第27話 物じゃ足りないなら、何を置く
翌朝の図書院は、いつもより少しだけ散らかっていた。
いや、正確には、散らかっているのはいつものことだ。オーウェンの研究室に限って言えば、“片づいている”という状態を見たことがない。だが今日は、その乱雑さの質が違う。
机の上にあるのは、ただの紙束じゃない。
帰還陣の写し。
主陣の中心部の構造図。
分散配置の近似例。
それから、小さな黒布の上へ並べられた、妙に生活感のある物たち。
《木靴亭》の部屋鍵。
俺の閲覧証。
祭りの硝子玉。
使い込んだ短剣の鞘。
北門の通行札。
ミレナが「比較用です!」と言って持ってきた、王都魔術院の生徒徽章まで混ざっている。
「……改めて見ると、ひどい机だな」
思わずそう漏らすと、ミレナがすぐに反応した。
「ひどいのは机じゃなくて、候補の絞れなさです」
彼女は真顔だった。
「いや、机もひどいですけど」
オーウェンが鼻を鳴らす。
「机に文句を言う暇があるなら座れ」
老人は昨夜ほとんど寝ていない顔だった。
それでも目だけは冴えている。
「今日は“物として使えるか”を一度まとめて切る。そうしないと、いつまでも机の上で迷うだけだ」
その言葉に、俺とエルセは向かい合う形で席についた。
エルセは今日も黒い帽子を被っていたが、つばを押さえる頻度が昨日より少ない。代わりに、指先が机の縁を細かく叩いている。緊張しているのだろう。
俺も似たようなものだ。
物で済むなら、その方がいい。
そう思っている自分が、まだどこかにいる。
でも同時に、昨日の時点で薄々わかっていた。
机に並んだこれらのどれを見ても、“今の世界の結び”として胸の奥に落ちてくる感じはない。
「まず確認だ」
オーウェンが言う。
「媒介は、術者自身の魔力と意味づけで成立する。だから“何を使うか”だけでなく、“それをどう置くか”も重要になる」
老人は黒布の上の部屋鍵を指先で軽く叩いた。
「たとえばこれ。宿の鍵だな」
「《木靴亭》の」
俺が言うと、女将の顔が少しだけ浮かぶ。
「宿そのものではなく、“そこで居場所を与えられていること”の象徴になりうる」
オーウェンは続ける。
「だが、これは術者本人がどこまでそこに意味を置いているか次第だ」
ミレナがすぐに測定用の小盤を差し出した。
「先生、簡易の共鳴試験、いけます」
「やれ」
ミレナは小盤の中央へ鍵を置き、外周の石片へ俺の魔力を少し流すよう促した。俺が言われた通りにすると、小盤の上に薄い青白い線が走る。
細い。
だが、ゼロではない。
「弱いですけど、消えてはないですね」
ミレナが言う。
「宿との結びつき自体は認識してる」
「ただし」
オーウェンが補足する。
「帰還陣の主媒介にするには弱すぎる。せいぜい補助線の一つだ」
鍵は外された。
次に閲覧証を置く。
共鳴はさらに弱い。
「これはだめですね」
ミレナが即断した。
「図書院との通行はあるけど、“結び”というより“利用”に近い」
オーウェンが頷く。
「そんなところだ」
北門の通行札も同じだった。
短剣の鞘は少し強かった。俺がこの世界で何度も命を預けたものだからだろう。
「でもこれ」
エルセが初めて口を開く。
「遼真と“この世界”の結びというより、遼真と“戦うこと”の結びよ」
灰青の瞳が鞘を見つめる。
「悪くはない。でも、帰るために置く媒介としては、少し違う」
その指摘は、ひどく正確だった。
鞘を見た時、頭に浮かんだのは王都や宿じゃない。
魔獣。
森。
遺跡。
そして背中合わせの戦い方だ。
それは今の世界の一部ではある。
でも、“今の世界で自分が結ばれたもの”としては、まだ少しずれている。
「じゃあ次」
ミレナが、少しだけ嬉しそうに硝子玉を持ち上げた。
「祭りのやつです!」
「お前それ好きだな」
「好きですよ。象徴として綺麗ですし」
ミレナは机に置きながら言う。
「しかも、あの日ってお二人にとってけっこう大きいじゃないですか」
その言い方に、エルセがぴくりと反応した。
「何よ、そのまとめ方」
「え、違います?」
ミレナは悪びれない。
「祭りの高台、橋、屋台、光虫、ほぼデー――」
「言わなくていい!」
エルセの声が少しだけ大きくなる。
オーウェンが露骨に面白そうな顔をしたが、そこは黙っていた。
俺は硝子玉の前へ魔力を流す。
今度は、思っていたより線が出た。
鍵より強い。
鞘に近い。
でも、中心までは届かない。
「……やっぱり少しはあるのね」
エルセが小さく言う。
「何の“やっぱり”だよ」
「知らない」
即座に視線を逸らす。
「ただ、その日が全然何でもない日ってわけじゃないって、数字で見えると余計に腹立つだけ」
その返しに、思わず少しだけ笑いそうになる。
だがミレナは真顔で結果を見ていた。
「中程度、ですね」
「ええ」
オーウェンも頷く。
「“ここにいた”印としては有効だ。だが主媒介にするには、まだ薄い」
それから硝子玉を机から外し、淡々と続ける。
「やはり、物そのものでは足りん」
その一言で、部屋の空気が少しだけ重くなる。
薄々わかっていたこと。
でも、実際に試して切られると、やはり少し堪える。
机の上から、もう選択肢が減っていく。
「……先生」
俺が低く言う。
「“物そのものでは足りない”っていうのは、結局どういう状態を指すんですか」
オーウェンは少しだけ考えたあと、ゆっくり答えた。
「物が媒介になるには、その物を見た時、術者の中で“人”や“場所”や“時間”が一つの束として立ち上がる必要がある」
「束」
「たとえば部屋鍵なら、“宿泊している”だけでは弱い。“ここへ帰ってくる”“ここで迎えられる”“ここで何かを話した”といった複数の意味が重なれば強くなる」
老人は硝子玉へ視線を移した。
「祭りの景品も同じだ。ただ綺麗だからでは足りん。あの日の感情と、誰といたかと、何を確かめたかまで含めて結ばれていなければならん」
つまり、“出来事”が必要なのだ。
物は、その出来事を繋ぎ止める針にすぎない。
「だったら」
ミレナが言う。
「物を先に探すんじゃなくて、出来事から遡った方がいいですよね」
「ええ」
エルセが頷く。
「何が“今の世界での結び”なのかを、先に決めた方がいい」
そこまで言ってから、彼女は少しだけ目を伏せた。
その仕草に、何となく嫌な予感がする。
「……言っておくけど」
エルセは静かに続けた。
「ここで“何が結びか”を決めるのと、“誰が大事か”を口にするのは、ほとんど同じよ」
研究室が、しんと静まる。
オーウェンは何も言わない。
ミレナも珍しく黙る。
俺は、その言葉の重さをそのまま受け取るしかなかった。
大事かどうか。
そこまで言われると、もう逃げ道は少ない。
「……そこまで言うのか」
やっとそう返すと、エルセはゆっくりと顔を上げた。
「言うわよ」
声は強くない。
でも、逃がさない響きがあった。
「だって、帰還陣が使うのは“強い縁”なんでしょう。だったら、“大事なもの”に近い話になるに決まってる」
少しだけ呼吸を整える。
「今さらそこをぼかしても、たぶん意味ない」
その通りだ。
ぼかせば楽になると思っていたのは、俺の方かもしれない。
「……遼真」
エルセは名前を呼ぶ。
「昨日も言ったけど、私は今、答えを急げとは思ってない」
そして、その一言一言を置くみたいに続ける。
「でも、“わからないまま帰る”つもりでいるなら、それは違うって言う」
灰青の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「今の世界に何を見てるのか。誰と結ばれてるのか。そこを曖昧にしたまま、術式だけ動かすのは、たぶん一番ひどい」
胸の奥が静かに痛む。
ひどい、か。
そうなのだろう。
俺だって、たぶんもうわかっている。
それでも、自分で名前をつけるのは怖い。
「……なあ」
気づけば、かなり低い声で聞いていた。
「お前は、もうつけられるのか」
エルセが、少しだけ息を呑んだ。
「何を」
「今の世界の結びに」
自分でも声が硬いのがわかる。
「名前を」
また沈黙が落ちる。
ミレナがちらっとオーウェンを見る。
老人は口を挟まない。
やがて、エルセはほんの少しだけ視線を落とした。
「……全部じゃない」
最初の答えは、それだった。
「全部を綺麗には言えない」
指先がわずかに組み直される。
「でも、前よりは、たぶん」
「たぶん?」
俺が繰り返す。
エルセはそこで一度だけ、ちゃんと俺を見た。
「遼真がいる場所は、今の世界の結びに入ってる」
言葉は静かだった。
「それは、もう否定できない」
その一言で、胸の内側がひどく静かになる。
研究室の空気さえ、遠くなる気がした。
ミレナが、息を止めたように黙っている。
オーウェンも何も言わない。
俺は何か返そうとして、でもうまく言葉が出てこなかった。
エルセは、そこへさらに続けた。
「だから」
少しだけ声が揺れる。
「私が勝手に遼真の“今の世界の結び”に名前をつけたくないの」
そこまで言って、小さく笑うように唇を歪める。
「……だって、もしそこに私が入ってなかったら、今の台詞、かなりひどいじゃない」
ようやく、研究室の空気が少しだけ戻ってくる。
ミレナが小さく「それはそうですけど」と呟き、オーウェンがわざとらしく咳払いした。
でも俺は、まだすぐには動けなかった。
エルセの言葉が、あまりにもまっすぐだったからだ。
入っている。
否定できない。
だから、勝手に決めたくない。
それは、今までの彼女にしてはかなり遠くまで来た言い方だった。
「……お前」
やっと声を出す。
「最近ほんとに、そういうこと言うな」
エルセは少しだけむっとした。
「何それ」
「いや」
喉の奥がまだうまく動かない。
「前ならもっと、“別に”とか“知らない”とかで逃げただろ」
「逃げてたわよ」
エルセはあっさり認める。
「今でも逃げたい」
少しだけ間を置く。
「でも、遼真が前より逃げなくなったのに、私だけそこで止まるの、たぶん違うから」
その言葉は、少しだけきつい。
でも同時に、ひどくやさしい。
俺はそれをどう受け取ればいいのか、一瞬わからなくなる。
だから、結局いちばん正直なところだけを言う。
「……怖いな」
ぽつりと漏れた声に、自分でも驚く。
だが、もう引っ込められない。
「何が」
エルセが静かに聞く。
「名前をつけるのが」
俺は机の上の鍵や硝子玉を見たまま答える。
「ここまで来ると、たぶんもう物の話じゃない」
「……うん」
「何を大事だと思ってるか、何を失いたくないか、自分で認める話になってる」
少しだけ息を吐く。
「それが、怖い」
エルセは黙って聞いていた。
そして、少しだけ困ったみたいに目を細める。
「今の、それ」
「何だ」
「たぶん、すごく大事な一歩」
声がやわらかい。
「前の遼真なら、そこを“面倒”で終わらせてた」
それは否定できなかった。
ミレナが、そこでようやく口を挟んだ。
「じゃあ、今日は無理に物を決めない方がいいですね」
見習い魔術師は珍しく真面目な顔だった。
「結び目の方を先に整理した方がいいです。媒介物は、そのあとでも探せる」
「同感だ」
オーウェンも頷く。
「中途半端な象徴を持ち込んでも、主陣は騙せん。むしろ逆効果だ」
つまり今日は、候補を切るだけで終わりだ。
前に進んだのかどうか、少しわかりにくい。
でも、本当はかなり大きく進んだのだとも思う。
物じゃ足りない。
何を置くかは、何を大事に思っているかとほぼ同じ。
そこまで明確になったのだから。
「今日はここまでだ」
オーウェンが言う。
「各自、持ち帰って考えろ。相馬、お前は特にだ」
「はい」
「次に森へ入るのは、そのあとだ。媒介の見当もつかんまま主陣を動かすわけにはいかん」
研究室の空気が、ようやく少しだけほどけた。
ミレナは大きく息を吐いて、記録紙を束ね始める。エルセは帽子のつばへ触れかけて、途中でやめた。俺は机の上の物を一つずつ袋へ戻しながら、まださっきの“入ってる”という言葉を頭の中で反芻していた。
入っている。
否定できない。
その一言が、机の上のどの物より重く残っている。
◇
図書院を出てからも、しばらく俺たちは何も言わなかった。
無言なのに、さっきの研究室の続きをそのまま持ち歩いている感じがする。
王都の夕方はいつも通りだ。
店じまいの声。
荷馬車の音。
市場帰りの人の流れ。
けれど、こっちの歩調だけが少しだけ不自然だった。
俺もエルセも、何か言うべきだとわかっている。
でも、何をどう言えば壊さずに済むのかを測っている。
先に口を開いたのは、やっぱりエルセだった。
「……さっきの」
声は小さい。
「変なこと言ったわよね、私」
俺は一瞬、何のことかわからないふりをしそうになった。
でも、そういうのはもうやめると決めたはずだ。
「入ってる、ってやつか」
「……うん」
エルセはほんの少しだけ視線を逸らす。
「別に、返事を今すぐ欲しいとかじゃないの」
「わかってる」
「ただ、その……」
言葉が少しだけ迷う。
「勝手に私が決めるのは違うって言いたかっただけで」
そこで俺は、ようやく言えそうなことを探した。
「違わないと思う」
そう言うと、エルセが止まりかけた。
「……え?」
「勝手に決めるのは違う、ってのはその通りだ」
俺は歩きながら続ける。
「でも、お前がそう思ってること自体が違うわけじゃない」
少しだけ息を整える。
「少なくとも、俺にとっても、お前はもう“今の世界と関係ないもの”じゃない」
言い終わった瞬間、自分の鼓動が少しだけ速くなるのがわかった。
これが正解かどうかはわからない。
でも、今の俺に言えるのはたぶんここまでだ。
エルセは、しばらく何も言わなかった。
ただ、灰青の瞳が少しだけ大きくなっていて、頬にはごく薄く赤みが差している。
「……何、それ」
やっと出てきた声は、かなり小さい。
「それ、ずるいんだけど」
「またそれか」
「またよ」
エルセは困ったように笑う。
「だって、“そうだ”とも“違う”とも言い切らないのに、ちゃんとそこへ置くじゃない」
「そうしないと嘘になる」
「……」
エルセは数秒黙ってから、小さく息を吐く。
「うん」
それだけだった。
でもその一音には、前よりずっと多くのものが入っていた。
たぶん今夜は、それで十分なんだろう。
選べと言われても、まだ選びたくない。
でも、何を選びたくないのかは、もう少しずつ見え始めている。
それだけで、前よりずっと後戻りしにくい場所まで来ているのだと、はっきりわかった。




