第34話 主陣再挑戦の条件
翌朝の図書院は、朝だというのに夜の続きみたいな空気をしていた。
窓から光は入っている。王都の朝らしい白っぽい光だ。なのに、研究室の中だけは紙とインクと寝不足の匂いで薄暗く見える。机の上には相変わらず写本と術式図が山積みで、その隙間に昨夜まとめた媒介候補が並べられていた。
《木靴亭》の古い木札。
玄関の図と、途中で止まった日常の誓約。
術者本人の意思を書いた紙。
そして、“こっちで得たもの”として王都で交わした時間、宿に帰る日々、先生とミレナと、エルセと繋がった今の自分を無かったことにしない、と書いた一文。
ここまで来た。
そう思う一方で、ここまで来たからこそ、これがまだ途中だということも嫌になるほどわかる。
「全員いるな」
奥の机からオーウェンが顔を上げた。目の下に影はあるが、声は妙に冴えている。たぶんまた寝ていない。
「先生、寝ました?」
ミレナが聞く。
「少しはな」
「その“少し”がだいたい三十分以下なんですよね」
「細かいことを気にするな」
気にするだろ普通。
オーウェンはそんなこちらの空気を無視して、机の中央へ大きな紙を一枚広げた。魔女の森の略図だ。外縁の石碑、中継核の遺構、前室の門、地下祭殿、主陣の位置。その全部に赤と青の線が書き込まれている。
「今日は結論から言う」
老人は低く言った。
「主陣は再起動できる可能性が高い。だが、今のまま再突入して、今のまま起動に触るのは危険だ」
やはり、そう来るか。
俺は椅子の背にもたれたまま、低く聞く。
「理由は」
「三つ」
オーウェンは指を立てた。
「一つ。主陣の中心核は半ば目を覚ましている。前室を開いたことで、向こうもこちらを認識し始めた」
二本目。
「二つ。分散配置の媒介は候補が見えたが、固定具がまだない。主陣の前で手持ちのまま差し込めば、負荷の流れがぶれる」
三本目。
「三つ。境界石の残滓が足りん。今の主陣は“帰還先の方向”までは開けても、“帰還先への安定した幅”を作るには素材不足だ」
研究室が静かになる。
やはり、足りないものはまだある。
「つまり」
ミレナが指先で机を叩きながら整理する。
「次の森行きは“帰還陣を完成させるための準備込みの再確認”であって、いきなり飛び込む最終決戦じゃない、ってことですね」
「そうだ」
オーウェンは頷いた。
「最終的には主陣の前へ戻る。だが、次に入る時は“試しにやってみる”ではなく、“失敗しても崩れない形”まで整えてから行く必要がある」
エルセが、ここで初めて口を開いた。
「境界石の欠片って、主陣の中心に残ってたあれとは別に必要なの?」
「必要だ」
オーウェンは地図の主陣中心部を指す。
「中心核に埋まっていた残骸はあくまで旧式の芯だ。分散配置を新しく噛ませるなら、外側から補う“噛み合わせの石”がいる」
「つまり、前室か主陣外周から採る?」
「あるいは」
老人が少しだけ間を置く。
「中継核の遺構に砕けている欠片だ。あちらは主陣と同系統の素材で作られている」
エルセは小さく息を吐いた。
「面倒」
「異界帰還が簡単であれば、私はもっと暇に暮らしておる」
「最近、先生それ好きですね」
ミレナが言うと、オーウェンは鼻を鳴らした。
俺は地図へ身を乗り出す。
「固定具ってのは、具体的に何です」
「媒介三つを主陣へ置く順番と位置を保つ枠だ」
オーウェンは別の紙を出した。細い金属枠に似た図が描いてある。
「木札、玄関図と誓約、意思の文言。この三つを別々に差し込むだけでは、主陣が勝手に強弱を読み替える可能性がある。だから“これは同列の補助媒介だ”と術式へ示すための固定具が必要になる」
「それ、作れるんですか」
「理論上はな」
老人は平然としている。
「実作業はミレナだ」
見習い魔術師がぴしっと背筋を伸ばした。
「お任せください!」
そこから少しだけ声が弱くなる。
「……たぶん」
「その“たぶん”いらないだろ」
俺が言うと、ミレナは頬を膨らませた。
「いや、いるんですよ! 精密加工なんですから!」
そのやり取りの横で、エルセはまだ地図を見ていた。
「次の突入、いつまでに行くつもり?」
彼女の問いは短いが、かなり重要だった。
オーウェンは即答しなかった。だが数秒ののち、はっきり言う。
「三日以内だ」
「短いな」
思わず俺が言うと、老人は頷く。
「短い。だが、長くも待てん」
オーウェンの指が森の主陣位置をとんとんと叩く。
「前回、お前たちが主陣を見つけ、前室を開いた。その時点で、主陣の“こちら側への認識”は一段進んだ。今はまだ眠りと起動の中間だが、そこへ別の手が入る余地も増えている」
ミレナが顔を上げる。
「別の手、って」
「主陣を追っているのは我々だけとは限らん」
オーウェンは淡々と言う。
「森の古い系譜、あるいは異界門の知識を持った誰かが、わずかでも痕跡を読めば辿り着く可能性はある」
「……嫌な言い方ですね」
俺が言う。
「嫌な話だからな」
その通りだった。
準備は必要。
でも猶予は長くない。
じわじわと追い込まれる感じが、ひどく嫌だった。
「先生」
エルセが静かに聞く。
「次に入る時、主陣外周の補助印を書き換えるって言ってたわよね」
「ああ」
「それ、私がやる」
即答だった。
俺は思わず彼女を見る。
エルセは視線を地図から外さない。
「主陣の読みは、私が一番誤差が少ない」
淡々と続ける。
「遼真は媒介と起動側。先生は外からの制御。ミレナは固定具と補助観測」
そこで初めて、こちらをちらりと見る。
「……その方が、たぶん全員生きて帰りやすい」
言い方は冷静だ。
でも、その最後の一言だけが少しだけ近い。
「異論はない」
オーウェンも頷く。
「だが無理はするな。お前が倒れると、今度は相馬が前へ出る」
「それが一番だめなのよね」
エルセが即答する。
「おい」
「事実でしょ」
灰青の瞳がこっちを見る。
「前回、祭壇でそうだったじゃない」
それを言われると弱い。
俺は小さく息を吐いた。
「じゃあ、今回は本当に手順通りだ」
「“本当に”って、自分でも信用できてない言い方やめて」
「いや」
少しだけ肩をすくめる。
「前よりはできると思ってる」
エルセは俺をじっと見た。
それから、ほんの少しだけ表情をゆるめる。
「……なら、今のはちゃんと聞こえた」
その一言で、研究室の空気が少しだけ和らぐ。
ミレナがそこを逃さず、すぐに紙をぱたぱたと整え始めた。
「じゃあ作業分担まとめますね!」
「切り替え早いな」
「こういう時は早いんです」
ミレナは真顔で続ける。
「師匠は、今日中に“向こう側の由来”と“術者本人の意思”の紙を、媒介化できる状態まで書き直す」
「書き直すのか」
「当然です。清書も兼ねます」
次にエルセを見る。
「お姉さんは、主陣外周印の書換え手順を先生と詰める」
「ええ」
「先生は境界石の近似素材と、旧記録の補助読み」
「そうだ」
それからミレナは自分の胸を指す。
「で、わたしが固定具!」
そこまで言い切ってから、小さく咳払いした。
「……たぶん一番大変なの、わたしですね」
「今さら気づいたのか」
俺が言うと、ミレナは膨れた。
「労ってくださいよ!」
「じゃあ、茶くらいなら奢る」
「安い!」
「先生よりはましだ」
「確かに!」
オーウェンが鼻で笑った。
「うるさい弟子候補だ」
「候補じゃなくて弟子でいいのでは?」
「まだ早い」
いつものやり取りだ。
いつものはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。
たぶん俺自身が、“これが今の世界で得たもの”の一部として見始めているからだろう。
◇
研究室を出たあと、エルセと二人で《木靴亭》へ戻る道は、妙に静かだった。
王都の昼下がりはそこそこ賑やかなはずなのに、その賑わいが遠い。
こっちの方が、それぞれ考え込んでいるせいだろう。
「……三日」
エルセがぽつりと言った。
「ああ」
「短いわね」
「短い」
俺は正直に頷く。
「でも、待てないのも本当だと思う」
エルセは少しだけ目を伏せる。
「そうね」
「怖いか」
聞くと、彼女は少しだけ考えてから答えた。
「怖いわよ」
ずいぶん素直な返事だった。
「主陣にまた入るのも怖いし、その先で本当に帰還陣が動くところまで行くのも怖い」
そこで、ほんの少しだけ声が弱くなる。
「それに、遼真がどういう顔でそれを見るのかも、やっぱり少し怖い」
その言葉が、静かに刺さる。
「……前の顔には戻らないと思う」
俺はゆっくり言った。
「思う?」
「思う、だな」
自分でも苦い返しだと思う。
「でも、前みたいに“帰れるならそれでいい”だけには、もうならない」
少しだけ間を置く。
「そこはたぶん、はっきりしてる」
エルセはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐く。
「……その“たぶん”が、前よりだいぶまし」
「褒めてるのか?」
「半分くらいは」
彼女は少しだけ口元を緩めた。
「完璧な約束されたら、逆に信用できないもの」
それは、その通りだった。
俺自身、今の自分に完全なことを言う気はない。
でも、前より見えているものが増えたのも本当だ。
「なあ」
少し歩いてから、俺は聞く。
「お前、次の森で……」
そこで言葉が一度止まる。
「いや、いい」
「何よ」
エルセがすぐに反応する。
「今の、絶対よくないやつ」
「よくないっていうか」
俺は少し困る。
「聞いていいのかわからん」
エルセは数歩ぶん黙ったあと、少しだけ肩をすくめた。
「聞いてから考えればいいでしょ」
「雑だな」
「今さら」
その返しが少しだけおかしくて、俺は小さく息を吐く。
「……次の森で、もし主陣が本当に起動の段階まで行ったら」
「うん」
「その時、お前、ちゃんと止まれるか」
エルセの足が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……何、それ」
「いや」
俺は前を見たまま言う。
「前までなら、自分のことばっかり心配してた。今もそれが無いわけじゃない」
少しだけ喉が乾く。
「でも次は、お前の方もたぶん無理するだろ」
エルセはすぐには返事をしなかった。
やがて、かなり静かな声で言う。
「するかもしれない」
正直な返答だった。
「だって、そこまで行ったら、たぶん私も冷静じゃいられない」
「だろうな」
「でも」
そこで少しだけ視線がこっちへ向く。
「遼真が止めるなら、前よりは止まれると思う」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱を持つ。
「そうか」
「うん」
エルセは帽子のつばへ指をかけ、それから離した。
「だから、今のは聞いてよかった」
少しだけ口元がやわらぐ。
「前みたいに、自分だけ勝手に抱え込むつもりじゃないってわかったから」
そうか。
たぶん、そういうことなのだ。
主陣に向かう準備そのものより、こうして“次に何を怖がっているか”を口にできることの方が、前よりよほど大きい。
「……お前も、最近そういうことちゃんと言うな」
俺が言うと、エルセは少しだけ目を細めた。
「誰のせいだと思ってるの」
「半分はミレナ」
「残り半分は?」
「……俺か?」
「正解」
そう言って、エルセは本当に小さく笑った。
王都の通りの真ん中で。
何でもない昼下がりの道で。
その笑いを見た時、三日後の森より前に、今この瞬間を無かったことにしたくないと、はっきり思った。
それを口にするとたぶんまた面倒になるから、言わない。
でも、もう見なかったことにもできない。
◇
《木靴亭》へ戻ると、女将が帳場から顔を上げた。
「おや。だいぶ難しい顔で帰ってきたね」
「いつものことじゃないですか」
俺が言うと、女将はふんと鼻を鳴らす。
「今日は違うよ」
そう言ってから、にやりと笑う。
「“覚悟し始めた顔”だ」
その言葉に、俺もエルセも一瞬だけ黙った。
女将は何でもない顔で前掛けを直し、続ける。
「飯はいつも通りでいいかい?」
「お願いします」
俺が答えると、横からエルセが小さく言った。
「……木札、返さないでよ」
「え?」
思わずそっちを見る。
エルセは少しだけ視線を逸らしていた。
「まだ媒介候補なんでしょう」
声は平静を装っているが、少しだけ早い。
「なら、手放さない方がいいってだけ」
「……ああ」
それだけ返すと、女将が面白そうに笑った。
「はいはい。うちの札は、そう簡単に他所へ渡さないよ」
それから、少しだけ目を細める。
「でも、返しに来る約束は忘れるんじゃないよ」
その一言が、前よりずっと深く残る。
返しに来る約束。
帰還陣の準備を進めながら、なおここへ戻る約束もある。
矛盾しているようで、今はたぶんそれでいい。
まだ全部は決めなくていい。
でも、もう何も無かったことにはしない。
そうやって、俺たちはようやく次の森へ向かう準備を、本当の意味で始めようとしていた。




