第2章 夫の寝言は、昼間より正直
翌朝、エレナは少し寝不足だった。
北方の寝具は暖かかった。暖炉の火も、足元の魔導具も、厚い毛布も申し分ない。問題は、暖かさではない。
カーテンの向こうで眠っていた夫である。
ヴィクトル・グレイヴ辺境伯。昨日、エレナの夫になった人。
昼間は無口で、冷静で、表情もほとんど動かない。
政略結婚らしく、夫婦としての義務は求めないと淡々と告げてきた。
それなのに夜になると、寝言で妻を褒めた。しかも、かなり具体的に。
――花嫁姿が綺麗だった。
――笑うと心臓に悪い。
――守る。絶対に。
最後は、意味が分からなかったが。
エレナは寝台の上で身を起こし、しばらくカーテンを見つめた。
部屋を二つに分ける厚い境界線。その向こう側からは、もう寝息は聞こえない。
ヴィクトルは既に起きているのだろう。
エレナが身支度を整えていると、侍女のリーナが朝のお茶を持ってきた。
「奥様、よくお休みになれましたか?」
「ええ。寝具はとても暖かかったわ」
エレナは寝不足だとは言えず、そう答えた。
リーナはにこにこと微笑む。
「よかったです。旦那様が、湯たんぽでは熱すぎるかもしれない。魔導具なら温度を一定にできる。毛布は重すぎないものを。足元だけ少し厚く、と一つ一つ確認されていましたから」
エレナの茶器を持つ手が止まった。
昨夜の寝言を思い出す。
――寒くないか。
――足が冷える。
――毛布を。
ヴィクトルは、すでに朝食の席で待っていた。長い食卓の向こう側で背筋を伸ばして座る姿は、凛々しく端正だった。
改めて見ると、少しエレナの鼓動が早くなった。無口な旦那様。そして、昨夜寝言を言っていた人。
とても同一人物とは思えない。
そんなことを思いながらエレナが食卓に着こうとすると、彼は立ち上がった。
「おはよう、エレナ」
「おはようございます、ヴィクトル様」
名前を呼んだ瞬間、彼の表情がほんのわずかに揺れた。本当にほんの少しだったが、エレナは気づいた。
呼ばれ慣れていない、という反応ではない。むしろ、呼ばれ慣れていた名前を、予想外の距離から聞いたような顔だった。なかなか妙な反応じゃない?
「よく眠れたか」
「はい。おかげさまで、足元までとても暖かく」
エレナは少しだけ様子をうかがった。
ヴィクトルは真顔で頷く。
「それはよかった」
「ヴィクトル様が、色々とご指示くださったと聞きました」
「北方の夜は冷える」
「ええ。昨夜、よく分かりました」
ヴィクトルはそこで黙った。
会話が途切れる。どうやら夫は、必要なことを言うと会話を終えたことにする性質らしい。
二人とも黙っているうちに、朝食が運ばれてきた。
温かいスープ。香草を控えめに使った肉料理。焼きたてのパン。
蜂蜜ではなく、ベリーのジャム。
それらを見てエレナは少し驚いた。
王都の朝食では蜂蜜を出されることが多かった。嫌いではないが、朝一番に甘すぎるものを食べると喉に残るため、エレナは、実家ではたいてい酸味のあるジャムを選んでいた。
ここにも、それが用意されている。偶然だろうか。
「お口に合いませんか?」
侍女長のマルタが心配そうに尋ねる。
「いいえ。むしろ、とても好みです」
エレナがそう言うと、侍女長は安心したように微笑んだ。
「旦那様が、朝は蜂蜜より酸味のあるものを、と」
「……旦那様が?」
エレナはヴィクトルを見た。
ヴィクトルはスープを飲んでいる。何事もないような顔で。
「ヴィクトル様、私の朝食の好みを、どなたからお聞きに?」
彼の手が止まった。
ほんの一瞬。
「……王都の令嬢は、朝に軽いものを好むと聞いた」
「そうですか」
嘘ではないのかもしれないが、非常に雑な説明だった。
王都の令嬢を一括りにするのは、魔獣をすべて「大きめの獣」と呼ぶくらい無理矢理よね。
エレナはにこりと微笑んだ。
「王都の令嬢にも、色々おりますけど。私は酸味のあるジャムが好きです」
「……覚えておく」
覚えておく、と彼は言ったが、明らかにもう知っていた。
エレナはベリーのジャムをパンに塗りながら、昨夜の寝言を思い出す。
――足が冷える。
――花嫁姿が綺麗。
――笑うと危険。
――守る。絶対に
そして今朝の朝食。
この夫は、何かおかしい。
嫌われているわけではなく、私に興味がないわけでもない。むしろ逆。気にかけてくれている。それなのに、距離を置かれている。
エレナはパンを一口食べた。ジャムはエレナの好みぴったりの味で、とてもおいしかった。
朝食後、ヴィクトルは屋敷の案内をすると言った。
エレナは意外に思った。この人は、そういうことを執事に任せるものだと勝手に思っていたから。
けれどヴィクトルは立ち上がり、エレナを連れて屋敷内を歩き始めた。
「ここが大広間。冬至祭の時には領民にも一部を開放する」
「領民も屋敷に?」
「北方では冬至祭が一年で一番大きい祭りだ」
「そうなのですね。楽しそうですね」
「……人が多い」
楽しそう、という反応に対して、人が多いとは。ずいぶん実務的な返事。
「人が多いのは、お嫌いですか?」
「警備が難しい」
なるほど。嫌いなのではなく、まず警備のことを考えるらしい。
さすが魔法騎士。
そして辺境伯。
次に案内されたのは、応接室、食堂、庭へ続く回廊、礼拝室。
どこも古く、重厚で、北方らしい実用性があった。
途中でヴィクトルは、何度か足を止めた。
「この階段は使うな」
「なぜですか?」
「古い」
「では修理を?」
「今日中にさせる」
昨日嫁いできた妻に使うな、と言うより、先に修理すればいいのでは。そう思ったが、エレナは黙って頷いた。
別の廊下では、彼が窓枠を見て眉を寄せた。
「ここの結界が薄い」
「結界?」
「防寒と防犯を兼ねている」
「防寒と防犯」
この屋敷では、暖房効率と防犯があらゆる説明に使われるらしい。
やがて、二人は北棟の一つの扉の前に来た。
重い黒木の扉。
古い魔術文字の術式が刻まれていた。
エレナは目を輝かせた。
「ここは?」
「魔術書庫だ」
その言葉に、エレナの胸が弾む。
エレナの持つ魔力は少ないため、実際に大きな術を使うことはできない。それでも理論を読み解くのは好きだ。術式の構造を眺めていると、世界の骨組みに触れているような気がする。
「入ってもよろしいですか?」
自然にそう尋ねた。
だが、ヴィクトルの顔が変わった。
冷静だった表情が、ほんの一瞬、凍りつく。
「駄目だ」
「……駄目?」
あまりにはっきりした拒絶だった。
エレナは扉とヴィクトルを見比べる。
「危険な本があるのですか?」
「古い術式が多い。不用意に触れると危険だ」
「私は魔法理論なら多少分かります」
「知っている」
エレナは瞬きをした。
知っている? なぜ。
ヴィクトルは一瞬、しまったという顔をした。
だがすぐに言い直す。
「……君が理論を学んでいたことは、婚姻の釣書にあった」
「そうでしたか」
釣書に、そこまで詳しく書いてあるだろうか。書いてあるかもしれない。エレナの父なら、娘の魔力が少ないことを欠点に見せないため、理論面の成績を丁寧に書いた可能性はある。
だが、それでもヴィクトルの反応は妙だった。
「私の持ち込んだ本は、こちらにあると伺いました」
「ああ」
「では、確認だけでも」
「必要であれば、使用人に取らせる」
強い。彼の声は静かだったが、絶対に入れないという意思があった。
エレナは少しだけ眉を上げる。
「私は、屋敷内を自由に出入りできないのですか」
「ここ以外は自由にしてよい」
「例外があるのですね」
「ここ以外は」
同じ言葉を繰り返す夫を見て、エレナは一旦引いた。
「承知しました。魔術書庫には入りません」
ヴィクトルの肩から、ほんの少し力が抜けた。それほどまでに、入ってほしくないらしい。
なぜだろう。
危険な術式。古い本。嫁入り道具の保管場所。
父から預かった本のことが、ふと頭をよぎる。だが、今はまだ話せる状況にない。
エレナは微笑んだ。
「必要な本があれば、お願いすればよろしいのですね」
「ああ」
魔術書庫に入ってはいけないのは、自分がよそ者だからだろう。そう思うことにした。
昼過ぎ、エレナは自室、もとい夫婦の寝室の自分側で荷物の整理をしていた。
カーテンのこちら側は、想像以上に快適だった。
入り口からは見えないよう配慮された衝立。本を読むための小机。好みの高さの椅子。手元を照らす魔術灯。 冷えないよう厚めに敷かれた絨毯。
そして窓辺には、菫の花。
エレナは鉢の前で足を止めた。
菫は好きだ。
派手ではないが、凛としていて、色が美しい。ただし、それも誰にも言っていない。もちろん、釣書に書くようなことでもない。
エレナは花弁をそっと撫でた。
「……王都の令嬢は、皆、菫が好きなのかしら」
自分で言って、少し笑った。
それは無理があるでしょう。
やはり、この屋敷は何かがおかしい。
そしてそのおかしさの中心にいるのは、夫だ。
夕食の席でも、ヴィクトルは無口だった。
ただ、エレナが料理に手を伸ばすたびに、わずかに視線が動く。
香辛料が強すぎないか。肉が固くないか。スープは熱すぎないか。
エレナに聞くわけではない。
だが、見ている。見過ぎな程。
エレナはつい、からかいたくなった。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「私の食事風景は、警備の対象ですか?」
「……なぜそう思う」
「ずいぶん注意深くご覧になるので」
「慣れない土地では、体調を崩しやすい」
「なるほど。体調管理」
「ああ」
暖房効率。防犯。体調管理。この三つで、ヴィクトルは大抵のことを説明してしまうのではないか。とエレナは心の中で思った。
夜。
エレナは眠る前に、小さな帳面を取り出した。日記というほど大げさなものではない。王都にいた頃から、気になったことや読んだ本の要点を書き留めている覚書である。
彼女はそこに、今日の出来事を簡潔に書いた。
――夫、無口。
――朝食の好みを知っている。
――菫の花。
――魔術書庫への立ち入り禁止。
――暖房効率、防犯、体調管理。
そこまで書いて、最後に一行足す。
――寝言については継続観察。
書き終えたところで、カーテンの向こうから声がした。
「……まだ起きているのか」
「はい。少しだけ」
寝言ではなかった。ヴィクトルの声は起きている時のものだ。低く、抑えられている。
「明かりがついている」
「眠る前に、少し書き物を」
「目が疲れる」
「少しなので大丈夫です。もう終わります」
「……そうか」
会話はそこで終わった。
しばらくして、向こう側の明かりが消える。
エレナも帳面を閉じ、明かりを消して寝台に入った。
今日は疲れた。すぐに眠れそう。
そう思ったのに。
「……エレナ」
来た。
エレナは目を開けた。
昨夜より少し早い。
ヴィクトルの寝言は、どうやら眠りに落ちてしばらくすると始まるらしい。
「今日も……よく見ていた……」
何を。
エレナは布団の中で黙って耳を澄ませた。
「魔術書庫に……入れたくない……すまない……」
エレナの心臓が小さく跳ねた。
魔術書庫。
やはり、あそこには何かある。
「怒るだろうな………」
エレナは眉を寄せた。
怒るとは、何のことだろう。
まるでヴィクトルは、エレナをすでに知っているような言い方をしている。まだ結婚二日目なのに。
「エレナは……理屈で詰めてくる……逃げられない……」
エレナは少しだけ気を悪くした。理屈で詰めるとは何事か。いや、否定はできない。できないが、寝言で言われると複雑である。
「でも……そこが好きだ……」
エレナは固まった。
好き。
今、好きと言った。
昼間のヴィクトルは、必要最低限の言葉しか口にしない。
妻を好きだとか、可愛いとか、綺麗だとか、そんな甘いことを言う気配はまるでない。
それなのに寝言で言った。しかも、理屈で詰めてくるところが好き、と。
なんなの? 出会ったばかりで?
エレナは頬に手を当てた。
少し熱い気がした。
暖房の効率が良すぎるのだろう。きっとそう。
カーテンの向こうで、ヴィクトルがまた呟く。
「紅茶……淹れてくれるか……」
エレナは瞬きをした。
紅茶?
今日、彼女はヴィクトルに紅茶を淹れていない。
朝も夕方も、侍女が淹れたものを飲んだだけだ。
私に淹れて欲しいということかしら?
胸の奥に、小さな違和感が積もっていく。
寝言はさらに続いた。
「まだ……半年以上ある……」
エレナは息を止めた。
半年。何まで、半年なのか。
「冬至までに……」
冬至。
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
冬至祭は十二月。 今は三月。
たしかに、冬至まではまだずいぶん時間がある。
だが、なぜ夫が寝言でそんなことを言うのか。
「一人にしない……魔術書庫にも……」
声が途切れた。
その後は、深い寝息だけが聞こえる。
エレナはしばらく動けなかった。
昨夜は、ただ困惑していた。
甘い寝言に呆れ、少し照れ、妙な夫だと思った。
けれど今夜の寝言には何か重いものが混ざっている。
半年以上ある。
冬至。
魔術書庫。
まるで、ヴィクトルだけが知っている予定表があるようだ。しかもその予定表は、楽しいものではなさそう。
エレナはそっと起き上がり、先ほど閉じた帳面をもう一度開いた。
小さな魔術灯を灯す。
そして、新しく書き足した。
――寝言。
――「理屈で詰めてくる。そこが好き」
――「魔術書庫に入れたくない」
――「怒るだろう」
――「紅茶、淹れてくれるか」
――「まだ半年以上ある」
――「冬至までに」
――「一人にしない。魔術書庫にも」
書いてから、エレナはペン先を止めた。
普通なら、夫の寝言を記録する妻など、かなり趣味が悪い。だが、これは単なる寝言ではない気がした。少なくとも、彼女を褒めるだけの寝言ではない。
エレナはカーテンを見た。
この向こうに、夫がいる。
今日一日、彼はほとんど何も語らなかった。だが眠ると、こぼれるように言葉が出てくる。まるで、起きている間だけ、固く蓋をしているように。
彼は何か隠しているのだろうか。
翌朝。
エレナは少し迷った末、朝食の席で尋ねた。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「冬至祭は大きなお祭りとおっしゃっていましたよね」
ヴィクトルの顔がわずかに強張った。
本当に、わずかに。
だがエレナは見逃さなかった。
「……ああ。北方で最も大きい」
「各地から人が来るんですよね」
「来る」
「楽しみです」
「まだ先だ」
返事が早い。そして硬い。
ヴィクトルはカップを持ち上げた。視線を逸らすための動作に見えた。
エレナは続ける。
「魔術書庫には、冬至祭に関わる本もあるのでしょうか」
「なぜ聞く」
「興味があるだけです。北方の祭礼魔術には、王都にない古い形が残っていると聞きました」
「必要なら、写しを用意させる」
「原本ではなく?」
「原本は古い」
またしても、入らせる気はないらしい。
エレナは微笑む。
「大切に管理されているのですね」
「ああ」
大切に、という言葉に、ヴィクトルは少しだけ苦しげな顔をした。
まるで、その部屋には本以外の何かも保管されているかのように。
エレナはそれ以上追及しなかった。
代わりに、別の話題に移る。
「ところで、ヴィクトル様」
「何だ」
「紅茶はお好きですか?」
「普通だ」
「濃さの好みは?」
「特には」
「では、私が淹れても?」
「……君が?」
ヴィクトルの反応が、また妙だった。
驚きと、懐かしさ。 それから、一瞬の痛み。
どうして紅茶を淹れると言っただけで、そんな顔をするのか。
「はい。王都では自分で淹れることもありました。魔法理論書を読む時には、侍女を呼ぶより自分で用意した方が早いので」
「……そうだったな」
言ってから、ヴィクトルは固まった。
エレナはゆっくり瞬きをする。
「そうだった?」
「……釣書に」
「紅茶を自分で淹れることまで?」
「……」
ヴィクトルは沈黙した。
沈黙は、時に答えより雄弁である。
エレナはにこりと笑った。
「釣書とは、便利なものですね」
「……ああ」
ヴィクトルは明らかに追い詰められている。少し気の毒になってきた。
しかし同時に、エレナの好奇心は強くなる。
この人は、私について何を知っているのか。
そして、それをどこで知ったのか。
午後、エレナは小さな茶器を借り、紅茶を淹れてみた。
北方の水は王都と少し違う。
茶葉の開き方も変わる。
思ったより渋みが出た。
ヴィクトルに出すと、彼は無表情で一口飲んだ。
しばらく沈黙。
「……悪くない」
「悪くない、は褒め言葉ですか?」
「ああ」
エレナは茶器を置いた。
「では、次はもう少し上手く淹れますね」
「十分だ」
「悪くない、程度ですよね?」
「……」
ヴィクトルは困ったように視線を逸らした。
その日の夜。
エレナは少し期待していた。
期待というのも変だが、昨夜の流れからすると、夫は寝言で紅茶について何か言う気がする。
そして案の定、カーテンの向こうから声がした。
「……紅茶……」
来た!
エレナは布団の中で静かに耳を澄ませる。
「……美味しかった……」
エレナは唇を引き結んだ。
笑わないようにするためである。
「もう少し薄めが好みだが……言うと気にする……いや、言ってもいいか?……夫婦だから……」
夫婦。
その言葉だけ、妙に柔らかかった。
「エレナは……褒めると照れる……怒ったふりをする……」
エレナはむっとした。
「しません」
小声で反論する。
もちろん、ヴィクトルは眠っている。
「照れると……耳が赤くなる……」
エレナは思わず自分の耳に触れた。
この夫、寝ている時の方が手強い。
翌朝。
エレナは朝食の席で、静かに言った。
「ヴィクトル様、昨日の紅茶ですが」
「ああ」
「もう少し薄めがお好みですか?」
ヴィクトルは完全に動きを止めた。
エレナは微笑む。
「次は調整いたします」
「……なぜ分かった」
「夫婦ですから」
昨日、彼が寝言で言った言葉をそのまま返した。
ヴィクトルの顔に、初めて分かりやすい動揺が浮かんだ。
「エレナ」
「はい」
「私は、何か言ったか」
来た。
エレナはカップを置いた。
正直に言うべきか。
それとも、もう少し観察するべきか。
迷った結果、彼女はにこりと笑った。
「いいえ。ただ、何となくです」
「……そうか」
ヴィクトルは明らかに納得していない。
だが、追及はしなかった。
エレナもそれ以上は言わない。
きっと、夫の寝言はただの寝言ではない。
しかし今、問い詰めても、彼は答えないだろう。
ならば、情報を集めよう。
エレナはその日の夜から、寝る前に帳面を枕元に置くことにした。
夫の寝言を記録するためである。
普通の新妻がすることではない。
だが普通の新婚生活でもないので、そこは仕方がない。
その夜の記録。
――「エレナは今日も賢かった」
――「紅茶を薄めにすると、もっと美味い」
――「魔術書庫には入れるな」
――「冬至まで、まだある」
――「かわいい」
帳面には、甘い寝言の間に、鋭い破片が混ざっている。
エレナはペンを置き、カーテンを見た。
夫の寝言は、甘い。
甘いが、甘いだけではない。




