第26話 媒介にできない名前
その夜、俺の部屋の机の上には、やたらと物が並んでいた。
《木靴亭》の部屋鍵。
図書院の閲覧証。
王都北門の通行札。
使い込んだ短剣の鞘。
祭りの日に屋台で押しつけられた、淡く光る小さな硝子玉。
それから、古道具市で手に入れた古い召喚板の欠片。
どれも、俺がこの世界で手にしてきたものだ。
けれど、そのどれを見ても、胸の奥にぴたりと嵌まる感じはしなかった。
「……違うな」
小さく呟くと、向かいの椅子に座っていたエルセが顔を上げた。
「何が」
「全部」
机の上を顎で示す。
「“今の世界の結び”って言われても、これじゃない気がする」
エルセはしばらく並べられた品を見て、それから小さく息を吐いた。
「そりゃ、そうでしょうね」
「即答か」
「だってどれも、“持ってるもの”ではあっても、“繋がってるもの”ではないもの」
エルセは指先で机の端をとんとんと叩く。
「通行札は便利だけど、あんたが王都と結びついてる証っていうより、王都に“通してもらってる”証でしょ」
「それはまあ、そうだな」
「閲覧証も同じ。先生のところへ通ってる証ではあるけど、遼真自身の結び目って感じじゃない」
それから、硝子玉の方へ視線を移す。
「……それは、少しだけ近いかもしれないけど」
「祭りの景品か」
「ええ」
エルセは少しだけ視線を逸らす。
「その日、その場で、“ここにいた”っていう印にはなる」
「でも弱い?」
「弱い」
きっぱり言った。
「帰還陣の媒介にするには、たぶん薄すぎる」
机の上のものが、急に全部ただの物に見える。
もちろん、ただの物じゃない。
その時その時の出来事は覚えている。
でも、じゃあこれが“今の世界の結び”かと問われると、違う。
もっと厄介で、もっとはっきりしていて、そして手に取りにくいものが、そこにある気がしてならなかった。
「……先生は“物でもいい”って言ったんだよな」
俺が言うと、エルセは頷く。
「言ったわね」
「でも結局、その物に何を見てるか次第、か」
「そう」
エルセはゆっくり言う。
「だから、物を先に決めるんじゃなくて、結び目の方から考えた方が早いかも」
その言い方は、ひどく正しい。
だが、正しいからこそ面倒だった。
「結び目、ねえ」
俺は椅子にもたれ、天井を見た。
「向こう側の由来なら、まだわかるんだよ。家族とか、途中で止まった約束とか。曖昧でも方向はある」
「うん」
「でも、今の世界の方になると、急に言葉にしにくくなる」
「……そうね」
エルセの返事は、少しだけ遅かった。
俺はそこで初めて、彼女も同じように言葉を選んでいるのだと気づく。
「お前は?」
聞く。
「先生に言われた“今の世界の結び”って話、俺だけじゃなく、お前にも刺さってるだろ」
エルセは少しだけ眉を寄せた。
「何、その言い方」
「図星か?」
「……図星」
しぶしぶ、みたいに認める。
「だって、あれ、あんただけの話じゃないもの」
そこで少しだけ間が空く。
「私だって、今の世界に結び目がある。王都も、宿も、先生も、ミレナも……」
そこまでは前にも聞いた。
その続きを、今夜は聞ける気がした。
「それで?」
俺が促すと、エルセは帽子のつばではなく、自分の指先を見た。
今夜は帽子を被っていない。だから隠す仕草が少し違う。
「……それで、そういうのを“物”にしろって言われると、急に難しくなるの」
彼女は静かに言う。
「結び目って、たぶん、物よりもっと曖昧で、でももっと重いから」
「物じゃ置き換えられない?」
「全部は無理」
エルセは即答した。
「象徴にはできても、まるごとにはならない」
「じゃあ、象徴を選ぶしかないのか」
「そうなるわね」
部屋の中に沈黙が落ちる。
窓の外では、王都の夜が静かに流れていた。遠くで馬車の音がして、少し遅れて誰かの笑い声が響いて消える。《木靴亭》の下の階からは、女将が何かを片づけているらしい音が微かに上がってきた。
日常の音だ。
そしてたぶん今、その日常そのものが、俺の前に媒介候補として置かれている。
「……先生、ひどいこと言うよな」
ぽつりと漏らす。
「何を」
「結局、“今の世界に何を見てるか、自分で認めろ”ってことだろ」
机の上の物を見下ろす。
「それが一番面倒なのに」
エルセが、少しだけ笑った。
「そうね」
その笑いは弱いけれど、本当に楽しそうだった。
「でも、遼真にとって必要なのって、たぶん前からそこだったんじゃない?」
「どういう意味だ」
「だって、帰る帰るって言いながら、ずっとそこだけ避けてたでしょ」
エルセはやわらかい声で言う。
「今の世界をどう思ってるか。ここで何を得て、何を残したいのか」
少しだけ目を伏せる。
「そこを曖昧にしたまま帰る方を決めるのって、たぶん、ずっと無理だったんだと思う」
それは、妙に納得できる言葉だった。
俺が帰りたいのは本当だ。
でも、その“帰りたい”の中身を自分で整理しきれていないから、今こうして揺れている。
「……お前、最近ほんとにそういうこと言うようになったな」
思わずそう言うと、エルセは少しだけ顔をしかめた。
「何それ。前は言わなかったみたいな」
「前はもっと、途中で止めてた」
「……」
「最近は、ちゃんと最後まで言う時が増えた」
エルセは黙った。
そしてしばらくしてから、小さく言う。
「最後まで言わないと、たぶんもう伝わらないから」
「そんなに鈍かったか、俺」
「かなり」
即答だった。
「今でも、そこまで鋭い方じゃない」
「ひどいな」
「ひどくない」
エルセは真顔だった。
「本当のこと」
だが、少しだけ間を置いてから、彼女は声を和らげる。
「でも、前よりはちゃんと拾うようになった」
灰青の瞳が、少しだけこちらを向く。
「それは……うれしい」
その“うれしい”は、たぶんかなり勇気を出して置かれた言葉だった。
俺はそれを冗談にしたくなくて、まっすぐ頷く。
「そうか」
「そこで“そうか”なの?」
エルセが少しだけ目を丸くする。
「いや」
俺も少し困る。
「こういう時、変に返すと壊しそうで」
「……」
エルセは数秒黙って、それから小さく笑った。
「それ、前にも聞いた気がする」
「そうだっけ」
「うん。でも」
少しだけ表情がやわらぐ。
「今のは嫌じゃない」
机の上に並んだ物の中で、祭りの硝子玉が少し光を返した。
俺はそれを指先で転がす。
淡い光が揺れて、机の木目の上に小さく滲む。
「なあ」
「何」
「今の世界の結びって、物じゃなくてもいいなら」
エルセがこちらを見た。
「“場所”ってありなのか」
彼女はすぐには答えず、少し考えた。
「理論上はありえる」
「じゃあ、たとえば宿とか」
「《木靴亭》そのものを媒介にしたいの?」
少しだけ呆れたような声。
「いや、そういうわけじゃない」
「なら、違うわね」
エルセはきっぱり言う。
「場所は強いけど、広すぎる。主陣が求めてるのは、たぶんもう少し個人的な“結び”よ」
「個人的」
「ええ」
彼女は視線を机の上の物へ戻す。
「“そこで何があったか”まで含めて、意味を持つもの」
その言い方で、急に思い出すものがあった。
橋の上。
祭りの高台。
森の火の前。
《木靴亭》の窓辺。
そういう“場所”に付随しているのは、風景じゃなく、誰かとの時間だ。
その瞬間、机の上にあるどの物も違うと、ますますはっきりした。
「……結局、人か」
小さく漏らすと、エルセの指先がぴたりと止まった。
「そうとも限らない」
返事は早かった。
だが、その早さが逆に不自然でもあった。
「人そのものじゃなくても、その人と繋がる何か、って形はある」
「たとえば?」
「……」
エルセは少しだけ視線を逸らす。
「手紙とか。約束の印とか。共同で作ったものとか」
「なるほど」
俺は机の上の品を改めて見た。
「じゃあ、今ここにあるものじゃ足りないな」
エルセは、すぐには返事をしなかった。
その沈黙が少しだけ長くて、俺は彼女の方を見る。
彼女は、何か言いかけて止めた顔をしていた。
「何だよ」
「別に」
「今のは絶対別にじゃないだろ」
「……」
「エルセ」
名前で呼ぶと、彼女は観念したように息を吐いた。
「……一つだけ、心当たりがある」
とても小さい声だった。
「何だ」
エルセはすぐには答えない。
指先を組み直し、視線を机の上の硝子玉から短剣の鞘、閲覧証、部屋鍵へと順に滑らせる。そうやって、俺を見ないようにしているのだとわかった。
「でも」
彼女は言う。
「たぶん、今ここで私から言うのはずるい」
「何が」
「だって、それを私が口にしたら、あんたの“今の世界の結び”に、私が勝手に名前をつけることになるでしょ」
その言い方に、言葉が詰まる。
エルセが何を言おうとしているのか、完全にはわからない。
でも、方向だけは見える。
「それは」
ようやく口を開く。
「……たしかに、そうかもしれない」
エルセは小さく頷いた。
「だから、言わない」
それから少しだけ困ったように笑う。
「前ならそこで“知らない”とか“どうでもいい”って言ってたんでしょうけど、今はそういう嘘、たぶんいらないから」
その言葉が、俺の中に静かに沈む。
言わない。
でも、無いわけじゃない。
それだけで十分すぎるほど、重かった。
「じゃあ」
俺はゆっくり言う。
「俺が考えるしかないってことか」
「そう」
エルセは今度はちゃんと俺を見た。
「それは、遼真が決めるところ」
少しだけ目が揺れる。
「……怖いけど」
怖い、か。
たぶん、それは俺も同じだった。
「俺も怖いよ」
正直に言うと、エルセは少しだけ目を丸くした。
「遼真でも?」
「俺でも」
机の上の鍵を指先で転がす。
「選ぶってことは、選ばなかったものに名前をつけることでもあるだろ」
喉が少しだけ苦い。
「それが嫌なんだ」
エルセは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ眉を下げる。
「……そう」
その一言には、驚きと、少しの痛みと、でもそれだけじゃない何かが混ざっていた。
「じゃあ、やっぱり前より人間らしいわね」
「褒めてるのか、それ」
「半分くらいは」
エルセは少しだけ肩をすくめる。
「前のあんた、もっと“選ばなかったものは最初から無かったことにする”みたいなところあったもの」
「ひどいな」
「ひどいわよ」
彼女はやわらかく言う。
「でも、今は違う」
その“今は違う”に、何か返したくなった。
けれど、変に綺麗なことを言えば壊れそうで、結局出てきたのはひどく正直な一言だけだった。
「……お前のせいかもな」
エルセが固まる。
「は?」
「いや」
俺は少しだけ困る。
「この世界の結びとか、選ばなかったものとか、そういうのを考えるようになったの」
視線を少しだけ机へ落とす。
「たぶん、お前のせいでもある」
言いながら、これはかなり危ない言い方かもしれないと思う。
でももう遅い。
エルセは完全に黙っていた。
黙って、こちらを見ている。
そして、やっと小さく息を吐いた。
「……ほんとに」
声がかすれている。
「そういうの、いきなり言うのやめて」
「やっぱりまずかったか」
「まずい」
即答だった。
「かなり」
それから、ほんの少しだけ目を逸らす。
「でも、嫌じゃないのがもっとまずい」
その返しに、俺まで何も言えなくなった。
静けさが落ちる。
でも、嫌な静けさじゃない。
少し熱を持ったまま、どこへ置けばいいのかわからない静けさだった。
結局その夜は、机の上の物をいくつか選んで、いくつか下げて、それでも決定打は出なかった。
向こう側の由来は、まだ形にならない。
今の世界の結びは、まだ名前をつけきれない。
術者本人の意思は、言葉のままではまだ重すぎる。
それでも、一つだけ前よりはっきりしたことがある。
俺はもう、“選べと言われても、選びたくない”と黙るだけでは済まないところまで来てしまっていた。




