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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第5話 恋人扱いされるたびに口が悪くなる魔女

 王都の昼下がりは、妙に人が多い。


 正確には、いつ来ても人は多いのだが、図書院の帰りに中央市場へ抜ける道は特にひどかった。荷馬車、買い物帰りの女たち、旅装の商人、子ども、果物屋の呼び声、焼き串の煙、香辛料の匂い。石畳の道を人の流れが絶えず動いていて、少し気を抜くとすぐ肩がぶつかる。


 俺は人混みの中を歩きながら、小さくため息をついた。


 どうしてこうなった。


 図書院を出る時点では、ただ宿へ戻るつもりだった。少なくとも俺はそうだった。だが隣には、当然のような顔をして銀髪の魔女がついてきている。しかも一定の距離を保つどころか、人混みを抜けるたびにじわじわと近くなる。


 近い。


 近いというか、これ以上人が増えたら普通に腕が当たる位置だ。


「……おい」


「何よ」


 エルセは前を向いたまま答えた。黒い帽子のつばの下から、灰青の目が少しだけこちらを睨む。


「お前、さっきから微妙に近くないか」


「人が多いんだから当たり前でしょ」


「だったらもう少し後ろでも」


「嫌よ。置いていかれるじゃない」


 言ってから、本人も少しだけまずいと思ったらしい。眉がぴくりと動いた。


 だが出てきた言葉を回収できるわけもなく、彼女は露骨に不機嫌そうな顔になった。


「……別に、置いていかれたって困らないけど」


「今の一拍は何だ」


「知らない」


 知ってるくせに。


 そう言いかけた時、向かいから荷車を押した男がやってきた。道幅いっぱいに積まれた麻袋のせいで、脇をすり抜ける余地がほとんどない。俺は自然とエルセの肩に手をかけ、少しだけ引き寄せた。


「危ね」


「っ……!」


 黒いマント越しに伝わる体温は、驚くほど熱かった。


 いや、熱いのはたぶんこいつの方だ。見れば、耳まで真っ赤になっている。


「何するのよ!」


「何って、荷車だろ。轢かれるぞ」


「わ、わかってるわよ、そのくらい!」


「なら最初から避けろよ」


「避けようと思ってたの! あんたが急に触るから――」


「そこは俺のせいなのか」


 エルセは答えない。答えずに、ぐっと帽子を押さえて視線を逸らした。


 その反応が、どうにも腑に落ちない。


 ただ肩を引いただけだ。討伐の旅の頃だって、もっと距離の近い場面はいくらでもあった。戦闘の最中なら、背中を預けることだって珍しくなかったし、崖から落ちかけた時は腕を掴んで引き上げたこともある。


 なのに今さら、そんなに赤くなることか?


 ……いや、敵同士の戦場と、王都の昼の市場じゃ、空気が違うか。


 そう考えたところで、前方から楽しげな声が飛んできた。


「おやおや、今日も仲がいいねえ!」


 昨日果実をくれた果物屋の店主だった。


 丸々とした体を屋台の向こうに揺らしながら、こっちを見て満面の笑みを浮かべている。


「兄ちゃん、今日は恋人と買い物かい?」


「違います」


「違うわ!」


 いつものように、綺麗に重なる。


 だが、果物屋はますます嬉しそうに笑っただけだった。


「息ぴったりじゃねえか」


「そこは否定の内容を聞いてくれ」


「内容より雰囲気だよ、雰囲気」

 店主はにやりと歯を見せる。

「昨日よりずっと“それっぽい”ぞ」


 何が“それっぽい”のか、まるでわからない。


 だが隣のエルセは、わかりやすいくらい動揺していた。眉をつり上げ、唇を引き結び、灰青の目だけが落ち着きなく揺れている。


「ど、どこがよ」


「並んで歩いて、兄ちゃんが姉ちゃん庇って、姉ちゃんは姉ちゃんで兄ちゃんから離れない」

 店主は指を折りながら数える。

「どう見ても仲良しだろ」


「仲良しじゃない!」


「そうか?」

 店主は俺を見る。

「兄ちゃん」


「少なくとも、ここで説明するような関係じゃないです」


「つまり特別な関係ってことだな」


「何でそうなる」


 会話が成立していなかった。


 果物屋の隣で品物を並べていた老婆まで、あらあらまあまあという顔でこちらを見ている。頼むから市場全体で保護者面しないでほしい。


 俺が半ば本気で困っていると、エルセが一歩前に出た。


「いい? よく聞きなさい」

 黒い帽子のつばの下から、店主をきっと睨みつける。

「私はこの男の恋人でも何でもないし、並んで歩いてるのもたまたま。庇われたわけでもなくて、むしろ迷惑だったし、離れないんじゃなくて離れる理由がないだけ。こんな男、別に――」


 そこで彼女は、一瞬だけ喉を詰まらせた。


 妙な間だった。


 そして次に吐き出されたのは、いつもの棘だらけの言葉だ。


「……別に、嫌いじゃないわけじゃないんだから」


 言った本人が固まった。


 俺も固まった。


 果物屋の店主が、目を丸くしたあと、ゆっくりと満面の笑みになる。


「ほおおおお」


「ちがっ――」

 エルセの顔が一気に真っ赤になった。

「違う! 今のは違うの! 違うから!」


「今のはだいぶ面白かったな」

 思わず俺が言うと、彼女がこちらを振り向いた。


「笑うな!」


「いや、だってお前」


「笑うなって言ってるでしょ!」


「悪い悪い」


 謝りながらも、口元が緩むのを止められない。さっきの言い回しはひどかった。否定の途中で、ほとんど肯定みたいな言葉が混ざっていた。


 エルセは完全に自爆していた。


 市場のあちこちから、小さな笑い声が漏れる。最悪だ。こいつにとってはそうだろうし、俺にとってもあまり良くない意味で目立つ。


 だが当の本人は、それどころではなさそうだった。


「ほんとに、ほんとに違うから!」

 エルセは店主に向かって必死に言い募る。

「私はこいつのことなんて、何とも思ってないし、こんな男と一緒に歩いてるのもただの偶然で、恋人扱いなんて迷惑でしか――」


「はいはい、照れなくていいよ」

 店主が軽く手を振った。

「若いっていいねえ」


「照れてない!」


 今のは完全に照れていた。


 それを口にしたらたぶん殺されるので、俺は黙っておく。代わりに店主が、気を利かせたつもりらしく赤い果実を二つ紙袋に入れて差し出してきた。


「ほら、持ってきな。色男と別嬪さんのおまけだ」


「だから違うって」

「いりません!」


 また重なる。


 だが店主は聞いていない。紙袋をこちらへ押しつけるように渡し、「喧嘩するなら仲良くな」と訳のわからない励ましをして去っていった。


 残された俺たちは、果物の入った紙袋を挟んで妙な沈黙に落ちる。


 先に口を開いたのは、やっぱりエルセだった。


「……捨てれば」


「もらい物をか」


「食べれば」


「どっちだよ」


「知らない!」


 顔の赤みが引いていない。


 俺は紙袋の中を覗き込み、一つを取り出した。昨日もらったものと同じ果実だ。皮ごと齧ると、しゃり、と軽い音がした。甘くて少し酸っぱい。


「ほら」


 もう一つを差し出す。


 エルセは一瞬だけ目を細めた。


「いらない」


「どうせあとで腹減るだろ」


「減らない」


「さっきの荷車で顔色変わってたくせに」


「それは関係ない!」


「じゃあ市場で倒れても知らないぞ」


「倒れないわよ」


「じゃあ持っとけ。倒れないにしても食うかもしれないだろ」


 しばらく沈黙。


 その沈黙のあいだ、エルセの視線は果実と俺の顔を行き来していた。やがて彼女はものすごく嫌そうな顔で、しかしきっちり果実を受け取った。


「……別に、あんたが心配してるからじゃないから」


「そうか」


「そうよ」


「ならいい」


「……その“ならいい”って、何か腹立つ」


「知らん」


 並んで歩き出す。


 市場の中央通りは相変わらず賑やかだ。香草の屋台、布屋、銀細工の露店、焼きたての菓子。すれ違う人間の数だけ生活の匂いがある。王都は基本的にうるさい街だが、こういう雑多さは嫌いじゃない。


 ただ今日に限っては、その雑多さが微妙に鬱陶しい。


 理由はひとつだ。


 あっちこっちで、俺たちが見られるからである。


「ねえ、あの二人、綺麗」

「恋人かな」

「兄妹じゃない? 顔の系統違うけど」

「兄妹であれは距離近すぎでしょ」


 聞こえてる。

 だいぶ聞こえてる。


 俺が顔をしかめると、隣のエルセもぴくりと反応した。どうやら彼女にも聞こえているらしい。


「……何なの、この街の人間」


「たぶん暇なんだろ」


「暇すぎるでしょ」


「そこは同意する」


 だが、通行人の視線は止まない。単純にエルセが目立つというのもある。銀髪の美人魔女なんて、どこへ行っても嫌でも視線を集める。隣にいる俺まで、その余波で見られるわけだ。


 そして最悪なことに、そういう視線の中には、明らかに“そういう関係”だと決めつけたものが少なくない。


 別に、俺はそこまで気にする方じゃない。


 だがエルセは違うらしい。


 顔に出る。


 めちゃくちゃ出る。


「ほら、見てる」

 彼女が小声で言う。

「左の布屋の女」

「お前が目立つからだろ」

「違うわよ。あんたの方見て笑ってる」

「そこまで見てるなら、お前も十分気にしてるじゃないか」

「気にしてない」

「嘘だな」

「うるさい」


 その時、通りの向こうから若い兵士が二人歩いてきた。肩当てに王都守備隊の紋章がついている。こちらを見るなり、片方が「あっ」と顔を上げた。


 嫌な予感しかしない。


「勇者殿!」


 やっぱりだ。


 兵士は人混みをかき分け、やたら嬉しそうな顔で駆け寄ってきた。もう一人も気まずそうにしながらついてくる。


「お久しぶりです、勇者殿! 先日の南門の魔獣掃討戦では――」

「ああ、別に勇者殿はやめてくれ」

「いやしかし!」

 兵士の目が、ふとエルセへ向いた。

「……あ」


 その“あ”に、だいたい全部が詰まっていた。


 こいつもそういう目をするのか。


「そ、その、失礼しました!」

 兵士はなぜか姿勢を正した。

「ええと、こちらは奥方で……?」


「違う」


「違います!」


 もう何回目だ、この流れ。


 だが兵士は、むしろますます気を遣う顔になった。


「そ、そうでしたか! 失礼を……! いやしかし、その……お似合い――」


「違うって言ってるでしょ!」


 エルセが食い気味に怒鳴った。


 兵士はびくっと肩を震わせる。そりゃそうだ。災厄の魔女じみた威圧感で睨まれたら、普通はそうなる。


 だが俺は、さすがに少し可哀想になった。


「悪いな。気にしなくていい」

「い、いえ!」

 兵士は慌てて頭を下げる。

「失礼しました! 勇者殿の、その……良き日を!」


 何が良き日だ。


 二人は逃げるように去っていった。


 その背中を見送りながら、エルセはかすかに肩で息をしていた。帽子のつばの下から覗く耳が、またほんのり赤い。


「……お前、本当にそういうの弱いな」


「弱くない」


「いや弱いだろ」


「弱くない!」


「だったら毎回そんな真っ赤になるなよ」


「これは怒ってるだけ!」


「そうは見えないんだよなあ」


 ぽつりと漏らした途端、エルセがぴたりと止まった。


 あ、と思う。


 たぶん、今のは少し不用意だった。


「……何、それ」


 声が低い。


「何って」


「そうは見えないって、どういう意味」


「どうって……」

 俺は少し考え、それから正直に言った。

「恋人扱いされて怒ってるっていうより、照れてるように見える」


 言ってしまった。


 市場の喧騒が、急に遠くなる気がした。


 エルセは完全に固まっていた。灰青の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、白い頬がみるみる赤くなる。


「な、な、なっ……」


「そんなに動揺するか?」


「するわよ!」


「何で」


「何でって――」

 エルセは言葉を探すように口を開き、閉じ、結局いつものところへ逃げ込んだ。

「最低!」


「そこでそれか」


「そうよ! 最低! 鈍いくせに変なところだけ鋭いの、本当に嫌い!」


「褒められてるのか貶されてるのかわからんな」


「貶してるの!」


「そうか」


「そうよ!」


 怒鳴りながらも、エルセはまた歩き出した。今度は俺より半歩前。たぶん、顔を見られたくないのだろう。帽子のつばを指でぐいと下げている。


 その背中を見て、何となく可笑しくなる。


 こいつは本当に、わかりやすい時とわかりにくい時の差が激しい。


 わかりやすい、と言っても、別に恋愛的な意味で何か確信しているわけじゃない。そういうものとして受け取るのは、まだ違う気がしていた。


 ただ、少なくともエルセは、俺が思っていたよりずっと、俺との距離に対して敏感らしい。


 そのことが少しだけ意外で、少しだけ面白かった。


 だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。


 市場の中央広場へ出る手前、布屋の前で若い女店員がこちらへ駆け寄ってきたのだ。


「お兄さん!」


 軽やかな声だった。


 振り向くと、栗色の髪を肩で切りそろえた娘が、にこにこと笑っている。年は俺たちとそう変わらないだろう。布屋の店の前掛けをつけているから、売り子か何かだ。


「はい?」


「昨日、南区画でお見かけしましたよね?」

 娘は明るい調子で話しかけてくる。

「その時、お連れの方がいなかったから、旅の方かなって。うち、新しい仕入れ布が入ってるんです。旅装の補修とかどうです?」


 なるほど、客引きか。


 俺は少しだけ肩の力を抜いた。


「悪い、今日は見るだけで」


「見るだけでもぜひ!」

 娘はにこやかに身を乗り出す。

「それに、お兄さん格好いいから、似合う色を一緒に選びたくて――」


 そこまで聞いたところで、隣から妙に冷たい気配がした。


 見なくてもわかる。


 エルセだ。


 灰青の目が、ものすごく冷えている。


「……ふうん」


 低い。


「え?」

 布屋の娘がようやくエルセへ目を向ける。

「あ、ご、ご一緒の方がいたんですね! すみません!」


「別に」

 エルセはにっこりもせずに言う。

「どうぞ続けて。格好いいんでしょう? 似合う色も一緒に選びたいんでしょう? この鈍くて単純でどうしようもない男に」


 布屋の娘が、わかりやすくたじろいだ。


「え、えっと……」

「私、邪魔みたいだし」

 エルセは涼しい顔で続ける。

「気にしないで。どうせこういうの、あんた好きでしょ」


 最後の矛先が俺に向く。


「いや待て、何で俺が悪いみたいになってる」


「悪いでしょ」


「話しかけられただけなんだが」


「へえ」

 エルセは笑っていなかった。

「嬉しそうだったわね」


「どこがだ」


「顔」


「適当言うな」


 布屋の娘は完全に気まずそうだ。


「ご、ごめんなさい、私その……」

「あなたは悪くないわ」

 エルセは即答する。

「悪いのはこの男だから」


「だから何でだよ」


 エルセは返事をしない。代わりにくるりと背を向け、そのままスタスタと歩き出してしまった。


「お、おい!」


 俺は慌てて追いかける。


 後ろで布屋の娘が「ご、ごめんなさい……!」と小さく謝っていたが、今それどころではなかった。


 人混みを抜けながら、エルセの背を追う。黒いマントがひらひらと翻る。こいつ、歩幅はそこまで大きくないのに、怒っている時だけ妙に速い。


「待てって!」


「待たない!」


「何で怒ってるんだ」


「怒ってない!」


「怒ってるだろそれは」


 ようやく広場の噴水の脇で追いつき、腕を掴む。今度は荷車じゃない。意図して止めた。


 エルセがびくっと振り向いた。


「離して」


「理由を言え」


「ない」


「あるだろ」


「ないわよ!」


「あるだろ!」


 思わず声が大きくなる。


 噴水のそばにいた鳩が一斉に飛び立った。


 エルセは唇をきつく結び、それから顔を逸らして、やっと小さく吐き出した。


「……気に入らないだけ」


「何が」


「全部」


「雑すぎる」


「雑でいいの!」


「よくないだろ。俺にはわからん」


「わからないならそのままでいれば!」


 言った瞬間、彼女の肩が震えた。


 何かまずいところに触れたのだと、さすがの俺でもわかった。だが、どこかはわからない。


 しばらく、噴水の音だけが聞こえる。


 やがてエルセは、小さく、だがはっきりと呟いた。


「……他の女と嬉しそうに話さないで」


 今度は俺が固まった。


「は?」


「だから!」

 エルセは勢いよくこちらを向いた。顔は真っ赤だし、目元は怒っているのか泣きそうなのかよくわからない。

「別に、そういう意味じゃないけど! でも、何か、ああいうの、見てて腹立つの! あんた、ああいうのに引っかかりそうだし、鈍いし、変な店に連れていかれても気づかなさそうだし、だから――」


「……嫉妬か?」


 口から出たのは、ほとんど無意識の一言だった。


 その瞬間。


 エルセは完全に停止した。


 帽子の下で、灰青の目が限界まで見開かれている。


「……ちが」


 声が裏返る。


「違う!」


 噴水の広場に、見事なくらい響いた。


 周囲の数人がこちらを見た。やめてくれ、もう今日は十分目立っている。


「違う違う違う! 嫉妬とかじゃない! 何でそうなるのよ!」

 エルセは両手で帽子を押さえたまま、半ば悲鳴みたいにまくしたてる。

「ただ、その、あんたが変なのに騙されると面倒だし! 帰還だの何だの言ってるんだから、妙なところで足引っ張られたら困るし! だから注意しただけで、別に他意は――」


「わかったわかった」

 俺は片手を上げた。

「そこまで言わなくてもいい」


「そ、そうよ。そこまで言う話じゃないの」


「いや、十分言ってるけどな」


「うるさい!」


 結局そこへ戻るのか。


 だが、怒鳴りながらもエルセの視線はさっきより少し落ち着いていた。完全に自爆したせいで、逆に勢いが死んだらしい。


 俺はため息をつき、掴んでいた腕を離す。


「じゃあ、今度からそういう時は最初に言え」


「言えるわけないでしょ」


「何で」


「……何でも」


 その“何でも”は、昨日までの“別に”より少しだけ重かった。


 だが追及する気にはなれなかった。


 かわりに俺は、噴水の縁に腰を下ろし、紙袋の中のもう一つの果実を取り出した。さっきから持ったままだったやつだ。


「ほら」


「いらない」


「さっきからそればっかりだな」


「だって、いらないもの」


「嘘つけ」

 俺は果実を少し揺らした。

「腹減ってる顔してる」


「してない」


「してる」


「してない!」


「じゃあいい。俺が食う」


「…………」


 さっきと同じ沈黙。


 数秒後、エルセがものすごく嫌そうな顔で俺の手から果実を奪った。


「ほんと、最低」


「何でだよ」


「わかってるくせに聞くから」


「何を」


「知らない!」


 噛みつくように言って、彼女は果実をひと口齧る。しゃり、といい音がして、そのたびに少しだけ機嫌が戻っていくのが見て取れた。


 やっぱりわかりやすい。


 俺は思わず笑いそうになったが、今度は口に出さないでおいた。これ以上刺激すると、また最初からやり直しになる気がする。


 噴水の水音に紛れて、エルセが小さく呟いた。


「……さっきの店の子、可愛かったわね」


「そうか?」


「そうよ」


「別に見てなかった」


「見てたでしょ」


「話しかけられたから見ただけだ」


「ふうん」


 彼女は果実をもう一口齧る。


 その横顔は、まだ少しだけ不機嫌で、でもさっきほど刺々しくはない。


 俺はしばらく考えて、それから言った。


「俺は、お前の方が目立つと思うけどな」


 言った瞬間、時間が止まった。


 エルセの動きがぴたりと止まる。噴水の水だけがじゃぶじゃぶ音を立てている。


「……は?」


「いや、銀髪だし」

 何かまずかった気はしたが、もう遅い。

「見た目も派手だし、その格好で市場歩いてたら、そりゃ目立つだろ」


 俺としては純然たる事実のつもりだった。


 だがエルセは、なぜかますます顔を赤くした。


「そ、そういう意味じゃない!」


「どういう意味で受け取ったんだよ」


「うるさい!」


 果実を握りしめたまま立ち上がる。


 また怒ったのかと思ったが、今度は少し違った。怒っているというより、恥ずかしさで逃げ場を失った顔だ。


「……もう帰る」


「宿に?」


「知らない!」


「またそれか」


「またでいいの!」


 言い捨てて、エルセは数歩進み、それから立ち止まった。


 背中越しに、ぶっきらぼうな声が飛んでくる。


「……あんたも来るなら、勝手にすれば」


「誘ってるのか?」


「違う!」


 即答だった。


 だが、その言い方にはもうさっきまでの苛立ちがほとんど残っていない。


 俺は立ち上がり、噴水の縁から離れる。


「じゃあ勝手についていく」


「最低」


「お前、その単語便利すぎないか」


「便利だから使ってるの」


 結局、また並んで歩き出す。


 広場から宿へ向かう帰り道でも、何人かがこちらを見ていた。たぶん、まだ恋人だと思われている。もしかすると、さっき噴水のところで口論していたのも見られていたかもしれない。


 でも、もうどうでもよかった。


 少なくとも今のエルセは、さっきの布屋の前で見せたみたいな、刺々しい空気ではない。少し口数は減っているが、その分だけ隣にいる距離が自然になっている。


 そして俺は、そのことに気づいても、あえて何も言わなかった。


 宿の近くまで来たところで、前から買い物帰りらしい中年の夫婦が歩いてきた。すれ違いざま、夫の方がこちらを見て、にこりと笑う。


「若いっていいねえ」


 その一言で、エルセの肩がまた跳ねた。


 次の瞬間、彼女はものすごく不機嫌そうな声で言い捨てる。


「……ほんと、この街、嫌い」


「そうか」


「そうよ」


「でも、お前、さっきから全然帰らないよな」


「何の話」


「嫌いならさっさと離れればいいのに」


 言った瞬間、エルセが立ち止まった。


 また余計なことを言ったかと思ったが、彼女はしばらく俺を見上げて、それから小さく、だがはっきり言った。


「……離れる理由がないもの」


 その声は、今まで聞いた中で一番小さくて、一番素直に近かった。


 俺は一瞬だけ言葉を失う。


 だが当の本人は、すぐに我に返ったらしい。耳まで赤くして、慌てて顔を背ける。


「ち、違う! そういう意味じゃなくて! 今はまだ、ってだけで、そのうち離れるし、別にずっと近くにいたいわけじゃ――」


「わかったわかった」


 また手を上げて制すると、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。


「何よ、その顔」


「いや、別に」

 俺は少しだけ肩をすくめる。

「お前、今日ずっと同じこと言ってるなと思って」


「何を」


「離れる理由がない、って」


 エルセは、今度こそ完全に黙った。


 返事はない。


 ないが、その沈黙自体がだいぶ雄弁だった。


 俺はそれ以上追わず、宿の扉を押し開けた。木の扉がぎい、と音を立てる。中からはいつもの雑多な匂いと、女将の怒鳴り声と、煮込みの香りが流れてきた。


 振り返ると、エルセはまだ入口の前に立っていた。


「入らないのか」


「……入るわよ」


「嫌なら帰ればいいのに」


「帰らない」


「そうか」


「そうよ」


 そのやり取りのあと、彼女は不本意そうな顔のまま宿へ入ってきた。


 たぶん今日も、周囲から見ればどう見ても恋人同士だったのだろう。


 俺たち自身がそれを認めるかどうかは別として。

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