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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第36話 玄関の先にある、止まった朝

翌日の図書院は、いつもより紙の白さが目についた。


 昨日、木札が“帰ってくる場所”の印としてかなり強く反応したせいだろう。研究室の机の上に並ぶ物の意味が、前より少しはっきり見えるようになっている。


 だからこそ、次に置かれた真っ白な紙の重さも、嫌になるほどわかった。


「今日はこれだ」


 オーウェンが机の中央を指先で叩く。


 そこには、昨日描いた簡素な玄関の図が置かれていた。扉、靴箱、傘立て、玄関框。ごく単純な輪郭だけを写したものだ。共鳴はした。だが、まだ補助媒介の候補として“ありえる”程度に留まっている。


「弱くはないが、足りん」

 老人は淡々と言った。

「これでは“家の入口”ではあっても、“お前が帰る側だった日常”まで届いていない」

「つまり、もっと細かくしろってことですか」

 俺が聞くと、オーウェンは頷いた。


「細かく、というより、正確にだ」

 机の上の図を指先でなぞる。

「術式は絵の巧さを見ているわけではない。お前の認識の濃さを見ている。だから“それっぽい玄関”では意味がない」

 少しだけ目を細める。

「お前の家の玄関でなければならん」


 言われている意味はわかる。


 でも、それは簡単な作業じゃない。


 昨日の図は、言ってしまえば輪郭だけだった。家に帰りたいという気持ちを、扉の形へ仮置きしたにすぎない。今日はその先――扉の向こうにあった生活まで、紙の上へ降ろせと言われている。


「師匠」

 ミレナが記録紙を抱えながら言う。

「逆に言うと、そこまで落とせればかなり強くなると思います」

「思う、じゃなくて確信があるのか?」

「半分くらいはあります」

 彼女は真面目な顔だった。

「だって、“帰る場所”って、形じゃなくて、そこで毎回何をしてたかの積み重ねですから」


 その言い方に、エルセが小さく頷く。


「そうね」

 灰青の瞳がこちらへ向く。

「扉だけじゃだめ。そこを開けた時の空気まで入らないと」

 そこで少しだけ間が空く。

「……たぶん」


 “たぶん”と言ったのは、彼女自身にそういう原風景が薄いからだろう。


 俺は新しい紙を引き寄せた。


「じゃあ、やるか」


 ペンを持つ。

 だが、すぐには線が引けない。


 描こうとすると、逆にいろいろなものが一度に浮かぶのだ。扉の色、すりガラスの模様、木の踏み板の擦り減り方、靴箱の角にいつも引っかかっていた買い物袋の持ち手。全部が同時に押し寄せてきて、どこから拾えばいいのかわからなくなる。


「止まったわね」

 エルセが静かに言う。


「止まるだろ、これは」

「うん」

 その返事は予想外に柔らかかった。

「でも、思い出せないんじゃなくて、思い出しすぎてる時の止まり方」

 少しだけ身を乗り出す。

「だったら、一個ずつ聞く」


 俺が顔を上げると、エルセは真剣だった。


「まず、扉」

「扉?」

「色」

「ああ……」

 少しだけ目を閉じる。

「暗い茶色だ。木目が見えるやつ。完全に新しい感じじゃなくて、少しだけ日焼けしてる」

「外開き?」

「外開き」

「取っ手は?」

「銀色。丸じゃなくて、縦長のやつ」


 言われた通り、一つずつ答える。


 すると不思議なことに、少しずつ線が引けるようになった。


 扉の輪郭。

 銀色の取っ手。

 小さな覗き穴。

 扉の横にある、すりガラスの細長い明かり取り。


「次」

 エルセが言う。

「開けた時、最初に何が見える?」


「……玄関マット」

「色」

「紺」

「模様は?」

「模様っていうか、縁に白い線が入ってるだけ」

「その先は」

「靴箱」

 俺の声が少しだけ自然になる。

「右にある。腰くらいの高さで、その上に鍵入れと、小さい花瓶」

「花?」

「母さんがよく置いてた」

 そこまで言った瞬間、匂いまで少しだけ戻る。

「季節ごとに変わる。春は小さい花、夏は葉っぱ多めで、秋は変な実みたいなの、冬は……」

 少しだけ言葉が詰まる。

「冬は、何もない日もあったかな」


 エルセは、それを聞きながら何も余計なことを言わなかった。


 ただ、静かに続きを促す。


「傘立ては?」

「左」

「いつも何本入ってる?」

「家族分全部じゃない」

「何で?」

「使ってるやつは車に置いてある時もあるし、妹のは部屋へ持っていってる時あるし」

 少しだけ息が抜ける。

「でも、母さんの折りたたみだけはだいたいそこにある」


 気づくと、ペンが止まらなくなっていた。


 玄関マット。

 靴箱。

 花瓶。

 傘立て。

 框の段差。

 靴を脱ぐ位置。

 廊下の先の明かり。


 ただの図だったものが、少しずつ“家に入る動き”を含み始める。


「……すごい」

 ミレナが小さく呟いた。

「師匠、急に細かくなりましたね」

「お前が聞き役やると、話が散るからな」

 エルセがぼそりと言う。


「ひどくないですか?」

「事実でしょ」

「事実ですけど!」


 そのやり取りの中でも、俺の手は動いていた。


 描いているうちに、今度は“朝”が浮かんでくる。


 夜に帰ってくる玄関とは別の顔だ。


「……朝も描け」

 オーウェンが言った。

 俺は顔を上げる。

「帰還の由来が“途中で止まった日常”なら、帰る時だけでは片手落ちだ。出ていく時の景色も要る」

「出ていく時の」

「そうだ」


 たしかに、その通りだ。


 帰りたいのは、帰宅の一瞬だけじゃない。

 家を出る朝と、戻る夜のあいだを含めた生活そのものだ。


「朝」

 エルセがまた静かに言う。

「遼真、朝の玄関で最後に見るものは?」


 その問いに、今度はすぐ答えられなかった。


 最後に見るもの。

 扉の内側から外へ出る時。

 靴を履く。

 鞄を持つ。

 振り返る。


「……母さん」

 自然にその言葉が出る。

「たぶん、一番最後は、母さんだ」

 自分で口にして、少しだけ胸が鳴る。

「台所からじゃなくて、玄関の近くまで来てる時が多い。“いってらっしゃい”って、そこから聞こえる」


 エルセの睫毛が、わずかに揺れた。


「声だけ?」

「いや」

 俺は紙を見ながら続ける。

「エプロンしてる時もあるし、してない時もある。買い物帰りの日は袋持ったままの時もある」

 少しだけ笑ってしまう。

「でも、玄関の段差のところまでは降りてこないんだよな。そこは土足だからって」

「……細かい」

 ミレナが息を呑むように言う。

「そこまで覚えてるんですね」

「覚えてるっていうか」

 俺は言葉を探した。

「今、描いてると勝手に出てくる感じだ」


 そうなのだ。


 思い出そうとして掘り返しているというより、紙へ線を引くたびに、向こう側から勝手に景色が戻ってくる。だから逆に少し危ない。深く入りすぎると、そのまま飲まれそうになる。


「遼真」

 エルセの声が少しだけ近い。

「無理しないで」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃない時の声に似てる」

 かなり低い声音だった。

「一回止まって」


 その言い方は、もう前みたいにきつくはない。

 でも止まるには十分だった。


 俺はペンを置いて息を吐く。


 少しだけ、手が震えていた。


「……悪い」

「謝らなくていい」

 エルセは小さく首を振る。

「今のは、ちゃんと止まった方が偉い」


 その褒め方が相変わらず雑で、少しだけ笑いそうになる。


「お前、それ最近よく使うな」

「便利だから」

「“別に”みたいな扱いか?」

「違うわよ」

 少しだけむっとしたあと、声を落とす。

「……今のは、ちゃんと褒めてる」


 その最後だけ妙に小さかった。


 オーウェンは何も言わず、代わりに湯の入ったカップをこちらへ寄こした。ありがたく受け取って一口飲む。温かさが喉から降りて、ようやく肩の力が少し抜けた。


「続けられるか」

 老人が聞く。

「ああ」

 俺は頷く。

「今度は、朝の方まで入れる」


 再び線を引く。


 朝の光。

 玄関の内側の明るさ。

 靴箱の上の花瓶。

 母さんの姿。

 “いってらっしゃい”の位置。


 そして、その向こうにある当たり前の一日。


 学校。

 駅。

 帰り道。

 それがまた夜の玄関に繋がる。


 図というより、ほとんど生活の切断面みたいなものになっていく。


 描き終えた時、研究室は少しだけ静まり返っていた。


「……どうです」

 ミレナが小声で聞く。


 オーウェンは今度は自分から紙を共鳴盤へ置いた。


「流せ」


 俺が魔力を落とす。


 反応は、昨日とは比べものにならなかった。


 青白い線が迷わず中央へ走る。途中で揺れない。玄関の輪郭と朝の記憶が、そのまま一つの束になって共鳴しているのが、見ているだけでわかる。


「……強い」

 ミレナがはっきり言った。

「昨日より、全然」

「うむ」

 オーウェンも頷く。

「これなら、“向こう側の由来”の補助媒介としてかなり現実的だ」


 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 前進した。

 ちゃんと。


 だが、その熱に少し水を差すように、エルセが小さく呟いた。


「……やっぱり、羨ましい」


 研究室の空気が、また少しだけ変わる。


 俺は思わずそちらを見る。


 エルセは共鳴盤の青白い線を見たまま、視線を上げなかった。


「何が」

 聞くと、彼女は数秒黙った。


「帰る場所の記憶が、こんなに具体なんだってこと」

 かなり静かな声だった。

「扉の色とか、花瓶の位置とか、声が聞こえる場所とか」

 そこで、少しだけ唇を噛む。

「そういうのを、“当たり前に持ってる”のが」


 その言い方が、妙に痛かった。


 たぶんエルセには、そういう“普通の帰る場所”の記憶が薄いのだろう。呪いの起点も、森との縁も、彼女の過去をそういうふうに静かにはしてくれなかったのかもしれない。


「……お前にも、今はあるだろ」

 気づけば、そう言っていた。


 エルセが少しだけ目を上げる。


「何が」

「帰る場所」

 俺は研究室の机や紙束を見た。

「ここもそうだし、《木靴亭》もそうだし」

 そこまで言って、少しだけ声を落とす。

「たぶん、お前が思ってるより、ちゃんとある」


 エルセはしばらく何も言わなかった。


 やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……そういうの」

「何だ」

「今、言われるとちょっと困る」

「何で」

「何ででも」

 そこで少しだけ間が空く。

「……でも、嫌じゃない」


 その返し方が、前よりずっと素直だった。


 ミレナが空気を壊さない程度に小さく「いいですねえ」と呟き、オーウェンがわざとらしく咳払いした。


「無駄話はそこまでだ」

 老人は紙をまとめる。

「向こう側の由来はかなり上がった。次は“帰るって約束”そのものを掘る」

「やっぱりそこに行くんですね」

 俺が言うと、オーウェンは当然だと言わんばかりに頷いた。


「玄関は入口だ」

 彼は低く言う。

「だが帰還の核が求めるのは、入口だけではない。誰のもとへ、何を終わらせるために帰るのか。その“約束”が通れば、媒介はさらに強くなる」


 つまり、次は風景じゃない。


 言葉そのものだ。


 帰るって約束した相手。

 帰って、何を言うのか。

 何を取り戻したいのか。


 それは、たぶん玄関の図よりもっと直接的で、もっときつい。


 だが、ここまで来た以上、避けては通れない。


「……わかりました」

 俺は言う。


 オーウェンは小さく頷く。

 ミレナはもう記録紙を次の欄へ進めている。

 エルセだけが、少しだけ長くこちらを見ていた。


 その視線の意味を、今はあえて問わない。


 ただ一つだけは、はっきりしている。


 玄関の先にあった止まった朝は、

 もうただの懐かしい風景ではない。

 帰還陣に繋がる、本物の“由来”になり始めていた。

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