第4話 帰るためなら恋なんていらない
王都の朝は、鐘の音から始まる。
高い塔の上から鳴る澄んだ音が、石造りの街を滑っていき、寝台の上にまで届く。三年前の俺なら、その音を聞くたびに「異世界だな」なんて妙な実感を抱いていたかもしれない。
今はもう、何も思わない。
うるさいな、くらいだ。
窓の外は快晴だった。昨日の騒ぎも、昼間の妙な食事も、夜のうちに全部どこかへ追いやられたみたいに、王都は何事もなかった顔をしている。
俺は寝台から身を起こし、寝癖のついた髪をかき上げた。
机の上には昨夜のまま、召喚術式の写しと遺跡の拓本が広がっている。端には、昨日の昼にエルセと飲むことになった薬草茶の残りが置いてあった。女将に茶器を借り、結局《木靴亭》の裏庭で飲んだそれは、妙に飲みやすくて、少しだけ悔しかった。
もちろん、そんな感想を本人に伝えてはいない。
伝えたら、たぶんまた「気持ち悪い」と言われる。
いや、別に言われたくないわけじゃない。言われ慣れてるし。……慣れてる、のか?
「……何考えてんだ俺は」
小さく呟いて、立ち上がる。
洗面器の水で顔を洗い、冷たさに意識を引き戻す。余計なことを考えるな。今朝やるべきことは決まっている。
王立図書院へ行く。
南区画にある古書店街で拾った情報では、古代召喚術の第二紀様式に関する記録が、図書院の封印庫に残っている可能性が高い。閲覧には許可が要るが、学術協力の名目でなら、俺にも多少の便宜が利く。
つまり、今日もいつも通りだ。
情報を探して、つなげて、帰還の道を探る。
それだけでいい。
扉を開けて廊下に出ると、ちょうど女将が桶を抱えて階段を上がってくるところだった。朝から元気だな、この人は。
「おや、今日はずいぶん早いじゃないか」
「図書院に行くんで」
「ふうん」
女将は俺の顔をまじまじと見て、それから意味ありげに言った。
「今日は銀髪のお嬢さんはいないよ」
「何の報告ですか」
「安心したかい?」
「むしろ何で安心すると思ったんですか」
「そうかいそうかい、残念だねえ」
「話が通じない」
女将は楽しそうに笑って階下へ降りていく。
どうしてこの宿の人間は、昨日から妙に人の恋路を勝手に決めつけたがるのか。いや、恋路以前に、そもそも俺とエルセの間にそういうものはない。ないはずだ。
……たぶん。
階下へ降りると、食堂にはまだ数人しか客がいなかった。朝食代わりに黒パンと薄いチーズ、それからスープをかき込み、水で流し込む。味は悪くない。だが、どういうわけか昨日の朝の方が胃に優しかった気がして、少しだけ腹が立った。
女将が向かいの椅子にどっかり座る。
「で、図書院ねえ」
「ええ」
「また帰る方法かい」
「また、です」
「そんなに帰りたいもんかねえ」
箸が、止まった。
問い自体は軽かった。女将に悪気があるわけでもない。何なら、ただの世間話のつもりだろう。
でも、たまにこういうのは刺さる。
「……帰りたいですよ」
自分でも驚くほど、きっぱりした声が出た。
女将は少しだけ目を丸くしたが、茶化さなかった。その辺の勘のよさは、この人の好きなところだ。
「そうかい」
「ええ」
「王都は嫌いかい?」
「嫌いじゃないです」
「じゃあ、この宿は?」
「それも別に嫌いじゃないです」
「昨日から付きまとってる綺麗なお嬢さんは?」
「その質問、必要ですか」
「必要だねえ」
「……嫌いじゃないですよ」
言ってから、自分で何を答えているんだと思った。
女将はにやりとしたが、そこも突いてこなかった。
「なら、なおさら不思議だ。嫌いじゃないものが増えてるのに、それでも帰りたいんだろう?」
「帰る場所は、別にあるんで」
それ以上は言わなかった。
言いたくない、というより、言葉にすると安っぽくなる気がしたからだ。
女将はしばらく俺を見て、それから「まあ、若いのにずいぶん難しい顔するねえ」とだけ言って立ち上がった。
俺は残りのスープを飲み干し、外套を羽織って宿を出た。
王立図書院は、王都の中心から少し外れた高台にある。白い石壁と、青い尖塔。宗教施設と役所と墓場を無理やり混ぜて、ついでに本棚を詰め込んだみたいな建物だ。静かで、ひんやりしていて、妙に人を小さく見せる空気がある。
その門をくぐる頃には、俺の頭の中はすっかり仕事の方へ切り替わっていた。
受付で閲覧証を見せ、古文書室の許可札を借りる。廊下を抜けて二階の閲覧室へ向かう途中、窓の外に見える王都の街並みが、朝の光に白く光っていた。
綺麗だと思う。
でも、それだけだ。
足を止めたいとは思わない。
「……やっぱり来たか」
古文書室の前に座っていた老人が、顔を上げて言った。
オーウェン・ベルガード。王立図書院の外部協力学者で、俺がここへ通うようになってから一番世話になっている男だ。痩せぎすの体に灰色のローブを引っ掛け、鼻の上にずれそうな丸眼鏡を載せている。学者というより埋葬前のミイラの方が近い外見だが、中身は思ったよりまともだった。
「第二紀様式の件、少しは進みましたか」
「挨拶より先にそれか。若いくせに可愛げのない」
オーウェンはため息をつき、それでも机の上の束を指で叩いた。
「進んだとも。お前さんが前に持ち込んだ拓本、やはり古代召喚陣の外縁部と一致する箇所があった」
「本当ですか」
「ただし、条件つきだ」
「何です」
「座れ。話は長い」
俺は椅子を引いて腰を下ろした。
オーウェンは書類を広げながら、しわがれた声で続ける。
「お前さんが探しているのは“異界帰還”の術式だ。だが今残っている記録の大半は、招くための術だ。帰すための術は、宗教上の理由や政治的な都合でかなり削られている」
「知ってます」
「知っているなら焦るな」
老人は鼻を鳴らした。
「第二紀には、“門”そのものを開く術式と、その門の向こう側に座標を固定する術式が分かれていた形跡がある。お前が持ってきた断片は、後者……つまり固定座標の方だ」
「固定座標……」
「門だけでは駄目だ。開いた先が別の場所なら意味がない。元の世界へ帰るなら、“どこへ帰るのか”を縫い止める必要がある」
紙の上に記された円と線を目で追う。
魔法陣の構造はだいぶ理解してきた。三年もやれば、嫌でも覚える。中心核、外縁、供給路、媒介点。だが“異界”が絡むと、どれも一段ややこしくなる。
「なら、座標固定の術式さえ見つかれば……」
「単純ではない」
オーウェンは俺の言葉を切った。
「固定には媒介が要る。強力な“つながり”だ。呼ばれた者と元の世界をつなぐ、象徴か、記憶か、契約か……そういう類のものだろう」
その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。
象徴。
記憶。
契約。
元の世界とのつながり。
「どうした?」
「……いや」
何でもないと首を振る。
でも、本当は何でもなくない。
頭の片隅には、ずっとある。
日本のこと。
帰る前に終わってしまった日常。
もう三年も前なのに、思い出すと生々しいままの風景。
俺には、帰らなければならない理由がある。
その理由の輪郭を、他人に説明したことはない。
必要ないと思っていたし、言葉にすればするほど、何かが薄まる気がしたからだ。
高校二年の春、俺は突然この世界へ引きずられた。
あの日の朝だって、ただの学校の日だった。母さんが玄関で「傘持っていきなさい」と言ったのを、面倒くさくて無視した。妹はパンをくわえながら文句を言っていた。父さんは新聞を読んだまま「帰ったら話がある」とだけ言った。
その“帰ったら”を、俺はまだ回収していない。
あの時ちゃんと傘を持っていかなかったことを、たまに夢に見る。別に傘自体はどうでもいい。でも、そういうどうでもいい日常の続きを、俺は途中で失った。
だから、帰る。
誰に何を言われても、それだけは決まっている。
「おい」
オーウェンの声で現実に引き戻された。
「すみません」
「珍しいな。お前さんがぼんやりするとは」
老人はじっと俺を見た。
「……相当切羽詰まっているようだ」
「いつも通りですよ」
「嘘をつけ。顔色がよくない」
顔色なんて、この世界へ来てからよくなった試しがない。
だがオーウェンは追及せず、代わりに引き出しから別の紙束を取り出した。
「封印庫の閲覧申請は出してある。今日中に許可が下りれば、第二紀後期の召喚資料も見られるかもしれん」
「助かります」
「ただし――」
老人はわざと間を置いた。
「条件がある」
「またですか」
「今度は仕事の条件じゃない。生活の条件だ」
オーウェンは真顔で言った。
「少し休め」
「休んでますよ」
「どこがだ」
老人は机を指で叩いた。
「宿と図書院と怪しい古書店と遺跡を往復してるだけの男が言う台詞じゃない。しかも最近は妙な連中まで周囲を嗅ぎ回っている」
ぴくり、と眉が動いた。
「妙な連中?」
「やはり気づいてなかったか」
老人は深くため息をつく。
「お前さんが古代召喚に触れ始めてから、妙に質問の多い連中が来るようになった。どんな資料を見ているか、誰と会っているか、何を探っているか」
「誰です」
「そこまでは知らん。わしは学者であって密偵じゃない」
オーウェンは肩をすくめた。
「だが、お前さんの動きが誰かの目に留まっているのは確かだ」
そうか、と心の中でだけ答える。
エルセが昨日の古道具市の件を知っていたこと。
妙に俺の行き先を気にしていたこと。
昨日からの言動が頭の中でつながる。
あいつは、もしかして――。
「何を考えている」
「……別に」
反射でそう答えたが、オーウェンは納得しなかった。
「また“別に”か」
老人は呆れたように笑う。
「若い連中はどうしてそう、肝心なところを飲み込むんだ」
「学者先生に言われたくないです」
「違いない」
少しだけ空気が和らぐ。
それでも、胸の奥のざわつきは消えない。
誰かが俺のことを探っている。
召喚術に触れるなと思っている連中がいる。
そしてたぶん、エルセはそれを知っている。
なのに俺は、昨日も今日も、その理由をちゃんと聞いていない。
聞かなかった、というより、聞くこと自体を避けていたのかもしれない。
面倒だから。
ややこしくなるから。
あるいは――それ以上、関わる理由を増やしたくないから。
「お前さん」
オーウェンが、ふいに低い声で言った。
「ひとつだけ聞く」
「何です」
「この世界で、生きるつもりは本当に一欠片もないのか」
紙をめくる手が止まる。
真正面からそう聞かれるのは、珍しかった。
王や貴族や神官は、だいたいもっと遠回しに言う。この世界に残れだの、功績に報いようだの、居場所を用意するだの。つまりは、ここで人生をやり直せと。
だがオーウェンは、そういう飾りを抜きにして聞いてきた。
生きるつもりはあるか、と。
「……ないです」
答えは早かった。
老人は瞬きもせずに俺を見る。
「正確には、“帰るまでの間は生きる”です」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「でも、それ以上はいらない。この世界で何かを築く気はないし、誰かに何かを約束する気もない。どうせ帰るから」
「どうせ、か」
「そうです」
「帰れなかったら?」
「帰ります」
ほとんど意地みたいな返答だった。
オーウェンはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「若いな」
「年寄りには言われたくないです」
「それもそうだ」
老人は肩を揺らし、それから不意に視線を和らげた。
「だがな、相馬。人は“どうせいなくなる”と決めた相手に、本当の意味で心を預けられん」
「……何の話です」
「いや、学問の話ではない」
老人は眼鏡を押し上げる。
「ただの老いぼれの独り言だ」
意味がわからなかった。
わからなかったが、何となく聞き流せない言い方だった。
心を預ける。
誰が、誰に。
その一瞬、なぜか脳裏に浮かんだのは、銀髪の魔女だった。
嫌いだの最低だの言いながら、宿へ朝食を持ってくる女。
ついてくるなと言っても、勝手についてくる女。
俺が危ない方へ行こうとすると、なぜか先回りして面倒を潰している女。
……いや、違う。
何を考えている。
そういうのは全部、関係ない。
俺は帰るために動いている。それだけだ。
恋だの何だのを考える余地なんて最初からない。
仮に誰かが好意を向けてきたとしても、それを受け取るつもりはない。受け取ってしまえば、この世界に何かを残すことになる。あるいは、自分の中にこの世界の何かが残る。
それは駄目だ。
駄目だと、思う。
だから俺は最初から、見ない。
見えないんじゃない。見ないようにしている。
誰かが親切でも、世話を焼いても、妙に近くても、そういうものに意味を与えない。与えた瞬間、それは“ここにいてもいい理由”に変わる。
俺はそれが、怖いのかもしれなかった。
「……失礼します」
いつの間にか、紙の上に視線を落としたままそう呟いていた。
オーウェンはそれ以上何も言わず、ただ手元の札をひらひらと振った。
「封印庫の許可が下りるまで、そこらでも読んで待っていろ」
「ええ」
閲覧室の片隅へ移動し、別の資料を開く。
文字を追っているのに、頭に入ってこない。
珍しいことだった。こういう時の俺は、たいてい逆に集中できる。余計なことを切り離すために、文字の方へ逃げ込めるからだ。
なのに今日は駄目だった。
帰るためなら恋なんていらない。
そんなの、改めて言葉にするまでもないはずなのに。
どうしてか、その言葉だけが妙に胸に引っかかる。
昼前、ようやく封印庫の許可が下りた。
オーウェンの案内で地下の閲覧室へ降りる。そこは地上よりさらに冷たく、石壁の隙間から古い空気がにじみ出ていた。本棚ではなく、鍵付きの箱や封筒が並んでいる。封印庫というより、秘密を押し込めるための墓穴だ。
「ここだ」
オーウェンが一つの箱を開ける。
「第二紀末、異界門関連の抜粋だ。原本は破損がひどいが、写本なら多少読める」
俺は慎重に紙を受け取った。
文字は古い。だが判別できる範囲だった。
“門は開くのみでは足らず”
“帰還を欲する者、己が由来を繋ぎ止めるべし”
“媒介なき帰還は、帰還にあらず”
「……これだ」
「そう簡単に飛びつくな。続きも読め」
次の行を追う。
“由来を繋ぐ縁、時に物、時に記、時に人”
“最も強きは、魂に最も近きもの”
人。
そこに書かれていた文字に、目が止まる。
物や記憶ならまだいい。
だが、人。
もし本当に帰還術に“人との縁”が絡むのだとしたら、それは――。
「どうした」
「……何でも」
喉が妙に乾いた。
俺は紙を置き、長く息を吐く。
考えるな。
ただの可能性だ。
まだ決まったわけじゃない。
資料は不完全だし、解釈も複数ある。
そう自分に言い聞かせる。
それなのに、頭の中には嫌な想像ばかり浮かんだ。
もし帰るために、この世界との“強い縁”が必要だとしたら。
あるいは逆に、その縁を断ち切らないと帰れないのだとしたら。
どちらにしても、面倒だ。
俺は最初から、その手の面倒を増やさないために動いてきたはずだ。
宿も仮の寝床。
王都も仮の滞在先。
人間関係も最低限。
誰にも何も期待しない。
そうやってきた。
そうしてきたから、ここまで来られた。
なのに、最近はどうだ。
朝起きると、扉の外に飯がある。
外へ出ると、銀髪の魔女がいる。
行き先を決める前に、なぜか誰かが危険を知っている。
それを便利だと思い始めたら、終わりだ。
居心地がいいと思ったら、もっと終わりだ。
「相馬」
オーウェンが箱を閉じながら言う。
「今日はここまでにしておけ」
「まだ読めます」
「読めるかどうかではない。頭が働いていない」
老人は淡々と言った。
「そういう時に読んでも、碌な解釈にならん」
反論できなかった。
確かに、今の俺はまともじゃない。
資料のせいか。
誰かに見張られている可能性のせいか。
あるいは――昨日から再び現れた、あの魔女のせいか。
どれも気に入らない。
図書院を出る頃には、空は少し曇っていた。
高台から見下ろす王都は、昼のざわめきに満ちている。門を出て石段を降りる途中、風が吹き抜け、外套の裾を揺らした。
その途中で、俺は足を止めた。
門柱の影に、見覚えのある黒い帽子があったからだ。
「……何してる」
口から出たのは、昨日も一昨日も言った台詞だった。
銀髪の魔女――エルセは、腕を組んだままこちらを見た。
「別に」
「別にじゃないだろ。何で図書院の前にいる」
「たまたま通っただけ」
「王都の中でも、かなり“たまたま”しにくい場所だと思うんだが」
「うるさい」
いつもの調子だった。
だが、いつもより少しだけ顔色が悪い気がした。気のせいかもしれない。帽子の影のせいかもしれない。でも、昨日までよりほんの少しだけ、疲れて見える。
「……お前、今日どこ行ってた」
何気なく聞いたつもりだった。
だが、エルセの肩がぴくりと揺れた。
「何で」
「何でって、顔色悪いから」
「悪くない」
「いや悪いだろ」
「悪くないって言ってる」
強い口調で返される。
それ以上踏み込むな、という警告の声だった。
俺は眉をひそめたが、追及はしなかった。
ここで下手に聞けば、また話がややこしくなる気がしたからだ。
「……そうか」
「そうよ」
短いやり取り。
その沈黙のあと、エルセはふいと視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「で、何か見つかったの」
「少し」
「帰れそう?」
その問いには、少しだけ答えに詰まった。
「……まだわからない」
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
今度はお互い様だった。
風がまた吹く。曇り空の下、王都の屋根が鈍く光っていた。
俺は石段を一段下り、それから振り返る。
「帰るぞ」
「は?」
「宿」
「何で私が」
「たまたま通ったんだろ」
俺は肩をすくめた。
「だったら途中まで一緒でも問題ない」
エルセは一瞬だけ虚を突かれた顔をした。
その表情はすぐ、不機嫌そうなものに塗り替えられる。
「……勘違いしないで。別に一緒に帰りたいわけじゃないから」
「知ってる」
「本当に?」
「昨日から何回言われたと思ってる」
「ならいいわ」
ならいいのかよ。
そう思いながら、俺は石段を下り始めた。後ろから靴音がついてくる。つまり、来るらしい。
どう見ても、たまたま同じ方向なだけではない。
だがそれを指摘する気にはなれなかった。
指摘したら、たぶんまた面倒なことになる。
いや、違う。
指摘して、こいつがいなくなる方が、少しだけ面倒かもしれないと――ほんの少しだけ、そう思ってしまった自分に、俺は気づかないふりをした。
帰るためなら恋なんていらない。
そうだ。
俺に必要なのは、帰還の手がかりだけ。
この世界に残る理由も。
誰かに引き留められる理由も。
誰かの好意を受け取る理由も。
全部、いらない。
……いらない、はずだ。
なのに、隣を歩く魔女の気配が少しだけ近いだけで、妙に落ち着くのは、きっと気のせいだ。




