第25話 選べと言われても、選びたくない
研究室の空気は、紙とインクと古い木の匂いで満ちていた。
いつもと同じはずなのに、今日だけはそこにもう一つ、目に見えない何かが混ざっている気がする。
決断の匂いだ。
机いっぱいに広げられた術式図。
主陣の写し。
第二紀後期の帰還式に関する断片。
分散配置の近似例。
オーウェンが一晩で掘り起こしたらしい注釈の束。
その全部が、最終的に一つの問いへ集約していた。
何を、三つの媒介にするのか。
元の世界への由来。
現在の世界での結び。
術者本人の意思。
言葉にすれば整理されている。
けれど実際にそれを選べと言われると、途端に話は別だった。
「……先生」
俺は机の上の術式図から目を離さずに言う。
「仮に、媒介を三つに分けたとして」
「うむ」
「その三つが、どれくらいずつ削られるかは読めるんですか」
オーウェンは椅子に深く座り直し、眼鏡の位置を少しだけ押し上げた。
「正確には読めん」
返答は容赦がなかった。
「分散配置は、あくまで“一つに集中する負荷を逃がす”手だ。きっちり三等分に割れるような都合のいいものじゃない」
「じゃあ、結局」
ミレナが眉を寄せる。
「三つ全部、中途半端に失う可能性もあるってことですか」
「可能性としてはある」
オーウェンは頷く。
「だが一本だけを丸ごと焼くよりはましだ」
それから少しだけ声を落とす。
「少なくとも、“何を一番守りたいか”を術者自身が選べる余地がある」
その言い方に、俺はわずかに息を止めた。
守りたいもの。
帰還陣の話をしているはずなのに、そこへ“守る”という言葉が入ると、急に話の輪郭が変わる。
帰るための術ではなく、帰るために何を残すのかを考える術みたいだ。
「師匠」
ミレナが少しだけ前のめりになる。
「逆に、三つのうち一つを意図的に弱くして、残り二つを守るとかはできますか?」
オーウェンが彼女を見る。
「考え方としては可能だ」
老人は言った。
「分散配置は、均等である必要はない。たとえば“元の世界への由来”を最も強く置き、“現在の世界での結び”を薄くすることも理屈の上ではできる」
「でも」
エルセが静かに口を開く。
「そうすると結局、その薄くした方が削れやすくなる」
「その通りだ」
オーウェンは頷く。
「配分をいじれるからこそ、何をどの程度まで差し出すかを自分で決める必要がある」
自分で決める。
その言葉ばかりが、妙に強く頭の中へ残った。
選ばされるんじゃない。
術式に勝手に持っていかれるんじゃない。
俺自身が決める。
それは救いでもある。
そして同時に、逃げ場のなさでもあった。
「……確認です」
エルセが言う。
声は静かだが、かなり集中している時の響きだった。
「三つの媒介は、“物”でもいいの?」
「いい」
「でも、術者自身がそこへ明確な意味づけを持たせる必要がある」
「そうだ」
オーウェンが応じる。
「たとえば元の世界の品を媒介にする場合、それがただの品では足りん。術者にとって“帰る側と確かに繋がっているもの”でなければならない」
エルセは数秒黙り込んだ。
「……なら、厳しいわね」
「何がだ」
俺が聞くと、エルセはゆっくりこちらを見た。
「召喚された時、あんたは手ぶらだったんでしょう」
「ああ」
「向こうの世界のものを、今のあんたは一つも持ってない」
「……」
「記憶か、約束か、そういう無形のものを媒介にするしかない」
それは、たぶん最初から薄々わかっていたことだった。
日本から何かを持ってきたわけじゃない。
財布も、学生証も、スマホも、あの日の制服も。
そういう“物”は何一つ残っていない。
残っているのは、記憶だけだ。
家族の顔。
家の匂い。
途中で終わった会話。
玄関で聞いた「いってらっしゃい」。
そういうものしかない。
それを媒介にするということは、そのどれかに負荷を背負わせるということだ。
「……最悪ね」
エルセがぽつりと呟いた。
その“最悪”が、本当に最悪の意味で出ているのがわかった。
ミレナが少しだけ唇を結ぶ。
「でも、今の世界の方は」
彼女は言葉を選びながら続ける。
「物で代用できる可能性、まだありますよね? 王都で師匠が手に入れたものとか、ここで築いた関係を象徴するものとか」
その言い方が、妙に慎重だった。
“関係を象徴するもの”。
そこまで言って、ミレナはそれ以上踏み込まない。
研究室の空気が少しだけ重くなる。
オーウェンが咳払いを一つした。
「可能性はある」
老人は淡々と言う。
「だが、象徴物はあくまで象徴物だ。肝心なのは、その物に術者が何を見ているかだ」
そして、少しだけ俺を見る。
「つまり、形だけ整えても意味はない。お前がそれを“今の世界と自分を繋ぐもの”として認めていなければ、媒介にはならん」
そこまで明確に言われると、もう曖昧には逃げられなかった。
今の世界との繋がり。
王都。
宿。
図書院。
ミレナ。
女将。
オーウェン。
そして、エルセ。
名前が心の中に浮かんだ瞬間、視線がほんのわずかに揺れたのを、自分でも自覚した。
エルセはその揺れに気づいたのかどうか。
少なくとも顔には出さなかった。
「あと一つ」
オーウェンが言う。
「“術者本人の意思”に当たる媒介だが、これは物よりも誓約に近い」
「誓約?」
俺が聞く。
「帰還したい理由を、自分の言葉で定義する必要がある」
老人は机の端を指で叩く。
「なぜ帰るのか。帰って何を取り戻したいのか。あるいは何を終わらせたいのか」
少しだけ間を置き、続ける。
「主陣に対して、それを虚飾なく提示しなければならん」
それは、予想していたよりずっと厄介だった。
術式の問題じゃない。
心の問題だ。
いや、最初からそうだったのかもしれない。
「……先生」
ミレナが、おそるおそる口を開く。
「それってつまり、師匠が自分で答えを持ってないと、起動は不安定になるってことですか」
「そうなる」
オーウェンは頷いた。
「帰還術は、術者の曖昧さを嫌う。帰りたいという力そのものを燃料にする以上、“何のために帰るのか”が定まっていないと、陣そのものが揺れる」
揺れる。
それは、術としての不安定さの話でもあるし、俺自身の話でもある。
俺は今、帰りたい。
それは本当だ。
でも、じゃあ何のために帰るのか。
何を失いたくないから帰るのか。
あるいは、何を失いたくないからすぐには帰れないのか。
そこまで言葉にしろと言われると、急に足元が怪しくなる。
「……今日はここまでだな」
オーウェンが、少しだけ声を和らげた。
「これ以上は机で決める話ではない。相馬、お前自身の整理が要る」
その言葉で、張っていたものが一度緩む。
ミレナも、今日はそこで追い打ちをかけなかった。
ただ、記録した紙を重ねながら、小さく言う。
「でも、一応前には進んでますよね」
顔を上げる。
「方法は見えたし、条件も見えた。あとは……」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「師匠が、自分で決めるところまで来ただけです」
“だけ”と呼ぶには、あまりにも重い。
それでも、まったくその通りだった。
◇
図書院を出ると、王都の空はすでに夕暮れに近かった。
赤みの薄い光が石畳に伸びている。風は昼より涼しくなり、通りの喧騒も少しだけ穏やかになっていた。
ミレナは今日は残って整理を続けると言い、オーウェンも研究室から出る気配がない。
だから、宿へ戻る道はまた二人だけだった。
前にもこういうことは何度もあったはずなのに、今はその“二人だけ”が前と同じ意味ではない。
しばらく歩いて、先に口を開いたのはエルセだった。
「……思ったより、ちゃんとしてた」
「何が」
「先生の答え」
エルセは前を向いたまま言う。
「もっと、“無理だ”“どれか切れ”で終わるかと思ってた」
「俺も少しは覚悟してた」
正直に答える。
「でも、分散配置があるなら、やる価値はある」
「そうね」
エルセは小さく頷く。
「ただ、そのぶん、誤魔化せなくなったけど」
そこは、たぶんお互い同じだった。
媒介を三つ選ぶ。
しかも、自分で。
そこに何を置くかは、そのまま俺が何を“強い縁”と認めるかに近い。
「……ねえ」
エルセが、少しだけ間を置いて言う。
「今、もう候補とか考えてる?」
答えに少し詰まる。
「……少しは」
「向こう側の由来は?」
「家族、だろうな」
それは比較的すぐに出た。
「たぶん、そこは一番ぶれない」
エルセは頷く。
その頷き方は、痛みを含んでいないわけじゃない。けれど、これは最初から知っていたことだと、自分に言い聞かせているみたいだった。
「じゃあ」
次の問いは、思っていたより静かだった。
「今の世界の結びは?」
そこで、俺は黙った。
足が止まるほどじゃない。
でも、間違いなく一拍、呼吸が遅れた。
エルセも、それをちゃんと見ていた。
「……やっぱり」
彼女が小さく言う。
「そこは、まだ出てこないのね」
責める声じゃない。
でも、傷つかない声でもない。
「違う」
俺は思わず言った。
「出てこないんじゃなくて」
「なくて?」
エルセが問う。
ここで誤魔化したら、たぶん意味がない。
でも、はっきり言い切るのも、今は違う。
「……一つにできない」
やっとそれだけ言う。
「宿もある。先生もいる。ミレナもいる」
喉が少しだけ乾く。
「女将さんだってそうだし」
そこまで言って、一度だけ視線を上げる。
「もちろん、お前も」
エルセの呼吸が、ほんのわずかに止まる。
灰青の瞳が、まっすぐこちらを見る。
帽子のつばに触れていた指が、少しだけ動いた。
「……そう」
彼女は小さく言う。
「“もちろん”なのね」
「変か」
「変じゃない」
それから、少しだけ困ったみたいに目を逸らす。
「変じゃないけど、その言い方はずるい」
「またそれか」
「またよ」
エルセは少しだけ息を吐いた。
「私だけを選んだわけじゃないのに、でも、入ってるってわかる言い方するから」
その指摘は正確すぎて、返す言葉を一瞬失う。
「……今はそれが限界だ」
俺が言うと、エルセは少しだけ眉を下げた。
「うん。わかってる」
それは本当にわかっている声だった。
「だから、今ここでそれ以上は求めない」
求めない。
その言葉に、少しだけ救われるのと同時に、少しだけ胸が痛くなる。
たぶん俺は、ずいぶん中途半端だ。
でも、その中途半端さのままでも、前へは進まなければならない。
「……お前は?」
今度は俺が聞く。
「今の世界の結び、って言われたら」
エルセはすぐには答えなかった。
少し歩いてから、小さく言う。
「私?」
「ああ」
「そんなの……」
彼女は少しだけ苦く笑う。
「前なら、“知らない”“別に”“どうでもいい”で終わらせてた」
「今は?」
「今は」
そこで一瞬だけ迷い、でも言葉を続ける。
「今は、ちゃんとある」
声がやわらかくなる。
「王都も、宿も、先生も、ミレナも……」
そして少しだけ視線を落とす。
「……あんたも」
それは、今のエルセにしてはかなりまっすぐな言葉だった。
俺は、何かを返そうとして、でもうまく出てこなかった。
そういう時に限って、変に軽い言葉は使いたくない。
かといって、黙りすぎるのも違う。
だから、ひどく不器用なまま、それでも言う。
「じゃあ、同じだな」
エルセが目を丸くした。
「……同じ?」
「一つに絞れないところ」
俺は少しだけ肩をすくめる。
「お前も、今の世界の結びを一つにはできないだろ」
「……」
「俺も同じだ」
その返しがよかったのか悪かったのか、すぐにはわからなかった。
でも、エルセは少しだけ黙ったあと、ふっと笑った。
「ほんとに」
彼女は言う。
「そこ、妙に正直よね」
「隠した方がいいのか」
「今は、たぶん隠さない方がまし」
少しだけ間を置く。
「……そのかわり、期待しすぎるから困るんだけど」
そう言う彼女の声は、前よりずっと柔らかかった。
俺たちは、そのまましばらく黙って歩いた。
けれど、その沈黙は、もう逃げの沈黙じゃない。
お互いが何を怖がっていて、何を失いたくなくて、何をまだ言い切れないのか。
そこまでは、少なくとも見えるようになってきている。
失いたくないものが増えたから。
たぶん、俺たちはここでやっと、帰るか残るかの前にあるものへ触れ始めているのだ。




