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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第33話 名前を入れたら、もう戻れない気がした

 その夜、俺はまた部屋へまっすぐ戻れなかった。


 《木靴亭》の二階の廊下は、もう灯りが半分落とされている。食堂のざわめきもだいぶ遠くなり、残っているのは女将が帳場で何かを数える音と、たまに階下の扉が鳴る気配くらいだった。


 考えたいわけじゃない。

 でも考えないままにもできない。


 三つの媒介候補はかなり揃った。

 木札。

 玄関の図と、途中で止まった日常の誓約。

 帰ったあと、今の自分のままで先を続けるという意思。


 なのに、最後の一押しが足りない。


 “こっちで得たものを無かったことにしない”。


 その一文の中にある“こっちで得たもの”が、まだ抽象的すぎる。


 そして、その抽象を具体にしようとした瞬間、頭に浮かぶものがあまりにも偏っているから厄介だった。


「……いると思った」


 廊下の奥から、静かな声がした。


 振り向くと、エルセが立っていた。今夜も帽子は被っていない。銀髪がそのまま肩へ落ちていて、窓から入る薄い夜気に少し揺れている。


「最近そればっかりだな」

 俺が言うと、エルセは少しだけ肩をすくめた。


「だって、本当にいるんだもの」

 そう言って、前みたいに少し離れて座るんじゃなく、今日は俺のすぐ横の窓辺へ腰を下ろした。

「……考えてるんでしょう」


「何を」

「そこ、はぐらかさないで」

 エルセは前を向いたまま言う。

「“こっちで得たもの”の中身」


 やっぱり、そこか。


 俺は壁へ背を預けたまま、小さく息を吐いた。


「顔に出てる?」

「かなり」

 エルセは即答した。

「昼からずっと、“言いたくないものに名前をつけろって言われた顔”してる」


 妙に正確だった。


「……そんな顔、あるのか」

「あるわよ」

 灰青の瞳がちらりとこっちを見る。

「少なくとも、今の遼真にはある」


 前より見抜かれている。

 いや、前より俺が隠せなくなっているのか。


「なあ」

 少し黙ってから、俺は言う。

「仮に、だ」

「うん」

「仮にそこへ、具体的な名前を入れたら」

 喉が少しだけ乾く。

「それって、もう後戻りできない感じしないか」


 エルセはすぐには答えなかった。


 廊下の先で、小さく床板が鳴る。

 たぶん、誰かが部屋へ戻ったのだろう。だが、その音もすぐに遠くなる。


「後戻り、ね」

 やがてエルセが小さく繰り返す。

「それ、遼真は“答えを決める”ことと、ほとんど同じに考えてる?」

「違うのか」


 問い返すと、エルセは少しだけ目を細めた。


「違う、とは言わない」

 静かな声だった。

「でも、名前を入れることと、全部を決めることは同じじゃない」

 そこで少しだけ間を置く。

「少なくとも、私はそう思う」


 その言い方が気になって、俺は横を向いた。


 エルセは窓の外を見ていた。夜の王都は、屋根の線だけがぼんやり見える。遠くの通りの灯りが、細く揺れていた。


「……どう違う」

 俺が聞くと、エルセは少しだけ呼吸を整えた。


「たとえば」

 ゆっくり言葉を選ぶ。

「“今の世界で得たもの”の中に、誰かが入ってるって認めたとしても」

 ほんの少しだけ声が揺れる。

「それは、“だからここへ残る”と即決するのとは違うでしょ」

「……」

「ただ、“その人が自分にとって何でもないものではない”って認めるだけ」

 そこで視線が少しだけ落ちる。

「それだけでも、十分重いけど」


 十分重い。


 その通りだった。


 名前を入れるというのは、たしかに全部を決めることではない。

 でも、少なくとも“無かったことにはできない”と認めることではある。


「それが怖いんだよ」

 俺は正直に言った。

「無かったことにできなくなるから」


 エルセはそれを聞いて、少しだけ唇を結んだ。


「……うん」

 それから、小さく頷く。

「そこは、たぶん私も同じ」


 俺は少しだけ驚く。


「お前も?」

「そうよ」

 エルセは苦く笑うみたいに言った。

「私だって、遼真の名前を自分の“今の世界の結び”に入れるって認めた時、同じこと思ったもの」

 そこで、少しだけこちらを見る。

「もう、前みたいに“ただ面倒な男”では片づかないって」


 その言い方が、何というか、エルセらしくて妙に救われる。


 完全に甘い言葉にしない。

 でも、ちゃんと本音の側へ来ている。


「……その“面倒な男”っていう分類、まだ生きてたんだな」

 少しだけ笑うと、エルセもほんの少しだけ口元を緩めた。


「生きてるわよ」

「ひどいな」

「ひどくない」

 エルセは即答する。

「むしろかなり正確」

 そして、やわらかく付け足す。

「でも、それだけじゃなくなった」


 その一言が、廊下の静けさの中でやけに残る。


 俺は壁から少しだけ体を離し、窓辺の木枠へ肘をついた。


「なあ、エルセ」

「何」

「お前が、あの時言っただろ」

「どの時」

「研究室で」

 喉が少しだけ詰まる。

「“遼真がいる場所は、今の世界の結びに入ってる”って」


 エルセの肩が、ほんのわずかに強張る。


「……言ったわね」

「今も?」

 聞いてしまってから、かなり直球だったと気づく。


 でも、もう引っ込められない。


 エルセはすぐには答えなかった。

 代わりに、窓の外の暗さを少しだけ睨むみたいに見つめている。


「今も、よ」

 やがて出てきた声は、かなり小さい。

「今さら、そこだけ引っ込めたりしない」

 それから少しだけ間を置いて、視線を落とす。

「……だから、遼真も逃げないで」


 その言葉は、思っていたよりずっと真っ直ぐだった。


 逃げないで。


 責めているわけじゃない。

 お願いに近い。

 でも、ただ甘いだけのお願いでもない。


 たぶん、ここが一つの境目なのだろう。


「……逃げたくはない」

 そう言うと、エルセがこっちを見る。

「でも、怖いのは本当だ」

「うん」

「名前を入れたら、たぶん主陣の前だけの話じゃ済まなくなる」

「うん」

「それでも」

 言葉を探して、喉の奥で一度止める。

「それでも、あれを抽象のままにしておく方が、今はもう違う気がする」


 エルセはしばらく何も言わなかった。


 やがて、本当に小さく息を吐く。


「……そこまで言えたなら」

 少しだけ声がやわらぐ。

「たぶん、明日は書ける」


「そうか?」

「うん」

 エルセは頷いた。

「だって今の遼真、“まだ決めきれない”って怖がってるだけで、“何でもない”とは一回も言ってないもの」

 そこで、少しだけ困ったように笑う。

「前のあんたなら、そこへ戻ってた」


 その指摘は痛いが、たしかにその通りだった。


 俺は少しだけ肩をすくめる。


「戻れなくなったんだろうな」

「ええ」

 エルセは静かに言う。

「たぶん、私も」


 その“私も”が、ひどく近く聞こえた。


 しばらくして、エルセが立ち上がる。


「もう寝る」

「話は終わりか」

「今日は、ね」

 彼女は少しだけ俺を見下ろす。

「明日、ちゃんと書くんでしょ」

「ああ」

「じゃあ、今はそのくらいで十分」

 それからほんの少しだけ躊躇って、でも言った。

「……遼真」


「何だ」


「もし、明日そこで私の名前を入れなくても」

 エルセはまっすぐ俺を見た。

「それだけで全部終わりだとは思わないから」


 言い終わると、彼女は少しだけ顔を逸らした。


 たぶん、かなり勇気を使った言葉だ。


 俺はすぐには返事ができなかった。


 代わりに、かなりゆっくり言う。


「……ありがとう」


 するとエルセは、少しだけ目を細めた。


「今のは、たぶん正しい返し」

「そうか」

「そうよ」

 小さく笑う。

「じゃ、おやすみ」


「おやすみ」


 エルセが廊下の向こうへ消えるまで見送ってから、俺はもう一度だけ窓の外を見た。


 王都の夜は静かだ。

 でも、その静けさの中で、少しずつ何かが決まっていく気配がある。


    ◇


 翌朝、研究室の紙は昨日のままだった。


 木札。

 玄関の図と誓約文。

 術者本人の意思。

 そして、その三つを束ねる中核文の案。


 足りないのは、“こっちで得たもの”の具体。


 オーウェンは、俺たちが入るなり席を勧めた。


「では、続きをやるか」


 やけにあっさりした口調だ。

 だが、その方が助かる。


 ミレナは今日は妙に静かだった。たぶん空気を読んでいるのだろう。読める時は読めるのだ。


「相馬」

 オーウェンが言う。

「昨日の案を読み上げろ」


 俺は紙を見た。


 ――向こうへ帰る。

 ――途中で止まった日常の続きを生きる。

 ――でも、こっちで得たものを無かったことにはしない。

 ――今の自分のままで、帰って、その先を続ける。


 声に出すと、昨日より少しだけ落ち着いて聞こえる。


「よし」

 オーウェンは頷いた。

「では、三行目だけ具体化しろ」


 核心だった。


 ここで変にきれいな言葉へ逃がせば、たぶん意味がない。


「……先生」

 ミレナが少しだけ手を上げる。

「最初から文章にしなくても、単語を置いてから繋げる形でもいいですか?」

「構わん」

 オーウェンは即答する。

「むしろその方が本音が出る」


 助かった。


 俺は新しい紙を取り、ゆっくり書き始める。


 ――宿

 ――先生

 ――ミレナ

 ――エルセ

 ――王都で交わした時間

 ――森で生き延びた時間

 ――ここで覚えた自分


 書いていて、自分でも少しだけ手が止まりそうになる。


 でも、昨日の夜よりは止まらなかった。


 “エルセ”と書いたところで、横から空気が一度だけ揺れた気がした。

 見ると、エルセは帽子のつばに触れず、じっと紙を見ている。

 顔は赤くない。

 けれど、その静けさの方がかえって強かった。


「……そこまで出たなら」

 オーウェンが言う。

「繋げられるな」


 俺は深く息を吸った。


 単語から、文へ。


 逃げるな。

 でも、飾るな。


 ゆっくりと書く。


 ――こっちで得たもの。

 ――王都で交わした時間。

 ――宿に帰る日々。

 ――先生とミレナと、エルセと繋がった今の自分を、無かったことにはしない。


 書き終えた瞬間、研究室が静まり返った。


 誰もすぐには何も言わない。


 俺も、少しだけ息が止まっていた。


 これはたぶん、かなり具体だ。

 かなり、もう後戻りしにくい。


「……」

 ミレナが口を開きかけて、閉じる。

 やがて、ひどく小さな声で言った。

「……強いと思います」


 オーウェンは何も言わず、紙を共鳴盤へ置いた。


「流せ」


 言われた通り、魔力を落とす。


 今までで一番深く、反応した。


 青白い線が迷わず中央へ走り、核の近くで一度だけ強く脈打つ。揺れはある。でも散らない。三つの線が、ようやく一つの方向へまとまろうとしているのが見えた。


「……よし」

 オーウェンの声が、初めて少しだけ満足そうになる。

「かなり近い」

「かなり?」

 俺が聞くと、老人は頷いた。

「これなら主陣の前で試す価値がある」


 その一言で、研究室の空気がひとつ前へ動いた。


 足りないものは、まだあるかもしれない。

 でも、少なくとも抽象ではなくなった。


 “こっちで得たもの”の中に、エルセの名前を入れた。

 それはもう、主陣の都合だけの話じゃない。


「遼真」

 横から、エルセの声がした。


 俺が見ると、彼女は少しだけ迷って、それから言った。


「……今の」

「何だ」

「ありがとう、とは言わない」

 そこで少しだけ笑うような、困るような顔になる。

「でも、たぶん、ちゃんと聞こえた」


 その言い方が、ひどくエルセらしかった。


 俺は少しだけ息を吐いて、頷く。


「それで十分だ」


 エルセの耳が、ほんの少しだけ赤くなった。


 そしてたぶんそれは、俺の方も同じだった。

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