3.夏の雄山(おやま)
《夏》
暑いのか寒いのかよくわからない。
なぜ、私はこんなところにいるのだろうか。いや、紛れもなく自分の意思ではあるのだが。
無造作に立っている看板の文字は疲労からか、それとも日焼けしているのか、かすれて見える。
何かの注意を促す看板のようではある。
七月下旬。
後輩の甲斐に誘われて立山連峰にくることになったのだが、これはキツイ。
昨日の夕方から新幹線、在来特急、ホテルで一泊。そして、バス、ケーブルカー、ロープウェイ、再びバス……数多の交通機関を駆使してここに来たわけだが、来るだけでもくたびれる。肩は凝ったし、足はむくむし、もう登る前から踏んだり蹴ったりだった。こんなことなら温泉旅にするほうがよほど健全だ。
私の数メートル先でフィルムカメラを片手にして、跳ねるようにヒョイと岩場を乗り越えていく甲斐は疲れなど微塵も感じさせない足取りを見せる。
「小野先輩、これっぱかしのこんで、へこんじゃダメですよぉ?」
私はキャップを外しタオルで汗を拭いながら近くの岩に腰を預ける。少し遠くを見上げると切り立つような頂が見えた。ガスに覆われているその切っ先は晴天であるが、風の流れでその姿は何度も消えては現れる。
「か、甲斐……私はアンタみたいな山育ちの野生児ちゃうねん。都会っ子は――」
カシャリ。
フィルムカメラのレンズが私をとらえる。カメラ本体をずらしながらピンク色のパーカーを着た甲斐は屈託なく白い歯をのぞかせていた。
またあのカメラだ。今日はレンズカバーをきちんと外している。
「何が都会っ子だねぇ。ほら、山頂までこぴっと頑張るずら!」
一年以上付き合いはあるものの、相変わらず甲斐が何を言っているのか七割程度しか理解できない。いや、今は酸欠でもっとよくわからない。
「いや、まあここまで来たから頑張るけど、てっぺんまでめっちゃ渋滞しとるやん」
前方には何人もの登山客が列をなしてぞろぞろと立山連峰主峰のひとつ、雄山のてっぺんを目指している。ラーメン屋よりも待つことはないだろうが、帰省ラッシュの高速道路みたいだ。
「休みの風物詩だねえ〜」
甲斐は腕を組みながらうんうんと頷く。この見晴らしのいい中間地点にくるだけでも、かなり多くの人がいたが、山頂に近づくにつれて、狭くなる道のりは必然的に人が一人しか通れないような岩の道だ。
「さ、小野先輩。行きますよぉ〜」
甲斐がフィルムカメラを首からぶら下げたまま、私の手を掴み引っ張る。ギュッと掴んだ掌は薄手のパーカーから熱をほのかに感じる。
「わかった! わかったから、ちょっと待ってや」
腕を引っ張られた勢いのまま、キャップを被り直し、もつれそうな足で渋滞の列に改めてくわわる。
ゴツゴツの大きな石に手をかけ、進んでは止まり、止まっては進む。
霧のようなガスが身体を冷やしたかと思えばいきなり太陽が現れて汗が吹き出る。私の体温調節器官は私以上にパニックになっているに違いない。
下っていく人とはわずかに違うルートでペイントされた石を目印に一歩。また一歩とその頂を目指す。
「小野先輩、もうちょっとですよぉ」
「わ、分かったから」
休み休みながら、登る。後ろに続く人たちも待ってくれていた。慣れない登山靴の足首は固いが、これがなければ捻挫してしまうほどの足場の悪さだ。
ようやくの思いでてっぺんの神社下までたどり着く。乱れる呼吸を整え、近くの岩場にへたり込む。
「小野先輩、よく頑張ったねぇ〜」
「もう、無理やで……」
私はガスが広がる眼下を見渡す。ほとんどがケーブルカーやロープウェイでの高低差移動で、歩いた距離にしては一キロにも満たないだろう。
そして、このガス。達成感があるようなないような微妙な気持ちだ。仁王立ちして甲斐は私に背中を向けて、麓にカメラを構えている。
その時、何もかもをさらうような風が吹いた。キャップが飛ばされそうになるのを抑え、目を瞑る。
「風、強っ……!」
「お、先輩、先輩! 見るじゃんね!」
「なに――」
一瞬でガスが晴れる。山々に囲まれた少しだけ低い世界。
夏の高山特有の瑞々しさとわずかに残る雪。
緑は短く青い季節を謳歌するように揺れる。
呼吸は乱れたまま、汗をかいたまま、私は生きている。
「……」
「ね、先輩。きてよかったでしょぉ?」
いたずらっぽく甲斐はファインダーを覗き込み私にレンズを向けた。
メイクも日焼け止めも落ちた顔を撮られる。でも、今は言い返すことはしない。
「……山も悪くないなあ」
ボソリと私は呟いた。
「さ、小野先輩がもう無理そうですし、クマが出ても勝てっこないから、おりていきましょーかぁ」
「え? クマ?」
「あら? 言うてませんでしたっけえ? 出没情報あるんですよぉ。看板も立ってたじゃんね」
「そんなん聞いてへんわ!」
呑気な甲斐を尻目に私は上りの倍以上の速度で一目散に下山するのであった。
「夏の雄山」いかがだったでしょうか。
登山できる人はスゴいと思います。自分には真似できません。




