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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第28話 帰ってくる場所の鍵

 翌朝、《木靴亭》の食堂はいつも通りだった。


 女将の鍋をかき回す音。

 焼きたてのパンの匂い。

 寝起きの旅人たちの鈍い声。

 窓から入る王都の朝の光。


 何も変わっていないように見える。


 でも、俺の方は明らかに変わっていた。


 机の上に並べた媒介候補。

 物では足りないと切られた昨日。

 “今の世界の結びに入っている”とエルセが言ったこと。

 そして、それを俺も完全には否定できなかったこと。


 全部が頭のどこかに残ったまま、パンをちぎる手だけがやけに普通に動いている。


「その顔、まだ整理ついてないねえ」


 女将が鍋の向こうから言った。


「顔に出てますか」

 俺が聞くと、女将は鼻を鳴らす。


「出てるよ」

 そう言ってから、少しだけ声を落とした。

「でも前みたいな“見ないようにしてる顔”じゃない。ちゃんと考えてる顔だ」


 言われて、少しだけ肩の力が抜ける。


 前と違う。

 少なくとも他人から見てもそうなのか。


 そこへ、階段の方から足音がした。


 銀髪の魔女が、いつも通りの黒で食堂へ下りてくる。帽子も服も普段通りなのに、朝の光の中だと、わずかに疲れが残っているのが見えた。


「おはようございます!」

 と元気すぎる声でミレナも飛び込んでくる。


 何というか、この三人が揃うと、最近だいぶ“いつもの朝”になってきた気がする。


「師匠、今日こそ媒介の絞り込みですね!」

 ミレナが席につくなり言った。

「先生、朝から資料広げて待ってますよ!」

「先生を寝かせてやれよ」

「寝てないみたいでした」

「やっぱりか……」


 エルセは俺の向かいに座り、水だけを先に飲んでから、小さく言った。


「今日は、物の方から潰していくんでしょう」

「ああ」

 俺は頷く。

「少なくとも、“物だけじゃ弱い”ってところまでは見えた。だったら次は、“どんな出来事に結びついてるか”を見た方が早い」

「うん」

 エルセは短く返す。

「その方が、たぶん誤魔化しがきかない」


 その一言が、妙に的確だった。


 誤魔化しがきかない。


 昨日までの話を振り返れば、その通りだ。結び目を選ぶというのは、結局、自分が何を今の世界の中で大事だと思っているかを認めることに近い。


 物の話のふりをしても、最後はそこへ行く。


「でも」

 ミレナがパンを持ったまま口を挟む。

「物そのものが無意味ってわけじゃないんですよね?」

「そうだな」

 俺は答える。

「象徴にはなる」

「じゃあ今日の方針は、“象徴として成立しうる物”を、ちゃんと出来事込みで見直す、でいいですか?」

「たぶんそれだ」

「いいですね」

 ミレナは真剣な顔で頷く。

「ようやく研究っぽくなってきました」

「今まで何だと思ってた」

「半分恋愛相談です」

「お前な」


 エルセが小さく息を吐く。


「……否定しきれないのが腹立つ」


 女将がそのやり取りを聞きながら、焼きたてのパンをもう一籠置いた。


「なら、その“今の世界の結び”ってやつに、宿は入ってるのかい」

 何気ない顔で言う。


 俺とエルセが同時にそちらを見る。


 女将は平然としていた。

 でも、その目は少しだけ笑っている。


「何だい。変なこと言ったかい」

「いや」

 俺は少しだけ困る。

「宿は、たぶん入ってる」

「“たぶん”なのかい」

 女将は眉を上げる。

「毎晩帰ってきて、毎朝飯食って、怪我すりゃ勝手に部屋用意されて、それでも“たぶん”かい」


 その言い方が妙に胸に刺さる。


 たぶんじゃないのかもしれない。

 いや、少なくとも“結び”の一つではある。


 でも、それが媒介として十分かと言われると、まだ別の問題が残る。


「宿そのものじゃなくて」

 エルセが静かに言った。

「“帰ってくる場所”としての意味が、どこに結ばれてるかの方が大事なんだと思う」

 それから少しだけ視線を女将へ向ける。

「鍵そのものじゃなくて、鍵を渡した人とか、開けた時に待ってる空気とか、そういう方」


 女将がゆっくり頷いた。


「なるほどねえ」

 そして、何でもない顔で続ける。

「じゃあ、それを形にするなら、うちの鍵だけじゃ足りないってことか」


 そこまで言われると、話がかなり具体的になる。


 ミレナが目を輝かせた。


「じゃあ、何かあるんですか!? 宿の象徴!」

「そんな大層なものじゃないよ」

 女将は笑って、腰の前掛けのポケットを探った。

「昔の予備札さ」


 取り出されたのは、古い木札だった。


 《木靴亭》と焼き印の入った、擦り切れた部屋札。今使っている鉄札より前の代物らしい。端は丸く摩耗し、手垢の染み込み方からして相当長く使われていたことがわかる。


「昔、常連に貸し出してたやつだよ」

 女将が言う。

「泊まるたびに、帰ってきたら帳場で受け取る。出る時に返す。そういう札」

「……これ」

 俺は思わず手に取った。

 軽い。木の感触は温かい。

「まだ取ってあったのか」

「物持ちがいいんでね」

 女将は鼻を鳴らす。

「捨てる理由もなかったし」


 ミレナが身を乗り出す。


「これ、いいんじゃないですか?」

「可能性はある」

 エルセが真面目な目で札を見る。

「“宿に帰ってくる”の象徴としては、前の鍵よりずっと強い」


 その言葉を聞いて、俺は札を見つめた。


 たしかに、部屋鍵よりずっとしっくりくる。

 これは“場所に入る道具”というより、“帰ってくるために渡される印”だ。


 宿に帰る。

 待っている場所がある。

 それを示す物。


 女将がさらりと言う。


「必要なら持ってきな」

「いいんですか」

「その代わり、ちゃんと返しに来な」

 目が少しだけ細くなる。

「持ってくだけ持って、使い捨てみたいにされちゃ気分悪いからね」


 その一言に、胸の奥が少しだけ熱を持つ。


 返しに来な。


 帰還の話をしている最中に、それを言うのか。

 いや、だからこそ、かもしれない。


「……借ります」

 俺が答えると、女将は短く頷いた。


 エルセは、そのやり取りを黙って見ていた。


 表情は変わらない。変わらないのに、視線の奥だけが少し揺れているように見える。


 たぶん、俺がその札を受け取った意味を、彼女も感じ取っているのだろう。


    ◇


 図書院へ向かう道すがら、俺は木札を何度か指先で弄んだ。


 古い木の感触。

 焼き印のへこみ。

 使い込まれた角の丸み。


 ただの札なのに、妙に馴染む。


「どう?」

 少し歩いてから、エルセが聞いた。


「何が」

「宿の札」

 彼女は前を向いたまま言う。

「昨日の物たちよりは、ずっとましな顔してる」


 顔に出ていたらしい。


「……そうだな」

 正直に答える。

「昨日の鍵よりは、だいぶ」

「でしょうね」

 エルセは小さく頷く。

「鍵は“部屋を開けるもの”だったけど、それは“帰ってくる印”だもの」


 言いながら、彼女の声は妙に静かだった。


「気になるか」

 俺が聞くと、エルセは一瞬だけこっちを見た。


「何が」

「宿の札が媒介候補になるの」


 エルセは少しだけ考えて、それから答えた。


「気になるわよ」

 意外なくらい素直だった。

「だって、それが“今の世界の結び”としてちゃんと成立するなら」

 少しだけ間が空く。

「……遼真が、ここに帰ってくる場所をちゃんと持ってたってことになる」


 その言い方が、あまりにも静かで、あまりにも重い。


 俺は少しだけ息を止めた。


「帰ってくる場所、か」

「そう」

 エルセは前を向き直る。

「前のあんたは、王都も宿も、全部“通過点”みたいに扱ってた」

「……否定はしない」

「でも今、その札を持ってそんな顔してるなら、少なくとも少しは違う」


 それは、たぶんその通りなんだろう。


 《木靴亭》はただ寝る場所じゃなくなっていた。

 図書院も、ただ調べ物をする場所じゃない。

 王都そのものだって、もう単なる“情報のある街”だけじゃない。


 そのことを認めるのは、帰りたい俺にとって少し怖い。

 でも、認めなければ媒介にはならない。


「……エルセ」

「何」

「もし、この札が媒介として成立したら」

 そこで少しだけ言葉を選ぶ。

「それって、お前にも少し関係あると思うか」


 聞いた瞬間、自分でも少しまずい問いだったと思う。


 でももう遅い。


 エルセの足が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……何、その聞き方」

「いや」

 俺は視線を木札へ落とす。

「《木靴亭》に帰るってことは、女将さんだけじゃなくて、お前がいる時も多かっただろ」

「……」

「だから、その札に俺が何を見てるかって話なら、完全に無関係ではないんじゃないかと思って」


 エルセは、しばらく何も言わなかった。


 王都の石畳を行き交う人の音が、少しだけ遠く聞こえる。

 市場帰りの荷車が一台、脇を通り過ぎていった。


 やがて、エルセが小さく息を吐く。


「ずるい」

 またその単語だった。

「またか」

「またよ」

 彼女は困ったみたいに少しだけ笑う。

「そういう聞き方されたら、“関係ない”って言えないじゃない」


 その返しは、思っていたよりずっとやわらかかった。


「言わないのか」

「言えないの」

 エルセは静かに言う。

「だって、私だってあの宿を“帰る場所”だと思ってるから」

 そこまで言ってから、視線を落とす。

「遼真がそこに何を見てるかを、完全に他人事としては切れない」


 胸の奥が、また静かに重くなる。


 たぶん今のやり取りだけで、昨日より一歩深く踏み込んでいる。


 でも不思議と、怖さよりも先に納得があった。


 宿の札は、ただの木札じゃない。

 それを媒介候補として持ち歩くということ自体が、もうある種の答えに近い。


    ◇


 研究室での簡易共鳴試験は、昨日よりずっとはっきり結果が出た。


 木札を黒布の中央へ置き、俺が少しだけ魔力を流す。

 すると細い青白い線が、昨日の宿の鍵とは比べものにならないほど深く中央へ伸びた。


「……強いですね」

 ミレナが素直に感嘆する。

「中程度は確実に超えてます。補助媒介なら十分候補に入る」

「ええ」

 オーウェンも頷く。

「少なくとも、“今の世界で帰ってくる場所”として認識している」


 その言葉を聞いて、部屋の空気が少しだけ変わる。


 前進だ。

 小さいが、確かな前進。


 エルセはその青白い線を黙って見ていた。

 そして、ほんの少しだけ表情を緩める。


「……よかった」

 かなり小さな声だった。

「何が」

 俺が聞くと、エルセは視線を逸らした。


「何でも」

「何でもない顔じゃないだろ」

「何でもない」

 そう言い張りながらも、頬は少しだけ赤い。

 ミレナがにやっとする。

「お姉さん、“宿”がちゃんと候補に入ったの嬉しいんですね」

「違う」

「違わないですよね?」

「違うわよ」

 エルセは言い返し、それから少しだけ声を落とした。

「……ただ、“ここに帰ってくる場所”っていうのが遼真の中にちゃんとあったなら、少しだけ安心しただけ」

 それはたぶん、今の彼女に言えるかなり本音に近い。


 俺はその言葉を、すぐには返せなかった。


 代わりに木札をもう一度手の中で握る。

 木のぬくもりが、さっきより少しだけはっきり伝わってきた。


「補助媒介の一つは、これでいけるかもしれませんね」

 ミレナが言う。

「少なくとも、“今の世界の結び”の側に一つ、現実的な候補ができた」

「そうだな」

 俺は頷く。


 だが、まだ足りない。


 向こう側の由来。

 術者本人の意思。

 そして、もしかすると今の世界の結びも、まだこれだけじゃ足りないかもしれない。


 それでも、物では足りないと切られ続けた昨日までに比べれば、ずっとましだった。


 何を置くか。


 その問いに対して、少なくとも一つは、手の中に載ったのだから。

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