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「嫌い、最低、近寄らないで」――なお全部好意です。呪われ魔女に愛される元勇者は現代帰還を諦めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第32話 三つ目が揃っても、足りないもの

研究室の机の上には、ようやく三つの候補が並んでいた。


 《木靴亭》の古い木札。

 玄関の図と、“ただいま”から続いた誓約文。

 そして、俺がさっき書いた“術者本人の意思”の紙。


 今まで、手を伸ばすたびに形のなかったものが、ようやく目に見えるところまで降りてきた。


 なのに。


 オーウェンはその三つを見比べたあと、すぐには「よし」と言わなかった。


 それが嫌な予感しかしない。


「……先生」

 俺が低く呼ぶと、老人は眼鏡を少し押し上げた。


「そう睨むな」

「睨んでませんよ」

「睨んでいる顔だ」

 オーウェンは平然としている。

「そして、その顔をする時はだいたい何かを先回りで察している」


 つまり、やっぱりまだ何かあるのだ。


 ミレナもそれを感じ取ったらしい。さっきまで少しだけ明るかった表情が、また真面目なものへ戻っていた。


「先生」

 見習い魔術師が先に聞く。

「はっきり言ってください。何が足りないんですか」


 研究室の空気が少しだけ締まる。


 オーウェンは三つの候補を、自分の方へゆっくり引き寄せた。


「足りない、というより」

 老人は低く言う。

「まだ確かめていないことがある」


「確かめていない?」

 エルセが問い返す。


「この三つが“それぞれ単体で強い”のはわかった」

 オーウェンは頷いた。

「だが、主陣へ持ち込む時に必要なのは、三つが並ぶことではない。“一つの帰還意志”として噛み合うことだ」


 その一言の意味は、すぐには飲み込みにくかった。


「噛み合う、って」

 俺が聞く。


「たとえばだ」

 オーウェンは木札を指先で叩く。

「“今の世界の結び”が宿」

 次に、玄関の図と誓約文へ触れる。

「“向こう側の由来”が、途中で止まった日常」

 そして最後に、意思の紙を見る。

「“帰ったあとも今の自分を切らずに先へ進む”」


 そこまでは、たしかに今見えている候補だ。


「問題は?」

 エルセが静かに聞く。


「この三つが、同じ方向を向いているかどうかだ」

 老人ははっきり言った。

「帰還陣は、複数媒介を扱う時、一つでも“矛盾している”とそこから裂ける」

「矛盾」

 ミレナが眉を寄せる。

「たとえば?」

「向こうへ帰りたいと言いながら、今の世界の結びを手放せないまま、しかも未来の意思がその二つの折衷になっていない場合」

 オーウェンは俺を見る。

「要するに、お前の中でまだ“どちらをどう残して帰るのか”が定まりきっていないと、主陣はそこを揺らしに来る」


 それはつまり。


 候補は揃っても、まだ“答え”にはなっていないということだ。


「……面倒ですね」

 思わず本音が漏れる。


「今さらか」

 オーウェンは鼻を鳴らした。

「異界帰還が簡単であれば、こんな研究室に紙の山は生まれん」


 その通りすぎて反論できない。


 だが、ここまで来てまだ“考え方の整合性”を問われるのは、正直かなりきつい。


「師匠」

 ミレナが慎重に言う。

「でも逆に言えば、“三つをちゃんと噛み合わせる言葉”が必要ってことですよね」

「そうだ」

 オーウェンは頷く。

「媒介そのものとは別に、三つを一つの流れへ束ねる中核の文言が要る」


 また言葉か。


 だが今度は、単独の記憶や誓約ではない。

 三つを繋ぐための文言だ。


「……一番厄介なの、そこでは?」

 エルセがぼそりと言う。


「厄介だ」

 オーウェンはあっさり認めた。

「だから今から作る」


 即答だった。


 思わず俺は眉を寄せる。


「今から?」

「そうだ」

 老人は新しい紙を一枚出した。

「この場で叩き台を作る。相馬、お前が言う。こちらで削る」


 逃げ道がない。


 ミレナが少しだけ同情したような顔になった。

 でもすぐに切り替える。


「師匠、たぶん“全部を守りたい”だと弱いですよ」

 彼女は真面目な声で言う。

「欲張りすぎると、陣がぼやけると思います」

「わかってる」

 俺は息を吐く。

「じゃあ、何て言えばいいんだ」


 それに対して返ってきたのは、オーウェンじゃなくエルセの声だった。


「……“何を捨てないか”で考えた方がいいかもしれない」


 全員の視線が彼女へ向く。


 エルセは少しだけ肩を強張らせたが、逃げなかった。


「帰還陣って、“何を得たいか”より、“何を切らずに通るか”を問う術に近いでしょう」

 彼女はゆっくり言葉を置く。

「だったら、“向こうへ帰って、こっちを無かったことにしない”っていう軸があった方が、三つは繋がりやすい」


 静かな言葉なのに、ひどく核心を突いていた。


 向こうへ帰る。

 でも、こっちを無かったことにしない。


 それは、俺がここ数日うっすら感じていたものに近い。


 オーウェンが小さく頷く。


「悪くない」

「……そう」

 エルセは少しだけ視線を落とす。

「なら、よかった」


 今の彼女の言い方には、前みたいな“たまたま出た”感じがほとんどない。

 ちゃんと考えて、ちゃんと出している。


 それだけで、少しだけ胸がざわつく。


「遼真」

 エルセが俺を見る。

「今の、どう?」

 聞き方が少しだけ優しい。

「自分の感覚に近い?」


 俺はすぐには答えなかった。


 頭の中で、言葉を並べ直す。


 向こうへ帰る。

 途中で止まった日常の続きへ戻る。

 でも、こっちで得たものを無かったことにはしない。

 切らない。

 置いていかない。

 せめて、自分の中では。


「……近い」

 やっとそう言う。

「かなり近い」

「かなり?」

 ミレナが身を乗り出す。

「じゃあ、そのまま一回言葉にしてみましょう!」


「簡単に言うな」

「でも、今なら出そうです」

 ミレナはやけに確信ありげだった。

「さっきまでよりずっと」


 オーウェンも紙を俺の前へ押し出す。


「書け」

「先生、毎回それですね」

「言葉は逃がすと散る」

 老人は淡々としている。

「今、掴んだなら今だ」


 俺はペンを取った。


 だが、紙の前でまた少しだけ止まる。


 すると、エルセが今度はかなり静かな声で言った。


「焦らなくていい」

 俺が顔を上げる。

「今は、誰かを安心させる文言を書けって言われてるんじゃないでしょう」

「……ああ」

「遼真自身が、主陣の前でぶれないための言葉でいい」

 それから、ほんの少しだけ目がやわらぐ。

「取り繕わないで」


 その一言で、たぶん少しだけ余計な力が抜けた。


 取り繕わない。

 それなら、たしかに少しは書ける気がする。


 ゆっくりと、ペンを走らせる。


 ――向こうへ帰る。

 ――途中で止まった日常の続きを生きる。

 ――でも、こっちで得たものを無かったことにはしない。

 ――今の自分のままで、帰って、その先を続ける。


 書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなる。


 これが本当に自分の言葉なのか。

 たぶんそうだ。

 でも、そうだと認めた瞬間から、もう前には戻れない気もする。


「……どうでしょう」

 ミレナが小さく聞く。


 オーウェンは紙を読み、数秒黙った。

 それから、共鳴盤へ置く。


「流せ」


 俺が魔力を落とす。


 今までより、ずっと深く反応した。


 青白い線が紙の上を走り、そのまま中央へ吸い込まれる。途中で揺れはしたが、散らない。脈打つように、何度か同じ線をなぞっている。


「……強い」

 ミレナが息を呑む。

「これ、かなり」

「うむ」

 オーウェンは頷いた。

「媒介三つを束ねる中核文としては十分ありえる」

 その一言で、研究室の空気がひとつ変わる。

「ただし」

 すぐに続く。

「まだ一点、薄い」


 やっぱり簡単には終わらない。


「何です」

 俺が聞く。


 老人は少しだけ紙を指で叩いた。


「“こっちで得たもの”が、まだ抽象的すぎる」

 その言葉に、今度はミレナが小さく呻いた。

「またそこですか」

「またそこだ」

 オーウェンはあっさり言う。

「主陣は曖昧さを嫌う。ここへ具体の像が入れば、束ねる力はさらに強くなる」


 つまり結局、そこだ。


 こっちで得たもの。

 今の世界との結び。


 名前を避けてきたものが、また目の前に戻ってくる。


 研究室が静かになる。


 エルセは紙を見ていた。

 視線は落ち着いているようで、その実かなり張り詰めているのがわかる。


 俺もすぐには何も言えない。


 先に口を開いたのは、ミレナだった。


「……でも」

 彼女はかなり慎重に言葉を選んでいる。

「少なくとも、ここまで来たら、“今の世界に大事なものがある”こと自体は、もう隠さなくていいんじゃないですか?」


 オーウェンは何も言わない。

 エルセも言わない。


 視線だけが、わずかに俺へ集まる。


 これは、たぶん俺が答えるしかない。


「……隠してるつもりは」

 言いかけて、やめる。

 それは嘘になる。

「いや、隠してたな」

 正直に言い直す。

「少なくとも、言葉にはしないようにしてた」

「うん」

 エルセが小さく頷く。

「知ってる」


 その“知ってる”が、妙に優しかった。


「でも、もう」

 俺は机の上の木札を見る。

 それから、玄関の図も、誓約文も。

「……たぶん、そこを避けたままだと主陣の前でまた止まる」

「そうね」

 エルセは静かに言う。

「たぶん、そうなる」


 少しだけ、頭が熱くなる。


 ここで名前をつけたら。

 それを媒介へ繋げたら。

 どうなるのか。


 いや、どうなるも何も、それが必要だという話なのだ。


「……先生」

 俺は低く言う。

「“こっちで得たもの”って、言葉の中に人を入れてもいいんですか」


 ミレナが息を止めた。

 エルセの指先も、机の上でわずかに止まる。


 オーウェンは平然としていた。


「いい」

 短い返答。

「ただし、軽い気持ちで入れると陣に見抜かれる」

「だろうな」

「つまり」

 老人は俺を見る。

「入れるなら、本気でそう思っている必要がある」


 本気でそう思っている必要がある。


 その確認は、たぶん必要だった。


 自分でも、ずっとそこを確かめ切れずにいたからだ。


 研究室の空気はまた静まる。

 だが、今度の沈黙は前より少しだけ違った。


 目を逸らせば済むところでは、もうない。


    ◇


 図書院を出たあとも、その沈黙は続いた。


 ミレナは珍しく「今日は余計なこと言いません」とだけ言って別れた。

 オーウェンは研究室へ戻ったままだ。


 王都の夕方の道を、俺とエルセだけが歩く。


 言葉がない。

 でも、その言葉がないこと自体に意味がありすぎた。


「……さっきの」

 先に口を開いたのはエルセだった。

「“人を入れてもいいか”ってやつ」


 俺は少しだけ肩を強ばらせた。


「ああ」


「別に、今すぐ答えろとは言わない」

 エルセは前を向いたまま続ける。

「ただ」

 少しだけ言葉が揺れる。

「そこを聞いたってことは、遼真の中で、もう完全に外の話じゃないんでしょう」


 その問いかけは、かなり静かだった。


 だから余計に、逃げにくい。


 俺は少しだけ息を吐く。


「……外ではない」

 それだけ言う。


 エルセは数歩ぶん黙ったあと、小さく頷いた。


「そう」

 それから、ごくわずかに声を落とす。

「なら、今はそれでいい」


 今は。


 その保留の仕方が、前よりずっとやさしい。


 俺はその横顔を見た。

 帽子のつばで半分隠れていても、今の彼女が前よりずっと必死に言葉を選んでいるのがわかる。


「……お前」

 思わず言う。

「よく今の返しができるな」


 エルセが少しだけ目を細める。


「何それ」

「前なら、もっとひどいこと言ってた気がする」

「言ってたわよ」

 あっさり認める。

「今でも、本当は言いたいことはいっぱいある」

 そこで少しだけ笑うような、困るような顔になる。

「でも、言ったところで遼真が困るだけなら、今は少し我慢した方がいいって思う」


 その“我慢”が、少しだけ胸に刺さる。


「我慢させてるのか」

「そうなるわね」

 エルセは小さく肩をすくめた。

「でも、前よりはましよ。少なくとも、今の遼真はちゃんと聞こうとしてるから」

 そして、少しだけ目を伏せる。

「それだけで、だいぶ違う」


 俺は返事を探した。

 だが、また変に気の利いた言葉を言うと、今のこの距離が壊れそうな気がした。


 だから、ただ一つだけ返す。


「……聞くよ」

 エルセがわずかにこちらを見る。

「全部はまだ無理かもしれないけど」

 自分でも少しだけ苦い。

「前よりは、ちゃんと」


 その返しを聞いて、エルセはほんの少しだけ笑った。


「うん」

 それだけだった。

 でも、その一音が妙に胸へ残る。


 術者本人の意思は、かなり形になった。

 でも、その中核文に最後の具体を入れるには、まだ一つ、どうしても名前を避けられないものが残っている。


 三つ目が揃っても、まだ足りない。


 そしてたぶん、その“足りないもの”の名前を呼ぶ時が、いちばん怖い山場なのだと、俺たちはもう気づいていた。

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