第7話 ほぼデート、ただし本人たちは認めない
その日、王都は朝から妙に浮ついていた。
《木靴亭》の前の通りを、色とりどりの布が横切っていく。露店の屋根にはいつもより派手な飾りがかかり、焼き菓子屋は朝っぱらから砂糖をまぶした菓子を山のように積み上げ、子どもたちは妙にそわそわしながら走り回っていた。
鐘の音も、いつもより少しだけ弾んで聞こえる。
王都夏至祭。
季節の境目に合わせて開かれる、王都でもかなり大きな祭りのひとつだ。昼から夜にかけて露店が並び、中央広場では舞台が組まれ、夜には魔導灯で街じゅうが照らされるらしい。らしい、というのは、俺がこれまでまともに興味を持っていなかったからだ。
祭りだろうが何だろうが、俺にとって王都は帰還の手がかりを探す場所でしかない。
……はずだった。
「で、どうしてこうなる」
《木靴亭》の食堂で、俺は女将を睨んだ。
女将は悪びれもせず、ふっくらした腕を組んでいる。
「どうしてもこうしてもないだろ。部屋が空かないんだよ」
「一部屋もですか」
「一部屋も」
女将はきっぱり言った。
「祭り目当ての旅人が昨日の夜から雪崩れ込んできてね。二階の端の部屋も、三人部屋の予備も、納屋横の小部屋まで埋まった」
「納屋横まで?」
「祭りの日をなめるんじゃないよ」
いや、なめていたわけではない。ただ、こういう街の行事が自分の行動にまで影響するのを、毎回少しだけ忘れそうになるだけだ。
問題はそこではなく。
「だったら俺は別の宿を探す」
「無理だね」
女将は鼻で笑った。
「今日の王都で部屋探し? 貴族街でもなきゃ無理だよ。しかも今からじゃ余計にね」
「じゃあ外泊で――」
「祭りの日に?」
女将はまた鼻で笑う。
「酒の入った連中と浮かれた若者で、夜の王都は普段よりずっと面倒くさいよ。あんた一人ならまだしも」
そこで女将の視線が、食堂の隅へ滑った。
つられるように見ると、窓際の席に銀髪の魔女が座っていた。
黒い帽子は今日も健在だが、いつもよりマントの合わせが軽い。夏向けに薄い素材へ変えているのかもしれない。相変わらず黒ずくめなのに、なぜか祭りの派手な飾りにも負けない存在感がある。
そのエルセは、視線が集まったことに気づくと、すぐに不機嫌そうに眉をひそめた。
「……何」
「いや」
俺は頭を押さえる。
「何でお前まで話に参加してるんだ」
「してないわよ」
「顔がしてる」
「気のせい」
違う。絶対少し前から聞いていただろう。
女将が、にやりと笑った。
「というわけで、今日は二人とも夜まで外で時間潰してきな」
「雑すぎませんか」
「祭りなんだから、たまには楽しんどいで」
女将は平然と続ける。
「どうせ夕方前に戻っても、下の食堂も混む。裏庭だって荷物置き場で使う。部屋も空かない。だったら外の方がましだ」
理屈はわかる。
わかるが、納得したくはない。
「……お前はどうする」
エルセへ聞くと、彼女は腕を組んだまま顔を逸らした。
「別に。私は外でも困らないし」
「じゃあそうしろよ」
「そうするわよ」
「なら俺も勝手に――」
「二人で行けばいいじゃないか」
女将があっさり切り込んできた。
「よくない」
「違うわよ」
俺とエルセの返事が、また見事に重なった。
最近こういうの多くないか。
だが女将は、完全に聞き慣れた顔だった。
「はいはい。違うのは知ってるよ」
口調はどう聞いても知っている人間のそれではなかった。
「でも祭りの間だけでも一緒にいた方が安全だ。特に夜の中央広場は人が多いからね」
「中央広場なんて行きません」
「私は行かないわ」
「ほら、意見一致だねえ」
「一致の内容を見ろ」
だが、その横から、やたら元気な声が飛び込んできた。
「中央広場、すっごく綺麗ですよ!」
扉の方を見るまでもない。
金髪の見習い魔術師、ミレナである。
今日も青と白のローブ姿で、食堂の入口から元気よく手を振っていた。朝から何でそんなに元気なんだ。
「おはようございます! 師匠! お姉さん!」
「師匠じゃない」
「お姉さんでいいけど元気すぎる」
反応が真逆だった。
ミレナは慣れた顔で席に滑り込み、女将から勝手に水をもらって一気に飲む。
「いやー、祭りの日って街全体の魔力が浮ついてて楽しいですね! 人の感情も流れも、全部いつもよりわかりやすいんです!」
「お前の感情もだいぶわかりやすいけどな」
「そうですか?」
ミレナは嬉しそうに笑う。
「で、聞こえちゃったんですけど、今日はお二人、夜まで一緒なんですか?」
「違う」
「違うわ」
「まだ決まってないんですね!」
何でそう前向きな解釈になる。
ミレナは机に両肘をついて、期待に満ちた目で俺たちを見た。
「祭りの日に、男女二人で街を回る。しかも夜まで。これはもう完全にイベントですよ!」
「何のだ」
「恋の!」
「違うって言ってる」
「言ってるだけですよね、それ」
その一言に、俺もエルセも少しだけ黙った。
ミレナはさらに畳みかけてくる。
「だって祭りって、普段は行かないところに行けるし、普段は見ない顔も見られるし、距離が縮まりやすいんですよ? しかも夜の魔導灯、綺麗なんですから!」
「お前、ほんとに恋愛行事としてしか祭りを見てないな」
「はい!」
胸を張ることか、それは。
女将がそんなミレナに深く頷いた。
「まあ、この子の言うことにも一理あるねえ」
「ないですよ」
俺はきっぱり言う。
「俺は図書院の資料を整理したいし」
「祭りの日に図書院は午後から閉まるよ」
女将が即答する。
「……古書店街を」
「露店優先でだいたい店じまい」
「遺跡の方へ出る」
「祭りの日は門限早いわよ」
今度はエルセが即答した。
「門の外で捕まると面倒」
「……じゃあ宿の裏で」
「言っただろう、荷物置き場だよ」
逃げ道が全部潰されていく。
ミレナが、きらきらした目で結論を出した。
「つまり、今日はお二人で祭りですね!」
「違う」
「違うわ」
「でも、そうするのが一番合理的」
それは、何か、嫌に刺さる言い方だった。
合理的。
そう言われると反論しにくい。
確かに、今日は宿にも図書院にも居場所がない。古書店街も祭り優先。門の外へ出るのは面倒。なら王都の中で時間を潰すしかない。
そのうえ、エルセは祭りの日の王都の流れを知っている。たぶん俺一人で歩くより、安全で、効率もいい。
……恋愛的な意味じゃなくて、だ。
「おい」
俺は小さくエルセに声をかけた。
「どうする」
「どうするも何も」
彼女は視線を逸らしたまま言う。
「私は別に、一人でもいいし」
「そうか」
「そうよ」
「じゃあ一人で行くか?」
「……」
少し間が空いた。
「…………あんたが迷子になっても知らないけど」
「王都で迷子にはならん」
「祭りの日はなるわよ」
「なるのかよ」
「なる人はなる」
微妙に脅しなのか忠告なのかわからない。
だが、その一拍の間と、わずかに揺れた声で、だいたい察した。
「……一緒に来る気はあるんだな」
「別に」
エルセは即答した。
「暇つぶしよ」
「暇つぶし、ねえ」
ミレナがにやにやする。
「何よ」
「いえ? お姉さん、そういう時だけ妙に素直じゃないなって」
「素直じゃなくて結構」
「照れなくてもいいのに」
「照れてない!」
いつものやり取りだが、今日は少し違った。
“祭りを二人で回る”という前提がついてしまったせいか、エルセの反応一つひとつに余計な意味が乗る。本人もそれを気にしているのか、いつもより少しだけ言葉が尖っていた。
だが結局、昼前には俺とエルセが《木靴亭》を出ることになった。
ミレナは「本当は尾行したいけど空気読んでやめます!」という謎の宣言をして去っていった。尾行する気だったのか、あいつ。
王都の通りは、昼前だというのにすでに人で溢れていた。
広場へ向かう道には色布が張られ、頭上には小さな魔導灯が連なっている。昼間はまだ光っていないが、夜になれば街全体が光の帯になるのだろう。屋台からは焼き肉、香草、甘い蜜菓子の匂いが流れ、楽師たちが試し弾きの音を出していた。
エルセは俺の少し右を歩いている。
微妙に近い。
人混みのせいだろうが、今日はとりわけ近い気がする。
「……で、どこ行くの」
先に口を開いたのは彼女だった。
「どこ行くも何も、時間を潰すだけだろ」
「雑すぎる」
エルセは呆れた顔をする。
「祭りの日の王都で、行き先も決めずに歩くつもり?」
「別にいいだろ」
「よくないわよ。中央広場の噴水前は午後には潰れるし、西側の通りは菓子屋ばっかりだし、東は子ども向け、南は酔っ払いが増える」
彼女は息をつく。
「せめて最初に回る場所くらい決めなさい」
「詳しいな」
「……少しはね」
少し、のレベルではないと思う。
だが、祭りの場所取りや導線まで把握しているなら、任せた方が早い。
「じゃあ任せる」
「は?」
「詳しいんだろ。だったらお前が決めた方が合理的だ」
合理的、という言葉をあえて使ったのは、たぶん少し意地が悪かった。
案の定、エルセは一瞬言葉に詰まる。
「……そういう言い方、ずるい」
「何が」
「何でもない」
結局それか。
しばらく歩いたあと、エルセは広場の北へ向かう細い通りを指差した。
「先にあっち。人が少ないうちに見た方がいい場所があるから」
「祭りで“見た方がいい場所”なんてあるのか」
「あるわよ」
「へえ」
「何、その言い方」
「いや、ちょっと意外で」
「祭りを何だと思ってるの」
「人が集まって騒ぐやつ」
「ひどい」
「違うのか」
「……違わないけど、それだけじゃない」
少しだけ頬を膨らませる横顔が、妙に幼く見えた。
案内されたのは、中央広場から少し外れた細い石段の上だった。上り切ると、小さな高台のような場所に出る。そこからは王都の屋根と、飾りつけられた通りが一望できた。
「ここ、夜になると綺麗なのよ」
エルセは少しだけ誇らしそうに言った。
「下から見るより、上から見た方が灯りの流れが見えるから」
「……へえ」
今度の“へえ”は、さっきより本気だった。
まだ昼間なのに、それでも十分綺麗だった。屋根から屋根へ渡された布の帯、露店の色、遠くに見える城壁。夜になれば、たぶん本当に見栄えがするだろう。
「去年見に来たのか」
何気なく聞く。
エルセは一瞬だけ目を伏せた。
「……別に」
「別に、でここを知ってるのか」
「知ってるものは知ってるの」
言い方はいつもの通りだが、少しだけ含みがある。
たぶん去年も来ていたのだろう。一人でか、それとも誰かと、は知らない。いや、誰かと来るような相手がいるなら、そもそも今こんなふうに俺と歩いていないか。
……何を考えているんだ俺は。
「何」
エルセがちらりとこちらを見る。
「いや、別に」
「その“別に”は怪しいわね」
「お互い様だろ」
そんな会話をしながら高台を降りる。
次に案内されたのは露店が並ぶ細い通りだった。焼き菓子、串焼き、色付きの飲み物、香辛料の効いた肉団子。祭り特有の食べ物らしく、普段は見ないものが多い。
「食べる?」
とエルセが聞いてきた時、俺は少し驚いた。
「お前から聞くのか」
「嫌ならいいけど」
「いや、別に嫌じゃない」
すると彼女は少しだけ視線を逸らし、屋台へ向かった。
買ったのは、薄い生地に甘い豆を包んで焼いた菓子だった。紙にくるんで二つ受け取り、その片方を当然みたいに俺へ差し出す。
「ほら」
「……どうも」
「別に、祭りなんだから普通でしょ」
「そうか」
ひと口かじる。
外側は香ばしく、中はほんのり甘い。素朴だが悪くない味だ。
「うまいな」
言うと、エルセの肩がぴくりと揺れた。
そして次の瞬間には、そっぽを向く。
「そう」
「何でお前が照れるんだ」
「照れてない!」
いや、明らかに少し照れてるだろ。
だが、そこへまたしても余計なものが飛び込んできた。
「やっぱりデートじゃないですか!」
聞き覚えのある声に、俺とエルセは同時に固まる。
振り向けば、少し離れた屋台の陰に、金髪の見習い魔術師がいた。
「ミレナ!?」
「尾行してないです! 偶然です!」
「偶然で屋台の陰から現れるな」
ミレナはてへ、と笑って舌を出した。反省の色がまるでない。
「いやー、でも安心しました! ちゃんと祭りっぽいことしてる!」
「安心って何だ」
「だってお二人、放っておくと祭りでも資料とか魔術板とか見に行きそうで」
「その認識はだいたい合ってる」
「でしょう?」
ミレナは満足そうに頷く。
「だから今日はちゃんと、恋愛イベントっぽいことしてもらわないと」
「しない」
「しないわ」
「もうしてます!」
こいつの判定基準、だいぶ緩くないか。
だがミレナは止まらない。
「次は金魚すくい的なやつとか! あと、夜は魔導灯の下を歩いて、できれば高台に寄って――」
「お前、さっきから全部知ってるな」
俺が半目になる。
ミレナは誇らしげに胸を張った。
「恋愛イベントに向いた祭りの回り方、勉強してますから!」
「何の勉強だよ」
「未来のための!」
答えになっていない。
エルセはこめかみを押さえ、深く息を吐いた。
「……本当に帰ってくれない?」
「帰りますよ?」
ミレナはにっこり笑った。
「でもその前に一つだけ」
「嫌な予感しかしない」
「お姉さん、今日いつもより可愛いです」
一瞬、空気が止まった。
エルセが完全に停止する。
「……は?」
「だって帽子はいつも通りなのに、マントの中の服ちょっと軽いし、髪もいつもより整ってるし!」
ミレナはきらきらした目で続ける。
「たぶん相馬さんと祭り歩くから、少し気にしましたよね?」
今度は俺の視線が、反射的にエルセへ向いた。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
黒いドレスの生地はいつもより薄く、首元の飾りも少しだけ繊細だ。銀髪も今日はよく梳かれていて、いつもより柔らかく光を弾いている。
そしてそれに気づいてしまった瞬間、口に出したらまずい気もしたのだが――。
「……ああ、確かに」
出てしまった。
エルセが、ぎぎぎ、とこちらを向く。
「は?」
「いや、いつもよりちゃんとしてるなって」
「ちゃんとしてるって何よ」
「そのままの意味だが」
「雑!」
「でも綺麗だとは思う」
言った瞬間、俺も少しだけしまったと思った。
だが、遅い。
エルセの顔が、耳まで真っ赤になる。
「な、な、何さらっとそういうこと言ってるのよ!」
「事実だろ」
「事実でも言わなくていいの!」
「じゃあ何で整えたんだよ」
「べ、別にあんたのためじゃないし!」
「そうか」
「そうよ!」
ミレナが、両手で口を押さえた。
「うわ……今の強い……」
「何がだ」
「何でもないです! では私はこれで!」
ミレナはくるりと踵を返す。
「夜の高台、忘れないでくださいね!」
「待て、何でそこまで指定してくる!」
「偶然そこへ行ったら綺麗だと思うので!」
全然偶然じゃない。
だがミレナは笑いながら、人混みの中へ消えていった。今度こそ本当に去ったらしい。
残されたのは、妙に赤い顔の魔女と、何となく落ち着かない俺だけだ。
「……お前の弟子候補、やっぱり面倒だな」
「俺のじゃない」
「でもちょっとだけ役に立ったわね」
「どこが」
「……何でもない」
さっきからそればかりだ。
だが、少なくとも空気は少し変わっていた。ミレナの乱入のせいで、変な意味で距離を意識せざるを得なくなったせいかもしれない。
その後、俺たちは屋台をいくつか冷やかし、中央広場の舞台を遠目に眺め、子ども向けの遊び場を横目に通り過ぎた。金魚すくいに似た魔魚すくいの屋台では、エルセが「絶対やらない」と言ったくせに、俺が試しにやったら横からやたら口を出してきたし、外れくじしか入っていなさそうな箱引きでは、なぜか二人とも同時に外れを引いた。
「息ぴったりね」
と屋台の老婆に笑われた時も、俺たちはまた声を揃えて否定した。
だが、否定するたびに、どこか以前より力が弱くなっている気がして、少しだけ嫌だった。
夕方が近づくと、人通りはさらに増えた。
中央広場の近くでは楽師が本格的に演奏を始め、露店の灯りも一つ二つと点り始める。空は薄い紫色に変わり、祭りの熱気が街全体を包み始めていた。
「……混んできたな」
俺が言うと、エルセは頷く。
「ここから先はもっと混むわ」
彼女は少しだけ迷うように視線を巡らせ、それから言った。
「少し離れる?」
「どこへ」
「……あの高台」
声がわずかに小さい。
「夜になると綺麗って言ったでしょ」
ミレナに言われたのを思い出したのかもしれない。
あるいは、本当に最初からそのつもりだったのかもしれない。
どちらにしろ、ここで断る理由はなかった。
「行くか」
「……そう」
それだけなのに、エルセの横顔が少しだけ柔らかくなる。
高台へ向かう石段は、昼より人が少なかった。みんな広場や露店の方へ流れているのだろう。上り切った先で振り返ると、王都の通りという通りに小さな魔導灯がともり始めていた。
綺麗だった。
昼間見た時より、ずっと。
石の街に灯りの筋が走り、広場の飾りが光を受けて浮かび上がる。遠くの塔も、城壁も、街の輪郭全部が柔らかな光に縁取られていた。
「……これは、確かに」
思わず言うと、エルセが少しだけ得意そうな顔をした。
「でしょう」
「ああ」
しばらく、二人で黙って景色を見る。
下から祭りの音がかすかに届く。楽師の演奏、歓声、屋台の呼び声、遠い笑い声。それがここまで来ると少しだけ柔らかくなる。
不思議な静けさだった。
「昔」
エルセがぽつりと言った。
「祭りって、嫌いだったの」
意外だった。
「そうなのか」
「人が多いから」
彼女は前を向いたまま続ける。
「騒がしいし、浮かれてるし、みんな勝手に楽しそうで。そういう場所に自分がいていい気がしなかった」
その言い方は、少しだけ胸に刺さった。
“いていい気がしなかった”。
俺にもわからない感覚じゃない。
この世界へ来てから三年。祭りの日も、祝祭も、凱旋も、王家の感謝会も、俺はどこかずっと、ここにいるべきじゃないという顔でやり過ごしてきた。
「でも今日は」
エルセが少しだけ間を置く。
「……前より、まし」
理由を聞きたくなった。
でも、その一歩を踏み込むのが妙に怖くて、代わりに言ったのは別のことだった。
「俺は逆だ」
「逆?」
「祭りなんて面倒だと思ってた」
正直に言う。
「でも、今日は……思ったより悪くなかった」
エルセがこちらを見る。
灰青の瞳が、灯りを映して少しだけやわらかい。
「そう」
「お前が詳しかったからだろうな」
「……それ、褒めてるの?」
「つもりだけど」
「気持ち悪い」
いつもの言葉だ。
なのに、声はあまり棘がなかった。
それどころか、少しだけ笑っているみたいだった。
「お前、その単語便利すぎるって前にも言っただろ」
「便利なんだもの」
エルセは小さく肩をすくめる。
「……でも、今日は少しだけ、悪くない」
今度は、たぶん本当に本音だった。
その空気のまま、もう少し景色を見ていたかった。
だが、その時。
王都のどこかで、低く長い鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
祭りの始まりを告げる鐘……ではない。
もっと低くて、短くて、嫌な響きだった。
エルセの顔が変わる。
「……これ」
「何だ」
「通行制限の鐘」
彼女は即座に周囲を見回した。
「中央広場のどこかで人が詰まったか、通りが封鎖されたか――とにかく流れが変わる」
「じゃあ戻るか」
「今だと逆に危ない」
エルセは少し考え、それから言った。
「混雑が落ち着くまで、ここで待った方がいい」
「ここで?」
「そう。下手に降りると、人の波に飲まれる」
なるほど。
そう言われると、石段の下からも少しざわついた音が聞こえる。広場側の人の流れがこちらへ押し寄せ始めているのかもしれない。
つまり――。
「しばらく二人きりか」
何気なく言ったつもりだった。
だがエルセは、また少しだけ固まる。
「な、何よその言い方」
「いや、状況確認だろ」
「確認しなくていい!」
「そうか」
「そうよ!」
結局、しばらくはそこを動けなかった。
王都の灯りが増えていくのを見ながら、祭りの音を遠くに聞きながら、俺とエルセは高台で並んで立っていた。
どう見ても、ほぼデートだ。
ただし本人たちは、絶対に認めないまま。




