2 腐りかけのパン
「……な……に、これ……?」
震える指先で、ガラスの小瓶の中に入っていた紙のメッセージを読んだ私は……。
思わず喉の奥から震える声を、無理やり絞り出すかのように呟いてしまう。
「この私に『復讐』を望むか……ですって?」
――そんなのは、当然。
「望むに決まっているじゃないのッ!!」
誰がこんな陽の光も当たらない、モグラの巣穴みたいな地下牢獄の中で。誰にも知られずに、孤独にひっそりと朽ち果てる人生で満足できるというのよ!
私は……ライラック王国の由緒正しき『聖女後継者』だったのよ?
別に王宮の中で贅沢な生活のできる、お金持ちの人生を送りたかった訳じゃない。ただ普通の人として、慎ましやかに。そして穏やかで平和な日常の時間を過ごす事が出来たなら、それだけで私は十分に満足だったのよ。
それが何で……こんなにも惨めで、哀れな牢獄生活を送っているの?
この場所に30年間も閉じ込められ。世間からは『私』という女の記憶なんて、とうの昔に忘却の片隅に封印されて。
下手をしたら、ここに私を閉じ込めた者達でさえ……その事を完全に忘れてしまっているんじゃないかと、疑ってしまうレベルで放り捨てられている。
そんな何の意味も無い、灰色の日々。
何一つとして、生きる価値の無い虚無な人生。
この私を……この無限地獄の底に突き落とした者達の事を、恨まないでいられるはずがないじゃないの!
そうよ……絶対に復讐したい。殺してやりたい!
せめて私と同じ『地獄』に、そいつを突き落としてやらないと、納得なんて出来っこないわ!
……でも、王宮で開かれたあの『舞踏会の事件』から。30年もの月日が経ってしまっている。
きっと私との婚約を破棄したエルムハルト殿下も、妹のアリスティナも。王宮にいた私の友人達も。
大昔に聖女の地位を継ぐはずだった、過去の人物である私の事なんて……とうの昔に忘れてしまっているに違いないわ。
フォルス家の屋敷にいたお父様も、お母様も、既に他界していて。この世にはもう居ないのかもしれない。
なにせ私はそれくらいに、多く歳をとり過ぎてしまったのだから。
そんな状態で今更、復讐だなんて……そんな事をして一体、何の意味があるというのだろうか?
失ってしまった月日と歳月はもう、二度と取り返す事は出来ないというのに。
だけど、ガラスの小瓶の中に入っていた紙のメッセージの中で――私に無実の罪を着せて、今も『至福の人生を謳歌している者達』という言葉のくだりが気になった。
私をこの監獄島の牢獄に送りこんだ者が、今……この瞬間も。平穏で悠々自適な生活を送り。幸せな人生を謳歌しているというの?
私がこんな、陽の光も差し込まない地下の暗闇の中で、孤独に一人で朽ち果てようとしているというのに。
無実の罪で私を牢獄に追いやった者は、私の事なんてあっさりと記憶の片隅から忘れて。陽の当たる青い空の下の世界で、今も幸せな人生を送っているのだとしたら――。
「――そんな事、絶対に許せないわ!!」
ワナワナと紙を持つ手が、小刻みに震え始める。
繰り返す絶望の日々の中で、記憶の奥底にしまい込み。久しく忘れてかけていたはずの、強い剥き出しの感情が――私の心の中から泉の湧き水のように激しく溢れ出てくるのを感じる。
そうよ――許せない。
こんな事、許せるはずがないッ!!
私という人間の尊厳を、地の底を這いずる虫ケラ以下の存在にまで貶め。私の人生の全てを安全な場所から奪い取った奴がいるというのに……。
そんな奴が、監獄島の牢獄に送りこんだ私の事なんてとっくの昔に忘れて。今ものうのうと外の世界で幸せに生きているだなんて、許せるはずがないじゃないの。
そんな奴はこの手で直接首を締め上げて、殺してしまいたいくらいよッ!
「ハァ……ハァ……ハァ………」
激しく興奮して、私は息切れを起こしてしまった。
何とか高揚する精神を落ち着けて、ガラス瓶の中に入っていた紙切れの文字の続きを読み進めてみる事にする。
『――もしも汝が、その者達への復讐を望むというのなら。小瓶の底に入っている『銀の砂』を口に含んで一気に飲み込むが良い。さすれば汝の人生は、本来あるべき『聖女』としての輝きを取り戻すであろう』
「えっ? 『銀の砂』ですって………?」
ガラスの小瓶を上に持ち上げてみると。紙に書かれた謎のメッセージの通り、確かに底の方に『銀色の砂』が入っているのが見えた。
その時――私はガラスの小瓶の底を覗こうとして。透き通るように光を反射する、美しいガラス瓶の側面部分が視界に入り込み。
小瓶のガラスにくっきりと映り込んだ『自分の顔』が……覗き見えてしまった。
この地下の牢獄の中には、鏡など置かれてはいない。
食事の時に与えられる食器も、全て木製のものばかり。薄汚れたコップに注がれたドロドロのスープや、黒く濁った水は、いつも私の顔を反射させて映し出す事は一切無かった。
牢獄の中で用を足す為に掘られた穴は深く。ここでは自分の姿を確認出来る、一切の術が用意されていないのだ。
だから……私は、今までずっと知らなかった。
30年間も、この監獄島の暗い牢獄の中に閉じ込められ。外界から隔絶された環境にいる『現在の私』が、一体どのような容姿をしているのかという事を……。
光を綺麗に反射するガラス瓶の側面に、反射して映し出された自分の顔を見て。
私の手は、あまりの恐怖で小さく震えてしまう。
なぜならガラスの側面に反射して見えた、現在の私の顔は……あまりにも醜く。まるでおとぎ話に登場する魔女のような、醜悪な『老女』の顔に成り果てていたのだから。
「嫌ァァァぁあああぁぁーーーッッ!!」
……嘘よッ! 嘘よッ! 絶対に認めない!!
こんなのは断じて――『私』じゃないッ! 私は、私は……名門フォルス家の長女。聖女後継者として王宮で育てられた、クリスティナ・フォルスなのよッ!
透き通る水のように綺麗だと言われた、私の自慢の水色の髪の毛は、ほとんど抜け落ちてしまっていた。
水晶のように美しいと評判だった碧眼の瞳は、色がくすんで。今はまるで汚泥のように醜く澱んでしまっている。
美しく艶のあった白い頬は、まるで硫酸を浴びせられたかのように、醜く腐って痩せこけている。
これが、これが……30年にもわたる、暗黒の牢獄に閉じ込められ続けてきた元聖女後継者の女が辿る、余りにも悲惨過ぎる哀れな末路だとでもいうの?
ボロボロの雑巾よりも醜い、魔女のような老婆に成り果ててしまった自分の顔を見て。
もう……私の心に、一切の迷いは無かった。
すぐにガラスの小瓶の底に入っていた『銀色の砂』を、口の中に勢いよく放り込み。
迷う事無く、喉の奥に一気に流し入れた。
もしかしたら、この紙切れの文字こそが真の『罠』という可能性もあり得るかもしれない。
元、聖女後継者であった私を、監獄島の獄中で秘密裏に毒殺する為に。これは何者かによって用意された罠なのかもしれない。
……そんな考えも、一瞬だけ頭の中をよぎったけど。もう、そんな事はどうでも良かった。
私は例えここで死んでしまったとしても、全然構わないとさえ思っている。
17歳から30年にも渡って、こんな何も無い監獄島の牢獄の中に閉じ込められてきた私の人生に。
魔女のように醜い外見に成り果ててしまった、哀れな私自身の『人生』に――。
一体、何の意味があったというの?
こんな姿になってまで生き続けて、孤独に牢獄の中で朽ち果てて死んでいくくらいなら。いっそ、この場ですぐにでも死んでしまった方が遥かにマシだわ。
今の私に失うものなんて……何も無いのだから。
何を為す訳でもなく。聖女として、王国に住まう人々の幸福に寄与する事もなく。
そしてあまりにも理不尽で過酷な運命に放り込まれてしまった、私自身の人生の『真実』を知る事もなく。
ただゆっくりと、ここで孤独に朽ちて死に絶えろというのなら。私は最後に与えられたこのチャンスに全てを賭けてみたかった。
そして私の人生を、こんなにもおぞましい地獄の底に放り込んだ連中を、同じ地獄の底に引きずり込んでやりたかった。
その願いが叶うというのなら。その為にこの命を悪魔に捧げろというのなら。私は自分の命なんて幾らでも、くれてやって構わないと思っている。
だから私は必ず、この手で復讐を成し遂げてみせると心に強く誓ってみせた。
ガラスの小瓶に入っていた銀色の砂を、喉の奥に一気に飲み込んだ私の体は……。
突然、視界がボヤけていき。意識が何かに吸い込まれるかのように、次第に薄く遠のいていった。
体中の筋肉に力が入らず。その場で気を失うようにして倒れ込む。
気絶する寸前の、薄れゆく視界の中で。
最後の力を振り絞って、瞼を閉じまいと必死の抵抗をしていた私の目には……。
うっすらと映り込む暗い牢獄の中で、前に伸ばした自分の右手が――微かに光を発しているのに気付いた。
その光はみるみると全身にまで広がって、私の体全体を包み込み。
やがて私の全身の肌は、まるで10代の頃に戻っていくかのように。艶やかな輝きを放ちながら若返っていくのが……薄れゆく意識の中で最後に私が見る事が出来た光景だった。




