第6話 押しかけ弟子は恋に詳しいらしい
その日、俺が「やっぱり少し外へ出る」と言った時、女将は露骨に嫌そうな顔をした。
「昨日も一昨日も面倒ごとを連れて帰ってきたくせに、まだ足りないのかい」
「連れて帰ってきた覚えはないです」
「じゃあ何だい。魔獣は勝手に来た、魔女は勝手に来た、次も全部勝手に来るってのかい」
「……可能性はあります」
「そこは否定しな!」
食堂にいた何人かが笑った。
《木靴亭》の空気はすっかり元に戻っていた。割れた皿も片づき、傷んだ床板には応急の板が打たれ、昼の仕込みの匂いが漂っている。何事もなかったように見えるが、女将はまだ時々「ああもう、魔獣ってやつは弁償もしないからねえ」とぶつくさ言っていた。
そして、その空気の中に、今日も当然のように銀髪の魔女がいた。
エルセは窓際の席で腕を組み、不機嫌そうな顔でハーブの葉を指先でいじっている。料理を手伝っているわけではない。なのに、女将も宿の客も、もはやそこにいることをあまり気にしていなかった。
適応が早いな、この宿。
「で、今日はどこへ行くんだい」
女将が鍋をかき混ぜながら聞いてくる。
「北の外れです。旧街道沿いの魔導具屋」
「また怪しい場所じゃないか」
「怪しい場所にしか手がかりがないんで」
「胸張って言うことじゃないねえ」
その会話に、窓際のエルセがぴくりと反応した。
「旧街道沿い?」
「ああ」
「何しに」
「魔導具屋に行くって言っただろ」
「それは聞いた」
エルセは眉をひそめる。
「何を探しに行くのかって聞いてるの」
「古い術式板だ。昨日図書院で当たりをつけた第二紀式の補助刻印が、あの辺の流れ品に混ざってるかもしれない」
「却下」
「何でだよ」
「店主が胡散臭いから」
「お前の基準だいたい全部胡散臭いだろ」
「今日は特に胡散臭いの」
「雑だな」
だが、そこまで言われると逆に気になる。
「何か知ってるのか」
「別に」
エルセは顔を逸らす。
「ただ、あの辺は魔物が出やすいのよ」
「王都近郊ならどこも似たようなもんだ」
「似てないわよ。旧街道沿いは森の魔力だまりが近いの。低級のが湧きやすい」
「じゃあ余計に俺向きだな」
腰の短剣を軽く叩く。
「出たら斬る」
「そういう雑な解決が気に入らないのよ」
「解決するならいいだろ」
「よくない」
女将が、やれやれという顔で鍋の蓋を閉じた。
「まあ、若いのが二人で出歩くなら、せめて死なない程度にしとくれよ」
「二人で行くとは言ってません」
「行くわよ」
即答だった。
俺は顔を向ける。
エルセは何でもない風を装っていたが、視線が少しだけ泳いでいた。
「……却下って言ったの、お前だよな」
「だから見張るの」
「見張りかよ」
「そう。あんた一人だと無駄に突っ込むから」
「信用ないな」
「ないわよ」
即答しやがった。
まあ、実際そこまで否定できない自覚はある。帰還につながる手がかりがあるなら、多少危険でも首を突っ込む。それは今に始まったことじゃない。
だが、問題はそこじゃない。
「二人で歩くとまた余計なこと言われるぞ」
「……言わせておけばいいでしょ」
少しだけ間があった。
そこは気にするんだな。
俺はため息をついた。
「まあいい。行くなら勝手にしろ」
「最初からそのつもりよ」
そうして俺たちは昼前の王都へ出た。
北の外れへ向かう通りは、中央市場ほどの賑わいはないが、それでも十分人は多い。石畳の幅は少し狭くなり、建物の色もくすむ。華やかな商店より、職人の工房や修繕屋が増えていく。
それにしても、今日のエルセは妙に静かだった。
いや、口数が少ないわけじゃない。道が悪いだの、あの店の看板は趣味が悪いだの、さっきの猫はこっち睨んだだの、相変わらず細かい文句は多い。
ただ、俺の少し前を歩くその背中には、どこか気を張っているような硬さがあった。
「……何だよ」
「何が」
「さっきから周り見すぎだろ」
「見てないわよ」
「いや見てる」
「気のせい」
気のせいじゃない。
討伐の旅の途中、こいつが索敵に入る時はだいたいこんな空気になる。目線は自然でも、耳と指先がわずかに張る。今も右手はいつでも魔力を通せるよう、黒手袋の先で軽く曲がったままだ。
「何かいるのか」
「……今のところは何も」
「今のところは、ってことは警戒してるんだな」
「うるさい」
認めるのか認めないのかどっちだ。
旧街道沿いの外れまで来ると、石造りの建物は少しずつ古びたものが増えた。空き家や倉庫跡も多い。王都の中心から押し出された古道具屋や魔導具屋が、この辺りに溜まるのだ。
目当ての店は、通りの角を二つ折れた先にあった。
《黒鹿堂》。
煤けた看板に、半分剥げた金文字。扉の横には壊れたランタンや錆びた鎧の部品が積まれている。どう見ても、碌でもない品が碌でもない値段で転がっていそうな店だ。
「うわ、胡散臭いな」
思わず漏らすと、隣でエルセが「だから言ったのに」と鼻を鳴らした。
「店主も胡散臭いわよ」
「見てもいないのに言うな」
「こういう店の店主はだいたい胡散臭いの」
「偏見じゃないか」
「経験則よ」
扉を押す。
中は薄暗く、油と金属と古い紙の匂いが混ざっていた。棚には魔石、壊れた杖、古びた護符、何に使うのかわからない金属片。奥から出てきた店主は、案の定というべきか、痩せた狐みたいな顔をしていた。
「へえ、客か」
店主は目を細める。
「珍しい組み合わせだな。駆け落ち前の旅支度でも探してるのか?」
「違う」
「違うわ」
また綺麗に重なった。
店主はくくっと喉を鳴らす。
「そりゃ失礼。じゃあ若夫婦の新生活用――」
「違うって言ってるだろ」
「違うって言ってるでしょ!」
店主は完全に面白がっていた。
何なんだ、この世界は。男女が並んでいると自動的に恋人扱いする呪いでもかかっているのか。
「第二紀様式の補助刻印板を探してる」
俺は話を本題へ戻した。
「環状が三重、中心に欠けあり。古代召喚系統の外縁板だ」
店主の目が一瞬だけ細くなる。
その変化を、俺もエルセも見逃さなかった。
「……ずいぶん具体的だな、兄ちゃん」
「あるのか?」
「さあな」
店主は肩をすくめる。
「そういうのは高いぜ」
「値段は見てから決める」
「へえ」
店主は俺を値踏みするように見たあと、奥の棚へ消えた。
エルセがすっと俺の袖を引く。
「……今の顔、好きじゃない」
「店主のか?」
「そう」
「俺もだ」
「だったらやめなさいよ」
「ここまで来て帰れるか」
「帰れるでしょ」
「帰れないから来てる」
エルセはむっとして唇を噛んだが、反論はしなかった。代わりに店内の棚へ鋭く目を走らせる。いつでも動けるようにしているのがわかる。
やがて店主が戻ってきた。
手には、布にくるまれた薄い板がある。布を開くと、灰色がかった金属板に複雑な刻印が刻まれていた。
「これか?」
俺は思わず息を呑んだ。
中心は欠けているが、外縁の流れが図書院で見た写しと似ている。補助刻印板の一部である可能性は高い。
「……見せてくれ」
「構わんが、高いぜ」
「いいから」
板を受け取り、指先で刻印をなぞる。魔力の残滓は薄い。だが、完全な偽物じゃない。少なくとも古いものではある。
「どう?」
エルセが小声で聞く。
「当たりかもしれない」
「かも、でしょ」
「十分だ」
店主がにやりと笑った。
「兄ちゃん、目が本気だな。そういう客は嫌いじゃない」
「値段は」
「金貨十枚」
「高すぎる」
「古代物だぜ」
「欠けてるだろ」
「だから十枚で済ませてやってる」
ぼったくりだ。
だが、交渉の余地はある。俺が口を開こうとした、その時だった。
――ばんっ!
店の外から、激しい物音がした。
続けざまに、悲鳴。
「きゃあああっ!」
「魔物だ!」
「道を開けろ!」
店内の空気が一変した。
エルセが即座に扉へ向かう。俺も板を棚へ戻し、後を追った。
通りへ飛び出すと、旧街道沿いの路地の向こうから、黒い影が三つ駆けてきていた。毛並みの荒い犬型魔獣――グラウンド・ハウンドだ。低級だが、人混みに突っ込めば十分危険だ。
「こんな街中に?」
俺が舌打ちする。
「だから言ったでしょ!」
エルセは怒鳴りながらも、すでに右手に黒い魔力を集めていた。
だがその時。
「下がってくださいっ!」
甲高い声が、頭上から降ってきた。
次の瞬間、通り脇の屋根の上から、小柄な影が飛び降りてきた。青と白の短いローブ、背中に杖、金色の髪を高い位置で結んだ少女だ。年は十六か十七くらいだろうか。俺たちとそう変わらない。
彼女は着地と同時に杖を振り上げ、叫ぶ。
「《光槍・三連》!」
ばちん、と乾いた音とともに、杖の先から三本の光槍が飛んだ。
狙いは悪くない。
だが、一番前の魔獣の肩をかすめただけで、残り二本は石畳と壁に外れた。
「うわっ」
少女は自分で驚いた顔をする。
「危ないだろ!」
俺は地面を蹴った。飛びかかってきた一体の首へ短剣を突き立て、そのまま体を捻って二体目の顎を蹴り上げる。横からエルセの魔力鎖が走り、三体目を地面へ叩きつけた。
少女は目を輝かせた。
「すごっ……!」
「感心してる場合か! 下がってろ!」
「はいっ!」
返事だけはいい。
だが、その“はい”と同時に、二体目の魔獣が跳ね起きた。少女は反応が一瞬遅れる。まずい、と思うより先に、横から漆黒の刃が魔獣を薙ぎ払った。
エルセだ。
黒い魔力の刃が首筋を裂き、魔獣は石畳を転がって動かなくなる。
残る一体を俺が仕留める頃には、通りの騒ぎも少し落ち着いていた。店の連中や通行人は遠巻きにこちらを見ている。
そして、青白ローブの少女だけが、ひどく興奮した顔で俺を見ていた。
「す、すごいです!」
彼女は杖を抱えたまま、一直線に俺の前へ駆け寄ってくる。
「やっぱり本物だ……! 動きが全然違う、迷いがない、魔力の読みも速い! そのうえ魔獣相手にあの間合い――」
「え」
「あなた、相馬遼真さんですよね!? 元勇者の!」
名前まで割れていた。
やっぱり目立ってるじゃないか。
「まあ、そうだけど」
「やったぁ!」
少女はその場でぴょんと跳ねた。
「見つけた! わたし、ずっと探してたんです!」
「……何を?」
「あなたをです!」
勢いが強い。
俺が半歩引くと、少女は杖をぎゅっと胸元で抱え込み、ぱあっと笑った。
「わたし、ミレナ・フォルティスっていいます! 王立魔術院の見習いで、古代式応用と対魔獣術を勉強してて、ずっと相馬さんに会いたくて!」
「何で」
「弟子にしてください!」
通りが、しん、と静まった。
たぶん周囲で見ていた通行人も、店主も、今の一言は聞き逃していない。
だが一番わかりやすく固まったのは、俺ではなくエルセだった。
「……は?」
低い。
さっきまで魔獣を斬っていた時より、よほど冷たい声だった。
ミレナはそこで初めてエルセへ目を向ける。
銀髪、黒ずくめ、美人、そして今にも何かを凍らせそうな眼差し。
普通なら怯む。
だが、このミレナという少女は少し違った。
「あっ」
彼女は目を輝かせる。
「えっ、もしかして! 奥さんですか!?」
「違う!!」
今日一番綺麗な即答だった。
通りの鳩がまた飛び立つ勢いである。
俺も反射で「違う」と言いかけたが、先にエルセの声が貫通したので、口を閉じた。
ミレナはきょとんとしたあと、すぐに首をかしげる。
「え、じゃあ恋人?」
「違うって言ってるでしょ!」
「じゃあ婚約者?」
「違うわよ!!」
「ふむ……」
ミレナは真剣に考え込む顔になった。
「……つまり、まだそこまで行ってない関係なんですね!」
「何でそうなる!」
エルセの耳まで真っ赤になっている。
俺はこめかみを押さえた。
何なんだこの流れは。どうして初対面の見習い魔術師に、関係性を勝手に段階分けされなければならない。
だがミレナはまるで悪びれない。むしろ、ますます楽しそうだった。
「でもわかります! この距離感、めちゃくちゃそういうやつです!」
彼女は拳を握る。
「両片想いって感じの!」
「ちが」
エルセが言いかける。
その前に、いつもの呪いが変な方向へ働いたのか、口から出たのは別の言葉だった。
「こ、こんなのと片想い同士なわけないでしょ!」
言ってから、本人の顔が引きつる。
あ、今のまずいやつだな、と俺でもわかった。
ミレナの目が、きらきらと輝いた。
「片想い“同士”なんですね!?」
「違う!!」
「今、自分で“同士”って言いましたよね!?」
「言ってない!」
「言いました!」
駄目だ、この見習い、すごく面倒くさい。
しかも妙に恋愛の機微に詳しいというか、そこだけ無駄に察しがいい。エルセが完全に押されている。珍しいものを見た。
「とにかく」
俺は無理やり話を戻す。
「弟子って何だ。俺は剣士であって魔術師じゃない」
「でも古代術式の知識もあるし、実戦経験もあるし、帰還術まで調べてるんですよね!?」
ミレナは一歩近づいた。
「わたし、魔術院の授業だけじゃ全然足りなくて! 本物の現場を知りたいんです! 対魔獣も遺跡探索も、古代式も!」
「……誰からそんな話を」
「図書院の手伝いのおじさんとか、南門の兵士さんとか、あとは市場のおばさんたちが」
「情報源が雑すぎるな」
「でも本当ですよね?」
本当ではある。
その時点で嫌な予感しかしなかった。
ミレナみたいな手合いは、一度食いつくと面倒だ。しかも、この手の真っ直ぐなやつは、断るにも労力がいる。
「悪いが弟子は取らない」
「じゃあ助手!」
「取らない」
「荷物持ち!」
「いらない」
「雑用!」
「いらない」
「見学!」
「もっといらない」
間髪入れずに返すと、ミレナはショックを受けたように胸を押さえた。いや、そこで傷つくなら最初から一気に押してくるな。
「どうしてですか!」
「危ないからだ」
「わたし強いです!」
「さっき三発中二発外しただろ」
「うっ」
急所だったらしい。
ミレナは一瞬しゅんとしたが、すぐに持ち直した。
「でも伸びしろがあります!」
「自己評価が高いな」
「先生にもよく言われます!」
「そこ褒められてない可能性ないか」
横から、くす、と小さな笑いが漏れた。
見ると、エルセだった。
さっきまで真っ赤になっていたくせに、今は少しだけ口元が緩んでいる。どうやらミレナの勢いに、毒気を抜かれたらしい。
ミレナはその笑いに気づくと、ぱっと顔を輝かせた。
「ほら! 奥――じゃなくて、お姉さんも笑ってますし!」
「笑ってないわよ」
「でも今、ちょっと余裕出ましたよね?」
「出てない」
「出てました!」
ぐいぐい来る。
エルセは明らかに苦手そうな顔をした。だが、嫌悪というよりは対応に困っている表情だった。年下に真正面から懐かれるタイプには、たぶん慣れていないのだろう。
ミレナはさらに畳みかける。
「それに、相馬さん一人だと危ないなら、わたしがいた方がいいです!」
「さっき断った理由、聞いてたか?」
「聞いてました! だから、わたしがいればお二人の仲も進展するかなって!」
何でそこへ繋がる。
俺が頭を抱えたくなった時、エルセの方は明確に固まっていた。
「……お、二人?」
「はい!」
ミレナは満面の笑みで頷く。
「だってどう見てもそうですし!」
「どう見てもじゃないわよ!」
「え、でも魔獣出た時も、相馬さんが前に出て、お姉さんが後ろをカバーして、息ぴったりでしたよ?」
ミレナはきょとんとした顔で言う。
「しかも喧嘩みたいに見えて、相手のことめちゃくちゃ見てるじゃないですか」
その指摘に、俺まで少しだけ黙った。
確かに、魔獣相手の連携は自然だった。
自然すぎて、考えるまでもなかった。
だがそれは、討伐の頃の経験が残っているからで――そう説明しようとしたところで、ミレナがまた余計なことを言う。
「もう実質、夫婦みたいな連携ですよね!」
「違う!!」
今度は俺も同時に叫んでいた。
ミレナは目を丸くし、それから何故か嬉しそうに頷く。
「否定のタイミングまで一緒! すごい!」
「そこを褒めるな」
「わたし、やっぱりお二人好きです!」
「好きになるの早くないか」
「こういう関係、大好物なので!」
何の告白だ。
通りの向こうで、さっきの狐顔の店主が腕を組んでこちらを眺めていた。絶対あとで何か言う顔だ。面倒ごとしか増えていない。
ミレナは俺に向き直る。
「というわけで弟子にしてください!」
「どういうわけだ」
「ダメですか」
「ダメだ」
「じゃあ仮弟子!」
「変わってない」
「同行者!」
「いらない」
「知り合い!」
「それは今なった」
「やった!」
何がやった、だ。
だがミレナはもう勝手に納得していた。強い。こういうやつはたいてい強い。実力じゃなく、精神構造が。
エルセが小さく呟く。
「……面倒なのが増えた」
「同感だ」
「え、何ですか?」
ミレナが首を傾げる。
「別に」
エルセが即答する。
「あなたのことなんて少しも歓迎してないだけ」
「すごい、口調きついのに何かちょっと優しい!」
「どこが!?」
「ちゃんと“歓迎してない”って言ってくれるところです!」
「意味わからない!」
俺は思わず額に手を当てた。
駄目だ、この見習いにはエルセの棘があまり効いていない。たぶん本人が妙に前向きなのと、恋愛脳のせいで変な変換をしている。
だが、そのおかげで一つだけ助かっていることもあった。
エルセが、さっきまでの市場での機嫌の悪さを少し忘れていることだ。
ミレナがいるせいで意識が散っている、というのもあるだろう。俺に話しかける女に露骨に刺々しくなっていた空気は、今はだいぶ薄まっていた。
その代わり、別の意味で騒がしいが。
「とにかく」
俺は板の方へ話を戻す。
「この店の件はまた来る。今日はここまでだ」
「え、帰っちゃうんですか!?」
ミレナが目を丸くする。
「魔獣騒ぎで客も散ったし、板の値段交渉も頭が回らん」
「なるほど、冷静な判断……!」
ミレナが感動したように言う。
「やっぱり師匠――」
「違う」
「まだ違う」
「“まだ”って何だ」
「未来への含みです!」
何も含ませるな。
俺が店主へ「また来る」と告げると、狐顔は意味ありげに笑った。
「次は可愛い弟子も一緒かい?」
「違う」
「その子は違うけど」
店主の目が、すっとエルセへ流れる。
「そっちの嫁さんは連れてきな」
「嫁でもない!」
エルセがまた怒鳴る。
だがミレナは、そのやり取りにまた目を輝かせていた。
「嫁さん呼び、刺さってますね……!」
「刺さってない!!」
帰り道は、行きよりずっと騒がしかった。
俺の右にエルセ、左にミレナ。どうしてこうなった。
ミレナは歩きながら、質問を山ほど投げてくる。
「相馬さん、魔王討伐の時って本当に一人で城壁越えたんですか?」
「半分は本当だ」
「じゃあ半分は?」
「落ちた」
「落ちたんですか!?」
「正確には吹っ飛ばされた」
「でも生きてた!」
「まあな」
「すごい! で、その時お姉さんは敵側だったんですよね!? どうやって距離縮めたんですか!?」
「その話になるのか」
エルセがぴしゃりと割り込む。
「縮まってないわよ」
「でも今一緒にいるじゃないですか」
「それはただの腐れ縁よ」
「腐れ縁って大事なんですよ!」
「何で誇らしそうなのよ」
ミレナは本当に楽しそうだった。
たぶんこの少女にとって、世界はだいたい面白いのだろう。羨ましいような、羨ましくないような。
しかしその勢いのまま、彼女はさらに恐ろしいことを言い出した。
「それで、どっちから好きになったんですか?」
俺とエルセの足が、同時に止まった。
「……は?」
「だから恋の始まりですよ!」
ミレナはきらきらした目で言う。
「敵同士からの関係って、絶対何かあるじゃないですか!」
「ない」
俺は即答した。
「ないわよ!」
エルセも即答する。
「えー、でも」
ミレナはあからさまに不満そうだ。
「お姉さん、相馬さんが他の女の人と話すと機嫌悪くなりそうですし」
「ならない!」
「相馬さんも、お姉さんがいないとちょっと落ち着かなさそうですし」
「ならん」
「さっき魔獣の時、お姉さんの位置ちゃんと見てましたよね?」
「それは戦闘だからだ」
「戦闘の時に一番信頼してる相手を見るのって、だいたいそういう――」
「やめろ」
さすがに俺が止めた。
ミレナは口を閉じる。
その数秒の沈黙が、妙に重かった。
たぶん、エルセにも、今の言葉は少し刺さったのだろう。顔を見なくてもわかる。気配が変わっていた。
俺は前を向いたまま、少しだけ息を吐く。
「……信頼してるのは事実だ」
自分でも驚くほど、自然に口から出た。
右側の気配が固まる。
「討伐の頃から、あいつの魔力制御は本物だ。背中を預けて危ないと思ったことはない」
そこまで言ってから、何を真面目に答えているんだと思ったが、もう遅い。
「それだけだ」
ミレナは目を丸くし、それから、ふわっと笑った。
「それ、十分すごくないですか?」
「……そうでもない」
「そうよ」
俺とエルセの返答は、また同時だった。
けれど、さっきまでみたいに尖った重なりじゃなかった。
ミレナはにっこり笑って、満足そうに頷いた。
「やっぱり、お二人いいですね」
「よくないわよ」
「よくない」
「でも好きです!」
「お前の好きは軽いな」
「恋バナに対しては特に!」
胸を張ることか、それは。
《木靴亭》が見えてきた頃、ミレナは宿の看板を見上げて感心した顔をした。
「へえ、ここに泊まってるんですね」
「そうだが」
「じゃあ明日も来ます!」
「来なくていい」
「何時頃がいいですか?」
「来る前提で聞くな」
「朝がいいですか? 昼? それとも夕方の方が恋愛進展イベントが――」
「何でそこに特化してるんだお前は」
エルセがぼそりと呟く。
「……でも、朝はやめて」
「え?」
ミレナが首を傾げる。
「どうしてですか?」
しまった、という顔をするエルセ。
俺も、何となく嫌な予感がした。
「朝?」
ミレナの目が、すっと細くなる。
「もしかして、お姉さん、朝に何かしてるんですか?」
「してない!」
「してる顔ですね!?」
「してないって言ってるでしょ!」
「わかりました!」
ミレナは突然、拳を握った。
「朝に何かあるんですね!」
「わかってない!」
完全に墓穴だった。
女将が宿の扉から顔を出し、こちらを見た瞬間、だいたい察した顔で笑いを噛み殺した。
「おや、新顔かい」
「はい! ミレナです! 今日から相馬さんの弟子で――」
「違う!」
「知り合いで!」
「そこは正しい」
「それで、そちらが相馬さんの恋人候補筆頭の――」
「違う!!」
今度はエルセの悲鳴に近かった。
女将は、ああなるほどねえ、という顔で大きく頷いた。何がなるほどなのか問い詰めたい。
ミレナは宿の前でぺこりと頭を下げる。
「じゃあ今日はこれで帰ります! でも明日も来ますから!」
「来なくていい」
「そのうち認めてもらえるよう頑張ります!」
「何をだ」
「弟子としても、恋の応援係としても!」
「後者を今すぐ捨てろ」
だがミレナはまるで堪えていなかった。最後にぱっと笑うと、杖を背負い直して通りの向こうへ駆けていく。
「また明日です、相馬さん! お姉さんも!」
「来るなー!」
「……来なくていいわよ!」
それでも返事だけはやたら元気だった。
「はーい!」
姿が見えなくなってから、ようやく静けさが戻る。
俺は長く息を吐いた。
「……嵐みたいなのが来たな」
「嵐よりうるさいわよ」
エルセはこめかみを押さえる。
「何なの、あの子」
「弟子にしてくださいって言ってたな」
「そこじゃない」
「恋に詳しいらしい」
「詳しすぎるのよ」
珍しく、俺も完全に同意だった。
女将がにやにやしながら宿の扉を押し開ける。
「賑やかになってきたねえ」
「他人事みたいに言わないでくれ」
「でも、あんた一人でいるよりよほど人間らしいよ」
その言葉に、一瞬だけ返事に詰まる。
人間らしい。
それはたぶん、褒め言葉なんだろう。
だが今の俺には、少しだけ重かった。
俺が黙ったのを見て、女将はそれ以上踏み込まず、代わりに宿の中へ顎をしゃくった。
「ほら、入んな。夕飯の仕込み前ならまだ席空いてるよ」
俺が中へ入ろうとすると、エルセが後ろから小さく言った。
「……あの子、明日ほんとに来ると思う?」
「来るだろうな」
「最悪」
「お前、その単語ほんと便利だな」
「便利だから使ってるの」
言いながらも、声の棘は少しだけ弱かった。
たぶん、完全に嫌っているわけじゃない。
厄介で、騒がしくて、距離感が近すぎる。
でも、たぶん悪い子じゃない。
そういうのを、エルセはちゃんと見ている。
「まあ」
俺は肩をすくめた。
「お前に比べたら、だいぶわかりやすい」
「は?」
「言葉の意味がちゃんと通じるだけ、ずいぶん楽だ」
言った瞬間、エルセがぴたりと止まった。
灰青の目がこちらを睨む。
「……何それ」
「事実だろ」
「私の言葉が通じないって言いたいの?」
「だいぶ前からそう思ってるが」
「最低」
即答だった。
だが、その直後。
エルセはほんの少しだけ視線を逸らして、ぼそりと続けた。
「……通じない方が、都合いい時もあるのよ」
「何か言ったか?」
「何でもない」
またそれだ。
だが、さっきまでと違って、その“何でもない”は妙に柔らかかった。
俺は少しだけ眉をひそめたが、結局それ以上は聞かなかった。
聞けばまた、ややこしくなる気がしたからだ。
そして多分――その“ややこしさ”を、俺はまだ受け取るつもりがなかった。




