第8章 ついに夫は話す
エレナは、人払いしている読書室で暖炉前の長椅子に座っていた。
泣きすぎて、目元が熱い。こんなに泣いたのは子どもの頃以来な気がする。感情が溢れてしまい、止められなかった。
ヴィクトルは向かいではなく、少し離れた椅子に座っている。近づきたいのに、近づく資格がないと思っているような距離だった。
「最初から、話してください」
声も少しかすれていた。
ヴィクトルが顔を上げる。
「最初から?」
「はい。一度目の私たちのことを。あなたが何を失ったのか知りたいです」
ヴィクトルは長い間、黙っていた。
やがて、低く息を吐く。
「一度目も、結婚は三月の頭だった」
今と同じ。
ただ、一度目のヴィクトルは今ほど極端ではなかった。
寝室は別。護符も多くはない。彼はまだ、エレナの食事の好みも、菫の花が好きなことも、冷え性も知らなかった。
「最初の俺は、今よりずっとひどかった」
ヴィクトルは苦く笑った。
一度目の結婚も、白い結婚として始まった。政略結婚。恋愛感情なし。互いに干渉しない。ヴィクトルはそう決めていた。エレナも、それを受け入れた。
最初の数週間は、必要な会話しかなかったという。
朝食の挨拶。屋敷の案内。使用人への紹介。領主夫人としての最低限の説明。
ヴィクトルは無口で、エレナは遠慮していた。
父から預かった本も、まだ渡せていなかった。
「父からは、落ち着いたら辺境伯本人に渡せと言われていました。なので一度目の私は、結婚したばかりのあなたに本を渡せなかったのですね」
「ああ」
ヴィクトルは頷いた。
「君は何度か、何か言おうとしていた。だが、私が仕事を理由に席を立ったり、君が遠慮したりして、話せないままになった」
「ありそうです」
エレナは少しだけ目を伏せた。
今の自分なら言える。夜毎の寝言を聞いていて、彼からの愛情に多少自信を持っているから。
だが嫁いだ頃の自分を思えば、分かる。
初めての屋敷。無口で何を考えているか分からない夫。白い結婚という距離。
父から預かった本が大切なものだとは思っていても、その重要さを知らない。なので、今すぐではなく、夫とちゃんと話せるようになってから。そう考えたとしても、不思議ではない。
ヴィクトルは続ける。
「春から夏にかけて、君は屋敷に馴染んでいった。使用人の名前を覚え、領地の記録を読み、薬草園にも行った。領民の話もよく聞いていた」
それは、今のエレナが過ごしてきた半年とよく似ていた。
春の畑。夏の薬草園。保存食作り。領民の遠慮が、少しずつ親しみに変わっていく感覚。
記憶はないのに、同じ道を歩いたような気がした。
ヴィクトルは静かに続けた。
「秋には、俺たちはずいぶん話すようになっていた」
「今の私のように?」
「今の君より、まだ少し遠慮していたかな」
少しだけ、空気がやわらいだ。
ヴィクトルの目に、懐かしさが浮かぶ。
「紅茶を淹れてくれたのも、その頃からだった」
「前の私は上手でしたか」
「最初は苦かった」
「……」
「だが、得意げだった」
「その情報は必要ですか」
「必要だ」
真顔で言われると、返しに困る。
ヴィクトルの声が、わずかにやわらかくなる。
「冬至祭の前に、白い結婚ではなくなっていた」
その言葉で、エレナは少し頬が熱くなった。
ヴィクトルも言いにくそうに目を逸らす。
それでも、彼は続けた。
「俺たちは、ようやく夫婦になった。遅すぎるくらいに」
「……そう」
「ああ」
短い返事だった。けれど、その一言に詰まっているものは重かった。
半年以上かけて、二人は近づいた。白い結婚から始まり、少しずつ話し、笑い、信頼し、夫婦になった。それは、今のエレナがヴィクトルに惹かれていった道と、あまりに似ていた。
エレナは胸に手を当てた。
不思議だった。自分には前時間軸の記憶はない。その時の紅茶の味も、白い結婚が終わった夜も覚えていない。
それなのに、分かる。一度目の自分が、ヴィクトルを好きになった理由が。
今のエレナがそうであるように。前のエレナもきっと同じだ。記憶がなくても、心は同じ道を進んでいる。
エレナは、ゆっくり息を吐いた。
「私、分かります」
「何が」
「一度目の私が、あなたを好きになったことです」
ヴィクトルの目が揺れた。
エレナは少しだけ笑う。
「私にはその記憶はありません。でも、この半年で、私も同じようにあなたを見てきました。無口で、過保護で、肝心なことを言わなくて、寝言だけは妙に正直で」
「……」
「そして、領地を守るあなたを見ていました。使用人や領民があなたを信頼していることも知りました。私の紅茶を、本当に美味しいと思っていることも知っています」
ヴィクトルは視線を落とした。耳が少し赤い。
エレナは自分の手を見下ろした。
「私は、冬至祭の夜に本を渡そうとしたのですね」
「ああ」
ヴィクトルの表情が沈む。
そこから先は、彼にとって一番苦しい話だ。それでも、エレナは聞かなければならなかった。
「なぜ、その夜だったのですか」
ヴィクトルは目を閉じた。
「君は、冬至祭を大切にしていた」
「私が?」
「ああ。北方に来てから、君は冬至祭の意味を学んでいた。長い冬を越すために、領主と領民が火を分け合う日だと」
「ええ」
「領主夫人として、初めて正式に領民の前に立つ日でもあった」
エレナは頷いた。今の自分も、冬至祭の準備をしながらそれを感じていた。
冬至祭はただの祭りではない。北方に嫁いだ領主夫人として、領民に受け入れられる大切な場だ。
「祭りが終わった後、私と話したいと言っていた。領主夫人として初めての役目を終えたら、父君から預かった本を渡したいと」
「……」
エレナは息を呑んだ。理由が腑に落ちた。
一度目の私は、ただ忘れていたのではない。最初は遠慮して渡せなかった本。渡すまでの間に本の中を見たのだろう。この本がただの預かり物ではないと気づいた。
そして冬至祭。領主夫人として、正式に北方の人々の前に立つ日。その役目を終えたあとなら、自分はもうただの王都から来た妻ではない。北方の領主夫人として、この問題を夫と共有できる。きっと私は、そう考えたのだ。それは誇りであり、決意だった。だから、その夜を選んだ。
「前の私は、冬至祭を区切りにしたかったのですね」
「ああ」
「領主夫人として、あなたに渡したかった」
「そうだと思う」
ヴィクトルの声が震えた。
「俺は、君の思いを君が残した魔術痕から知った……」
エレナの胸が締めつけられる。
自分は、本を渡す前に殺された。ヴィクトルは、本を渡されないまま、妻の死だけを突きつけられた。
「冬至祭の夜、君は白い外套を着ていた」
ヴィクトルの声が低くなる。
「領民に護符を配り、古い護符を火にくべ、最後まで笑っていた。俺は広間で来客の相手をしていた」
「私は、その間に魔術書庫へ?」
「ああ。祭りの後に俺に本を渡すために、取りに行った」
そこへ、刺客が来たのだ。
冬至祭の人出に紛れて屋敷に入り、本を探っていた魔術師。
だがエレナは本を渡さなかった。
父から預かったものだから。
ヴィクトルに渡さなければならないものだから。
北方に関わる大切なものだと、気づいたから。
魔力は少ない。戦えない。それで、残留記録魔術を使った。
自分が襲われたこと。相手が王都式の魔術を使ったこと。本を守ろうとしたこと。それだけを残した。
「俺が駆けつけた時、君はもう……」
ヴィクトルは、そこで言葉を切った。
エレナは彼の膝の上の手を見た。強く握られて、白くなっている。
「本は?」
「消えていた」
「犯人は?」
「逃げた」
「あなたは、本を見ていない」
「ああ」
ヴィクトルは苦しげに頷く。
「だから、分からなかった。君が何を守ろうとしていたのか。何が奪われたのか。誰が、何のために君を殺したのか」
「それを、探したのですね」
「ああ。冬至祭から三月まで」
ほぼ三か月。
エレナのいない世界で、ヴィクトルは理由を探し続けた。だが、本はない。犯人もいない。残された魔術痕も、不完全。手がかりもほぼ無く、答えは出なかった。
だから、悩み抜いた末、禁術を使った。
「辺境伯家の禁術は、1年遡ることができるものだ。代々領主に秘術として受け継がれている。ただ、展開すると代償があるため、滅多なことでは使わない」
「代償?」
「過去には代償として命を失った領主もいる。声を失った者、魔力を失った者、感情の一部を失った者もいたらしい」
「それを、使ったのですね」
「ああ」
ヴィクトルは、エレナから目を逸らさなかった。
「君を戻したかった。いや、正確には、俺が遡って君を失わない道を探したかった」
エレナは何も言えなかった。
それは、愛ゆえの身勝手な願いだった。そもそも領主が自分の命と引き換えるなどありえない。残される家族、領民を考えたらそんな行動はできない。それなのに、ヴィクトルは命を失ってもいい程、愛していたのだ、私のことを。
「戻ったのは、結婚前日だった。君に会う前日だ」
「それで、急に使用人に準備をさせた」
「ああ。君が寒がらないように。苦手なものが出ないように。菫を置くように。寝室を同じにして、防御結界の中に置けるように」
「カーテンで区切って」
「……ああ」
エレナは目を伏せた。
この奇妙な白い結婚は、ヴィクトルにとって理由があったのだ。
一度は夫婦になった妻。愛して、愛されて、失った人。その人が、何も知らない顔で目の前に現れる。
触れたい。抱きしめたい。名前を呼びたい。前と同じように笑ってほしい。
けれど近づけば、また危険に巻き込むかもしれない。
だから遠ざける。だが遠ざけすぎれば守れない。
その結果が、同じ寝室をカーテンで区切るという、あの妙な生活だった。
「……何やってるんですか」
エレナは少し泣き笑いのような顔になる。
「一人で全部抱えて、白い結婚だなんて言って」
「ああ」
「そのくせ、寝言では毎晩褒める」
「それは……代償だ」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
けれど、すぐに沈黙が降りる。
エレナは、ヴィクトルを見た。
「寝言は、禁術の代償なのですね」
「おそらく。戻った時間の記憶が強く刻まれる代償だと思う。俺の魔術が干渉して、魔術書庫の君の残留記録魔術も、寝室の魔術痕にも記録が残っていた。俺自身にも刻まれていると思っていたが、眠るとそれが漏れていたんだな」
「寝言は予知夢ではなく、あなたにとっての過去だった」
ヴィクトルは頷いた。
「君に言えなかった言葉も、後悔も、恐怖も、全部寝言で漏れていたんだろう」
「ええ、それに褒め言葉も」
「……それもか」
エレナは少しだけ笑った。涙で目元は熱いのに、胸の奥に小さな温かさが灯る。
「ヴィクトル様」
エレナは手を伸ばし、彼の手に触れた。
「これからは、話してください」
エレナはそのまま、彼の手を握った。
「前の私は、冬至祭で本を渡そうとして死んだ」
「ああ」
「今の私は、九月に本を渡しました」
「ああ」
「なら、前とは違います」
ヴィクトルの手に力がこもる。
「冬至祭までまだ時間があります。犯人も、黒幕も、今度は探せます。証拠も守れます」
「君を危険に近づけたくない」
「私はもう近づいています」
「エレナ」
「だから、一緒に考えましょう」
ヴィクトルは、長い間何も言わなかった。
そして、
「わかった」
と低く答えた。
その夜。
二人は寝室に戻った。カーテンは、まだそのままだった。
けれど、エレナはもう、それを以前と同じものだとは思えなかった。
それは距離の象徴であり、同時にヴィクトルの恐怖の形だった。
寝る前、エレナはカーテンの前に立った。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「聞いてもいいですか」
「ああ」
「前の私の紅茶は、本当にそんなに苦かったのですか」
カーテンの向こうで、ヴィクトルが沈黙した。
「……最初は」
「やっぱり」
「だが、得意げだった」
「その情報、二度目です」
「可愛かった」
それを聞いてエレナは頬が熱くなった。
ヴィクトルも、向こう側で少し動揺している気配がした。
「エレナ」
「はい」
「今の君の紅茶も好きだ」
「紅茶だけですか」
「君も」
エレナは言葉を失った。
しばらくして、なんとか返す。
「……そういうことは、もう少し段階を踏んでください」
「踏み方が分からない」
「でしょうね」
泣いた後で、まだ胸は痛い。けれど、エレナは笑った。
その夜の寝言は、短かった。
「……言えた……」
エレナは布団の中で目を閉じる。
「ええ……」
カーテンの向こうで、ヴィクトルが静かに眠っている。
前の時間軸では、冬至祭の夜は超えられなかった。
今は、まだ十月。
時間はある。
二人で一緒に冬至へ向かう。
だから、未来は変えられる。
エレナはそう信じて、ゆっくり目を閉じた。




