第3章 夫はなぜか妻に詳しい
エレナが北方へ来て、1週間が過ぎた。
北方の暮らしは、慣れないことが多い。
特に寒さ。
朝、窓の外が白い。昼でも廊下が寒い。夜は暖炉の火が消えると、冷気が部屋の隅に溜まる。
だが、それ以上に慣れないものがあった。
夫である。
ヴィクトルは、相変わらず昼間は静かだった。必要なことは言う。余計なことは言わない。
そして、なぜか睡眠中に褒め言葉を発する。
そのためエレナの枕元の小さな帳面には、それらの寝言が書き加えられていた。
昨夜の記録はこうである。
――「エレナの字は読みやすい」
――「笑った。危険」
――「冬至まで、まだある」
前半だけなら、やや気恥ずかしい夫の寝言で済む。
問題は、
冬至。
この言葉は、魔術書庫、とともに何度か寝言に出てきた。
エレナは帳面を閉じ、小さく息を吐いた。
今すぐ問い詰めたい。しかし、ヴィクトルは起きている時ほど口が固い。真正面から聞いても、おそらく「気のせいだ」と言われるだろう。
だったら次に、夫がどれほど自分を知っているのか確認しよう。
そう決めた。
朝食後、エレナは侍女長のマルタに屋敷内の案内を頼んだ。
今朝はヴィクトルは騎士団の訓練に出ている。つまり、夫の目がない。
別に悪事を働くわけではないが、少し解放感があった。
「奥様、お疲れではありませんか?」
「大丈夫よ。少しずつ屋敷を覚えたいの」
「それでしたら、まずは温室をご覧になりますか。旦那様が、奥様のお好きな花を移すようにと」
「私の好きな花?」
聞き返すと、マルタは当然のように頷いた。
「菫ですわ」
「……そう」
エレナは微笑んだ。
菫が好きだとは、まだ言っていない。なのに初日の寝室にも菫があった。
温室へ向かう途中、マルタは明るい声で続けた。
「王都から取り寄せるのは間に合いませんでしたので、領内で育てているものを急ぎ移し替えました」
「いつから準備をしてくれたの?」
「ご結婚の前日でございます」
「前日?」
エレナは足を止めた。
「ええ。旦那様が突然、奥様を迎える支度を細かくやり直すと仰いまして」
マルタは苦笑した。
「それはもう、屋敷中が大騒ぎでした。寝室の内装を替える、魔導具を調整する、朝食の献立を見直す、読書室を模様替えする、と」
「急に?」
「はい。まるで、それまでの準備では足りないと気づかれたように」
結婚前日。
エレナは心の中でその言葉を拾った。
ヴィクトルの寝言。そして、結婚前日に急な準備変更。
何か繋がりはある?
温室には、菫の鉢がいくつも並んでいた。
薄紫、青紫、白に近いもの。派手ではないが、どれも可憐でかわいらしい。
エレナは花の前にしゃがみ込む。
「綺麗ね」
「旦那様も、奥様ならそう仰るだろうと」
「旦那様が?」
「はい」
エレナは菫を見つめたまま、ゆっくり瞬きをした。
夫は、彼女が綺麗と言うことまで予想していたらしい。
「マルタ」
「はい」
「旦那様は、私について事前に調べていたのかしら」
「それは……」
マルタは少し困った顔をした。
「婚姻の前に、釣書やご実家からの書類は届いておりました。ですが、そこに奥様の細かな好みまで書かれていたかはわかりません」
「そうよね」
「ただ、旦那様はとても確信を持っておいででした」
確信。
いい言葉ではない。知らないはずのことをなぜか知っていて、しかも迷いがないということ。
エレナは立ち上がった。
「他にも、旦那様が私のために用意したものはある?」
「ございます。読書室へご案内いたしましょうか」
「お願い」
読書室は、寝室から近い小部屋だった。
壁一面の棚には、比較的新しい本が並んでいる。魔術理論、歴史、詩集、北方の地誌。
エレナは本棚の前で、しばらく言葉を失った。
好きな分野が揃いすぎている。王都でも探していた論文集。学院時代に読み損ねた古い魔術注釈。好きな詩人の初版に近い版。
そして机の上には、読みやすい角度に調整できる書見台が置かれていた。
「こちらは、奥様専用にと」
「……至れり尽くせりね」
エレナは書見台に触れた。高さも角度も、ちょうどよさそうだった。
ここまで来ると少し怖い。どこまで私のことを知られているのか。
昼にエレナは廊下でヴィクトルと出くわした。
訓練帰りらしく、黒い騎士服の上から外套を羽織っている。
髪は少し濡れていた。付いた雪が溶けたのだろう。
「ヴィクトル様。訓練はもう終わりですか?」
「ああ」
ヴィクトルはエレナの手元を見た。読書室から借りてきた魔術論文集である。
「その本は読書室のものか」
「はい、少しお借りいたします」
エレナはにっこり微笑んだ。
「それは重いだろう」
「それほどでもありません」
「腕が疲れる」
「私の腕は、本一冊で疲れるほど繊細ではありません」
ヴィクトルは黙った。
その沈黙は少し不満そうに見えて、エレナは笑いそうになるのをこらえて言った。
「持ってくださるのですか?」
「ああ」
「では、お願いします」
軽い気持ちで本を差し出す。
ヴィクトルは慎重に受け取った。
まるで本ではなく、壊れ物を扱うようだった。
エレナは首を傾げる。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「なぜそんなに私のことを心配なさるのです?」
「……北方に慣れていないだろう」
それらしい理由。
エレナは少し考え、違う角度から尋ねた。
「王都にいた頃の私の話を、どなたからお聞きになりましたか?」
「釣書だ」
「菫も?」
「……」
「冷え性も?」
「……」
「酸味のあるジャムも?」
「……」
ヴィクトルは視線を逸らした。
なんて分かりやすい。
この人は無表情だが、嘘がうまいわけではないらしい。
「釣書に、そこまで記載されているとは知りませんでした」
「……そうだな」
「今度、実物を見せていただけますか?」
「処分した」
「早いですね」
「不要だからな」
処分した、というのはたぶん嘘だ。いや、もしかすると本当に処分したのかもしれない。どちらにせよ、そこには菫も冷え性も書かれていなかったはず。
釣書の情報でないとすれば、一体ヴィクトルは私のことをなぜこんなに詳しく知っているのだろう。さっぱりわからない。
話題を変えよう。
「では、ヴィクトル様」
「何だ」
「私は何色のドレスが似合うと思いますか?」
ヴィクトルの答えは早かった。
「菫色」
即答だった。
言ってから、彼は少しだけ固まった。
エレナは笑みを深くする。
「なぜそう思われるのですか?」
「……君の髪色に合う」
「そうですか」
「ああ」
ヴィクトルは平静を装っている。だが、耳の端がわずかに赤い。
エレナはそれに気づかないふりをして言った。
「では、今度仕立ててみますね」
「もう手配してある」
沈黙。
ヴィクトルはしまった、という顔をした。
エレナはゆっくりと瞬きをする。
「もう?」
「……北方の仕立屋は時間がかかる」
「私が菫色を選ぶ前から?」
「似合うと思った」
「いつですか?」
「……」
ヴィクトルは答えない。
エレナは本を彼の腕から取り戻した。
「ありがとうございます。部屋まで自分で持てます」
「エレナ」
「はい」
「怒ったのか」
「いいえ」
怒ってはいない。ただ、落ち着かないだけだ。
夫は、知らないはずの私のことを詳しく知っている。そして彼は、そのことを隠そうとしている。
エレナは歩き出す前に振り返った。
「ヴィクトル様。あなたが、まだ知らないはずの私のことを知っているようなので、少し落ち着きません」
ヴィクトルの表情が変わった。痛みをこらえるような顔。初日に見た顔と同じだった。
「……すまない」
「謝るのですか。理由を教えてくださいませんか」
「今は、言えない」
今は。
エレナはその言葉を聞き逃さなかった。
「では、いつかは教えてくださいますか?」
「……」
ヴィクトルは答えなかった。だが、完全な拒絶でもない。
エレナは軽く頭を下げた。
「分かりました。今は聞きません」
今は。
そう付け加えた。
数日後、仮縫いされた菫色のドレスが届いた。本当に手配されていた。
侍女たちは楽しそうに布を広げる。
深い菫色の生地は、たしかにエレナの暗めのブロンドにも白い肌にもよく合っていた。
エレナは鏡の前に立ち、なんとも言えない顔をした。
「お似合いです、奥様」
「ええ。困ったことに」
「困ったことに?」
「ええ」
確かに似合っている。ヴィクトルの見立ては正しい。それが困る。
侍女のリーナは困惑するエレナを不思議そうに見つめ、
「きっと旦那様もお似合いだとおっしゃいます。心配は無用ですわ」
と笑顔で言った。
「そうね」
その心配はしていないのだけれど。
エレナ達がそんなやりとりをしている時、ドアの隙間にさっと影がよぎったが、それに気づく者はいなかった。
読書室の隣はヴィクトルの執務室だ。
エレナが通りかかった時、扉が少し開いていた。
中から低い声が聞こえる。
「北の見張り小屋は、雪が溶けたら屋根を補修する。西の村には薬草を多めに回せ。この冬、子どもの熱が続いた」
ヴィクトルの声だった。
エレナは足を止めた。
隙間から見える執務室の中では、ヴィクトルが大きな領地図を広げていた。騎士と執事がそばに立っている。地図には、小さな印が無数についていた。
ヴィクトルは一つずつ確認していた。
「東の村は、薪が足りなかった。夏に砦から人手を出す」
「砦から出してよろしいのですか」
「騎士団は訓練として動かせ。村の老人は動けない」
「かしこまりました」
「南の橋は、夏前にもう一度見る。修理はその時に」
その声は、いつもよりずっと明瞭だった。彼は無口ではなく、話すべきことがあれば、話す人なのだ。
ヴィクトルはただ地図を見ているのではない。領地を見ている。そこに暮らす人を見ている。老人。子ども。騎士。冬を越した村人。その一つひとつを、彼は覚えている。
王都で聞いた噂を思い出す。
氷の辺境伯。冷たく、近寄りがたい。感情の薄い人。
違うわ。感情が薄いのではない。出し方が下手なだけ。こんなに領地のことを考えている領主はいないくらい。
エレナは、胸の奥が温かくなるのを感じて、両手で胸を押さえた。
その時、ヴィクトルが顔を上げた。
「エレナ?」
「……失礼しました。通りかかっただけです」
彼はエレナを見て、一瞬照れた様な表情をして、それから地図に視線を落とした。
「入るか」
「よろしいのですか?」
「あなたは領主夫人だ。知っておいて損はない」
エレナは少し驚いた。
魔術書庫には入れないのに、執務室には入れてくれるらしい。
「では、少しだけ」
エレナが入ると、ヴィクトルは地図の端を空けた。
「ここが北の砦。冬は補給が難しくなる」
「この印は?」
「去年、魔獣が出た場所だ」
「こちらの青い印は?」
「薬草を多く回す村」
ヴィクトルの説明は簡潔で、分かりやすい。
エレナは地図を見下ろしながら言った。
「ずいぶん細かく覚えているのですね。領主でも、領地のことをよく知らない方もいらっしゃるでしょうに」
「それは領主ではない」
迷いのない答えだった。
エレナは、思わず彼を見た。
ヴィクトルは、とてもまっすぐな人だ。
自分の役割から逃げない。領地の寒さも、危険も、不足も、全て引き受けている。
なんて強い人なんだろう。
その横顔を見ていると、胸の奥が落ち着かなくなった。
彼のことを、もっと知りたいと思った。
「ヴィクトル様、私にも、領地のことを教えてくださいますか」
「……ああ、もちろん」
ヴィクトルは、少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
夕食を食べ終わった後、エレナは思い切ってドレスの話をした。
「菫色のドレス、仮縫いが届きました」
「……そうか」
「似合っていたと思います」
「……そうか」
「……ご自分で選ばれたのに、反応が薄いですね」
「似合っていた……いや、似合うと思っていた」
その返答は、少し動揺している様に聞こえた。
ヴィクトルはエレナから目を逸らして、
「……君は菫色が似合う」と言った。
エレナはその言葉に鼓動が高鳴った。起きている時も褒めてくださるのですね、と小さくつぶやき、ヴィクトルに向かって笑顔で言った。
「ありがとうございます」
素直に礼を言われて、ヴィクトルは困った顔をしていた。
その夜。
エレナは帳面を開いて待っていた。
待っていた、というのもどうかと思う。だが、今日は寝言があるに違いない。
案の定、ほどなくしてカーテンの向こうから声が聞こえた。
「……領地のことを知りたいと……嬉しい……教えたい……危険なことは避けて……いや、それでは駄目だ……」
寝言を聞きながら、エレナは思った。
寝言があまりにストレートだから、屈強な領主なのに可愛いと思ってしまう。
ああ、この人、昼間もっと喋ってくれないかしら。
「……菫色のドレス……覗き見た」
続いた寝言に、エレナはペンを落としそうになった。
見ていた?私がドレスを着たところを?
「似合っていた……可愛い……いや、美しい……どちらだ……両方だ……」
エレナは書く手を止めた。
その真剣な悩み方は何なのか。
「言えた……少しだけ……エレナが礼を言った……」
ヴィクトルの声が、少し幸せそうになる。
「可愛い……反則だ……」
エレナは頬を押さえた。
領主として無口で凛々しい昼間のヴィクトル、寝言でエレナを褒めるヴィクトル、
真逆な夫を浴びせられる妻の身にもなってほしい。
布団の中で悶えているエレナに、ぼそっと聞こえた。
「……冬至祭で……白い外套……」
エレナの手が止まった。
また、冬至。
ヴィクトルの声が低くなる。
「白は駄目だ……血が目立つ……」
背筋が冷えた。
今のは、聞き間違いではない。
血。
エレナは帳面を見下ろした。
領地やドレスの話から、急に冬至祭の白い外套。そして血。
甘い寝言の中に、また不穏な言葉が混ざった。
ヴィクトルはそれ以上何も言わなかった。静かな寝息だけが続く。
エレナはしばらくペンを握ったまま動けなかった。
やがて、ゆっくりと記録する。
――領地。嬉しい。教えたい。
――菫色。似合う。可愛い、美しい。
――冬至祭で白い外套。
――白は駄目。血が目立つ。
書き終えてから、エレナは帳面を閉じた。
エレナは、ヴィクトルは予知夢を見ているのかもしれない、と思った。




