分で答えを持ってないと、起動は不安定になるってことですか」


「そうなる」

 オーウェンは頷いた。

「帰還術は、術者の曖昧さを嫌う。帰りたいという力そのものを燃料にする以上、“何のために帰るのか”が定まっていないと、陣そのものが揺れる」


 揺れる。


 それは、術としての不安定さの話でもあるし、俺自身の話でもある。


 俺は今、帰りたい。

 それは本当だ。


 でも、じゃあ何のために帰るのか。

 何を失いたくないから帰るのか。

 あるいは、何を失いたくないからすぐには帰れないのか。


 そこまで言葉にしろと言われると、急に足元が怪しくなる。


「……今日はここまでだな」

 オーウェンが、少しだけ声を和らげた。

「これ以上は机で決める話ではない。相馬、お前自身の整理が要る」


 その言葉で、張っていたものが一度緩む。


 ミレナも、今日はそこで追い打ちをかけなかった。

 ただ、記録した紙を重ねながら、小さく言う。


「でも、一応前には進んでますよね」

 顔を上げる。

「方法は見えたし、条件も見えた。あとは……」

 少しだけ、言葉を選ぶ。

「師匠が、自分で決めるところまで来ただけです」


 “だけ”と呼ぶには、あまりにも重い。


 それでも、まったくその通りだった。


    ◇


 図書院を出ると、王都の空はすでに夕暮れに近かった。


 赤みの薄い光が石畳に伸びている。風は昼より涼しくなり、通りの喧騒も少しだけ穏やかになっていた。


 ミレナは今日は残って整理を続けると言い、オーウェンも研究室から出る気配がない。


 だから、宿へ戻る道はまた二人だけだった。


 前にもこういうことは何度もあったはずなのに、今はその“二人だけ”が前と同じ意味ではない。


 しばらく歩いて、先に口を開いたのはエルセだった。


「……思ったより、ちゃんとしてた」


「何が」

「先生の答え」

 エルセは前を向いたまま言う。

「もっと、“無理だ”“どれか切れ”で終わるかと思ってた」


「俺も少しは覚悟してた」

 正直に答える。

「でも、分散配置があるなら、やる価値はある」


「そうね」

 エルセは小さく頷く。

「ただ、そのぶん、誤魔化せなくなったけど」


 そこは、たぶんお互い同じだった。


 媒介を三つ選ぶ。

 しかも、自分で。

 そこに何を置くかは、そのまま俺が何を“強い縁”と認めるかに近い。


「……ねえ」

 エルセが、少しだけ間を置いて言う。

「今、もう候補とか考えてる?」


 答えに少し詰まる。


「……少しは」

「向こう側の由来は?」

「家族、だろうな」

 それは比較的すぐに出た。

「たぶん、そこは一番ぶれない」


 エルセは頷く。

 その頷き方は、痛みを含んでいないわけじゃない。けれど、これは最初から知っていたことだと、自分に言い聞かせているみたいだった。


「じゃあ」

 次の問いは、思っていたより静かだった。

「今の世界の結びは?」


 そこで、俺は黙った。


 足が止まるほどじゃない。

 でも、間違いなく一拍、呼吸が遅れた。


 エルセも、それをちゃんと見ていた。


「……やっぱり」

 彼女が小さく言う。

「そこは、まだ出てこないのね」


 責める声じゃない。

 でも、傷つかない声でもない。


「違う」

 俺は思わず言った。

「出てこないんじゃなくて」

「なくて?」

 エルセが問う。


 ここで誤魔化したら、たぶん意味がない。

 でも、はっきり言い切るのも、今は違う。


「……一つにできない」

 やっとそれだけ言う。

「宿もある。先生もいる。ミレナもいる」

 喉が少しだけ乾く。

「女将さんだってそうだし」

 そこまで言って、一度だけ視線を上げる。

「もちろん、お前も」


 エルセの呼吸が、ほんのわずかに止まる。


 灰青の瞳が、まっすぐこちらを見る。


 帽子のつばに触れていた指が、少しだけ動いた。


「……そう」

 彼女は小さく言う。

「“もちろん”なのね」


「変か」

「変じゃない」

 それから、少しだけ困ったみたいに目を逸らす。

「変じゃないけど、その言い方はずるい」


「またそれか」

「またよ」

 エルセは少しだけ息を吐いた。

「私だけを選んだわけじゃないのに、でも、入ってるってわかる言い方するから」


 その指摘は正確すぎて、返す言葉を一瞬失う。


「……今はそれが限界だ」

 俺が言うと、エルセは少しだけ眉を下げた。

「うん。わかってる」

 それは本当にわかっている声だった。

「だから、今ここでそれ以上は求めない」


 求めない。


 その言葉に、少しだけ救われるのと同時に、少しだけ胸が痛くなる。


 たぶん俺は、ずいぶん中途半端だ。

 でも、その中途半端さのままでも、前へは進まなければならない。


「……お前は?」

 今度は俺が聞く。

「今の世界の結び、って言われたら」


 エルセはすぐには答えなかった。


 少し歩いてから、小さく言う。


「私?」

「ああ」

「そんなの……」

 彼女は少しだけ苦く笑う。

「前なら、“知らない”“別に”“どうでもいい”で終わらせてた」


「今は?」

「今は」

 そこで一瞬だけ迷い、でも言葉を続ける。

「今は、ちゃんとある」

 声がやわらかくなる。

「王都も、宿も、先生も、ミレナも……」

 そして少しだけ視線を落とす。

「……あんたも」


 それは、今のエルセにしてはかなりまっすぐな言葉だった。


 俺は、何かを返そうとして、でもうまく出てこなかった。


 そういう時に限って、変に軽い言葉は使いたくない。

 かといって、黙りすぎるのも違う。


 だから、ひどく不器用なまま、それでも言う。


「じゃあ、同じだな」


 エルセが目を丸くした。


「……同じ?」

「一つに絞れないところ」

 俺は少しだけ肩をすくめる。

「お前も、今の世界の結びを一つにはできないだろ」

「……」

「俺も同じだ」


 その返しがよかったのか悪かったのか、すぐにはわからなかった。


 でも、エルセは少しだけ黙ったあと、ふっと笑った。


「ほんとに」

 彼女は言う。

「そこ、妙に正直よね」


「隠した方がいいのか」

「今は、たぶん隠さない方がまし」

 少しだけ間を置く。

「……そのかわり、期待しすぎるから困るんだけど」


 そう言う彼女の声は、前よりずっと柔らかかった。


 俺たちは、そのまましばらく黙って歩いた。


 けれど、その沈黙は、もう逃げの沈黙じゃない。


 お互いが何を怖がっていて、何を失いたくなくて、何をまだ言い切れないのか。

 そこまでは、少なくとも見えるようになってきている。


 失いたくないものが増えたから。


 たぶん、俺たちはここでやっと、帰るか残るかの前にあるものへ触れ始めているのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ