第30話 「帰るって約束」を書けるか
研究室の机の上には、まだ乾ききっていない線の匂いが残っていた。
俺が描いた玄関の簡素な図。
《木靴亭》の古い木札。
主陣の写し。
分散配置の術式図。
それらの間に、新しい真っ白な紙が一枚置かれている。
そこへ、今度は“約束”を書く。
帰るって約束。
誰と。
どんなふうに。
何を終わらせるために。
さっきまで“やる”と言ったのは俺だ。なのに、紙を前にすると手が少しだけ止まる。
「……やっぱり、こうなるわよね」
エルセが、机の少し向こうから小さく言った。
「何が」
「“やる”って言ったあとで止まるやつ」
灰青の瞳がまっすぐこちらを見る。
「玄関の時より、こっちの方がきついんでしょう」
否定できなかった。
「きついな」
正直に言う。
「図を書くのと違って、こっちは言葉だ」
机の白い紙へ視線を落とす。
「言葉にした瞬間、それが本当に自分の芯なのか試される感じがする」
オーウェンが低く頷く。
「その感覚でいい」
老人は肘をついたまま言う。
「誓約媒介は、飾った言い回しより、本人が一番逃げたい本音の方へ反応する」
「嫌な仕様ですね」
ミレナが真顔で言う。
「非常に」
オーウェンは即答した。
「だから、うまく書こうとするな。まずは、お前が“向こうへ帰ったら最初に何をするつもりだったか”を書け」
その問いは、妙に具体的だった。
最初に何をするつもりだったか。
大きな夢じゃない。
人生の目標でもない。
帰ったら、最初に何をするつもりだったか。
「……」
頭の中で、玄関が浮かぶ。
靴を脱ぐ音。
廊下の灯り。
母さんの声。
居間から聞こえるテレビの音。
妹が何か言ってくる気配。
帰ったら。
最初に。
「師匠?」
ミレナが、少しだけ心配そうに呼ぶ。
俺はゆっくり息を吐いて、ペンを持った。
「書く」
「うん」
エルセの返事は静かだった。
「見てる」
その“見てる”が、今は妙に心強かった。
紙に、ゆっくり文字を置く。
――帰ったら、「ただいま」を言う。
書いた瞬間、思ったより胸の奥が揺れた。
それだけか、と思う自分もいる。
でも、たぶんそれだけで十分だった。
「……」
ミレナが、そっと息を呑む。
「それ、すごく普通ですね」
「そうだな」
俺は紙を見たまま答える。
「たぶん、だから強いんだと思う」
オーウェンが手を伸ばし、紙を共鳴盤の中央へ移した。
「流せ」
短い指示。
俺がわずかに魔力を落とすと、紙の文字が淡く光った。
玄関の図に似た反応だ。
でも、少し違う。
図の時は、場所の輪郭が立ち上がる感じだった。
今度は、もっと一点に向かって収束する。帰る動きそのものが、文字の中にある。
「……強いですね」
ミレナが小声で言う。
「図と同じくらい、いや、少し上かも」
オーウェンは黙って頷いた。
「“ただいま”はいい」
やがて老人が言う。
「帰還の動きと直結している。しかも、帰る理由を誇張していない」
それから、俺を見た。
「だが、まだ主媒介には弱い」
やはり、そこか。
「足りないのは?」
俺が聞くと、老人は少しだけ顎を引いた。
「“誰のもとへ帰るか”がまだ薄い」
「……」
「“ただいま”だけでは、帰還の方向は示せても、相手との約束としては少しぼやける」
オーウェンは紙を指先で叩く。
「これに続く言葉があるはずだ」
続く言葉。
それはたぶん、俺の中にもある。
でも、そこから先が難しい。
誰のもとへ帰るのか。
何を終わらせたいのか。
あるいは、何を途中で置いてきたのか。
「……やっぱり、そうなるわよね」
エルセが小さく言った。
見ると、彼女も紙を見つめていた。
その横顔は真剣だったが、どこか少しだけ苦しそうでもある。
「何か心当たりあるのか」
俺が聞くと、エルセは少しだけ目を伏せる。
「あるっていうより」
彼女はゆっくり言う。
「“ただいま”って、一人では成立しない言葉だから」
その一言に、ミレナが「たしかに……」と小さく呟く。
「“いってらっしゃい”があって、“ただいま”が返る」
エルセは続ける。
「誰かがいる家でしか、意味を持たない」
それから、少しだけ声を落とした。
「だから、“ただいま”の相手まで書けた方が、たぶん強い」
研究室がまた静かになる。
相手まで書く。
そこは、玄関の図や木札よりずっと具体的だ。
たぶん避けて通れない。でも、そう簡単には書けない。
「母さん、ですかね」
ミレナがおそるおそる言う。
「最初に“いってらっしゃい”って言ってるのって」
「……」
俺は少しだけ考える。
母さんの顔は、たしかに浮かぶ。
玄関の記憶と一番強く結びついているのも、たぶんそこだ。
でも、そこへ行く前に、別のものが喉に引っかかった。
「違う?」
エルセが静かに聞いた。
「違うわけじゃない」
俺は首を振る。
「でも、それだけでもない」
「それだけでもない、か」
オーウェンが低く繰り返す。
「なら、もう少し正確に切れ」
切れ、と言われても簡単じゃない。
だが、やるしかない。
俺は新しい紙を取った。
深く息を吸って、今度は言葉を置く。
――帰ったら、母さんに「ただいま」を言う。
――父さんのいる部屋の灯りを見て、靴を脱ぐ。
――妹に、帰りが遅かったことを文句を言われる。
――途中で止まった日常に戻る。
書いていて、自分でも少し驚いた。
“帰るって約束”は、誰か一人との誓いじゃない。
家そのもの。
そこで続くはずだった生活。
その全体に対する約束なのだと、文字にして初めてわかった。
「……」
ミレナがじっと紙を見る。
「これ、強そうです」
「うん」
エルセも小さく頷く。
「今のは、さっきよりずっと遼真っぽい」
その“遼真っぽい”が、妙にしっくりくる。
オーウェンが再び共鳴盤へ紙を置いた。
「流せ」
俺は言われた通り魔力を落とす。
今度は、はっきりと違った。
青白い線が中央へ伸び、途中で散らずに核の近くまで届く。まだ主媒介と断言できる強さではないが、玄関の図や“ただいま”単体より確実に一段上だ。
「……上がった」
ミレナが目を見開く。
「これは、かなり」
「“生活”まで入ったからだろうな」
オーウェンは静かに言う。
「相馬にとっての帰還は、単なる移動ではない。“途中で止まった日常へ戻ること”だと、術式の方も認め始めている」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが落ちた。
そうだ。
俺が帰りたいのは、英雄みたいに何かを成し遂げるためじゃない。
中断された普通の生活へ戻りたいからだ。
戻って、あの日の続きをやりたいからだ。
それはひどく地味で、でも、たぶん一番本当だった。
「……これで、向こう側の由来は一つ立つかもしれませんね」
ミレナが嬉しそうに言う。
「候補としてはな」
オーウェンは冷静だ。
「まだ完全ではない。だが、かなり近い」
俺はその紙を見下ろした。
途中で止まった日常。
それが、俺の帰る理由。
そこまで書いたことで、少しだけ逆に怖くなる。
あまりにもはっきりしたからだ。
「遼真」
エルセが小さく呼ぶ。
「何だ」
「大丈夫?」
その問いは、たぶん術式のことだけじゃない。
俺は少しだけ迷って、それから正直に答える。
「大丈夫じゃない」
エルセの瞳が、少しだけ揺れる。
「でも、逃げるよりはましな気がする」
「……そう」
彼女は本当に小さく息を吐いた。
「なら、よかった」
その“よかった”は、たぶん今の彼女に言えるかなり素直な方の言葉だった。
◇
記憶と誓約の試行が一段落したあと、研究室の空気は少しだけ変わった。
張り詰めていたものが、一度ゆるむ。
でも終わったわけじゃない。
木札。
玄関の図。
途中で止まった日常を記した誓約文。
今のところ、候補はその三つだ。
けれどそれぞれ、まだ完全ではない。
「向こう側の由来候補はだいぶ見えましたね」
ミレナが紙を整理しながら言う。
「じゃあ、次は“術者本人の意思”ですか」
「そうだ」
オーウェンが答える。
「そして、そこがたぶん一番厄介だ」
嫌な予感しかしない言い方だった。
「どういう意味です」
俺が聞くと、老人はわずかに眉を上げる。
「そのままの意味だ」
オーウェンは静かに言う。
「元の世界の由来は、過去だ。今の世界の結びは、現在だ。だが“術者本人の意思”は違う」
指先が机の中央を軽く叩く。
「それは、お前がこの先どうありたいかだ」
未来。
その言葉は、今の俺にとって一番扱いにくい。
「……帰るっていう意思じゃだめなのか」
思わずそう聞くと、オーウェンは首を振った。
「弱い」
「弱い?」
「それは方向にすぎん」
老人は言う。
「“なぜ帰るのか”“帰ったあとに何を終わらせ、何を続けたいのか”――そこまで術式は問う」
少しだけ間を置いて、さらに続ける。
「そして分散配置を使うなら、なおさらだ。本人の意思が曖昧だと、他の二つの媒介も揺らぐ」
研究室が再び静かになる。
未来を、言葉にする。
帰ったあと何を続けたいのか。
そこまで来ると、もう術式の話というより、生き方の話だった。
「今日はここで切るか」
オーウェンが言った。
「これ以上は、机の前で疲弊するだけだ」
ミレナが「賛成です」と小さく頷く。
俺も異論はなかった。
頭の中が、すでにかなり重い。
エルセは何も言わなかったが、机の下で組んでいた指先が少しだけ緩んだのが見えた。
◇
図書院を出る頃には、空はすっかり夕方の色に染まっていた。
王都の石畳へ長い影が伸びる。
市場帰りの人の流れが少しずつ増え、店先の呼び声も夕方らしい調子に変わっていく。
俺とエルセは、並んで歩いた。
しばらく言葉はなかった。
でも、それは前みたいな“何を話せばいいかわからない沈黙”じゃない。
言葉を使いすぎたあとで、少しだけ呼吸を整えている沈黙だった。
「……ねえ」
エルセが先に口を開く。
「何だ」
「“途中で止まった日常”って」
彼女は前を向いたまま言う。
「さっき、書いてたでしょう」
「ああ」
「それ、少しだけ羨ましい」
その一言に、思わずそちらを見る。
エルセは、俺を見ていなかった。
夕方の光が、銀髪の縁だけを薄く染めている。
「羨ましい?」
「うん」
彼女は小さく頷く。
「帰りたい理由が、ちゃんと“続き”としてあるの」
少しだけ間が空く。
「私、自分の過去をそういうふうに思えたこと、あんまりないから」
それは、たぶん彼女の呪いと、その起点に近い場所のせいだろう。
帰るべき場所。
続きをやりたい日常。
そういうものを素直に大事だと思えないまま、今まで来たのかもしれない。
「……でも」
俺は少し言葉を探してから続ける。
「今のお前には、今の世界の結びがあるんだろ」
エルセが、ほんの少しだけ目を細める。
「あるわよ」
静かな返事。
「宿も、王都も、先生も、ミレナも……」
そこで少しだけ間が空く。
「……あんたも」
前にも聞いた言葉だ。
でも、今こうして改めて聞くと、重さが違う。
俺は何か返したかった。
でも、それをどう言えばいいか、まだうまくわからない。
だから、正直なところだけ言う。
「それを、軽く扱いたくない」
エルセが立ち止まりかけた。
「……何それ」
「そのままだ」
俺は足を緩める。
「媒介の話をしてると、どうしても“何をどこへ置くか”って考えになるだろ」
「うん」
「でも、今のお前の言い方聞いてると、それを道具みたいに扱うのは違う気がする」
エルセはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ困ったように笑う。
「そういうの」
彼女は小さく言う。
「前の遼真なら、絶対言わなかった」
「そうかもな」
「……うん」
それから、ごくわずかに目を伏せる。
「でも、今のは嫌じゃない」
夕方の王都の音が、遠く聞こえる。
帰りたい理由を言葉にした。
でも、それで終わりじゃない。
物じゃ足りないなら、何を置くのか。
その問いは、結局いつも、俺たちが今どう繋がっているのかへ戻ってくる。
そしてたぶん、それを避けなくなったこと自体が、もう一つの答えになり始めていた。




