第6章 夫は妻を危険に近づけたくない
父から預かった本の内容が、はっきりと形になったのは三日後だった。
エレナは読書室の机に、本と写し紙を広げていた。隣にはヴィクトルがいる。
この三日、本を取り扱う際に彼は必ず同席した。エレナが本に触れる時は、扉と窓に結界を張る。使用人には、この時間だけ読書室に近づかないよう命じる。さらに、エレナの椅子の足元にまで護符を置く。
最初にそれを見た時、エレナは言った。
「ヴィクトル様、私の椅子は魔獣に襲われないと思います」
「念のためだ」
「椅子にまで念のためが必要ですか」
「君が座る」
そう真顔で言われると、文句を言いにくい。いや、言った。言ったが、護符は結局置かれた。
エレナは諦めて、作業を始めた。
父の本に隠されていた記録は、かなり巧妙だった。余白の幅。章ごとの文字数。特定の術式名の並び。古い監査院式の符号。それらを組み合わせると、本文とは別の記録が浮かび上がる。
北方防衛費。砦修復費。魔導具購入記録。冬期備蓄輸送費。照合写し。未納。未着。二重計上。
エレナは、最後の一語を書き出したところで、ペンを止めた。
「……決まりですね」
ヴィクトルは無言で紙を見ていた。
その横顔は冷たい。領主として怒っているのだと、エレナには分かった。
「北方に送られるはずの金や物資が、王都側で抜かれています。帳簿上は支払い済み。けれど領地側の記録と合わない」
「砦の修復が遅れた理由の一つだ」
ヴィクトルの声は低かった。
「一昨年の冬、北の砦で魔導具が不足した。王都へ催促したが、向こうの記録では納入済みだった」
「それがこれですか」
「おそらく」
エレナは紙に並んだ単語を見下ろした。
父は、これを見つけた。そして、おそらく正面から告発するには危険だと判断した。だから、エレナの嫁入り道具に紛れ込ませて北方辺境伯本人に渡そうとした。その判断が正しかったかどうかは、まだ分からない。ただ、これが北方にとって重大な証拠であることは確かだった。
「ヴィクトル様。すぐに動くべきです」
ヴィクトルは答えなかった。
エレナは顔を上げる。
「この記録が正しいなら、北方はかなりの不利益を受けています。砦の修復も、魔獣対策も、冬支度も、本来届くべきものが届いていない」
「分かっている」
「でしたら、王都へ照会を」
「性急に動くべきではない」
即答だった。
エレナは眉を寄せた。
「なぜですか」
「こちらが不正に気づいたと知られれば、相手も動く。君の父君がこれを君に託した以上、相手は本の行方を追う可能性がある」
「ですから、証拠を押さえて、できるだけ早く告発すれば」
「その前に証拠を奪いに来るかもしれない。君に危険が及ぶ」
結局、そこだった。
エレナは椅子に座ったまま、ヴィクトルを見つめた。
「私の安全と、領地の不利益を正すことは、別の問題です」
「別ではない」
「別です」
「エレナ。何もしないとは言っていない。慎重に動く」
エレナは息を吸った。
慎重。それは大切だ。父もそういう人だった。
だが、慎重さは時々、動かないための言い訳にもなる。
「慎重に、とは具体的に?」
「まず写しを作る。領地側の記録と照合する。王都にいる弟に、工房や監査院まわりの情報を探らせる。妹には社交界の噂を拾わせる。君の父君にも、直接的でない形で確認を取る」
「それは賛成です」
「その上で、相手が動く前に証拠を分散する」
「では、王都への正式な告発は?」
「まだ早い」
「いつなら早くないのですか」
エレナは、ヴィクトルの沈黙に苛立ちを覚えた。彼が怖がっていることは分かる。分かるが、今はそれだけでは済まない。
「ヴィクトル様。北方の砦は、今も不利益を受けているのでしょう?」
「ああ」
「魔獣討伐の魔導具も足りない」
「すぐに困窮するほどではない」
「でも、本来届くべきものは届いていない」
「そうだ」
「なら、早く正すべきです」
エレナは机の上の記録を指した。
「これは領地の問題です。あなた一人の恐怖で止めていいものではありません」
「恐怖?」
ヴィクトルの目が揺れた。
エレナは言った後で、少し強すぎたと思った。
けれど、撤回はしなかった。
「ええ。あなたは私が危険に巻き込まれることを恐れている。けれど私は、領主夫人です。北方の不利益を見つけた以上、知らなかったことにはできません」
静かになった。
ヴィクトルは、エレナを見ていた。怒っているわけではない。傷ついたような顔だった。
エレナは胸が痛んだが、目を逸らさなかった。
この半年で、彼女は北方を好きになっていた。そこに住む領民たち、屋敷の人々。
そして、ヴィクトルを。
だからこそ、北方の不利益を見過ごせない。
「あなたが心配してくださっていることは分かっています」
「……」
「でも、私の安全を理由に、領地の問題を後回しにされたくないんです」
ヴィクトルは低く言った。
「後回しにするつもりはない」
「では、期限を決めましょう」
「期限?」
「九月中に写しを作る。十月初めには弟君と妹君、父からの返事を確認する。十月中に証拠を分散。十一月までに王都への正式な告発準備」
「早すぎる」
「遅すぎれば、本格的な冬になってしまいます」
「冬至祭で人の出入りが増える。相手が動くならその前後だ」
「なら、なおさら先に動くべきです」
「先に動けば、君が狙われる」
また、そこへ戻る。
エレナは思わず立ち上がった。
「私が狙われるかもしれないから、何もかも遅らせるのですか」
「遅らせるのではない。確実にする」
「確実を待っている間に、向こうが動いたら?」
「だから警戒を強める」
「私を屋敷の中に閉じ込めるとでも言うのですか」
「必要なら」
言った瞬間、空気が凍った。
ヴィクトル自身も、自分の言葉に気づいたのだろう。顔が強張っている。
エレナは、ゆっくり息を吐いた。
「……必要なら、閉じ込める、のですか」
「エレナ、今のは」
「本音でしょう」
声が冷たくなった。
「あなたは、私を守るためなら閉じ込めてもいいと思っている」
「君を失うくらいなら」
そこで、ヴィクトルは口を閉じた。
今度はエレナが黙る番だった。
君を失うくらいなら。
その言葉は、ただの過保護にしては重すぎた。
なぜ彼は、まだ起きてもいない危険を、まるで確定した悲劇のように恐れるのか。
エレナの中で、また疑いが浮かぶ。
予知夢。
ヴィクトルの寝言は、未来を見ているのではないか。
彼は、エレナが冬至祭で危険な目に遭う未来を見たのではないか。
そうでなければ、この怯え方は説明できない。
エレナは静かに尋ねた。
「ヴィクトル様。あなたは未来を見ているのですか」
「違う」
「では、なぜそこまで恐れるのです」
「……言えない」
「またですか」
「すまない」
謝罪。また謝罪。
エレナは、勢いよく机に手をついた。
「謝らないで。説明してください」
「できない」
「なぜ?」
「君が傷つく」
「何も知らされない方が、よほど傷つきます」
ヴィクトルの顔が歪んだ。その表情を見て、エレナは一瞬、言いすぎたと思った。
ヴィクトルは立ち上がって机を回り込み、エレナの前に立った。
「エレナ」
声が低い。
いつもの無表情ではなかった。彼は何かに耐えるような顔をしていた。
「俺は、君が正しいと分かっている」
「……」
「領主の妻として、君の言っていることは正しい。北方の不利益を早く正すべきだ。王都に手を打ち、黒幕に先手を取る。それが最善だと分かっている」
エレナは黙って聞いた。
「だが、俺は怖い」
その言葉は、ほとんど吐息のようだった。
エレナの胸が痛む。
ヴィクトルは、ゆっくり手を伸ばした。触れていいか迷うように、途中で止まる。エレナは動かなかった。
すると彼は、意を決したように彼女を抱きしめた。強く。けれど、痛くないように。
「ヴィクトル様」
「頼む」
彼の声は、耳元で震えていた。
「君を危険な目に遭わせたくない」
「……」
「理屈では分かっている。君を遠ざけるだけでは駄目だと分かっている。それでも、どうしても怖い」
ヴィクトルはいつも、命じるか、黙るか、謝るかだった。
けれど今は、ただ怖いと言っている。
「本は危険だから俺が持つ。証拠が必要なら俺が作る。王都へ手を伸ばすのも俺がやる。だから君は、俺の目の届くところにいてくれないか」
「それは、閉じ込める話ですか」
「違う」
すぐに否定した。
ヴィクトルの腕に力がこもる。
「違う。そうしたい自分はいる。だが、それでは君が怒ることも分かっている」
「怒ります」
「ああ。だから、頼んでいる」
頼んでいる。その言葉に、エレナの中の怒りが少しだけ緩んだ。
命令ではない。禁止でもない。懇願。
それは、彼なりの譲歩なのかもしれない。
エレナはしばらく動かなかった。
ヴィクトルの胸に頬が触れている。鼓動が速い。
こんなに近くにいるのに、この人はずっと何かを隠している。それが悔しい。腹立たしい。けれど、彼がその何かに、本当に怯えていることも分かる。
「ヴィクトル様、私は、あなたの恐怖を軽く扱いたくありません」
「……」
「そして、私の意思も軽く扱わないでほしいんです」
エレナは彼の胸に手を置き、少しだけ体を離す。
顔を上げると、彼は苦しそうに彼女を見ていた。
「お互いに歩み寄りましょう」
「歩み寄り?」
「九月中に写しを作る。これは譲れません。王都の弟君、妹君、私の父への連絡もすぐ出します」
「分かった」
「ただし、正式な告発は、返事が揃い、証拠の分散が済むまで待ちます」
「……」
「それでどうですか」
ヴィクトルは、少しだけ目を閉じた。それから、静かに頷く。
「分かった」
「それと」
「まだあるのか」
「私を閉じ込めないでください」
「……」
「ヴィクトル様」
「閉じ込めない」
渋い声だった。
エレナはもう一度確認する。
「勝手に閉じ込めない?」
「勝手にも、相談しても、君を閉じ込めたりしない」
「よろしい」
ヴィクトルは小さく息を吐いた。
「君は本当に、逃げ道を塞ぐ」
「領主夫人ですから」
「それは理由になるのか」
「なりますわ」
エレナは少しだけ笑った。ヴィクトルも、ほんのわずかに表情を緩める。
空気がようやく戻った。
その夜、エレナは寝室に戻り、いつものように帳面を枕元に置いた。が、今日はさすがに疲れてしまった、と、すぐにうとうとし出した。
ぼんやりと、そういえば、私、初めてヴィクトルに抱きしめられた……と昼間のことを思い出し、その途端、眠気が飛んで、なんだか頬が熱くなってきた。
眠らなきゃ、そう思って目を閉じたところで、カーテンの向こうから寝言が聞こえた。
「……エレナを怒らせた……」
エレナは目を開けた。
「ええ、怒りました」
「閉じ込めるなど……言うべきではなかった……馬鹿か、俺は……」
少し溜飲が下がる。
「でも……怖い……」
その声が、急に弱くなった。
「エレナに危険が近づく……」
そこで息が詰まったように途切れた。
エレナは暗闇の中で、カーテンを見つめる。
ヴィクトルは何を見ているのだろう。
予知夢なのか。それとも別の何かなのか。分からない。
「抱きしめた……嫌がられなかった……」
エレナは固まった。
「よかった……いや、よかったではない……もっと説明しろ……」
自分で自分に説教している。
エレナは小さく笑った。
「本当にそうです」
「エレナは……領主夫人だ……強い……賢い……でも守りたい……」
その声は、切実だった。
「明日は……ちゃんと話す……少し……」
エレナは帳面を開かず、目を閉じた。
明日、少し話す。ですって。
それが守られるかどうかは、分からない。
けれど今日、ヴィクトルは初めて命令ではなく私に頼んだ。
二人は夫婦としてちゃんと前進していると思う。それが嬉しい。
翌朝。
朝食の席で、エレナが紅茶を注ぐ。彼の好みに合わせて薄めに。
ヴィクトルは一口飲み、静かに言った。
「美味い」
「ありがとうございます」
「エレナ。……昨日は、悪かった」
「何についてですか」
「君を閉じ込めると言ったこと、そして、俺の恐怖を理由に、君の意思を軽く見たこと」
エレナは少し驚いた。思ったより、きちんとした謝罪だった。
「受け取ります」
「許してくれるのか」
「それはまだです」
「……そうか」
「でも、ちゃんと話しましょう」
ヴィクトルは頷いた。
「ああ」
エレナはカップを置いた。
「では、今日の予定です。午前中は写しの作成。午後は領地側の未着記録と照合。夕方までに手紙の控えを整理します」
「働きすぎだ」
「領主夫人ですから」
「休憩は入れるぞ」
「分かりました」
「君は目を離すと働く」
その言い方が真面目すぎて、エレナは笑ってしまった。
不正が見つかった。敵がいるかもしれない。冬至祭には危険があるかもしれない。
ヴィクトルはまだ何かを隠している。
それでも二人は、同じ机につき、同じ本を読み、同じ問題に向き合い始めている。
エレナは紅茶を飲みながら、静かに思った。
冬至祭まで、あと三か月。




