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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 最悪の一日だった、は本当に最悪か

 祭りの夜の王都は、やたらと光っていた。


 高台から見下ろした時点でも十分綺麗だったが、実際に通りへ降りると、光の量はさらに増す。頭上の魔導灯、屋台の吊り灯、店先の小さな火皿、中央広場の舞台を囲む青白い照明。石造りの建物や石畳までその光を反射して、街全体が薄い夢の中みたいに見えた。


 ……見えたのだが。


「すごいな」


 俺がそう言うと、隣のエルセはすぐに顔を背けた。


「そうでもない」


「いや、あるだろ」


「別に。毎年こんなものよ」


「毎年見てるのか」


「……見てない」


「さっきと言ってること違わないか?」


「うるさい」


 そう言っているわりに、彼女の横顔はほんの少しだけ柔らかかった。灰青の瞳に灯りが映って、普段より少しだけ幼く見える。


 だが、こっちがその変化を見てしまったとわかると、またすぐに不機嫌そうな顔へ戻る。


 わかりやすい。


 いや、わかりやすい時とわかりにくい時の差が激しすぎるのかもしれない。


 鐘が鳴ってからしばらく、高台の上で待たされたあと、ようやく人の流れが落ち着いた。下へ降りる時にはもう祭りは本格的に夜の顔になっていて、中央広場からは歓声と演奏の音が絶えず流れてきていた。


 エルセの案内で、俺たちは人が少しだけ分散した横道へ出た。大通りほど混まないが、屋台や見世物はきちんと並んでいる、微妙に穴場らしい通りだ。


「詳しすぎないか、お前」


「だから前にも言ったでしょ。少しは知ってるって」


「少しでここまで把握するか?」


「する時はするの」


 その答えはいつも通り雑だったが、今さらそこを突いても仕方ない。


 通りの両脇には屋台が並んでいた。甘い焼き菓子、香草入りの肉串、果実酒、当てもの、手製の護符、子ども向けの光る玩具。祭りらしい賑わいだ。


 ただ、問題があるとすれば。


 視線だ。


 やっぱり見られる。


 しかも夜の灯りのせいで、昼間より余計に“そういう空気”に見えるらしい。


 露店の主たちがにやにやし、通りすがりの客が振り向き、若い連中が小声で何か囁いていく。


「……見られてる」


 エルセが低い声で言った。


「お前が目立つからだろ」


「違うわよ」

 彼女はむっとした顔で返す。

「どう見ても、あんたと並んでるからでしょ」


「それって結局お前も原因ってことじゃないか」


「そういう意味じゃない!」


 そこで少しだけ声が大きくなったせいで、ちょうど近くを通った若い娘たちが「あ、喧嘩してる」「でも距離近い」とひそひそ笑った。


 エルセの耳が、またほんのり赤くなる。


「……本当にこの街、嫌い」


「祭りが嫌いなんじゃなかったのか」


「今日は街ごと嫌い」


「範囲が広くなったな」


 ぼそりと返すと、エルセはまた帽子のつばを押さえた。


 その仕草が何となく可笑しくて、少しだけ口元が緩む。


 すると彼女はすぐに気づいた。


「何」


「いや」


「今、笑ったでしょ」


「少し」


「最低」


「お前それ便利すぎるって」


 そんなやり取りをしながら進んでいると、小さな人だかりが目に入った。


 子どもが集まって騒いでいる。輪の中央では、細い籠の中を小さな光球みたいなものが飛び回っていた。


「何だあれ」


「妖精もどき」

 エルセが即答する。

「正確には魔導灯用の発光虫を改良した玩具」


「何でそんなことまで知ってる」


「見ればわかる」


「見ただけで?」


「だいたいね」


 人だかりの中では、子どもたちが小さな網を使って光虫を捕まえようとしていた。金魚すくいに近いが、相手は宙を飛ぶ。難しそうだ。


 屋台の主がこちらに気づき、にやりと笑った。


「そこの兄ちゃん姉ちゃんもどうだい! 二人で一匹ずつ捕まえられたら、特別景品つきだよ!」


 どうしてどこへ行っても二人まとめで扱われるのか。


「やらない」

「やらないわ」


 重なった。


 だが屋台の主はへこたれない。


「えー、いいじゃねえか。祭りだぜ? ほら、恋人同士の腕試し!」


「違います」

「違うわよ!」


「仲良いねえ」


 会話にならない。


 俺がため息をつく横で、エルセも完全に諦めた顔をしていた。だが、その時、子どもの一人がこちらを振り返って目を丸くした。


「あっ、お姉ちゃん綺麗! 絶対うまい!」


 子どもの無邪気な一撃は強い。


 エルセが一瞬だけ言葉を失う。そこへ屋台の主が畳みかけた。


「お、じゃあ美人なお姉ちゃんが一回やってみるかい? 兄ちゃんの前でいいところ見せてやんな」


「……」


 エルセは完全に硬直した。


 断ると思った。


 だが彼女は俺をちらりと見て、それから何を思ったのか、ふいと顔を背けたまま言った。


「……一回だけ」


「は?」


「え、やるのか」

 俺が思わず聞くと、エルセはものすごく嫌そうな顔をした。


「何よ。その反応」


「いや、こういうの嫌いそうだなって」


「嫌いよ」


「じゃあ何で」


「……別に」


 その“別に”は、だいぶ怪しかった。


 屋台の主が嬉しそうに小さな網を渡してくる。エルセはそれを受け取り、無言で籠の前へ立った。子どもたちがわくわくした目で見上げている。


 光虫は小さくふわふわ飛び回り、普通の人間なら一匹捕まえるのも一苦労そうだ。


 だが――。


 す、と。


 エルセの手が動いた。


 一瞬だった。


 風もないのに光虫がふっと軌道を変え、その先へ網が滑り込む。ぱし、と軽い音がして、見事に一匹捕まった。


 周囲から歓声が上がる。


「おおお!」

「すごーい!」

「お姉ちゃんうまい!」


 エルセは何でもない顔をしているが、口元だけ少しだけ得意そうだった。


「……魔力で誘導しただろ」

 俺が小声で言うと、彼女はすました顔で返す。


「してない」


「したよな」


「してないわよ」


「じゃあ今の指先の動きは何だ」


「癖」


「便利な癖だな」


 屋台の主が大笑いしながら景品を差し出してきた。小さな硝子玉だ。中で淡い光が揺れていて、魔導灯のかけらみたいに見える。


「ほら、お姉ちゃんの景品だ!」


「いらない」


「えー」

 子どもが残念そうな声を出す。


 するとエルセは少しだけ目を泳がせ、それから硝子玉を受け取った。完全に子どもの反応に負けた顔だった。


「……ありがとう」


 小さな声。


 屋台の主ではなく、たぶん子どもたちへ向けたものだった。


 その瞬間、俺は少しだけ目を見張った。


 呪い、のことが頭をよぎる。


 好意を言おうとすると、本心と逆の言葉になる。


 だが今の“ありがとう”は、ちゃんとそのまま聞こえた。


 つまり、あの呪いは誰にでも出るわけじゃないのか。あるいは、対象や感情の質によるのか。


「何」

 エルセがこちらを見る。


「いや……」

 少し考え、それから言った。

「今のは普通だったな」


「は?」


「礼」


 たったそれだけの一言で、彼女の肩が跳ねた。


「な、何でもないでしょ!」


「いや、別に責めてるわけじゃ」


「別に!」


 顔が一気に赤くなる。


 今の反応は、完全に図星だった。


 やっぱり何かある。

 こいつの言葉と、本心と、相手との間には、妙なずれがある。


 今までも何度か感じていた違和感が、また少しだけ強くなる。


 だが、その先を考えようとすると、なぜか頭の中で警戒が鳴る。


 考えるな。

 踏み込むな。

 そこまで意味づけするな。


 どうしてそう思うのか、自分でもよくわからなかった。


 その後、俺たちはしばらく通りを流した。


 小さな舞台で旅芸人が火を吐いているのを見たり、香草を混ぜた飲み物を試したり、見世物小屋の前を通り過ぎたり。


 そのうち、気づけば俺たちはかなり長いこと一緒に歩いていた。


 最初は“宿に戻れないから仕方なく”だったはずなのに、もうそれだけでは説明しきれないくらいには、自然に。


「……疲れた」


 ふいにエルセが呟いた。


「お前が言うのか」

 俺は少し驚く。

「魔力で虫を捕まえてたくせに」


「だから魔力なんて使ってないって言ってるでしょ」

 彼女は不機嫌そうに言い返したあと、ふと足を止めた。

「……あれ」


 視線の先には、小さな橋があった。


 中央広場から少し外れた、水路にかかる石橋だ。そこにも灯りが吊られていて、水面に反射してゆらゆら揺れている。


「ここ、少し静かね」


「そうだな」


 祭りの中心から少し外れているぶん、人の流れもまばらだった。橋の欄干にもたれれば、水面と灯りだけが目に入る。


 エルセはそこで、ふうと息を吐いた。


「……最悪の一日だった」


 ぽつり、と。


 本当に何気ない言い方だった。


 だが、その瞬間、俺の中で何かが引っかかった。


 その言葉。


 数時間前、高台でも似たようなことを言っていた。

 祭りの最中も、何度も“嫌い”“最悪”と繰り返していた。


 でも、本当にそうか?


 今日一日のエルセを思い返す。


 高台の景色を案内した時の、少し得意そうな顔。

 屋台で俺に菓子を渡した時の、気まずそうな横顔。

 光虫を捕まえて子どもに褒められた時の、わずかな嬉しそうな表情。

 俺が“綺麗だ”と言った時の、あの混乱した反応。


 それのどこが、“最悪”なんだ。


「……そうか?」


 気づけば、口に出していた。


 エルセがこちらを見る。


「何が」


「最悪、ってやつ」


 灰青の瞳が、少しだけ揺れた。


 橋の上を、夜の風が抜ける。彼女の銀髪が灯りを受けて揺れた。


「だって」

 エルセは視線を逸らす。

「人は多いし、うるさいし、勝手に恋人扱いされるし、変な見習い魔術師は出てくるし……」


「まあ、それは否定しない」


「でしょ」

 彼女は少しだけ唇を尖らせた。

「だから最悪」


「でも」

 俺は橋の欄干に肘をつきながら、ゆっくり言う。

「そこまで嫌そうにも見えなかったけどな」


 言った瞬間、エルセの呼吸が止まったような気がした。


「……は?」


「いや、その」

 自分でもうまく言葉にできないまま続ける。

「祭りとか、ああいうの、お前はもっと露骨に嫌がると思ってた。人混みとか苦手そうだし。でも実際は、案内もしてたし、屋台も見てたし、景色もちゃんと見せたかったんだろ」


 エルセは完全に黙っていた。


 逃げ道を探しているみたいに視線が揺れている。


「だから、その……」

 俺は少しだけ言葉を選んだ。

「最悪っていう割には、楽しそうだった」


 沈黙。


 橋の下を水が流れる音だけが、やけに近く聞こえる。


 やがてエルセは、帽子のつばをぎゅっと掴んだ。


「……何よ、それ」


「何って、そのままだけど」


「そんなの」

 彼女の声は少しだけ震えていた。

「そんなの、わかるわけないでしょ」


「わかるだろ。見てれば」


「見なくていいのに」


「何で」


「……何ででも」


 今度は怒っているわけじゃなかった。


 恥ずかしさか、戸惑いか、それとも別の何かか。とにかく彼女は、今までの“最低”や“嫌い”の時とは違う表情をしていた。


 そしてその表情は、妙に胸に残る。


 見なくていいのに。


 そう言われると、余計に見てしまった自分に気づく。


 俺は今日一日、思っていたよりずっとエルセのことを見ていたらしい。

 祭りを案内する時の横顔も。

 人にからかわれた時の反応も。

 子どもと話す時の声も。

 光虫を捕まえたあとの、少しだけ誇らしげな顔も。


 何でだ。


 別に恋愛感情とかそういう話じゃない。


 ただ、見ていた。


 それが妙に気にかかる。


 エルセはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。


「……あんた、ずるい」


「何でそうなる」


「何でもない」


 それから彼女は橋の欄干にもたれ、水面を見る。


 その横顔は、さっきより少しだけ静かだった。


 橋の上を通る人も少ない。祭りの中心から離れたせいで、ようやく息がつける場所に来たのだろう。


「お前」

 俺は何となく聞いた。

「こういうの、嫌いじゃないのか」


「何が」


「祭りの端っこみたいな場所」

 水面を指す。

「騒がしいのから少し離れてる感じの」


 エルセは少し考え、それから答えた。


「……嫌いじゃない」


「そうか」


「でも」

 彼女は続ける。

「一人で見ると、余計にうるさく感じる時もある」


 その言い方が妙に胸に刺さる。


 一人で見ると、余計にうるさく感じる。


 わかる気がした。


 祭りに限らない。

 賑やかな場所ほど、自分がそこに属していない感覚が強くなることはある。


 俺だって、王都にいながらずっとそうだった。


「……今日は?」

 聞く。


 エルセはすぐには答えなかった。


 少しだけ風が吹いて、銀髪が揺れる。やがて彼女は、やけに小さな声で言った。


「今日は……少しまし」


 高台で聞いたのと、ほとんど同じ言葉だった。


 だが今は、さっきよりもっと本音に近い気がした。


 俺はしばらく黙ってから、短く返す。


「ならよかった」


 エルセが、また少しだけ息を止めた。


「……何よ、その言い方」


「何って」


「普通すぎるの」


「普通で悪いのか」


「悪いとは言ってない」


「じゃあいいだろ」


「……そういうところよ」


 どこだよ、と思ったが、聞かないでおいた。


 今、ここで余計なことを言えば、せっかく少しだけ静かになった空気が壊れる気がしたからだ。


 そのまましばらく、水面を見ていた。


 遠くの広場から歓声が上がる。たぶん舞台で何か始まったのだろう。


 その時だった。


 橋の向こう側から、数人の若い男たちが歩いてきた。酒が入っているのか、声が大きい。祭りの夜にはよくいる手合いだ。


 俺たちの近くを通り過ぎる時、そのうち一人がエルセを見て、わかりやすく顔をほころばせた。


「うわ、すげえ美人」


 隣の仲間が肘でつつく。


「おい、恋人いるだろ」

「え、でもさ、あの男そんな強そうでも――」


 聞こえてる。


 エルセの肩が、ぴくりと動いた。


 俺は小さく舌打ちする。面倒だ。


 だが、男たちが完全にこっちへ絡んでくる前に、エルセが一歩だけ俺の方へ寄った。


 ほんの少し。


 袖が触れるくらい。


 それだけの距離。


 だが、それはさっきまでより明らかに近かった。


 男たちは一瞬だけその距離を見て、あ、という顔になった。


「……悪い悪い」

「邪魔したな」


 思ったより素直に引いた。


 どうやら彼らなりに空気を読んだらしい。酔っていてもそこはわかるのか。


 通り過ぎていく背中を見送りながら、俺は横目でエルセを見る。


 彼女は前を向いたままだったが、耳が少し赤い。


「……何」


 こちらの視線に気づいて、低い声で言う。


「いや」


「今、何か言いたそうな顔した」


「別に」

 ほんの少しだけ間を置いてから続ける。

「近かったな、と思って」


 エルセの肩が跳ねた。


「ひ、人が通ったからでしょ」


「まあな」


「それだけよ」


「そうか」


「そうよ」


 なのに、そのまま彼女は少しも離れなかった。


 たぶん本人も気づいていたはずだ。


 だが何も言わない。


 俺も言わなかった。


 今ここで“離れろ”なんて言う理由はないし、たぶん言ったら面倒だし――それに、離れた方がいいとも、なぜか思えなかった。


 橋を離れ、宿へ戻る頃には、祭りの熱気も最高潮に近づいていた。


 《木靴亭》の前まで来ると、通りには旅人や酔客が増えている。女将の言った通り、宿の中もかなり混んでいそうだ。


「戻るか」


 俺が言うと、エルセは小さく頷いた。


「……そうね」


 そこで、少しだけ沈黙が落ちる。


 たぶん、お互い同じことを思っていた。


 今日一日、思ったより長く一緒にいた。

 思ったよりずっと、自然に。

 思ったより、悪くなかった。


 でも、それを先に口にするのは何となく負けな気がする。


 やがてエルセが、そっぽを向いたまま、ぼそっと言った。


「……今日は、本当に最悪だった」


 またそれだ。


 けれど今度は、もう迷わなかった。


「嘘だろ」


 俺がそう返すと、彼女はびくっとした。


「な、何で」


「最悪だったやつが、橋の上であんな顔するかよ」


「どんな顔」


「……わりと、楽しそうな」


 言った瞬間、エルセの顔が一気に熱を持つのがわかった。


「し、知らない!」


「俺は見た」


「見なくていい!」


「それ、今日二回目だな」


「うるさい!」


 だが、その“うるさい”も前ほど刺々しくない。


 エルセはしばらく何か言い返そうとしていたが、結局言葉がまとまらなかったらしい。最後には帽子のつばを押さえたまま、小さく吐き捨てるように言った。


「……最低」


「はいはい」


「何よ、その返事」


「いや、お前の“最低”って、最近だいぶ意味変わってきてないか?」


 それを聞いた瞬間、エルセは完全に固まった。


 まずいことを言った自覚はあった。


 だが、もう遅い。


「……何それ」


 声が低い。


「いや、そのままだけど」

 俺は少しだけ肩をすくめる。

「最初の頃より、だいぶ棘が減ってる気がする」


「そんなことない!」


「そうか?」


「そうよ!」


 食い気味だった。


 その反応が、ますます図星っぽい。


「じゃあいいけど」


「……よくない」


「どっちだよ」


「知らない!」


 言って、エルセは宿の扉を押し開けようとして、ふと止まった。


「……あんた」


「何だ」


「今日は」

 彼女は少しだけ言葉を探して、それから結局、いつもの不器用な言い方を選んだ。

「……まあ、その、悪くなかったわけじゃない」


 それは、たぶん精一杯の譲歩だった。


 俺は少しだけ驚いて、それから短く答える。


「俺もだ」


 たったそれだけのやり取りだった。


 だがその瞬間、エルセの顔がまた真っ赤になる。


「な、何でそこでそう返すのよ!」


「何でって、本当だから」


「本当でも言わなくていい!」


「お前今日そればっかりだな」


「うるさい!」


 結局最後はそれだった。


 だが、宿の中へ入る前に、彼女が一瞬だけ笑ったのを、俺はちゃんと見ていた。


 ほんの少しだけ。

 灯りが映る水面みたいに、すぐ消えるくらいの笑みだった。


 そして、その笑みが頭に残ったまま、その夜、俺は自分の部屋へ戻った。


 机の上には、図書院から持ち帰った術式の写しがある。

 本来なら、それを広げて、帰還の手がかりを追うべきだった。


 なのに、なぜか先に思い出したのは、橋の上のエルセの横顔だった。


 最悪の一日だった。


 そう言いながら、どう見てもそうは見えなかった顔。


 あれは何だ。

 単なる意地か。

 照れ隠しか。

 それとも――。


「……いや」


 考えるな。


 そういうのを考えるのは危ない。


 俺は帰るためにここにいる。

 誰かの表情の意味をいちいち深読みして、立ち止まるためじゃない。


 わかっている。


 わかっているのに、妙に胸のあたりが落ち着かなかった。


 ふと、部屋の外の気配が気になった。


 何となく扉を開ける。


 廊下には誰もいない。


 だが、窓の外――中庭の方に視線をやると、銀色が少しだけ揺れた気がした。


 《木靴亭》の裏庭の柵の向こう。

 月明かりの下で、銀髪がひらりと翻る。


「……エルセ?」


 小さく呼んだが、返事はない。


 ただ、その気配だけが、少しだけ遠ざかっていくようだった。


 何をしているのかはわからない。


 だが、祭りの一日が終わってもなお、こいつは近くにいる。


 その事実に、妙な安堵が混じった自分に気づいて、俺は小さく眉をひそめた。


「……何なんだ、本当に」


 呟いても、答えはない。


 王都の祭りの音は、まだ遠くで続いている。


 そしてその夜、俺は術式の写しを広げたまま、しばらく文字が頭に入ってこなかった。

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