第5章 祭の準備と父の本
九月も半ばを過ぎると、北方の季節は短い夏から秋へと移った。
朝、窓を開けると冷たい風が頬を撫でる。庭の木々は少しずつ色づき始め、遠くの山の頂には白いものが見え始めてきた。
エレナがグレイヴ辺境伯邸に嫁いでから、半年が過ぎた。
石造りの屋敷、魔獣避けの護符、領地の古い慣習、そして、昼間は無口で、夜になると寝言で妻を褒める夫、
始めはそれら何もかもに慣れなかったエレナだった。
けれど、人は馴染むもの。
周りから奥様と呼ばれることにも慣れた。
侍女長のマルタは、今ではエレナに屋敷の采配を少しずつ任せてくれるようになった。
侍女のリーナは、最近では王都の流行の話よりも、エレナと紅茶の淹れ方についてあれこれ語り合う時間が増えた。
厨房長は、エレナが料理を褒めるので、やたらと試作品を持ってくる。
領民とも、顔を合わせる機会が増えた。
春には、雪解け後の畑を見に行った。
夏には、薬草園の収穫を手伝った。
秋には、冬に備える保存食作りに参加することになっている。
領民たちは、最初は王都から来た若い奥方を遠巻きに見ていた。だがエレナが話を聞き、分からないことを素直に尋ね、必要なことを帳面に書き留めているうちに、少しずつ態度がやわらいだ。
最近では、村の女たちが遠慮なく言う。
「奥様、そろそろ外套の準備をなさいませ」
「奥様、ここの冬は手袋を二枚重ねないといけません。今度一緒に編みましょう」
「奥様、旦那様は無口ですが、怖くはありませんからね」
最後の言葉については、エレナもよく分かっている。ヴィクトルは怖い人ではない。ただ、エレナに対して隠し事が多い。
そして寝ている時だけ、その隠し事の蓋が少し緩む。
昨夜もそうだった。
「エレナは……領民の話を聞くのが上手い……馴染んでいる……」
カーテンの向こうから聞こえた寝言に、エレナは眠るのを諦めて帳面を開いた。
「保存食の帳面……字が綺麗だ……判断も的確……好きだ」
ヴィクトルは、寝言でははっきりとエレナが好きだと言う。この半年、何度も愛を告白された。夜限定だが。
始めは戸惑っていた愛の告白も、何度も聞くうちに慣れ、今ではすっかりヴィクトルは私に夢中なのだと刷り込まれてしまった。
昼間の態度からも、日を追うごとにエレナを大切にしていることが伝わってきていた。過保護で、無口とは言えエレナの話すことはきちんと聞いて、反応を返してくれる。
半年の時間をかけて、2人は仲睦まじく過ごしていた。
エレナは、北方を知って好きになっていくのと同じように、ヴィクトルのことをじわじわと好きになっているのを自覚しはじめていた。
そっか、これが、恋なのか、と。
ヴィクトルの寝言のほとんどは、夫が妻を愛し、大切にしているとしか思えないものだったが、ときどき不穏な言葉が混ざる。
「冬至までに……」
エレナはペンを止めた。
「魔術書庫……一人にするな……白い外套は……駄目だ……」
冬至祭。魔術書庫。白い外套。その言葉たちは、ヴィクトルの寝言に何度も出てきた。
東棟の渡り廊下の件以来、エレナは夫の寝言をただの寝言とは思っていない。あの時、ヴィクトルはまだ起きていない事故を寝言で口にし、実際に防いだ。未来が見えるのかと問えば、彼は否定した。けれど理由は言わなかった。
半年経っても、そこは変わらない。
ヴィクトルがエレナを大切にしていることはわかる。けれど、本当に大事なことは話してくれない。そして彼の持っている秘密の中心に、冬至祭がある。
エレナはそう思っていた。
そして、ついにその冬至祭の準備が始まった。
「奥様、こちらが今年の冬至祭の準備一覧でございます」
マルタが読書室へ運んできた帳面を見て、エレナは思わず目を瞬いた。
厚い。とても厚い。
「……これで全部?」
「こちらは、まず今週中に確認する分でございます」
「まず」
冬至祭は十二月なので、あと3ヶ月ほどある。しかし、準備を始めるのにこれでも遅いらしい。
「冬至祭は、領地で一番大きな祭りですものね」
「ええ。領民も屋敷の大広間まで入りますし、各地から商人や旅人も参ります。護符の新調、魔術灯の点検、室内飾りの確認、雪が深くなる前に道の整備もございます」
「聞くだけでも忙しいわね」
「奥様には、領主夫人としてご確認いただきたいことが多くございます」
マルタがエレナの前に分厚い帳面を広げて差し出す。
領民代表への贈り物。大広間の飾り布。護符に使う紐の色。祭礼用の白い外套の仕立て直し。
白い外套。
その文字を見た瞬間、エレナの息が止まった。
まだ見ぬ冬至祭だというのに、エレナにはもう恐怖が刷り込まれてしまっている。
「奥様?」
マルタの声で、エレナは顔を上げた。
「大丈夫。少し考え事をしただけ」
そこへ、扉が叩かれた。
「エレナ」
ヴィクトルだった。
入ってきた彼は、マルタの持つ帳面を見るなり、わずかに表情を硬くした。
「冬至祭の準備か」
「はい。奥様にご確認いただいております」
マルタが答える。
ヴィクトルの視線が帳面の一箇所で止まり、彼は即座に
「外套は不要だ」
と言った。
「旦那様?」
マルタが驚く。
エレナは、驚かなかった。予想通りだから。
落ち着いて、ヴィクトルに尋ねた。
「不要とはどういうことでしょう?」
「領主夫人が白い外套を着る慣習は、今年は行わない」
「理由は?」
「警備上の都合だ」
出た。
ヴィクトルの便利な言葉である。効率。防犯。警備上の都合。
この半年で、エレナは夫の説明の型を覚えてしまった。
「警備上、白い外套だけが問題なのですか」
「目立つ」
「領主夫人は、冬至祭では目立つのが役目では?」
「目立たなくていい」
「領主夫人ですよ」
「君は、外套で目立たせなくても目立つ」
マルタが小さく咳払いをした。
「今のは褒め言葉ですか」
「ああ」
「それは今、話すことではないですよね」
「そうか」
ヴィクトルは真面目に反省した顔をした。
この人は、少しずつ昼間も褒めてくれるようになった。ただし、使いどころはまだおかしい。
エレナは帳面に視線を戻す。
「要点がずれました。ヴィクトル様が外套は不要とお考えなのはわかりました。保留します」
「……わかった」
ヴィクトルはかなり不服そうだった。
マルタは帳面に、白い外套の仕立て直しは保留、と書き込んだ。
そのまま確認は続いた。
冬至祭で使う魔術灯。外部商人の宿泊場所。領民の入場経路。古い護符の焼却場所。北棟の閉鎖範囲。
北棟、という言葉に、エレナは反応した。
「北棟も冬至祭に関係するのですか」
「古い祭礼記録や飾りが保管されている」
ヴィクトルが答える。
「祭礼記録は魔術書庫にありますものね」
「ああ」
「それは、私も確認しますか」
「必要ない。立ち入り禁止だ」
魔術書庫。
夫は半年経っても、エレナをそこへ入れようとしない。古い術式が危険だと言うが、それだけではない。彼の寝言が、それを示している。ただ、この場でこれ以上追及しない方がよさそうだ。
エレナは帳面を閉じた。
「分かりました」
エレナに追求の手を緩めてもらったヴィクトルは、小さく息を吐いた。
エレナも、半年経ってもまだ黙っている夫に、軽く息を吐いた。
マルタはそのやりとりについて聞こえないふりをした。
早速、冬至祭用の物品確認が始まった。
屋敷中の倉庫と棚を開けて、使用人たちが忙しく動き回る。
エレナも読書室で整理を任された。冬至祭に関わる古い文献の写しや、領民へ配る護符の文案を確認するためである。
一人黙々と整理していると、棚の奥に見覚えのある背表紙を見つけて、ふと手を止めた。
古い防御魔術の理論書。
革表紙に擦れた角。背に刻まれた古い魔術文字。
父から預かった本だった。
嫁入りの際に持ち込んだ本は魔術書庫へ保管されたはずだが、一部を読書室に移動した中に紛れていたらしい。
エレナはしばらく動けなかった。
「……忘れていたわ」
声に出すと、急に申し訳なさが押し寄せてきた。
三月、王都を発つ前。
父はこの本をエレナに持たせて、こう言った。
「北方で落ち着いたら、辺境伯本人に直接渡しなさい。王都の者や使者に預けてはいけない」
エレナは、王宮で文官を務めている父の、仕事に関わる大切な資料なのだろうと思っていた。
忘れたつもりではなかったが、北方に着いてからは、慣れない屋敷と夫との距離感で手一杯。
この本はヴィクトルに落ち着いて渡したかったからタイミングを見計らうつもりでいた。
しかも本は立ち入りを許されていない魔術書庫へ仕舞ってあると思っていたため、簡単に手に取ることもできず、そうしているうちに、半年が過ぎていた。
今になって思えば、遅すぎる。
エレナは改めて本を眺めて、ペラペラとめくってみた。表向きは普通の魔術書だ。
だが、よく見ると、余白の魔力の沈み方が不自然だった。文字の配置も、整いすぎている。
彼女は魔力こそ少ないが、魔法理論は得意だ。
この本には、何か隠されている。
そして、父がこれを辺境伯本人に渡せと言った。
ならば、今からでも渡すべきだ。
エレナは本を抱え、読書室を出た。
ヴィクトルは中庭にいた。
騎士たちと、冬至祭の警備について話している。
エレナが近づくと、彼はすぐに気づいた。
そして、彼女の腕の中の本に目を落とす。
警戒する目だった。
エレナは少し引っかかった。ヴィクトルはこの本のことを知らないはずだ。なのに、この本を直感的に警戒している。
「エレナ。その本は?」
「父から預かっていた本です」
ヴィクトルが右手を払うと、騎士たちは空気を読んで下がった。
中庭には二人だけが残った。
「北方で落ち着いたら、辺境伯本人に直接渡すよう言われていました。遅くなってしまいましたが、お渡しします」
エレナが本を差し出しても、ヴィクトルはすぐには受け取らなかった。
表紙を見る。エレナを見る。また本を見る。
「君の父君から?」
「はい」
「どこにあった?」
「読書室にありました。整理をしていたら出てきました」
「中身は」
「表向きは、防御魔術の理論書です。ただ、余白に不自然な魔力の沈みがあります。何か隠されているかもしれません」
「……そうか」
ヴィクトルの顔が硬くなる。
「ヴィクトル様?」
「君は守ろうとしていた」
低い声だった。
「なんのことですか?」
「……」
ヴィクトルは言いすぎたと気づいた顔をした。
だが、今の言葉は聞き流せない。
「いつの話ですか」
「すまない。今は言えない」
「その言葉、もう半年以上聞かされています」
ヴィクトルは目を伏せた。
エレナは本を抱え直す。
「あなたは、この本を知っているわけではないのですね」
「ああ。見たことはない」
見たことはない、とはっきり答えたのを、エレナは少し意外に思った。
「では、なぜそんな顔を?」
「君が父君から預かったものを、私に渡そうとしている。しかも冬至祭の準備が始まった今だ」
「はい」
「俺にとって、とても重大なことだ」
ヴィクトルの声は重かった。
「私は、何かを守ろうとするのですか」
「……」
「この本と関係があるのですね」
ヴィクトルは答えなかった。
だが、その沈黙は否定ではない。
エレナはもう一度本を差し出した。
「教えてください」
「君を危険に近づけたくない」
「もう近づいているのではないですか?」
「……」
ヴィクトルは本を受け取った。
その手は震えていない。ただ、強く表紙を握っていた。
ヴィクトルはエレナに静かに言った。
「この本を調べる」
「私も同席させてください」
「危険だ」
「私は、その本の隠し術式を読めるかもしれません。ですから!」
2人の視線が絡まり合った。
そして、ヴィクトルは諦めたように息を吐き、ゆっくり言った。
「……条件がある」
エレナは少し身構えた。
「必ず私の立ち会いのもとで調べること。少しでも危険があれば中断すること」
エレナは頷いた。
その日の夕食後、二人は読書室に向かった。
ヴィクトルは机の上に本を置き、扉と窓に結界を張った。
エレナは魔術灯の光量を少し絞った。強すぎる光は、古い魔術インクの反応を乱すことがある。
エレナは本を見下ろす。
「まず、表向きは防御魔術の理論書です」
「ああ」
「ですが、普通の魔術書ではありません」
「分かるのか」
「余白が妙なんです。文字の並びと空白が鍵になっているのではないかしら」
「読めるか?」
「時間をかければ」
紙は古いが、保存状態は良い。本文は、北方式防御結界の基礎理論。ただし、章の切れ目や余白の幅が妙に整いすぎている。
エレナは白紙を一枚取り、本の文字数を数え始めた。
「父らしいわ」
「分かるのか」
「ええ。父は、重要なことを目立たない場所に隠したがる人なんです」
「君と似ているな」
「私はこんなに回りくどくありません」
「そうか?」
「そうです」
ヴィクトルは反論しなかった。
エレナは紙に数字を書き出していった。
章番号。段落の行数。余白の幅。古い監査院式の暗号との対応。
しばらくして、いくつかの単語が浮かび上がった。
北方防衛費。
未納。
砦修復費。
魔導具購入記録。
照合写し。
エレナはペンを止めた。
ヴィクトルの表情が険しくなる。
「これは……」
「帳簿の記録、ですね。ちゃんと照合の内容を確認しないといけませんが、おそらく、不正帳簿……」
声に出すと、部屋の空気が重くなった。
北方防衛費。辺境伯領へ送られるはずの金や物資。
それが帳簿上は支払われているのに、実際には届いていない。
父は、その証拠をこの本に隠していた。
エレナは本をそっと撫でた。
「父は、これをあなたに渡したかったのですね」
「ああ」
「だから、王都の者には預けるなと」
ようやく意味が分かった。
顔を上げると、ヴィクトルがとても辛そうな表情をしていることに気づいた。
痛みを必死でこらえている。
半年間、何度も見た顔。
エレナは色々とヴィクトルに聞きたかったが、止めた。
「今夜はここまでにしましょう」
エレナは本を閉じる。
「続きは明日。ここで焦っても仕方ないですから」
「……そうだな」
「時間はあります。だから、ゆっくり調べましょう」
ヴィクトルは、静かに頷いた。
その後、エレナは寝台に入っても、なかなか眠れなかった。
カーテンの向こうから、やがてヴィクトルの寝言が聞こえた。
「……本があった……」
声は、安堵していた。
「見つけられなかった……何を守ったのかも……分からなかった……」
エレナは帳面を開いた。
「……読める……」
彼の声が少し震える。
「エレナが……渡してくれた……冬至の前に……」
エレナはペンを止めた。
冬至の前に。
「危険が近づいた……怖い……でも……必要だ……エレナが必要……」
「一人にしない……魔術書庫にも……」
また魔術書庫。
父の本の謎は動き出した。だが、魔術書庫の謎はまだ残っている。
そこには、ヴィクトルがエレナに見せたくないものがある。
「ヴィクトル様」
カーテンの向こうへ、小さく声をかける。
「私はもう、この件に関わっています。だから、いつか必ず教えていただきます」
しばらくして、眠ったままの夫が呟いた。
「……すまない……」
その声はあまりにも苦しそうだった。




