第9章 カーテンを外す夜
十月の末、北方の秋は駆け足で終わりへ向かった。
朝、庭に出れば草の先が白い。昼になっても風は冷たく、夕方には暖炉の火が恋しくなる。
冬至祭まで、あと二か月弱。
エレナとヴィクトルは、表向きには何事もないように過ごしていた。
領主夫妻として冬支度を進め、冬至祭の準備を確認し、領民代表との面会をこなす。その裏で、父の本の写しを作り、王都から届いた返事を読み解いていた。
ヴィクトルの父から、依頼について承る、と返事が来た。
遠回しに心配している旨が記載されていたが、簡潔な文章だったため、
ヴィクトルとお父様は似ているのかもしれないわ、とエレナは思った。
ヴィクトルの弟レオンからは、思ったより早く返事が来た。
――兄上が急に王都の帳簿と魔術工房に関心を持つとは、明日は北方に花でも咲くのでしょうか。
エレナはそこで笑いをこらえた。
「弟君は、なかなか遠慮がありませんね」
「昔からだ」
「仲がよいのですね」
「悪くはない」
「この文面で?」
「悪ければ、もっと刺すだろう」
ヴィクトルは真顔で言った。兄弟の距離感はよく分からない。
レオンの手紙には、続きがあった。
王都の監査院では、数か月前から北方防衛費に関する照合記録の一部が見当たらないと、内々で騒ぎになっていること。表向きにはまだ問題化していないが、財務に関わる貴族の一部が妙に神経質になっていること。特にベルトラム侯爵家の周囲で、監査記録の再確認を避けようとする動きがあること。
そして、最後にこう書かれていた。
――近日、王都の魔術工房から北方へ向かう者がいるようです。名目は冬至祭の魔術灯点検。兄上の許可が出ていないなら、警戒を。
エレナはその一文を二度読んだ。
「王都の者が、辺境を探りに来るようですね」
「ああ」
ヴィクトルの声は低かった。
妹からの手紙も届いた。
――お兄様へ。
――社交界では、ベルトラム侯爵夫人が最近やたらと北方の冬至祭に興味を持っています。
――『辺境伯家の奥方は王都育ちなのに、北方の祭礼を務められるのかしら』などと、親切そうな顔をして様子を探っているようでした。
――お義姉様、兄が黙ったままの時は、遠慮なく足を踏んでやってください。
エレナは手紙を畳みながら言った。
「妹君とも、早くお会いしたいです」
「やめた方がいい」
「なぜですか」
「二人で私を追い詰める未来が見える」
「予知でないといいですね」
エレナの父からも返事があった。
文面は丁寧で、遠回しで、そして父らしく回りくどかった。
――古い防御魔術書の余白につきましては、やはり通常のものとは異なる処理が施されているかと存じます。
――冬支度に関わる数字は、王都側の記録だけではなく、現地の納入記録と照合することが肝要です。
――なお、王都では最近、古い帳簿を探す者がいるようです。
――エレナ、くれぐれも不用意に動かないように。
エレナは最後の一文をしばらく見つめた。
「どの口が言うんでしょう」
「ん?怒っているのか」
「もちろんです。娘に危険物を持たせておいて、不用意に動くな、なんて」
「返事で抗議するか」
「しましょう。とても丁寧に」
ヴィクトルは、少しだけ父に同情する顔をした。
不正の輪郭は、ほぼ見えた。
北方防衛費の一部が、王都側で横領されている。証拠となる照合記録を隠したことがバレたようだ。その行方を探る者たちがいる。彼らの正体もほぼ掴めた。
北方から正式な告発がないことから、彼らはまだ事が発覚していないと思っているだろう。おそらく冬至祭の人の出入りを利用して本を回収するつもりだ。
こちらはそれを待ち受ける。
ただし、ヴィクトルは慎重だった。
エレナは写しの紙を整理しながら答えた。
「写しは準備できました。療養地のご両親へ原本を。弟君へ暗号写しを。妹君へは社交界で使える断片だけ。父には照合用の確認依頼を送ります」
「ああ」
「それから、王都から来る魔導士を泳がせる」
「危険だが、背後を掴むには必要だ」
ヴィクトルはエレナを見た。
「ただし、君は近づきすぎるな」
「近づきすぎる、の基準は?」
「会話しない」
「それだと、近づかない、です」
「視界に入れない」
「私の存在を消せとおっしゃるの?」
ヴィクトルは真剣だった。真剣すぎる表情に、エレナは少し笑ってしまった。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「相手が魔術を使うなら、術式の癖を見る必要があります」
「……」
「つまり、私の目も必要」
ヴィクトルは苦い顔をした。
「分かっている」
「では」
「分かっているが、嫌だ」
「正直ですね」
「隠しても寝言で言うだろう」
エレナは一瞬黙り、
「それはそうですね」
と、笑った。
ヴィクトルは少しだけ目を逸らした。
以前なら、この話題だけで彼は固くなった。今は自分から寝言のことを口にできる。
そしてついに、王都から魔導士がやって来ることとなった。
名目は魔術灯の調整。実際には、父の本を探りに来る可能性が高い。
その前夜、エレナはいつもより少し早く寝室へ入った。
寝台に腰掛け、帳面を閉じた。すぐには眠れそうもない。
カーテンの向こう側では、ヴィクトルが護符を確認している気配がする。相変わらず多い。
以前なら、それを過保護だと呆れた。まあ、今もまだ呆れてはいるが。
ヴィクトルはエレナを失うのが怖くて、だから過剰に守ろうとするのだと納得している。
「ヴィクトル様」
「何だ」
返事はすぐだった。どうやら、彼も眠る気配はない。
「明日のことを考えているのですか」
「ああ」
カーテンの向こうで、小さく布の擦れる音がした。
ヴィクトルが近づいたらしい。
「エレナ」
「はい」
「頼みがある」
その声が、いつもより硬かった。
エレナは背筋を伸ばす。
「何でしょう」
「このカーテンを、外したい」
エレナは部屋の中央にある紺色の厚い布を見た。
白い結婚のための境界線。半年以上、二人の寝台を分けてきたもの。
真相を知った後、二人の距離は確かに変わったが、それでも寝室のカーテンだけは、まだ残っていた。
エレナが何も言わなかったから。ヴィクトルも、踏み込まなかったから。
「どうしてですか」
エレナは静かに尋ねた。
カーテンの向こうで、ヴィクトルが息を吸う気配がした。
「明日、危険が近づく」
「はい」
「君を隠したい。遠ざけたい。何なら部屋に閉じ込めたい」
「約束違反です」
「ああ。だから、しない」
彼は低く続ける。
「だが、カーテンのこちら側で一人で考えていると、私はまた、君を守るという名目で、君の意思を後回しにしそうになる」
「……」
エレナは黙った。
「この布は、俺が自分を止めるために置いたものだ」
「近づきすぎないために?」
「ああ」
「私を守るために?」
「そう思っていた」
思っていた。
その言い方に、エレナは胸を突かれた。
「でも、違ったのですね」
「違った」
ヴィクトルの声は、少し苦しかった。
「俺は、君を守ると言いながら君から逃げていた。君に拒まれることも、君をまた失うことも、君を今の君として愛してしまうことも怖かった」
エレナは手元の布団を握った。
「今の君を愛している」
寝言ではない。
起きているヴィクトルの声だった。
「前の君を忘れたわけではない。忘れられるはずがない。だが、今ここにいる君を、私はもう前の記憶の代わりとして見ていない」
「……はい」
「君が怒るところも、私を追い詰めるところも、領主夫人として前に出るところも、紅茶を淹れながら少し得意げになるところも」
「紅茶の話は今必要ですか」
「必要だ」
「ふふっ、そうですか」
エレナは少しだけ笑った。笑わないと、泣きそうだ。
ヴィクトルの声はさらに低くなる。
「だから、頼む」
カーテン越しなのに、彼が頭を下げたような気がした。
「このカーテンを外させてくれ」
「……」
「今の君の隣にいるために」
エレナの胸が、静かに熱くなった。
二人を分けていたカーテンは、布一枚だけの問題ではなかった。
ヴィクトルの恐怖。エレナの遠慮。白い結婚という言い訳。前の時間軸と今の時間軸の境目。その全部が、この布に重なっていた。
それを、彼が外したいと言っている。懇願している。
エレナは立ち上がり、カーテンの前まで歩く。
向こう側で、ヴィクトルも同じように立っている気配がした。
布越しに、互いの気配を感じる。
「ヴィクトル様。私も、あなたの隣にいたいです。
だから、外してください」
向こう側の気配が、わずかに揺れた。
ヴィクトルの手が、カーテンの留め具に触れる。
古い金具が、小さく鳴った。
ひとつ。 ふたつ。 みっつ。
厚い布が、ゆっくり下ろされていく。
部屋が広がった。
エレナ側にある暖炉の光が、何にも遮られずに両方の寝台を照らした。
そこに立つヴィクトルは、少し青ざめていた。緊張している。
エレナも同じだった。
カーテンがなくなっただけなのに、部屋の空気がまるで違う。
近い。声も、息遣いも、視線も。
「外れましたね」
「ああ」
ヴィクトルの声は掠れていた。
エレナは一歩近づいた。
ヴィクトルは動かなかった。
「私、少し嬉しいです」
「……嬉しい?」
「はい」
エレナは、落ちたカーテンを見た。
「この布がある間、あなたは近くて遠い人でした。寝言は聞こえるのに、昼間のあなたは遠くて。何を隠しているのか分からなくて」
「すまない」
「でも、今はその理由を知っています」
ヴィクトルは、ゆっくりエレナに手を伸ばした。
だが、触れる直前で止まる。いつもの癖。
エレナは、その手を自分から取った。
「止めないで」
「エレナ」
ヴィクトルの喉が小さく鳴った。
彼は、エレナの手を握った。
大きくて、少し冷たい手。指先が少し震えている。
エレナはその震えを包むように、両手で握り返した。
「私はここにいます」
ヴィクトルはしばらく固まっていたが、やがて腕をそっとエレナの背に回した。
壊れ物に触れるような、ためらいがちな抱擁。
エレナは目を閉じた。
この人は、ずっとこうしたかったのだろう。でも我慢していた。怖くて。自分を責めて。今のエレナの意思を待つために。
そう思うと、胸が痛くて、同時に愛おしい。
ヴィクトルは確認するように聞いた。
「触れてもいいか」
「もう触れていますよ」
「もっとだ」
エレナの心臓が跳ねた。
彼の声は真面目だった。真面目すぎるほど真面目で、だからこそ危うい。
エレナは、少しだけ目を伏せた。
「……はい」
ヴィクトルの右手が、エレナの頬に触れた。
指先はまだ少し冷たい。
けれど、その触れ方は驚くほど優しかった。
次の瞬間、唇が重なった。
最初の口づけは、とても静かだった。確かめるように。
夢ではないと、何度も心に言い聞かせるように。
エレナは目を閉じた。
暖炉の火が小さくはぜる音がする。外では風が窓を叩いている。
けれど、そのどちらも遠かった。
今はただ、ヴィクトルの手の温度と、少し震える息だけが近い。
唇が離れる。
ヴィクトルは、エレナの顔を見たまま動かなかった。
彼は、泣きそうなほど幸せそうな顔をしていた。
「エレナ。君を愛している」
見つめられて、胸が大きく揺れた。
「はい。私も」
エレナは頬を赤くしたまま、けれど逃げずに答えた。
そして再び唇が触れ、重なり合うと、ゆっくりと口付けが深くなっていく。
時折漏れる甘い吐息のような息継ぎが部屋の中に広がり、二人だけの世界の中で、互いを味わう長いキスに没頭する。
エレナは思わず、彼の袖を握った。それを合図に、唇が離れ、ヴィクトルは額を合わせるようにして低く呟いた。
「……吠えそうだ」
「今、ここで?」
「ああ」
「お願い、耐えてください」
「努力する」
ヴィクトルの真剣な声に、エレナは笑ってしまった。
その笑いを、ヴィクトルはひどく眩しそうに見ていた。
「ヴィクトル様、今日は、このまま眠りたいです」
「……このまま?」
「はい。隣で。変な意味じゃありません。明日は大事な日なので」
ヴィクトルは一瞬、言葉を失った。
それから、とても慎重に頷く。
「分かった」
その夜、二人は一緒にエレナの寝台で眠った。ただし、本当に眠るだけ。互いの温度を確かめるだけ。
ヴィクトルは向かい合うエレナを抱き寄せたまま、何度も小さく息を吐いた。
「眠れませんか」
「少し」
「私もです」
エレナは彼の胸元に額を寄せる。
「でも、安心します」
「そうか」
「はい。カーテン越しより、ずっと」
ヴィクトルの腕に、また少しだけ力が入る。
「外してよかった」
「はい」
しばらくして、ヴィクトルの呼吸が深くなった。
眠った。
エレナも眠りに落ちかける。
その時、すぐ近くで低い寝言が聞こえた。
「……エレナが隣にいる……」
近い。
カーテン越しとは違う。胸に直接響くよう。
「逃げていない……怖がっていない……」
エレナは目を開けた。
「怖がっていません」
「エレナ……愛している……」
エレナは息を止めた。
寝言なのに。さっきも聞いたのに。また、胸がいっぱいになる。
「カーテン……外した……もう戻さない……」
エレナは、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「はい。戻しません」
ヴィクトルは眠ったまま、安心したように呟いた。
「明日……守る……隣で……」
エレナは目を閉じる。
「ええ。隣で」
その夜、部屋は本当の意味で一つになった。
明日、魔導士が屋敷を訪れる。
危険が近づいている。
けれどエレナはもう、カーテンのこちら側で守られるだけの妻ではなかった。
そしてヴィクトルも、カーテンの向こう側で一人苦しむ夫ではなかった。
二人は同じ寝台で目を覚まし、同じ危険へ向かう。
その始まりの夜は、思ったより静かで、甘かった。




