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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第3話 暴言の裏側

嫌い。


 最低。


 近寄らないで。


 ――好き。


 頭の中では、ちゃんとそう言っているはずなのに。


 喉を通って、唇を抜けて、声になった途端、言葉はいつも、ひどい方へひっくり返る。


 だから私は今日も失敗した。


 朝から最低だった。


 いや、最低じゃない。最低だったのは私の口だ。


 本当は、昨夜のうちから考えていたのだ。今日こそ、もう少しまともに話そうと。せめて、ありがとうくらいは普通に言えなくても、せめて、昨夜ちゃんと帰ってきてよかった、くらいは……言えなくても、せめて近い意味の言葉にできるんじゃないかと。


 できなかった。


 起きた瞬間から、できる気がしなかった。


 そもそも、朝食を作った時点で、かなり駄目だった。


 私は日の出前に《木靴亭》の裏口から入り込んで、眠そうな女将に「厨房を貸して」と言った。女将は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたけれど、すぐに、ああ昨日の、という顔になって、にやにやしながら鍵を貸してきた。


 あの時点で嫌な予感はしていた。


 けれど、引き返せなかった。


 だって、昨日のあいつは本当にろくなものを食べていなかったからだ。


 片づけで遅くまで働かされていたのも見ていた。部屋の灯りが消えたのがかなり遅かったのも知っている。あの男は昔からそうだ。自分のことは後回しにするくせに、目的のためならどこまでも無茶をする。戦っている時は無茶でも生き延びるくせに、日常へ戻ると急に危なっかしい。


 討伐の旅の頃から、ずっとそうだった。


 だから、放っておけなかった。


 ……いや、違う。


 放っておきたくなかった、が正しい。


 でも、そんなこと口に出せるはずもない。


 そもそも私には、好意を言葉に変える自由なんてないのだから。


 鍋を火にかけながら、私は昨日のことを思い出していた。


 久しぶりに見た相馬遼真は、昔と少しだけ違っていた。背が伸びたとか、肩つきが変わったとか、そういう話ではない。そういう変化ももちろんあるけれど、もっと内側の話だ。


 前より静かになった。


 前より、笑わなくなった。


 前より、どこにも根を下ろすつもりがない顔になっていた。


 討伐の旅の途中、こいつはもっとわかりやすく怒ったし、呆れたし、時々ちゃんと笑った。仲間に巻き込まれて騒ぐこともあった。敵だった私に向かってすら、憎しみだけを向けるような男ではなかった。


 でも今は違う。


 王都にいるのに、王都の人間じゃない顔をしている。

 宿にいるのに、宿の人間じゃない顔をしている。

 この世界にいるのに、この世界の人間じゃない顔をしている。


 帰ることしか見ていない顔だった。


 あれを見てしまったら、余計に、放っておけるわけがなかった。


 鍋の中で、香草と野菜が煮えていく。


 パンを温める。

 卵を割る。

 塩をひとつまみ。

 胡椒を少し。

 鶏肉は小さめに切って、寝起きでも食べやすいように。


 何度も味を見た。


 旅の途中、たった一度だけ、遼真が「こういう味が落ち着く」と言ったことがある。塩気は強すぎず、香草はきつすぎず、油は少なめ。野営の合間、焚き火のそばで、仲間の一人が作ったスープに対して、何気なくこぼした一言だった。


 あいつは、そういうことを覚えていないだろう。


 でも私は覚えている。


 覚えてしまっている。


 そういうのが、呪いよりよほど面倒だ。


 朝食を盆に載せ、紙切れを添えた。


『余り物。腐る前に処分しなさい』


 我ながらひどい文面だと思う。もっとましなことを書きたかった。せめて、温かいうちに食べて、くらい。いや、もっとできるなら、ちゃんと食べなさい、でもよかった。


 でも書けない。


 口に出すともっとひどいことになるのだから、紙に逃げてもたぶん駄目だ。あまり丁寧な言葉を書くと、今度は自分の方が耐えられない。


 だから、あれくらいが限界だった。


 部屋の前に盆を置いて、こつんと扉を叩いて、すぐに階段を駆け下りた。


 そのまま姿を消すつもりだったのに、なぜか宿の裏で洗い物までしてしまったのは、本当にただの勢いだ。使った鍋をそのままにしていくのは嫌だったし、女将に何か言われるのも面倒だったし、あと少しだけ、そこにいたかった。


 そうして結局、食堂の外からあいつの声まで聞いてしまった。


『うまかったし』


 その一言で、危うく鍋を取り落としかけた。


 反則だと思う。


 あいつは昔からそうだ。何でもない顔で、こっちが勝手に大事にしているものを、当たり前みたいに受け取る。受け取って、礼まで言う。礼なんか言われたら、私の方が困る。ひどく困る。気持ち悪いと言うしかなくなるくらい、困る。


 案の定、食堂へ入った瞬間、女将が余計なことを言った。


 朝飯、美味かったってさ。


 頭の中が真っ白になった。


 体が熱くなった。

 喉が詰まった。

 何か言わないとと思った。

 でも何を言えばいいのかわからなかった。


 結果、ああなる。


『別にこいつのために作ったんじゃないし!』


 大嘘だ。


 あいつのために作ったに決まっている。


 でも、本当のことを言おうとすると、たぶんもっと駄目になる。好きだとか、大事だとか、心配したとか、そういう言葉は全部、私の口の中で毒に変わる。


 それが私の呪いだ。


 ――“好意を伝えようとした時に限り、言葉が本心の反対へ反転する”。


 単純なくせに、最悪な呪いだった。


 きっかけは禁呪の失敗だ。


 もう何年も前、私は魔王軍の一員として、ある“言霊系統”の古代魔法に触れた。本来は他人の認識を歪め、心を縛るはずの術だった。けれど術式は不完全で、暴走した。命が助かっただけ幸運だと、当時の私は言われた。


 でも、助かった代償がこれだ。


 怒りや憎しみは、普通に言える。

 侮蔑も、命令も、警戒も、呪文も、問題ない。

 なのに、好意だけが駄目だった。


 ありがとうと言いたい時は、嫌味になる。

 大丈夫? と聞きたい時は、どうでもいい、になる。

 一緒にいてほしいは、近寄るな、になる。

 好き、なんて――もう、考えるだけでぞっとする。


 最初はまだ、何とかなると思っていた。


 言葉が駄目なら、態度で伝えればいいと。

 視線や行動なら、いくらでもどうにかなると。


 甘かった。


 態度だけでは届かない相手もいる。


 特に、相馬遼真みたいに、目の前の危険は見抜けるくせに、自分へ向けられる好意だけは驚くほど鈍い男には。


 噴水広場で別れたあと、私は少しだけ王都を歩いた。


 ついて行くと言った手前、本当はこのあとも様子を見るつもりだった。けれど、一度頭を冷やしたかった。さっきは危なかった。あいつに焼き串を渡された時、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、嬉しすぎて変な顔をした自覚がある。


 見られていた気がする。


 いや、絶対見られていた。


 最悪だ。


「……最悪」


 自然と口から漏れた言葉に、自分でむっとする。


 違う。最悪じゃない。本当は嬉しかった。朝食の礼も、焼き串も、あの自然な渡し方も。まるで気負いがなくて、下心もなくて、だからこそ余計に困る。


 あいつはそういうところがずるい。


 女を喜ばせようとしてやっているわけじゃないのが、さらにずるい。


 市場通りを抜け、細い路地へ入る。


 王都の裏側は、表通りほど華やかではない。建物の壁は湿り気を帯び、石畳には古い水が染みついている。路地裏の洗濯物の隙間を、猫がすり抜けていく。かつて私は、こういう場所を好んだ。人の視線が少なくて、魔女には都合がよかったからだ。


 今も、その癖は抜けきっていない。


 特に、遼真が絡む時は。


 私は角を曲がり、薄暗い路地の奥で足を止めた。


「……出てきなさい」


 声は低く、硬い。


 さっきまで遼真相手にしていたそれとは別人みたいな響きだ。自分でもわかる。私は、あいつの前だと少しだけ調子が狂う。


 沈黙のあと、建物の影から二人の男が現れた。


 一人は細身で、鼠色の外套を着ている。もう一人は背が高く、短剣を二本、腰に提げていた。王都の裏稼業にいる連中だろう。雰囲気でわかる。


「さすがだな、魔女殿」

 細身の男が薄く笑う。

「気づかれてたか」


「最初から」


「つれない。久しぶりの再会だってのに」


「私にそういう言い方をする男は、だいたい死ぬわよ」


 男は肩をすくめる。


「こわいこわい。だが今日は喧嘩しに来たわけじゃない」

 その目が、わずかに細くなった。

「元勇者の件だ」


 やっぱり、と思った。


 あいつが王都にいる限り、遅かれ早かれこうなるとは思っていた。魔王を倒した元勇者。王家の誘いを断り、爵位も名誉も受けず、王都の外れで怪しい遺跡や召喚術を調べ続ける異物。目立たないはずがない。


「何が言いたいの」


「最近、古代召喚の断片を集めてるらしいな」

 男は笑みを消した。

「それ以上深入りされると困る人間がいる」


 私は黙った。


 その沈黙を肯定と受け取ったのだろう。背の高い方が続ける。


「だから忠告だ。あの男を止めろ」

「できないと言ったら?」

「なら、お前ごと消す」


 単純で、わかりやすい脅しだった。


 私はほんの少しだけ、呆れたくなった。


 止めろ、だなんて。


 そんなの、ずっとやっている。心配するな、危ないからやめろ、無茶するな、もう少し周りを見ろ――言いたいことは山ほどある。でも全部、私の口から出る時には、刺々しい別の言葉に変わる。だからあいつには届かない。


 届かないどころか、むしろ反発される。


 それでも止まらないのが、あいつなのだ。


 そして、そういうところを知っている自分がまた、嫌になる。


「断る」


 短く告げると、二人の男は同時に表情を険しくした。


「魔女殿、元勇者に何の義理がある」

「ないわ」


 それは、ある意味では本当だ。


 義理じゃない。

 そんな軽いものじゃない。


「だったら――」


「でも、あんたたちに指図される筋合いもない」


 言い終わるより早く、背の高い方が短剣を抜いて踏み込んできた。


 遅い。


 私は指先を振る。足元の影が立ち上がり、蛇みたいに男の足首へ絡みつく。そのまま締め上げ、石畳に叩きつけた。短剣が宙を舞って転がる。


 細身の男が舌打ちし、懐から何かを投げた。小型の術式石だ。炸裂系かと思った瞬間、私は反射で後ろへ跳ぶ。


 石が破裂し、路地に青白い煙が広がった。


 封魔の煙。


「……ちっ」


 面倒なものを。


 魔力の巡りが一瞬鈍る。だが、致命的なほどじゃない。私はマントを翻しながら距離を取り、路地脇の壁に手をついた。石壁の中に残る水気を引きずり出し、即席の氷針へ変える。


「昔より手が込んでるじゃない」


「お前ほどじゃねえよ、災厄の魔女!」


 男が怒鳴る。


 私は答えない。氷針を一斉に放つ。細身の男が紙符で防ぐが、三本は袖を裂き、一番背の高い男の肩にかすった。悲鳴が上がる。


 戦いは一分もかからなかった。


 逃げた、と言う方が正しい。あちらも本気で私を殺しに来たわけじゃない。ただの牽制だ。こちらも追わない。今の私は、王都の裏事情をひとつひとつ潰して回る気はない。


 問題は、その背後に誰がいるかだ。


 私は煙の残る路地で、静かに息をついた。


 遼真が調べている召喚術式は、やはり誰かにとって都合が悪いらしい。古代召喚。帰還術式。王都の中で、それに触れられて困る連中がいる。


 嫌な予感しかしなかった。


 なのにあいつは、そういう嫌な予感の方へ、わざわざ真っ直ぐ歩いていく。


「……ほんと、最低」


 違う。


 最低じゃない。


 困る、だ。

 心配、だ。

 危ない、だ。


 でも口に出るのは、やっぱり違う言葉だけ。


 私は路地を出て、空を見上げた。


 昼の王都は明るい。雲ひとつない青空が、何も知らない顔をして広がっている。あいつは今頃、図書院だろうか。それとも途中でまた怪しい古書店に寄り道しているだろうか。どうせ真っ直ぐ帰りはしない。


 放っておくべきだ。


 そう思う。


 思うのに、足はもう《木靴亭》の方角へ向いている。


 呪いのせいじゃない。

 これは、私の意志だ。


 認めたくないけれど。


 認めるしかないくらいには。


 私は、相馬遼真のことを気にしている。


 魔王討伐の戦場で、敵だった頃から。

 最後の最後で、あいつが私に手を差し出したあの日から。

 そして、討伐後に姿を消したあいつを、王都の陰からずっと見てしまっていた、この数か月のあいだに、きっともっと。


 厄介だ。


 本当に厄介だ。


 好意を伝えれば暴言になる呪いよりも、こんな気持ちを抱えたまま、あの鈍い男の近くにいなければならないことの方が、よほど厄介だった。


 宿へ戻る前に、私は市場で小さな包みを買った。


 薬草入りの乾燥茶葉だ。寝不足や神経の昂りに効く。召喚術式を調べている時のあいつは、だいたい目が死ぬ。だから少しでもましになるものを選んだ。


 選んでしまった。


「何やってるのよ、私は……」


 店主が不思議そうにこちらを見る。私は慌てて会計を済ませ、その場を離れた。


 《木靴亭》へ戻る途中、子どもたちが表通りで遊んでいた。その中の一人が、地面に描いた棒人間二つを指差して騒いでいる。


「これ、お父ちゃんとお母ちゃん!」

「じゃあこっちが犬!」

「違う、魔女!」


 魔女。


 その言葉に、少しだけ足が止まる。


 昔なら、眉をひそめていた。魔女と呼ばれることは、ろくな意味を持たなかったからだ。恐れ、忌避、排除。そういう視線と一緒にくっついてくる言葉だった。


 でも今は、不思議と前ほど嫌じゃない。


 たぶん、あいつが一度もその呼び名を特別扱いしなかったせいだ。


 災厄の魔女だろうが何だろうが、相馬遼真は最初から最後まで、私を“エルセ”としか呼ばなかった。敵として向き合う時も、最終決戦のあとも、昨日再会した時も。


 そのたった一つのことが、たぶん私には、思っていた以上に効いていた。


 宿に戻ると、女将が帳場の前で野菜を仕分けていた。


「あら、お嬢さん。また来たのかい」


「悪い?」


「いいや?」

 女将はにやにやしている。

「朝飯の次は何だい。昼飯でも作るかい?」


「作らない」


「そうかい。残念だねえ、リョーマ」


「何で私に言うの」


「そこにいるからさ」


 ぎくりとして振り向く。


 そこに、いた。


 入口の柱にもたれて、遼真がこちらを見ていた。


 いつからいた。


 いや、たぶん今来たのだろう。荷物袋を肩にかけたまま、少しだけ目を丸くしている。だが、その次に浮かんだ表情は、俺の知っている、あの呆れ半分の顔だった。


「何してる」


 また、それだ。


 昨日も言われた。

 今朝も、心の中で何度も言われた気がする。


 何してる、だなんて。そんなの、こっちが聞きたい。


 それでも私は、いつものように答えるしかない。


「別に」


「別に、で済む場所じゃないだろ」

 遼真は宿の扉から出てきて、俺の前に立った。

「朝に続いて、何しに戻ってきた」


「……用事」


「何の」


「言う義理ない」


 答えながら、心臓が嫌なくらい速くなる。


 ばれたかもしれない。


 何を、と言われると困るが、とにかく何かがばれた気がする。さっき買った茶葉の包みを、私はとっさにマントの陰へ隠した。


 その動きを、遼真が見逃すわけがない。


「それ、何だ」


「何でもない」


「いや、明らかに何か持ってるだろ」


「何でもないって言ってる」


「じゃあ見せろ」


「嫌よ!」


 声が大きくなった。


 女将が完全に面白がっている顔で黙っている。助ける気がない。


 遼真は半歩近づいた。


「見せろって」


「近寄らないで!」


 咄嗟にそう叫んでしまって、胸が痛くなる。


 違う。

 近寄らないで、じゃない。

 本当はその逆だ。


 でも、そんなこと言えるはずがない。


 遼真は一瞬だけ足を止めた。ほんの少しだけ、目が揺れた気がした。私はその揺れを見て、余計に焦る。


 駄目だ。


 今は駄目だ。

 これ以上近づかれたら、たぶん顔に全部出る。


「……わかった」

 遼真は小さく息を吐いた。

「無理に見る気はない」


 その言い方が妙に優しくて、今度は別の意味で困る。


 女将が横から口を挟んだ。

「だったら、せめて茶くらい一緒に飲めばいいじゃないか」


 私は固まった。


 遼真は怪訝そうに女将を見る。


「茶?」


「そのお嬢さん、さっき薬草茶の葉っぱ買ってただろ」

 女将は楽しそうに目を細めた。

「寝不足に効くやつだよ。あんた向けじゃないのかい?」


「……」


 終わった。


 本当に終わった。


 私はたぶん、ものすごくひどい顔をしていたと思う。


 遼真の視線が、ゆっくりこちらへ戻る。


「俺向け?」


「ち、違う!」


 即答した。


 あまりにも即答だった。


「違うから! 別にあんたのためじゃないし! 目つき悪いし寝起き悪いし、頭も悪そうだから、そういうの飲んで少しはましになればって思っただけで――」


 言ってから、自分で死にたくなった。


 何その言い方。

 せめて最後まで言わないで。

 何で少しだけ本音が混ざるの。

 いや混ざってない。たぶん混ざってない。混ざってないはずだ。


 遼真はしばらく黙っていた。


 その沈黙が怖かった。


 何か言え。

 いや、言わないで。

 やっぱり言え。

 でも優しくするな。


 頭の中で全部が喧嘩している。


 やがて遼真は、困ったように頭をかいた。


「……それ、結局気遣いじゃないのか」


 心臓が一瞬止まった気がした。


 違う。

 違う違う違う。

 そう言いたいのに、喉が詰まる。


 いや、本当は違わない。

 でも違うと言わないと、私はたぶん今ここで燃え尽きる。


「違うわよ!」


 半ば悲鳴みたいに叫ぶと、私はくるりと踵を返した。


「帰る!」


「どこへ」


「知らない!」


「知らないのに帰るのかよ」


「うるさい!」


 宿の入口から飛び出す。


 背中で女将の笑い声が聞こえた。最悪だ。本当に最悪だ。


 外へ出て、日差しの中を早足で歩く。行き先なんてない。本当に知らない。とにかく今は、あいつの顔を見ない場所へ行きたかった。


 でも、数歩進んだところで、後ろから声が飛んだ。


「エルセ!」


 足が止まる。


 止まってしまう。


 名前を呼ばれただけで、こんなふうに止まってしまう自分が嫌になる。


 振り向かないまま立っていると、遼真が追いついてきた気配がした。一定の距離を空けて止まる。そこまで近づくな。いや、少しだけ近づいてもいい。いや駄目。だから何を考えてるのよ私は。


「……何」


 ようやくそれだけ絞り出す。


 沈黙のあと、遼真はいつもの、少し乾いた声で言った。


「今日はもう、図書院やめる」


「は?」


「古書店も後回しにする」


「……何で」


「昼飯がまだだから」


 意味がわからなかった。


「だから、さっきの茶と一緒に、何か食うか」


 さらに意味がわからなかった。


 私はゆっくり振り返る。


 遼真は本気とも冗談ともつかない顔で立っていた。少しだけ困ったように、でも変に気負った様子はなく、当たり前みたいにそんなことを言う。


「お前も、どうせろくに食ってないんだろ」


「……っ」


 何なのよ、こいつは。


 どうしてそう、こっちの防御だけ綺麗に抜いてくるの。


 私は帽子のつばを深く押さえた。そうしないと顔が隠せない。たぶん今、耳まで赤い。


 本当は嬉しかった。


 本当は、ものすごく。


 でもそんなこと言えるはずもない。


 だから口から出たのは、やっぱりいつもの言葉だった。


「……あんたと昼なんて、最悪」


「そうか」


「そうよ」


「じゃあ最悪ついでだ」


 遼真は、ほんの少しだけ笑った。


 その笑い方は、討伐の旅の頃のあいつに少しだけ似ていた。


 胸が痛くなる。


 嬉しくて。

 苦しくて。

 どうしようもなくて。


 私は視線を逸らしたまま、小さく息を吐いた。


「……パンとスープだけなら付き合ってあげる」


「付き合ってもらえるのか」


「勘違いしないで。仕方なくよ」


「はいはい」


 はいはいって何よ。


 文句を言いたかったのに、次の言葉は喉の奥でひっくり返りそうになった。危ない。今のは危なかった。ありがとうに近い何かだった。危ない危ない危ない。


 私は慌てて先に歩き出す。


「ほら、早くしなさい。ぐずぐずしてると店が混むでしょ」


「命令かよ」


「嫌なら来なくていいわよ」


「行くよ」


 その返事が、妙に自然で。


 私はまた、言葉にできない何かを飲み込んだ。


 たぶん今日も失敗する。


 明日も失敗する。


 これから先も、きっと何度でも。


 好きだと言えない。

 近くにいたいと言えない。

 心配したと言えない。

 帰らないでと、まっすぐ願うこともできない。


 それでも、せめて隣にはいようと思った。


 どれだけ言葉が裏返っても。

 どれだけあいつが鈍くても。

 どれだけ帰ることしか見ていなくても。


 私が勝手に、そうしたいから。


 王都の昼の光の中、私は少しだけ前を歩く。


 その後ろを、相馬遼真がついてくる。


 どう見ても恋人には見えないのに。

 どう見ても、ただの他人じゃない距離で。


 ああ、本当に。


 最悪なくらい、好きだ。

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