第7章 魔術書庫で見つけたもの
十月に入り、北方の空は日に日に低くなっていた。
朝の庭には薄い霜が降りる。昼になれば溶けるが、夕方にはまた空気が冷え、屋敷の石壁が冬の気配をまとい始める。
冬至祭まで、あと二か月。
父の本から不正の記録が見つかって以来、エレナとヴィクトルは密かに動いていた。エレナは本の読み解きと写しの作成に、ヴィクトルは結界と警備に、それぞれ集中した。
手紙は慎重に書いた。
療養地にいる両親へ、状況を伝え、原本を保管してもらうことにした。
例年なら冬至祭に前領主も参加するが、今年は療養地で本を守ってもらうため来訪しないよう頼んだ。
王都にいるヴィクトルの弟へ、北方防衛費に関わる監査記録と王都の魔術工房の動きについて。
嫁いだ妹へは、社交界で羽振りが良い財務貴族や、北方関連の噂について。
それぞれに探ってくれるよう頼んだ。
そしてエレナの父へ。
直接的な言葉は使わない。
――以前お預かりした古い防御魔術書について、こちらで読解を進めております。
――北方の冬支度に関わる記録として夫にも確認していただいており、照合する必要がありそうです。
書き終えてから、エレナはヴィクトルに見せた。
「これで伝わるのか」
「父ですから」
ただ、最後に一文だけ付け加えた。
――娘に持たせた危険性については、後日詳しく伺います。
ヴィクトルはその一文を見て、少しだけ眉を上げた。
「これは伝わるな」
「ええ。少し脅しておきました」
書き上げた手紙は、その日のうちに信頼できる騎士へ託され、送られた。
同時に、父の本の写しも進めていた。単純に写すだけでは危険だ。奪われれば終わる。
エレナは、三種類の写しを作ることを提案した。
一つは、通常の照合用写し。
一つは、魔術文字に置き換えた暗号写し。
一つは、詩集の余白に隠す写し。
ヴィクトルは最後の案で眉を寄せた。
「詩集に?」
「私の持ち物として自然でしょう?」
「敵が本を探しているなら、詩集も調べるのでは」
「だから一見して恋詩にしか見えない形にします」
「ふぅ、君を敵に回したくないな」
「夫婦でよかったですね」
「ああ、全くだ」
エレナは手を止める。
ヴィクトルは私と夫婦でよかった、と思ってくれている。
不意に胸に喜びが広がった。エレナは少し照れながら言った。
「そういうことを、急に言わないでください」
「そうなのか」
「はい」
「では、次から予告する」
「それも違います」
二人の距離は、ずいぶん変わった。
紅茶の濃さを言い合い、領地の帳簿について意見を交わし、読書室で並んで対策を練り、時には軽口も混じえる。エレナはヴィクトルとそんな関係になれたことを嬉しく思っていた。
ただし、変わらないこともある。
魔術書庫。
そこだけは、まだ閉ざされていた。
ヴィクトルは理由を言わない。
「古い術式が残っている」
「危険だ」
「必要な写しは用意する」
返ってくるのは、いつも同じ言葉だった。
けれどエレナはもう、そこに何かがあると分かっていた。
夫の寝言が、それを何度も示している。
「魔術書庫……一人にするな……」
「白い外套は駄目だ……」
「冬至までに……」
「今度は、間に合う……」
エレナは、まだヴィクトルの寝言を予知夢なのでは、と疑っていた。
冬至祭で何かが起きるのではないか。
魔術書庫に関わる何かが起きるのではないか。
だが、どれだけ聞いても、ヴィクトルは本当のことを言わない。
魔術書庫に何があるのか知らないまま冬至祭を迎えるのは危険ではないか、エレナはそう思い始めていた。
その日、屋敷では大がかりな整理が行われていた。
本格的な雪が降る前に、倉庫や書庫の湿気を抜き、冬至祭に使う古い飾りや記録を確認する。北方では、秋に必ず行う作業らしい。
エレナは読書室で、父の本の写しを整理していた。
机の上には、通常写しと暗号写し、それから詩集に隠すための下書きが並んでいる。
作業に集中していると、扉が慌ただしく叩かれた。
「奥様、申し訳ございません」
入ってきたのは、侍女のリーナだった。
顔色が悪い。
「どうしたの?」
「読書室の写本を探したのですが、整理の者が誤って北棟の箱に混ぜてしまったようで……」
「北棟?」
エレナは顔を上げた。魔術書庫のあるところだ。
「はい。すぐに取って参りますので、お待ちください」
「待って」
エレナは立ち上がった。
「私も行くわ」
「ですが、旦那様が北棟へは近づかないようにと」
「入口で本を確認するだけです。探している写本を早く見つけられるわ」
リーナは迷った。
エレナも、自分の言葉に余白があることは分かっていた。
入口で箱を確認するだけ。そのつもりだった。
今日、ヴィクトルは外門の結界点検に出ている。マルタも倉庫側で冬至祭の飾りを確認している。
北棟の魔術書庫へ行くなら、今しかない。
リーナは最後にもう一度ためらってから、頷いた。
「では、本当に入口まででお願いいたします」
「ええ」
北棟の廊下は、屋敷の他の場所と空気が違った。ひんやりとしているだけではない。長く人の手が入らなかった場所特有の、沈んだ静けさがある。壁に掛けられた魔術灯は、昼間なのに頼りない光を落としていた。床には古い防御文字が刻まれている。ところどころ、新しく貼った護符もあった。
魔術書庫の扉は、表面に細かな術式が彫り込まれている。扉の周囲にも、何重もの護符が貼られていた。その一部が、今日だけ外されている。整理のために結界を緩めたのだろう。
エレナは扉の前で足を止めた。
ここだ。
半年間、ヴィクトルが近づかせなかった場所。寝言の中で何度も出てきた場所。
「奥様、整理箱は入ってすぐ右側だと思います。私が取って参りますので」
「いいえ。すぐ終わるわ」
リーナの返事を待たず、エレナは扉を開いた。
魔術書庫の中は、想像より狭かった。
壁一面に高い書架が並び、古い紙と革の匂いがする。小さな窓から鈍い光が差し込み、埃が細く舞っていた。
入口近くに、いくつかの整理箱が積まれている。
エレナはまず、目的の写本を探した。
すぐに見つかった。
これで戻ればいい、そう思った。だが、足が動かなかった。
部屋の奥で、何かが光った気がした。
ほんのわずか。埃に反射した光とも見間違えるほどの、淡い揺らぎ。
エレナは写本を抱えたまま、ゆっくり奥へ進んだ。
「奥様……?」
リーナの不安そうな声が背後から聞こえる。
「少しだけ」
エレナはそう答えた。
書架の陰。窓から少し離れた床。
そこに、消えかけた魔術痕が残っていた。
エレナは息を止めた。
見覚えがある。いや、見覚えがあるどころではない。
これは、自分の術式だ。
「……どうして」
声がかすれた。
限られた魔力量で情報を残すための術式。大きな映像も、はっきりした音声も残せない。
その代わり、感情や魔力の流れを薄く固定する。
学院時代、魔術量の少ないエレナが何度も試し、教師に「理論は見事だが、実戦には向かない」と評された構成。
残留記録魔術。
それが、ここにある。
エレナは膝をついた。魔術痕は、今にも消えそうだった。時間が経ちすぎている。普通ならもう読めない。
だが、これは彼女自身の術式だ。作った本人だから、かろうじて拾える。
触れてはいけない。そう思った。
けれど、これを逃したら、二度と読めない。
エレナは小さく息を吸い、自分の魔力をほんの少しだけ流した。
瞬間、世界が反転した。
冷たい夜。
灯りの落ちた魔術書庫。
抱きしめている本。
白い外套の重み。
誰かの声。
――それを渡せ。
知らない男の声だった。
王都訛り。低く抑えられているが、焦りがある。
エレナは、床に片手をついたまま息を詰めた。
残留記録は薄れていて、鮮明な映像ではない。感覚だけが流れ込んでくる。
恐怖。怒り。混乱。そして、理解。
この本は、ただの魔術書ではない。
父が預けたものは、命を狙われるほどのものだった。
記録の中の自分は、それを遅すぎるほど遅く理解した。
本を抱えている手が痛い。
奪われまいとしている。
誰かが近づく。
魔術の気配。王都式の隠蔽結界。息を殺した殺意。
逃げなければ。
けれど、本を渡してはいけない。ヴィクトル様に渡さなければ。
そう思っている。
強く。
視界が揺れる。
喉元に冷たい感触。胸を締めつける痛み。息ができない。
魔力がこぼれていく。
それでも、最後に何かを残そうとしている。
誰かに伝えなければ。
そこで記録は途切れた。
自分はここで襲われて喉を切られた。相手は本を探していた。王都式の魔術を使っていた。
エレナは床に手をついたまま、動けなかった。
息が苦しい。
自分の喉に手を当てる。
傷などない。血もない。白い外套も着ていない。
今は十月の昼間の魔術書庫だ。
自分は生きている。
なのに、体の奥だけが、冬の夜に取り残されていた。
これは予知ではない。まだ起きていない未来の警告ではない。
ここに残っているのは、私の魔術だ。
私が最後に、命を削って残した記録だ。
エレナは理解した。
私は一度、この場所で死んでいる。
「奥様?」
入口でリーナの声が震えた。
返事をしようとしたが、声が出ない。
その時、廊下の向こうで何かが弾けるような音がした。
続いて、足音。
エレナが部屋に入り、結界が反応していたのだ。
足音は速く、迷いがない。ほとんど走っている。
「エレナ!」
扉が乱暴に開いた。
ヴィクトルだった。
彼は中に飛び込むなり、床に座り込むエレナを見つけて動きを止めた。
顔から血の気が引いていく。
それは、夫が妻の無事を心配する顔ではなかった。
同じ光景を、二度と見たくなかった人の顔だった。
「……読んだのか」
声が低く、掠れていた。
エレナは、ゆっくり彼を見上げた。
言いたいことは山ほどあった。
なぜ隠したのか。なぜ私を魔術書庫に入れなかったのか。なぜ、予知夢などではなく、こんなものが残っているのか。
けれど、最初に出た言葉は一つだけだった。
「私、ここで死んだのですね」
ヴィクトルの表情が崩れた。
それが、答えだった。
エレナは立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。
ヴィクトルが反射的に近づこうとするが、途中で止まった。
触れていいのか、分からないようだった。
エレナはその迷いを見て、胸が痛くなった。
この人は、ずっとそうだ。
守りたいのに、触れるのを怖がる。近くに置きたいのに、遠ざけようとする。
エレナは小さく首を振って言った。
「待って」
「……エレナ」
「まだ、分からないことがあります」
自分は死んだ。その事実は分かった。だが、それだけでは足りない。
なぜ今、自分は生きているのか。なぜヴィクトルだけが知っているのか。なぜ彼の寝言は、まだ起きていないはずのことを語るのか。
ふと、エレナが入れなかった場所は、もう一つあると気づいた。
寝室の、カーテンの向こう側。
エレナは、ゆっくり顔を上げた。
「あなたが私を入れなかった場所」
ヴィクトルは何も言わなかった。
エレナは抱えていた写本を、リーナに預けた。
「これを、読書室へ」
「奥様……」
「お願い」
リーナは泣きそうな顔で頷いた。
エレナは魔術書庫を出た。
「待て、エレナ」
ヴィクトルの声が背後から追ってくる。
「待てません」
声は震えていた。だが、足は止まらなかった。廊下を進む。
ヴィクトルが後ろからついてくる気配がする。止めたいのだろう。だが、ヴィクトルには止めることはできなかった。
エレナは寝室の扉を開けた。
部屋の中央には、いつもの厚いカーテンがあった。
白い結婚のための境界線。半年間、二人を分けていた布。
その向こう側へ、エレナは初めて自分から踏み込んだ。
ヴィクトルの側は、思っていたより簡素だった。
大きめの寝台。整理された机。壁に引っ掛けられている剣帯がいくつか。整然と並べられた護符。窓枠に刻まれた結界文字。
そして床の中央に、薄く残る大きな魔術痕。
エレナは、それを見た瞬間に息を呑んだ。魔術書庫の残留記録とは違う。これは、防御でも記録でもない。時間に触れた術式だ。しかも、ひどく古い時代のもの。人の身で扱っていいものではないとわかる。
「駄目だ、エレナ」
ヴィクトルの声が震えた。その言葉に、エレナの胸が揺れた。
けれど、エレナは首を振り、床に膝をついた。
ヴィクトルが一歩踏み出す。だが、もう遅い。
エレナは魔術痕へ、ほんのわずかな魔力を流した。
今度、流れ込んできたのは痛みではなかった。
絶望だった。
ヴィクトルが見た、魔術書庫の中。
冷たくなった自分。
白い外套に広がる赤。
抱き上げたエレナの力無く落ちる腕。
声にならない叫びが途切れない。
誰が殺したのか分からない。何を奪われたのか分からない。
ただ、エレナがいない。
その事実が、ヴィクトルを壊していく。
場面が変わる。
寝室。
ヴィクトルが一人で立っている。
手には、血のついた白い布。
机の上には、辺境伯家に伝わる古い禁術の書。
床には、今エレナが見ているものと同じ術式が広がっている。
戻せ。
戻してくれ。
代償は何でもいい。
命でも。声でも。魔力でも。記憶でも。
エレナを返してくれ。
その願いは、祈りというより叫びだった。
魔術が発動する。
時間が軋む。
光が砕ける。
ヴィクトルの精神に、焼き印のように記憶が刻まれていく。
冬至の夜。魔術書庫。白い外套。冷たい手。間に合わなかった後悔。
それらすべてを抱えたまま、彼は戻った。
三月の結婚前日へ。
エレナは理解した。
ヴィクトルは未来を見ていたのではない。それらはすでに起きた過去だった。
「……」
エレナのほおに涙がこぼれ落ちる。
怖かったからではない。自分が死んだという事実は、もちろん恐ろしい。喉元に残る幻の痛みも、冬の魔術書庫の冷たさも、体の奥にまだ残っている。
けれどそれ以上に、ヴィクトルの絶望がとてつもなく深く、苦しかった。
この人は、私の死を見たのだ。
冷たくなったエレナを抱き、誰が殺したのかも分からず、何を奪われたのかも分からず、それでも探し続け、そして戻った。何も知らないエレナの前に。
初めて会う顔をして。遠ざける言葉を口にして。同じ寝室に置きながら、カーテンで隔てて。
大好きなものを、二度と失わないために。触れたいものに、触れないようにして。
「……どうして」
声が震えた。
ヴィクトルが歩み寄り、エレナの前に膝をついた。
「すまない」
「どうして、一人で抱えていたのですか」
涙が止まらない。
「私が死んだことも。あなたが戻ったことも。あなたが、こんなふうに……」
言葉にならなかった。
ヴィクトルは手を伸ばしかけて、また止めた。その迷いすら、今は苦しい。
エレナは泣きながら、その手を自分から掴んだ。
彼の手は震えていた。
「エレナ」
「あなたは、私に何も知らせず、一人で冬至まで行くつもりだったのですか」
「君を傷つけたくなかった」
エレナは首を横へ何度も振った。
ヴィクトルの顔が歪む。
「すまない」
「謝らないで」
エレナは彼の手を握りしめた。
「謝るより、話してください」
ヴィクトルは目を閉じた。
長い沈黙だった。
暖炉の火が小さく揺れる音だけが、部屋に残る。
これは、ヴィクトルだけの悪夢ではない。
エレナ自身の死であり、二人の物語だ。
ならば、二人で知らなければならない。
冬至祭まで、まだ時間はあるのだから。
やがて、彼は低く言った。
「分かった」
もう逃げる余地はなかった。
「全部話す」




