第37話 帰るって約束した相手
図書院の研究室には、紙をめくる音だけがしばらく続いていた。
机の上には、昨日描き直した玄関の図が置かれている。
扉の色。靴箱の位置。花瓶のある高さ。母の声が聞こえる立ち位置。
あれはもう、ただの図ではなかった。見た瞬間に胸の奥を引っ張る、向こう側の空気そのものに近い。
それでも、オーウェンは満足しなかった。
「入口としては十分強い」
老人は図を指先で軽く叩いた。
「だが、まだ“家へ戻る線”だ。“なぜ帰るのか”“誰のもとへ帰るのか”まで届いていない」
その言葉に、研究室の空気がまた少し重くなる。
ミレナが記録紙を抱えたまま、小さく唸った。
「やっぱりそこですよね……」
「当然だ」
オーウェンは即答した。
「帰還陣は、場所だけでは足りん。場所は座標だ。だが、帰還を押し切るのは座標ではなく縁だ」
老人の視線が俺へ向く。
「相馬。お前は“誰に帰る”」
まっすぐすぎる問いだった。
俺はすぐには答えられなかった。
昨日までなら、ここで「家族にです」とでも返していたかもしれない。だが今は、それが雑な答えに思える。雑であると同時に、嘘ではないが、まだ足りない。
「……難しいな」
結局、そう漏らすと、エルセが静かに口を開いた。
「難しいでしょうね」
灰青の瞳は、俺ではなく玄関の図を見ていた。
「“誰か一人”って言い切れない感じなんでしょ」
その言い方が、妙に正確だった。
「そうだ」
俺は頷く。
「母さんの声は強い。たぶん、一番最初に浮かぶのもそこだ」
「うん」
「でも、“母さんのところへ帰りたい”って言うと、それも違う気がする」
「何が違うの」
エルセはかなり静かに聞いてきた。
問い詰める響きではない。
ちゃんと聞くための声だ。
俺は少しだけ呼吸を整えた。
「父さんもいる」
「……うん」
「妹もいる」
そこまで言って、紙へ視線を落とす。
「それに、たぶん家そのものというより、“あの家で続いてた時間”に帰りたいんだ」
ミレナが顔を上げる。
「時間」
「ああ」
俺は自分で言った言葉を確かめるように続ける。
「誰か一人に会いたいだけなら、もう少し別の感じがする。そうじゃなくて……」
喉の奥で、少しだけ言葉を探す。
「朝、玄関で見送られて、昼に学校行って、夕方に戻って、文句言われて、飯食って、また明日になる」
研究室の机の木目を見つめたまま、ゆっくり言う。
「そういう、“続いて当然だった時間”の中へ戻りたいんだと思う」
しんと静かになる。
オーウェンは目を閉じ、ミレナは息を潜め、エルセだけがじっとこちらを見ている気配がした。
「……つまり」
オーウェンが低く言う。
「帰還の約束は、特定の個人との再会より、“止まった生活の再接続”に近いと」
「たぶん」
俺は頷く。
「そうなんだと思う」
「たぶん、じゃなくて」
不意にエルセが言った。
声は小さいのに、妙にはっきり聞こえる。
「そこ、もう少しちゃんと言った方がいい」
俺はそちらを見る。
エルセは少しだけ強張っていた。
でも、視線は逸らさない。
「帰還陣に通すなら、曖昧なままじゃだめなんでしょう」
彼女はゆっくり続ける。
「だったら、“たぶん”で逃がしちゃだめ」
そこで少しだけ言い淀んでから、さらに言葉を足す。
「……少なくとも、今ここでは」
前なら、ここで反発していたかもしれない。
けれど今は、それがただの正論だとわかる。
いや、正論である以上に、俺が逃げかけたところをちゃんと拾ってくれたのだとわかる。
「……そうだな」
俺は小さく息を吐いた。
「たぶんじゃない」
机の上の紙を見る。
「俺が帰りたいのは、家族の誰か一人のところっていうより、“あの家で続いてた生活”の方だ」
少しだけ声に力が入る。
「母さんの見送りも、父さんのいる部屋の灯りも、妹の文句も、全部ひっくるめてだ」
言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ楽になった。
曖昧にしていたものの輪郭が、一段はっきりした感じがする。
ミレナがすぐに紙を寄こした。
「じゃあ、それ書きましょう」
「早いな」
「今の、かなり強いです」
彼女は真顔だった。
「“母”とか“父”とか“妹”とか、単独の名前ももちろん大事ですけど、“あの家の生活全体”っていう方が、師匠の感覚に近いならそっちの方が絶対通ります」
オーウェンも頷く。
「同感だ」
そして、ペンを俺の方へ押し出した。
「書け。今の言葉を、もっと具体に落とせ」
またそれか、と思いながらも、今度は前ほど嫌じゃなかった。
白紙を引き寄せ、ゆっくりと書き始める。
――帰るのは、母の声のためだけではない。
――父の灯りのためだけでもない。
――妹に文句を言われるためだけでもない。
――あの家で続いていた、当たり前の日々へ戻るために帰る。
書いていて、自分でも少し驚いた。
これまで“帰りたい”と言い続けてきたのに、その中身をここまで正確に言葉にしたのは初めてかもしれない。
「……」
ミレナが横から紙を覗き込み、息を呑んだ。
「これ、かなりいいと思います」
「軽々しく“いい”と言うな」
オーウェンはたしなめたが、声色は少しだけ柔らかい。
「だが、方向は合っている」
エルセは、相変わらず黙っていた。
何も言わないのに、その沈黙が前よりずっと多くを含んでいるのがわかる。
たぶん、俺の“帰る”の輪郭がはっきりしたぶん、彼女にとっては聞いていて楽な話ではないのだろう。
なのに、逃げずにそこにいる。
それが少し痛くて、ありがたい。
「……試すわよ」
やがてエルセが言った。
共鳴盤の方へ視線を向ける。
「今のが、ただ綺麗にまとまっただけなのか、本当に由来に届いてるのか」
言い方はいつも通り少しだけ突っ張っている。
でも、その奥にあるものが前より見えるせいで、妙にやさしく聞こえる。
オーウェンが頷き、紙を共鳴盤へ置いた。
「流せ」
俺は魔力を落とす。
青白い線が立ち上がる。
玄関の図の時と似ている。だが少し違う。あの時は風景の輪郭が立つ感じだった。今はそこへ、生活の流れが一本の線として重なっていく。朝から夕方へ、夕方から夜へ、そしてまた朝へ。その循環ごと共鳴しているように見えた。
「……強いですね」
ミレナが思わず声を漏らす。
「図とほぼ同格、いや、少し上かも」
「うむ」
オーウェンも静かに言う。
「“玄関”が座標なら、“続いていた日常”は由来の芯に近い」
少しだけ肩の力が抜けた。
前進している。
ちゃんと。
「じゃあ、これで“向こう側の由来”はほぼ――」
ミレナが言いかけた、その時だった。
「まだ」
エルセが遮った。
研究室の空気が少しだけ止まる。
「……まだ?」
俺が聞くと、エルセはしばらく黙ったまま紙を見ていた。
それから、少しだけ息を吐く。
「“日常へ戻りたい”は強い」
彼女は静かに言う。
「でも、“帰るって約束”とはまだ少し違う」
「違う?」
「ええ」
エルセは俺を見た。
「日常へ戻りたいのは、遼真自身の気持ちでしょ」
少しだけ声が低くなる。
「でも“約束”って、相手がいるもの」
その一言で、また胸の奥がざわつく。
たしかにそうだ。
“続いていた日常へ戻りたい”は、俺の願望だ。
でも“帰るって約束した相手”は、そこへもう一つ別の向きの線が必要になる。
「つまり」
オーウェンが補足する。
「今の文言は“帰還理由”としては強い。だが“約束の相手”の方は、まだぼやけている」
「……」
「相馬。お前は、向こうへ帰る時、誰に“帰る”つもりだった」
またそこへ戻る。
けれど今度は、さっきより少し絞れている。
母さん。
父さん。
妹。
そして、あの家の時間。
その中で、“帰る”という動詞を最初に受け取る顔は誰なのか。
「……母さん、かな」
自然にそう出た。
研究室がまた静かになる。
「玄関にいるのは?」
エルセが静かに促す。
「母さんだ」
「“いってらっしゃい”って言うのは?」
「母さん」
「“ただいま”って最初に返すのは?」
そこまで聞かれて、俺は少しだけ目を閉じた。
見える。
玄関の段差の向こう、少し中に入ったところに立っている姿。
エプロンの時も、買い物袋を持ってる時もある。けれど、いつも声の位置は同じだ。
「……母さんだな」
言い切る。
エルセはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を伏せた。
痛くないはずがない。
でも、逃げない。
「じゃあ」
彼女は静かに言う。
「そこまで含めて、書いた方がいい」
その声は、思っていたより優しかった。
俺は紙を取り、さらに一文を加える。
――帰ったら、母に「ただいま」を言う。
――あの家の時間が、ちゃんと続きを持つように帰る。
書き終えると、今度は自分でも少しだけ息が詰まった。
これは、玄関の図よりずっと近い。
近いぶん、重い。
オーウェンが黙って共鳴盤を指した。
俺はもう言われなくてもわかっていた。
紙を置き、魔力を流す。
今度の反応は、さっきよりさらに深かった。
青白い線が中央までまっすぐ届き、その先で小さく脈打つ。揺れはあるが、弱くない。むしろ“玄関の朝”と“帰る約束の相手”がようやく一つの束になった感じがした。
「……出ました」
ミレナが小さく言う。
「これはかなり強い」
「うむ」
オーウェンも頷く。
「“向こう側の由来”としては、ここまで来れば十分候補になる」
胸の奥に、ゆっくりと重さが沈む。
ここまで来た。
帰るって約束した相手。
その輪郭まで、ようやく紙の上へ落ちた。
それは前進だ。
でも同時に、帰還の現実味がさらに増したということでもある。
「……よかった」
また小さな声がして、横を見る。
エルセだった。
「何が」
俺が聞くと、彼女は少しだけ視線を逸らす。
「ちゃんと書けたこと」
それから、少しだけ言葉を探して続ける。
「遼真が、自分の“帰る”を、前よりもっと正確に見られるようになったこと」
灰青の瞳がほんの少しだけ揺れる。
「……怖いけど、それでも」
そこまで言って、彼女は止めた。
でも、たぶん続きはわかる。
“それでも、よかった”のだろう。
俺は、すぐには返せなかった。
代わりに、小さく頷いた。
「……そうか」
それだけしか言えなかったが、今はそれでよかった気がした。
玄関の先にある止まった朝。
そして、その朝に続いていた「帰るって約束」。
向こう側の由来は、いよいよかなり本物に近づいていた。




