第31話 帰ったあと、何を続けたいのか
その夜、俺は珍しくすぐに部屋へ戻らなかった。
《木靴亭》の二階の廊下の突き当たり、あの小さな窓辺。祭りの夜のあとも、エルセが一人で座っていた場所だ。今は窓が少し開いていて、王都の夜風が細く吹き込んでいる。
下の食堂からは、女将が片づける食器の音がかすかに聞こえた。
遠くの通りでは、遅い時間の馬車が石畳を鳴らしていく。
俺はその窓辺に腰を下ろし、膝へ肘を乗せたまま、しばらく何も考えないようにしていた。
だが無理だった。
術者本人の意思。
帰るって約束。
途中で止まった日常。
今の世界の結び。
木札。
玄関の図。
“ただいま”。
そして、まだ形にならない最後の一つ。
考えないようにするほど、頭の中で言葉が回る。
「……いると思った」
不意に後ろから声がした。
振り向くと、エルセが立っていた。
黒い帽子は被っていない。銀髪をそのまま肩へ落とし、薄い上着だけ羽織っている。部屋着とまではいかないが、いつもの外向けの装いよりはずっと力の抜けた格好だ。
「お前もか」
俺が言うと、エルセは少しだけ肩をすくめた。
「部屋にいても、たぶん同じこと考えるだけだったから」
そう言って、俺の向かいじゃなく、少し横へずれた位置に座る。
「そこ、私の場所なんだけど」
「先にいたのは俺だろ」
「そうだけど」
エルセは窓の外を見ながら言う。
「……まあ、今日は譲る」
その言い方が、前よりずっと穏やかだった。
しばらく、二人とも黙る。
沈黙は重い。
でも、居づらいわけじゃない。
少なくとも今は、黙っていても“何も話していない”感じがしない。
「術者本人の意思」
先に口を開いたのはエルセだった。
「ずっと、それ考えてるんでしょう」
「顔に出てるか」
「かなり」
少しだけ笑う気配がある。
「前なら、もう少し隠せてたかもしれないけど」
俺は小さく息を吐いた。
「隠してもしょうがない気がしてる」
「うん」
「……でも、考えれば考えるほど、何を書けばいいのかわからなくなる」
窓の外の暗い屋根を見ながら言う。
「“帰りたい”だけじゃ弱い。“帰って、日常を続けたい”も、たぶん方向としては合ってる」
「でも足りない」
「そうだ」
エルセはすぐには返事をしなかった。
少ししてから、低く言う。
「先生の言ってた“意思”って、たぶん“目的”だけじゃないのよ」
「目的じゃない?」
「ええ」
彼女は指先を膝の上で軽く組む。
「帰りたい理由も大事。でも、それだけなら“向こう側の由来”とだいぶ重なるでしょ」
「……そうか」
「たぶん問われてるのは、その先」
灰青の瞳がこちらを向く。
「帰って、どうありたいのか」
その言葉は、思っていたより深く入ってきた。
帰って、どうありたいのか。
今までは、そこまで考えたことがなかったのかもしれない。
帰ることそのものが目的になっていたからだ。
「……難しいな」
正直に言うと、エルセは頷いた。
「難しいわよ」
それから少しだけ目を伏せる。
「だってそれ、未来の話だもの」
「未来」
「うん」
彼女は静かに続ける。
「向こうへ帰るのは過去に戻ることじゃないでしょ。途中で止まった日常の続きをやり直すんじゃなくて、止まったままの自分で、その先を生きるってこと」
そこまで言われて、ようやくはっきりした。
そうだ。
俺が帰りたいのは、途中で止まった日常だ。
でも、帰ったとしても時間は巻き戻らない。
俺は三年分を抱えたまま、向こうへ立つことになる。
なら、問われるべきは“帰る理由”だけじゃない。
“帰ったあと、どう生きたいのか”も必要になる。
「……お前」
思わず言う。
「最近ほんとに、そういうこと言うな」
「何それ」
エルセが少しだけ眉を寄せる。
「褒めてる」
「そうは聞こえない」
「じゃあ言い直す」
少し考えてから続ける。
「助かってる」
エルセが、今度は本当に黙った。
夜風が銀髪を少し揺らす。
「……それ」
彼女は小さく言う。
「今のは、かなりよくない」
「何でだよ」
「そういうふうに真面目に言われると、こっちが困るから」
「最近そればっかりだな」
「だって困るのは本当だもの」
エルセは少しだけ唇を尖らせた。
「前はもっと、適当に流してたのに」
その言い方が、少しだけおかしくて、でも笑う気にはなれない。
「前より、流せない」
そう言うと、エルセの指先がわずかに止まる。
「どうしても?」
「どうしても、だな」
俺は窓の縁に視線を落とす。
「お前の言うことが、前よりずっと真っ直ぐ聞こえるから」
「……」
「それで、自分の方も、適当には返せなくなった」
また沈黙が落ちる。
でも今度の沈黙は、少し熱を持っていた。
エルセがゆっくりと息を吐く。
「……じゃあ」
声が少しだけ掠れる。
「今の遼真にとって、“帰ったあとどうありたいか”って、何なの」
真正面から来た。
逃げ道の少ない問いだ。
でも、たぶん今はもう逃げない方がいい。
俺は少しだけ目を閉じて、それから開く。
「最初に思ったのは」
ゆっくり言葉を探しながら話す。
「ちゃんと家に帰って、“ただいま”を言って、向こうで途切れたものを拾い直したい、ってことだった」
「うん」
「でも、それだけだと足りない気がする」
「どうして」
「たぶん」
少し喉が乾く。
「拾い直すだけじゃ、三年分がなかったことになる」
自分でも意外な言葉だった。
「でも実際は、なかったことにはならないだろ」
エルセは黙って聞いている。
「こっちであったことも、覚えたことも、失敗したことも、全部込みで俺なんだから」
そこまで言った時、自分の中で少しだけ何かが噛み合う感じがした。
エルセの目が、わずかに揺れる。
「……それで?」
促す声は小さい。
「それで、たぶん」
俺はさらに続ける。
「帰ったあと、“元に戻る”んじゃなくて、“続きを生きたい”んだと思う」
「続きを」
「向こうの生活の続き。でも、こっちであったことも切らずに」
そこまで言って、ようやく息をつく。
「うまく言えないけど、そんな感じだ」
エルセはすぐには何も言わなかった。
夜の風がまたひとつ抜けて、窓辺の薄いカーテンが揺れる。
やがて、彼女は本当に小さく笑った。
「……それ、たぶん正解に近い」
「そうか?」
「うん」
エルセは頷く。
「“元に戻りたい”だけなら、たぶん過去に縋ってる。でも“続きを生きたい”なら、ちゃんと未来の意思になる」
そこで少しだけ、目を細める。
「先生が欲しいの、そういうのだと思う」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
まだ文章にはなっていない。
でも、言葉の芯は見えた気がした。
「じゃあ、書けるかもな」
俺が言うと、エルセは静かに頷いた。
「書けると思う」
「お前がそう言うなら、少しは信用する」
「少しなの?」
「かなり、かもな」
そう言った瞬間、エルセの耳が少し赤くなる。
「……何その言い方」
「本心だよ」
「だから、そういうの困るって言ってるでしょ」
「最近、困らせすぎか?」
「かなり」
エルセは少しだけ困ったように笑う。
「でも」
そこで言葉が揺れる。
「……それでも、前よりはいい」
その“いい”が、たぶん今の彼女にとってかなり素直な方の言葉だとわかった。
「じゃあ」
俺は少しだけ息を整えて言う。
「今度はこっちから聞く」
「何」
「お前は、今の世界でどうありたいんだ」
問い返した途端、エルセが目を見開いた。
「……何で、今それ聞くの」
「同じ話してるんだろ」
俺は肩をすくめる。
「俺だけ未来を言葉にして、お前はずっと黙ってるのも変だ」
「変じゃないわよ」
「変だよ」
少しだけ意地悪く返す。
「最近のお前、前よりちゃんと最後まで言うようになったんだろ」
エルセが黙る。
「だったら、そこも聞きたい」
かなり踏み込んだつもりだった。
でも、今はそれでよかった気がする。
エルセはしばらく何も言わず、窓の外の夜を見ていた。
その横顔は、いつもよりずっと静かだ。
「……私は」
やがて、ほんの小さな声で始まる。
「前までは、こういうの考えないようにしてた」
「うん」
「だって、考えても、どうせうまく言えないし」
少しだけ苦く笑う。
「口にした途端、別のものに変わるから」
呪いのことだ。
そこへ俺は何も挟まない。
「でも今は」
エルセは続ける。
「今は、少しだけ考える」
灰青の瞳が、ほんの少しだけこちらへ向いた。
「王都にいて、宿に帰って、先生に怒られて、ミレナにかき回されて……」
そこで、わずかに呼吸が揺れる。
「……遼真と、ちゃんと喋れる時間が、なくならない方がいいって思う」
その一言で、俺は完全に黙った。
想像していたより、ずっとまっすぐだったからだ。
「……お前」
やっとそれだけ言う。
「言ったわよ」
エルセは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「前より逃げないって決めたから」
そして、少しだけ視線を逸らす。
「これ以上は、今は無理」
それで十分すぎた。
たぶん今夜のうちに、これ以上進めると何かが崩れる。
だから俺は、ただ静かに頷いた。
「……わかった」
エルセはその返事に、少しだけ安心したみたいに息を抜く。
「それでいい」
「そうか」
「そうよ」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「そこで変に気の利いたこと言われたら、たぶんほんとに無理だった」
俺は思わず小さく笑った。
「そんな器用さ、最初からない」
「知ってる」
その返しも、少しだけ笑っていた。
◇
翌朝、研究室で俺は新しい紙を前に座った。
今度は“術者本人の意思”を書く。
オーウェンもミレナも、今日は無駄に急かさない。
エルセだけが、少し離れたところで黙って見ていた。
俺は深く息を吸い、そして書く。
――帰ったあと、途切れた日常の続きを生きる。
――こっちで得たものを、なかったことにしない。
――向こうの家に帰って、それでも今の自分のままでいたい。
書き終えた時、自分の手が少しだけ震えているのがわかった。
「……どうですか」
ミレナが、小声で聞く。
オーウェンはその紙を共鳴盤へ置くよう促した。
言われた通りに魔力を流す。
今までで一番、反応が深かった。
青白い線が中央まで滑るように届き、わずかに脈打つ。
「これは……」
ミレナが息を呑む。
「強いです」
オーウェンも、静かに頷いた。
「いい」
老人の声は低いが、はっきりしていた。
「“術者本人の意思”として、かなり近い」
それから少しだけ目を細める。
「お前、ようやく帰ることを“過去に戻る”ではなく、“今の自分で先へ進む”として言えたな」
その言葉が、妙に胸へ落ちる。
帰りたい理由を、言葉にした。
そして今、帰ったあとどうありたいかも、ようやく少しだけ形になった。
まだ全部じゃない。
でも、前よりずっと本物だ。
エルセが、そこで本当に小さく言った。
「……よかった」
その声は、たぶん俺だけに届くくらいの大きさだった。
でも、それで十分だった。




