3 若返った聖女
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……ここは………?」
長い、長い夢を見ていた気がする。
子供の頃、フォルス家に仕える給仕のタニアおばさんが焼いてくれたクッキーが私は大好きだった。
いつも外で遊び疲れて、リビングのソファーでスヤスヤと寝息を立てて眠り込んでしまった私を起こしてくれたのは……タニアおばさんの焼く、焼きたてのクッキーの美味しそうな臭いだった。
あの頃は本当に、何もかもが『幸せ』に満ちていたのを憶えている。
世界には争いなど何もなく。私の周りを取り巻く小さな箱庭の世界には、私の事を大切にしてくれる両親と、家政婦さん達の温かさだけが満ち溢れていた。
「……もう一度、タニアおばさんの焼くクッキーが食べたい。あの頃の幸せな子供時代に戻りたい……」
そう強く願って、ゆっくりと目を開いてみたのに。
私の視界の先には、既視感のある見慣れた『牢獄』の景色が広がっていて。私はまだ自分が『地獄』の中にいるのだという事を強制的に思い出されて、死にたくなった。
そう……目の前に広がっているのは、30年にも渡って私の世界の全てを支配してきた薄暗い岩の牢獄だ。
やっぱりあの小さなガラス瓶の底に入っていた不思議な砂を飲み込んでも、この絶望的な監獄生活は何一つ変わってなどいなかったんだ。
「アハハ……。私って本当にバカみたい……。だって何一つ、現実は変わってなんかいないじゃない」
乾いた笑い声を吐き出し、目線をゆっくりと下に向けて落としていくと。
薄暗い岩牢の中で、ボロボロに破れた囚人服の隙間から露出している、透き通るような白い肌が目に入った。
「えっ……? そんな……!?」
さっきまで見ていた夢の中の世界の続きのように。ボロ雑巾のように腐りかけていたはずの私の皮膚が、まるで蝋人形のように白く艶やかな肌色を取り戻している。
依然として、ボロボロの囚人服を身にまとっている私を取り巻く、牢獄生活という環境は相変わらずだったけど……。
確かに私の体は――『若く』なっていた。
腕や足の皮膚の色は絹のように白く、10代の頃の艶を取り戻している。
……という事はもしかして、あの魔女のようにおぞましく醜悪な外見に成り果てた私の顔も、若い頃の綺麗な顔を取り戻せているのだろうか?
見たい……すぐにでも自分の顔を確認したい。
鏡面のように、光を綺麗に反射するガラス瓶を利用すれば。私の顔が今どうなっているのかを確認できるはずだ。
私は自分の顔を確認したくて、牢獄の中であの小さなガラス瓶を必死に探し回った。
でも……なぜか、ガラス瓶は見つからなかった。
どうしてなの? あの銀色の砂が底に詰まっていたガラスの小瓶はどこにいってしまったというの……?
その時――岩牢の外から、牢へと繋がる外からの螺旋階段をゆっくりと降りてくる、看守の靴音が遠くから聞こえてきた。
”カツン、カツン――”
私はその場で、とっさに身構える。
地下牢を巡回する看守の男は、汚れたネズミを見るように。いつも鼻で笑って私を見下してくる嫌な男だ。
外見はもじゃもじゃの黒い髭を喉の下にまで伸ばし、不清潔極まりない蛮族のような外見をした中年の男だった。
階段を降りて、岩牢の入り口にまで近づいてきた看守の男は、私の姿を見て驚きの声を上げる。
「――なっ、お前は誰だッ!? どうやってこの岩牢の中に入ったんだ! 囚人417号をどこにやった!?」
「えっ……?」
「コレはまずいぞ! 急いで上に報告しないとッ!」
踵を返して、慌てて螺旋階段を駆け上がっていく黒髭の看守。
彼はすぐに見知らぬ、若い上司のような男をここに引き連れて戻ってきた。
私が今までに一度も見た事の無い、少しだけ上等な白い衣服を着た責任者らしき男は……私のいる岩牢の中を松明の明かりで隅々まで照らし出す。
そして狭く薄暗い岩牢の中をくまなく凝視して、本来ここにいるはずの『誰か』を……必死に探しているように見えた。
「――おい! この見知らぬ若い女はどこから、牢の中に入り込んだんだ?」
「お、俺は何も知りませんぜ! さっき覗いたら、囚人417号の姿が消えていて。代わりにこの水色の髪の若い女が牢の中に入り込んでたんです!」
「クッ……。この女をすぐに上の尋問部屋に連れていけ。囚人417号の行方をコイツから聞き出すんだ!」
「りょ、了解ですッ!!」
一体、目の前で何が起きているのかは、すぐには理解出来なかったけど。
30年もの長い間――私をずっと幽閉し続けていた牢獄の扉がいとも簡単にガチャリと開かれると。
牢の中から無理やり引きずり出されるように、私は外に出されて。地下から上階に繋がる螺旋階段を登った地上部分の部屋へと連れて行かれた。
……信じられない。
だって今、私が見ている光景の全ては、30年ぶりに見る事の出来た牢獄の外の世界なのだから。
そんな景色がいつか見れたらと、期待して、心待ちにして。やがて……それを願った事さえ、遠い昔に忘れかけて置き去りにしてしまっていた念願の光景だった。
黒い髭面の看守と、身なりの整った若い男の2人組に連れられた私は……。螺旋階段の上にある、白い壁に囲まれた部屋の中に入れられる。
そしてすぐに部屋の中で、私への尋問が始められた。
「――おい、お前は一体誰なんだッ! 岩牢の中にいた囚人417号をどこへやった!」
「コイツ、417号が着ていた囚人服を着てやがりますぜ! きっと自分の服をあのボロボロの老婆に分け与えて、牢から外に逃したんですぜ!」
「あっ……ぅぅ………」
部屋の中にある、硬い椅子に無理やり座らされて。2組の男達に激しく詰め寄られた私は……頭がパニックになって。何も答える事が出来なかった。
なにせこの30年間。ろくに誰とも、まともな会話などした事が無かったのだ。
頭の中に伝えたいと思う言葉が浮かんでも、それを瞬時に口に出して『言語化』する事が出来ない。
それほどまでに私は、人と会話をするという基本的な言語能力が著しく衰えて、退化していた事を痛感させられてしまう。
けれど私がこの時……あまりの怖さと不安で体が震えて。言葉がすぐに浮かんでこなかった理由は、それだけでは無かった。
私は久しく忘れかけていた――『女』としての、男性に感じる恐怖と危機感を今、思い出していた。
それはここにいる看守の男達が、まるで獣のように呼吸を乱し。舌舐めずりをしながら、私の全身を下から順番に舐め回すように見つめる視線に気付いたからだ。
私の着ている囚人服は、この30年間……ほとんど着替えた事がなかった。
だから私が今着ている囚人服は、あちこちが破れかけていて。ボロボロになった布切れの隙間から、白い肌が多く露出してしまっている。
それをここにいる2人の看守達は、鼻息を荒くしながら凝視してきていたのだ。
「――おいおい。何も話さずにダンマリを決め込むつもりなのかよ。こうなったら、この若い女を拷問して。牢から居なくなった囚人417号の行方を無理やりにでも聞き出すしかないようだな」
「ヘッヘッへ! そうですね。俺もそれしか無いと思っていましたぜ!」
机を挟んで、私の向かい側の椅子に座っていた男達が立ち上がり。ゆっくりとこちらに向けて歩み寄ってきた。
その気持ちの悪い獣の視線で見つめられただけで、私の体は恐怖ですくみ上がってしまう。
「全く……囚人417号は老衰で死に絶えるまで、決して牢の中で死なせてはならないという、上からの指示があるんだ。だから絶対にこの女から、あの醜い老婆の居場所を聞き出さないといけないんだからな!」
えっ……? 今、何て言ったの?
私を決して『死なせてはいけない』――ですって?
そんな情報は、今の今まで全くの初耳だった。聖女を死なせたら国に災いが起こる。その言い伝えは昔からあったけど……。
妹のアリスティアが聖女を継承したのなら、私の生死はもう、どうでも良い事ではないのだろうか?
でも、それで食事の時には徹底して木製のスプーンや木製の皿だけが与えられていたのね。鉄製の食器を与えて、万が一にも私が牢の中で『自殺』を図らないように常に監視していたという事なのね。
でも、どうして……私に死なれたら困るのかしら?
私を牢獄に幽閉し続けた者は、この私を生かしておく事で得られる『何かの利益』でもあったとでもいうの?
そんな事を、頭の中で考えていたら。
突然、黒髭の看守の男が、ボロボロになった私の服を後ろから無理やり掴みあげてきた。
そして強い力で、私の体を冷たい石の床の上に押し倒し。私の服を引き裂こうと――体の上に馬乗りになって、私の両手を拘束するように押さえつけてくる。
「……い……嫌よ!!」
恐怖で頭が真っ白になって、全身が硬直した私は……何も抵抗が出来なかった。
体が若返っても、私には人と争う戦闘の経験が圧倒的に足りていなかった。
冷たい石の床の上に仰向けになるように、上から組み伏せ。無抵抗状態にする為に両手も拘束されて。
闘牛のように鼻息が荒い、獰猛な男達2人に体を押さえつけられた私には、何一つ彼らに抵抗出来るような余地は残されていなかった。
……このままでは、2匹の獣達によってなすががままに私の体は蹂躙されてしまうだけだ。
ねぇ……本当に、何とかならないの!?
お願いだから、誰か……私を助けてよ……ッ!!
お母様、お父様。どうか私を助けて下さい! お願い、アリスティア……エルムハルト殿下……!!
私は必死に頭の中に思い浮かぶ、過去の想い出の中の人物達に救いの声を投げかけてみるも……。
囚人服を半分近く切り裂かれて、両目から大粒の涙を流している私の顔を見て。
看守の男達は更に興奮した様子で鼻息を荒げながら、今にも私の体に襲いかかろうとしてきていた。
……あまりの恐怖に、思わず私はその場で目を閉じて。
目の前に広がる全ての『現実』を遮断して。暗黒の深淵の中に逃げ出してしまいたい気持ちに駆られる。
やっぱり私には、救いの手は差し伸べられなかった。
……アハハ、そうよ。だって30年も、私は牢獄の中にほったらかしにされていたのよ?
髪も歯もほとんど抜け落ちて。この世のものとは思えない程の、醜悪な魔女の外見に成り果てて。
そんなにまでなっても、おとぎ話に当初するか弱いヒロインのお姫様のように。まだどこかから白馬の王子様がやって来て、『救いの手』が差し伸べられるのを待っているつもりなの――?
いい加減に気付きなさいよ、クリスティナッ!!
誰も私の事なんて助けてくれない。誰も私の事なんて、気にもしていない!
それがこの恐ろしい世界の現実なんじゃないの。こんな所で女々しく泣き叫んだって。誰も助けになんか来ないという事は……あなたなら、もう嫌というほど分かっているでしょう?
それならば、私の運命は……この私が自分自身の力で切り開くしかないのよ!
少なくとも、今の私は30年間も幽閉されていたあの牢獄の中から外に出られたのよ。
そしてボロボロの老婆の肉体ではなく、若い10代の頃の活力の溢れる肉体を取り戻したのよ!
そんな大チャンスを与えられて、また暗黒の牢獄生活に逆戻りさせられたいの?
そんなの……絶対に嫌に決まってるじゃないの!!
両目をカッと見開き。全身を拘束された今の私が唯一動かす事の出来た口を大きく開いて。
私の肩を押さえてつけている髭面の男の大きな指を、渾身の力を込めて『ガブリ』と噛み切ってやった。
「ぐぎゃァァああァァッーーッ!?!? この女!! 俺の指を噛みちぎりやがったぞッ!!」
あまりの痛みに耐えかねた黒い髭の看守が、噛み付いてくる私の体を思いっきり蹴り飛ばした。
勢いよく石畳の床を転がされた私は、すぐにその場で飛び起きると。口の中に残る血生臭い不快な汚物を『ペッ……』と吐き出し。
生きるか死ぬかの野生の世界で生存している獣達のように、殺気に満ちた目つきで目の前にいる男達を威嚇しながら睨みつけてやった。
「――コイツッ!! 絶対に殺してやるからな!!」
「待て、殺すんじゃない! 囚人417号の行方を聞き出さないと、俺達がアリスティア王妃とエルムハルト国王からお叱りを受けて、牢に放り込まれてしまうかもしれないんだぞッ!」
………えっ?
今、『アリスティア王妃』と『エルムハルト国王』って言ったの……?
それって、もしかして。私の妹のアリスティアと、エルくんの事なの? 2人が王妃と王様になっているって事は、まさか、そんな――!?
その瞬間――私の全身から突然、真っ白な光が周囲に向けて発せられた。
「……なっ、何だこの白い光は!?」
私の前に立ち塞がっている2匹の獣達は、目に見えない『何かの力』に強く弾き飛ばされるかのように。尋問部屋の硬い壁に体を叩きつけられて、その場に倒れ込む。
その驚くべき光景を目にした、私自身も……。
全身から発せられる白い光の、あまりの眩しさと熱量に目を奪われ。
その場で力尽きるかのように、床の上に倒れて意識を失い。深い眠りに落ちていってしまった。




