第4章 寝言が事故を防ぐ
四月に入ったと言えど、北方は、春というにはまだ気が早い。
王都なら、そろそろ庭の花壇が花々で彩られる頃。だがグレイヴ辺境伯領では、朝はまだ窓枠に薄い霜が張り、庭の隅には雪が残っていた。それでも屋敷の者たちは、これで随分暖かくなった方だと言う。
エレナは、北方の「暖かい」という言葉を、いまいち信用しないことにした。
「奥様、本日は東棟へは行かれませんように」
朝食後、侍女長のマルタがそう言った。
エレナは手にしていた茶器を置く。
「東棟?」
「はい。昨日気温が緩みまして、かなり雪が解けているようです。渡り廊下が滑りやすくなるかもしれないと、旦那様から」
「旦那様から?」
エレナは穏やかに聞き返した。
「ヴィクトル様は、今朝もう東棟をご覧になったの?」
「いいえ。夜明け前に騎士団の訓練場へ向かわれました」
「では、いつ東棟が危ないと?」
「お出掛け前にご指示がございました。旦那様は、屋敷の小さな不具合にもよく気付かれますから」
エレナは曖昧に頷いた。
昨夜のヴィクトルの寝言を、彼女は覚えている。
――東棟。
――雪解け水。
――エレナが滑る。
――右足首。
――駄目だ、直せ。
寝言としては、かなり実用的だった。
夢の中でも屋敷管理をしているのかと思えば笑えなくもない。しかし翌朝それと同じ注意が、見もせずに出されていたとなると、少し気味が悪い。
ヴィクトルが予知夢を見ているのでは?という疑いが、どんどん大きくなっていく。
「マルタ」
「はい」
「東棟には何があったかしら?」
「古い客間と、小礼拝室がございます。それと、使われていない温室への通路も」
「普段はあまり行かない場所ね」
「ええ。ですが奥様は以前、北方の祭礼についてお尋ねでしたでしょう?小礼拝室に冬至祭の古い装飾品が保管されておりますので、旦那様はそれを気にされたのかもしれません」
説明は自然だった。
だが、エレナは冬至祭の装飾品を見たいとは言っていない。祭礼魔術に興味があると話しただけ。それだけで東棟の渡り廊下まで警戒するのは過剰だと思うわ。
「分かったわ。今日は近づかないようにします」
「ありがとうございます」
マルタはほっとしたように笑った。
エレナも微笑み返す。
もちろん、行かないとは言っていない。近づかないようにする、と言っただけ。
言葉の余白は大事ね。
午前中、エレナは読書室で本を開いていた。
北方の冬至祭についての薄い冊子である。ヴィクトルが魔術書庫から写しを用意させたものだった。原本ではなく写し。しかも、紙の端に新しい補修跡がある。急いで用意させたのだろう。
内容自体は面白かった。北方の冬至祭は、長い冬を越えるための祈りの祭りで、領主が領民に火を分ける儀式がある。魔獣避けの護符を新調し、古い護符を焼く。屋敷の大広間はその日だけ領民にも開かれ、商人や旅人も集まる。
たしかに有名な祭りらしい。
各地から人が来るなら、屋敷の警備は大変だろう。ヴィクトルが気にするのも分かる。ただ、彼の恐れ方は、祭りの混雑に対するものだけではない気がした。
エレナは冊子を読み進めた。
大広間の飾り付け。
領民への火分け。
各地からの来客。
古い護符の焼却。
祭礼用の白い外套。
白い外套。
その項目で、エレナの指が止まった。
冬至祭では、領主夫人が白い外套を身にまとい、領民に新しい護符を配る慣習があるらしい。雪の色をまとい、冬の災いを受け止める象徴だという。
エレナはヴィクトルの寝言を思い出す。
――白は駄目だ。血が目立つ。
ただの祭礼衣装の話ではなく、ヴィクトルは、白い外套に何か危機感を感じている。
エレナはそっと、寝言を記録している帳面を開く。
――守る。絶対に。
――冬至。
――魔術書庫。
――白い外套。血。
そして昨夜の、東棟。
これらがすべて繋がっているのかは分からない。けれど、少なくとも一つ、今、確かめられることがある。
東棟だ。
寝言の通りに危険があるのか。ヴィクトルは事前に知っていたのか。確認するだけなら、難しくなさそうだ。
エレナは本を閉じて、廊下に出た。
昼の屋敷は静かだった。使用人たちは倉庫整理などで忙しいらしく、普段より人の気配が少ない。
エレナはあくまで散歩の顔をして歩いた。ただ、東棟の渡り廊下を見に行くだけ。
階段を下り、長い廊下を進む。突き当たりを曲がると、窓の多い渡り廊下が見えた。
その入口に、細い紐が張られている。
立入禁止の印だ。
エレナは足を止めた。
床を見る。
石床の一部が濡れていた。窓枠から、ぽたり、と水が落ちる。
雪解け水が壁から入り込んでいるらしい。
さらに悪いことに、その濡れた部分は薄く凍っていた。昼の日差しで溶けた水が、夜、冷やされて凍ったのだろう。それが溶けずに残っている。
気づかず踏めば、たしかに滑る。
エレナはゆっくりしゃがみ込んだ。
「本当に、あった」
偶然か。それとも、予知か。
ヴィクトルは北方の屋敷を知り尽くしている。気温、雪の様子、窓枠の状態から危険を推測しただけかもしれない。
だが昨夜の寝言は、もっと具体的だった。
――エレナが滑る。右足首。
ただの屋敷管理では、そこまで出てこない。
考え込んでいると、背後から低い声がした。
「何をしている」
エレナは振り返った。
ヴィクトルが廊下の向こうに立っていた。
外套を着たままなので、戻ってきたばかりなのだろう。表情はいつも通り硬い。
だが目だけが、明らかに焦っていた。
「散歩です」
「立入禁止にしたはずだ」
「入ってはいません。入口で止まりました」
「近づくなと言った」
「私はマルタから、東棟に行かないように、と聞きました」
「同じ意味だ」
ヴィクトルが近づいてくる。
足が長いから、速い。
エレナは立ち上がった。
「本当に滑りそうですね」
「だから止めた」
「確認する前に?見もせずに?」
エレナは床を指した。
「では、私がここで右足首をひねる気配も?」
「エレナ」
ヴィクトルの声が低くなった。
怒っているというより、困っている。
今回はエレナは一歩も引かない。
「昨夜、あなたは寝言で東棟のことをおっしゃっていました」
「……寝言?」
「はい。雪解け水。私が滑る。右足首。直せ、と」
ヴィクトルの顔から血の気が引いた。
分かりやすい反応だった。
彼は少しの間、言葉を失っていたが、やがて短く息を吐いた。
「聞かなかったことにしてくれ」
「無理です」
「ただの寝言だ」
「ただの寝言が翌朝の立入禁止になりますか?」
「危険を予測しただけだ」
「寝ながら?」
「……」
ヴィクトルは黙った。
エレナは、ここで攻めすぎるべきではないと分かっていた。だが、何も聞かずに引くこともできない。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「あなたは、未来が見えるのですか?」
ヴィクトルの表情が動いた。驚きではない。
「見えない」
「では、なぜ分かったのです?」
「……経験だ」
「何の?」
「北方で暮らしていれば分かる」
エレナは彼を見つめた。
「私が右足首をひねることも?」
「それは」
言いかけて、彼は口を閉じた。
この人は嘘が下手だ。いや、正確には、エレナに対して嘘が下手なのだろう。他人相手ならもっと冷静に隠し通しそう。だが彼女の前では、ほんの少しずつ綻びてしまっている。
エレナは、濡れた床へ視線を戻した。
「分かりました。今日はこれ以上聞きません」
「今日は?」
「ええ。今日は」
ヴィクトルは苦い顔をした。
「君は、理屈で逃げ道を塞ぐ」
「寝言でも、そうおっしゃっていました」
「……そうか」
彼は片手で額を押さえた。気の毒なくらい後悔している顔だった。
「安心してください。聞いたことを全部責めるつもりはありません」
「全部?」
「はい。全部」
その言い方で、ヴィクトルは彼女がかなり聞いていると察したらしい。
顔がますます重く、下を向く。
「どれくらい聞いた」
「知りたいですか?」
「……いや、いい」
まあ、賢明な判断ね。結婚当日からほぼ毎晩、と聞けば、彼はどんな顔をするだろう。
その時、窓枠からまた水が落ちた。ぽたり、と床に弾ける。
ヴィクトルはそれを見て、すぐ近くの護符に手を伸ばした。
指先に青白い光が灯る。
小さな防寒結界が張られ、窓枠の隙間が一時的に塞がれた。水音が止まる。
エレナはその術式を見て、思わず身を乗り出した。
「今の、熱を足したのではなく、冷気の流入だけを遮断したのですか?」
「ああ」
「結界の層が薄いのに、よく保ちますね。術式を圧縮している?」
「そうだ」
「面白い。北方式ですか?」
「辺境伯家の防御術だ」
ヴィクトルは自然に答えた。魔術の話になると、彼の口は少し緩むらしい。
エレナは床の氷を見ながら言った。
「私は魔力量が少ないので、こういう術は使えないのです」
「知っている」
「……釣書、ですか?」
「……ああ」
エレナは少しだけ眉を上げる。
「ヴィクトル様、ごまかしが段々雑になってきましたね」
「すまない」
「謝るのも雑です」
ヴィクトルは困ったように目を伏せた。
その顔を見ると、強く責める気が削がれる。ずるい。
本人は無自覚だろうが、時々とても悲しそうな顔をする。まるで濡れた子犬。
エレナは話題を変えた。
「この結界、私にも読めますか?」
「読むだけなら」
「触れても?」
「駄目だ」
「即答ですね」
「君の魔力量では、反動を受ける可能性がある」
「心配しすぎでは?」
「している」
あまりにも真っ直ぐ言われたので、エレナは言葉に詰まった。
ヴィクトルも、自分が何を言ったかに気づいたらしい。気まずそうに視線を逸らす。
「ヴィクトル様、あなたは、少し過保護ですわ」
「少しではないかもしれない」
「あら、自覚はあるのですね」
「ある」
素直な答えが意外だった。
「ヴィクトル様は、私に何かおこるのが怖いのですか」
ヴィクトルは答えなかった。
沈黙。
けれど、それは肯定しているも同然だ。
エレナは、ゆっくり息を吐く。
「寝言では怖いとおっしゃっていました」
ヴィクトルは、困ったように眉を寄せた。そして、ひどく小さな声で言った。
「怖い」
エレナは驚いた。
たった一言。でも、彼が起きている時にそれを言ったのは初めてだった。
エレナの胸の奥が、きゅっとなる。
「君が怪我をすると思うと、怖かった」
それを聞いて、エレナは、ただ、そっと頷いた。
今の一言で分かってしまった。
この人は恐ろしく深く、何かを怖がっている。
そして、そんなに恐ろしい何かから私を守りたいと、強く思ってくれているのだと。
東棟の渡り廊下はその後すぐに修理された。
夕食で、エレナは何気ない顔で言った。
「冬至祭では、領主夫人が白い外套を着るのですね」
「着なくていい」
間髪入れずに返ってきた。
エレナはスープの匙を止める。
「まだ、着たいとも着たくないとも言っていませんわ」
「着なくていい」
「慣習なのでしょう?」
「変えればいい」
「そんな簡単に?」
「領主は私だ」
なんて強引。
ヴィクトルは普段、領主権限を振りかざすような人ではない。それなのに、今は明らかに冷静さを欠いている。
「白がお嫌いですか?」
「……そうではない」
「では、私に似合わないと?」
「似合う」
また即答。
エレナは少し呆れた。危機感と褒め言葉が同時に出るあたりは、この人らしい。
「似合うのに、着なくていいのですか」
「ああ」
「理由は?」
「危ない」
「白い外套が?」
「冬至祭が」
ヴィクトルはそこで口を閉じた。言いすぎたと思ったのだろう。
エレナは静かに続けた。
「ヴィクトル様は、冬至祭を恐れていらっしゃるのですね」
「警戒しているだけだ」
「恐れているように見えます」
「……」
食堂の空気が少し重くなり、静かに食事は終わった。
夜。
エレナはいつものように帳面を開いた。今日の出来事を書き出す。
――東棟の渡り廊下、本当に危険あり。
――ヴィクトル様、昨夜の寝言と同じ内容を事前指示。
――未来視ではないと否定。
――経験、と説明。
――冬至祭の白い外套を強く拒否。
――「冬至祭が危ない」と言いかけた。
そこまで書いたところで、カーテンの向こうから声がした。
「……エレナ」
寝言が始まった。エレナはペンを構える。
「東棟に行った……やはり行った……」
少し責められている気が、する。
エレナは小声で言った。
「入口までなのに」
当然、返事はない。
「右足首……無事でよかった……」
ほっとした声だ。
「怒らせた……でも無事だった……それでいい……」
エレナはペン先を止めた。
自分のことより、エレナが無事であることを優先する。それは彼の優しさかもしれない。でもヴィクトルはエレナに何も話してくれない。寝言の謎は増えるばかり。
「白い外套は……着せない……」
寝言は続く。書き写さなくては。
「血が……駄目だ……エレナには……」
ヴィクトルの声が微かに震えている。
エレナは息を潜める。
「冬至までに……見つける……犯人を……」
犯人。
その単語に、エレナの手は止まった。
今、犯人と言った。何の犯人か。誰か、何かしたのか。それとも、何か起きるのか。
カーテンの向こうでは、ヴィクトルが浅く息をしている。
「魔術書庫……入るな……見せたくない……」
その声は、苦しそうだった。
エレナは帳面に書く。
――犯人。
――冬至までに見つける。
――魔術書庫。見せたくない。
書きながら、指先が少し冷えた。
東棟の危険は当たった。ヴィクトルの白い外套への恐怖も本物。
そして、冬至祭と、魔術書庫には、何かがある。




